斯くて社会は回っている
「コミュニケーションの本質は誤配された郵便物のようなもの」みたいな表現を耳にした事がある(某言論人の言)。
自宅に間違って届いた郵便物を自分宛ての物と勘違いして受け取っても、本人がその事に気付かないままだったら成立してしまう、というような意味だったと思う。
「本当の宛名人や差出人がいつまでも届かなかったら不着事故や誤配を疑うでしょ」と突っ込みが入りそうなので、この場合の郵便物はDMの事だと忖度しておこう。
同じ事柄を別の比喩で書いている社会学者が居た。
歌手の吉幾三氏は若かりし頃、喫茶店でバイトをしていた。店長不在の或る日、客がウィンナ・コーヒーを注文した。吉氏はウィンナ・コーヒーというものを知らず、ウインナーソーセージを炒めてコーヒーと共に提供した。客は何も言わず飲食して帰った。客もウィンナ・コーヒーがどんなものかを知らずに注文していたのだ――。
実話なのかどうかは知らないけれど、この例は『コミュニケーションは例え双方共に誤解をしていても成立してしまう』事を示している。
例えば『煮詰まる』という言葉の本来の意味を双方共に理解している場合、または理解していない場合はコミュニケーションが成立するが、一方が《充分に議論されて解決に近付く》意味と理解し、もう一方が《行き詰まっている》と理解していたら、ちゃんと伝わらなくなる(本来の語義を理解している人は世間の誤謬を認識しているだろうから、実際は文脈から忖度するだろうが)。
このような間違った意思の疎通なんて日常茶飯事なのだろう。
カクヨムのコメント(返信含む)にしても、細かい機微まで伝えられているとは思えない。誤解される事もあれば、誤解されていると勝手に誤解している事も往々にしてあるだろう。勝手に傷付き、勝手に憤慨し、勝手に喜び――。
小説なんて、修辞に凝ったり、比喩にしたりと、寧ろ回りくどくなるばかりで、或る人にはギャグに見えたり、或る人にはホラーに見えたりする(それがまた面白い)。
小説から作者の人となりをイメージするのは不毛かも知れない。エログロを書いていても至って常識人かも知れないし、心温まる話を書いていても実は――。
何よりも、星やハートを付ける基準さえ千差万別。誰がどんなつもりで付けているかなんて解らない。
もしも、とても詰まらない作品に星3個、とても面白い作品には何も付けない、なんて基準を独自採用するユーザーで溢れている事を知らずに一喜一憂しているのだとしたら――事程左様にコミュニケーションは当てにならない。
今回、何故コミュニケーションの齟齬について書いたかと言えば、以前『今となってはオーソドックスで懐かしいけれどいつの時代にも通用するようなテイストの作品』を『王道スタンダード』というフレーズで説明した事があり、同フレーズをレビューに使った事もあったのだけれど、最近になって偶々『王道』を辞書で引いたところ、その意味は《楽な道、近道》との事だった。
勿論、僕としては一般に解釈されているであろう意味合いで褒めフレーズとして書いたのだが、レビューされた側が「苦労して書いたのに、楽な道だと? 近道だと? 何と嫌味なっ!」と解していなければ良いのだが、という話をしたかったから。
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