「始めて行きましょう」?

 メディアを介して「?」となる言い回しを耳にするけれど、この「始めて行きましょう(参りましょう)」というのはテレビ、ラジオ特有という印象を受ける(勿論、全ての番組で使われている訳ではない)。


「宜しかったでしょうか」「千円からお預かりします」「こちら、○○になります」等は接客用語としてサービス業界から広まったようだが、「こちら、○○になります」に至ってはもう丁寧な言い回しとして完全に日常会話内に腰を据えたようだ。


「始めて行きましょう」の使い所としては、ほぼテレビやラジオ番組の冒頭辺りに限られるのではないか。一般的な会社の朝礼等で「今日も元気に仕事を始めて行きましょう」と言うだろうか。


「始めて行きましょう」がいつメディアに登場したのか。昭和の頃には存在したのか。既にあったとしても多用はされていなかっただろうと思う。

 或る程度、定番化した理由を想像するに、番組作りが変化したからではないかと思われる。ここで言う番組は、主にバラエティー系の事。


 かつてのバラエティー番組は、現在の感覚からすると杓子定規とも思えるくらい『ちゃんと』していた。番組を仕切るのは司会者だった。アナウンサーが多かったが、大橋巨泉氏や愛川欽也氏のような別の顔を持ちながらも司会者という肩書の人も居た。現在はMCと称すようで、多くは芸人やテレビタレントが務め、MC自らも率先して番組の盛り上げ要員という感じ。


 平成以降だろうか、バラエティー番組の枠組みが肥大化した。報道番組も、歌番組も、歴史番組も、クイズ番組も、トーク番組も、かつては別枠だったものが軒並みバラエティー化した。そうすればお堅いテーマも観て貰えるという策略だろうけれど、何でもかんでも笑いをぶち込まなければならない風潮に堕した。芸人やその事務所の社会的地位向上も影響しているのだろう。


 現在の目で昭和のトーク番組を観ると、スタジオのセットも話の内容も地味だ。画面に字幕を多用する事もない。司会者が存在しても、無理に盛り上げようとも笑いを入れようともしない。ゲスト自体も変に受けを狙わず素朴に話す場面が少なくなかった。

 現在は俳優も歌手もバラエティー番組に引っ張り出されたら『笑える一面』を要求されるし、ノリを合わせないとお高く止まっていると言われ兼ねない(そもそもがバラエティーに出る必要があるのかどうかだが)。


 随分と話が脱線した(まるで今時のトーク番組のように)。


 かつてのテレビやラジオ番組は、番組が始まると簡単な挨拶や決まり文句程度で直ぐに内容に入っていた。

 が、現在は前述のようにバラエティー化が進み、笑いが必須になり、アイドリングトークが暫し続く構成が散見するものが珍しくないようだ。なので、アイドリングトークの後、漸く番組の本題に入るきっかけのフレーズとして「(それでは)始めて行きましょう」が生まれたのではないか。


 だとしても「それではそろそろ始めましょう」で良い。待て待て、番組自体は既に始まっているのだから「始めましょう」はおかしいか。既に始まっている番組を更に先へ進行させるというニュアンスありきの「始めて行きましょう」なのか。


『行く』には、動作の継続や進行を表す補助動詞の側面がある。『消え行く』『飛ん行く』『変え行く』『死ん行く』――間に『て』か『で』が挟まる。

『始めて行く』は、文法としては間違っていないが耳慣れないから違和感があるのだろうか。

 一方で『始める』は、他の動詞とくっ付いて複合動詞になる。『食べ始める』『歩き始める』『逃げ始める』『進み始める』――。

 もしかしたら、複合動詞に使われる動詞と補助動詞とが合体している事が違和感の正体だろうか。

 或いは『行く=GO』なので、「勢い良く行くぞーっ」という景気付けのニュアンスかも知れない。「張り切って行きましょーっ」という感じ。


 実は、いつだったか、何かの番組の最後で「終わって行きましょう」というフレーズを耳にした。

 終わる際にも景気付け? そりゃもう唖然である。

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