自主規制は誰が為に

 昔、筒井康隆氏が断筆をした事があった。

 理由は一々書かないけれど(真相までは知らないし)、断筆期間には役者等で表舞台に出る事が多かった気がする。

 或るテレビ番組――確か、よみうりテレビ制作の深夜帯番組『EXテレビ』だったと思う。上岡龍太郎氏が司会をしていて、筒井氏がゲストだった。放送禁止用語とか差別用語とか、そういうテーマの回だったようにも思う。


 そこで筒井氏が「表現者が先んじて規制を掛けてしまうのは良くない」というような趣旨の発言をしていた(と記憶している)。筒井氏はビートたけし氏や所ジョージ氏と会った際に、一見言いたい放題のあの人達も「反射的に規制を掛ける事がある」と聞かされたらしい。長年に亘ってテレビ業界に席を置く者は、規制が内面化されているという事だ。

 表現をする自由と共に、表現に対して抗議をする自由もある。どちらの自由も保証されているのが健全、というのが筒井氏の主張だった。


 近年のインタビュー記事でも「コロナ禍には不謹慎で書けない事柄がある」と発言した作家に対して「そんな人間は作家を辞めてしまえ」みたいに言っていた。

 そもそも作家は市民社会の代表ではなく寧ろそこから外れた人達で、小説を読む行為自体が褒められたものではない時代もあった(その価値判断は横に置く)。有名な作家でもヤバい作品は幾らでもあるし、社会の側が『作家なんて堅気じゃない』と許容していただろう。

 だからこそ作家が表舞台――例えば政治的な世界――に立つと、飛んでもない暴言を吐いたり、実は虚勢に過ぎなかったり、役に立たなかったりと、悪影響もあるのだと思う(I・慎太郎氏、N・直樹氏、H・真理子氏等)。


 さて、現在の表現空間はどんな感じか――反射的に規制を掛ける空気が蔓延する一方で、反射的に発言してしまったが為に非難轟々、罵詈雑言が飛び交う毎日である(勿論、主にネット空間の事)。


 何でもんでも持論を披露し、言わなくても良い罵声を浴びせる。『異議』ではなく『持論』、『抗議』ではなく『罵声』。規制を掛けるにしても「炎上したくない」という消極性に依拠した『忖度』ばかりで、確固たる思慮の末の『配慮』ではないように見える。もし健全な世の中があるのだとしたら、『持論』VS『罵声』ではなく、『異議』&『抗議』だろう。


 結局、人間が感情の生き物である以上、何かを思ってしまう事は避けられないし、昔から井戸端会議や床屋談義でどれだけ好き勝手を言って来たか。


 藤子・F・不二雄氏の短編作品に『テレパ椎』という他人の考えが聴こえるようになってしまう物語がある(他の作品でもこのテーマはよく扱われている)。まだネットのない頃の作品だが、SNS的様相が描かれている。そして、どの作品もそうだが最終的には「他人の心の中なんて知らない方が良い」と結論付けられる。


 もう人間の『反射的な行動』を抑制する事くらいしか対策はないのかも知れない。

 あらゆるコメント欄に意見を記す為には、例えば――何かしらの奉仕活動で貯めたポイントで『発言券』を入手し、そこに記された二十桁のコードを一々打ち込まなければならない。一枚分お得な十一枚綴りの『発言回数券』もあったりして。これがまた一枚一円で転売されたりなんかしちゃったりなんかして――あ、ネタが生まれた?

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