あのね、Q太郎って凄い
令和時代の『オバケのQ太郎』の知名度はどれ程か、『劇画・オバQ』を知っているいるか、今回そういう事は横に置いておいて――。
1960年代の漫画(アニメ)作品である。
僕にしても世代的には『ドラえもん』の方が馴染み深いが、1970年代には『新オバケのQ太郎』が描かれ(そして再びアニメ化)、1980年代には三度目のアニメ化という、藤子不二雄(藤子・F・不二雄)氏の代表作の一つ。
60年代の『オバケのQ太郎』のヒットがどれ程のインパクトだったか、肌では感じていないが、『ドラゴンボール』『ワンピース』『鬼滅の刃』等々と並ぶ、それどころか全て合わせたくらいの人気だったのではと想像している。対抗出来るのは『ドラえもん』くらいか(ファン的依怙贔屓が凄い)。
『オバケのQ太郎』で大ヒットを飛ばした漫画家がそれを超える『ドラえもん』を生み出したという事実。『ドラゴンボール』『ワンピース』『鬼滅の刃』が一人の漫画家の作品だとしたらと想像したらインパクトが解るだろう(ファン的依怙贔屓が凄い)。
藤子作品はよく『生活ギャグ漫画』と称される。単に『ギャグ漫画』ではなく《生活=日常》に於けるギャグ漫画。嘗ては《日常》が舞台の漫画は多かった。よくある町の普通(の範疇)の人々が繰り広げるドタバタ。現在でも『サザエさん』『クレヨンしんちゃん』『ちびまる子ちゃん』にその要素が残っている(どれも何十年越しの作品)。
『ドラえもん』の作劇フォーマットは、非日常へ誘うアイテム(道具)を登場させ、非日常的な展開をさせるというもの。
言い忘れたけれど、今回言及しているのは『新オバケのQ太郎』。『旧』の方はトキワ荘系漫画家の合作だけれど、『新』の方はアイディアや主な作画は藤子・F・不二雄氏。
F氏の功績の一つとして『SFを日常生活に持ち込んだ』というのがあるように、非日常的アイテム(道具)を提供する存在(ドラえもん)を日常に置いた事で、『生活ギャグSF』のパターン化に成功した。もしかしたら世界初の偉業だったかも知れない。
いつだったか、日本人がタイムパラドックスの概念をすんなり受け入れられるのは『ドラえもん』を知っているからだ、という指摘を見て、我が意を得たりと思った。
で、『オバQ太』なのだけれど、十八番のSF的要素はまるでない(偶に弟のO次郎が便利な機械を発明する話があるが)。存在するのは、よくある町の普通(の範疇)の人々とオバケ達。オバケはそれ自体、非日常的存在ではあるけれど、『オバQ』の世界では『化ける』『消える』『飛ぶ』くらいしか出来ない。
普通の《日常》とほんの少しの《非日常》だけでドタバタを繰り広げる。兎に角、矢継ぎ早にギャグが盛り込まれ、綺麗な落ちで終わる。これを毎週、数ページの読み切りで連載した凄さ!
心の何処かで『ドラえもん』の方が面白いという思いがあったのだけれど、《笑い》の部分だけで比べたら『オバQ』に軍配が上がるのではないか(因みに初期の『ドラえもん』は『オバQ』っぽいドタバタ感が強い)。
『ドラえもん』はSF的発想は勿論の事、映画版の冒険譚、のび太としずかとの恋愛模様、そして昨今は頓に話題にされる感動エピソード等々、時間も空間も超えて活躍の場が広く、《笑い》以外の要素も多岐に亘るが、『オバQ』は向こう三軒両隣、ご町内的な空間が基本で、潔いくらい《笑い》で突き進む。
一口に《笑い》と言っても、F作品は一発ギャグ的でも破壊的ギャグでもなく、言わば落語的ギャグ。実際、F氏は落語好きだったとか。『オバQ』はレギュラー登場人物(オバケを含む)が多い。
以前、松本人志氏が「落語を知っている奴は笑いの構成がちゃんとしている」的な事を言っていたが、現在の、特に漫画には落語的ギャグがほとんど見られないかも知れない。
詳しく知らないけれど『銀魂』とか『僕のロボ子』とか、現在のギャグ系漫画は多分に漫才的だ。キャラクターがその都度はっきりとツッコミを入れるパターンが常態で、ボケを放し飼いにしてくれない。その方が解り易いというテレビ的笑いが漫画に流入した結果だろう。
一方、落語的ギャグはもっと普遍性を持っている。この事は僕がこれ以上くどくど言わなくても『オバQ』を読めば解る。笑わない人は一人も居ないと断言出来る。
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