感想文の感想

 子供の嫌いな宿題と言えば、昭和、平成、令和を通じて歴代ナンバーワン、それは読書感想文。

 本当にナンバーワンか否かは知らない。が、少なくとも「読書感想文を書くのが好き」という国語教師への忖度、おべっか、腰巾着な同級生は居なかったし、ご多分に漏れず僕も嫌いだった。


 一時期(今も?)、世の子供達が「それって貴方の感想ですよね」というフレーズを気に入っていたとか。

 何年も前の事、車窓からプラットホームを眺めていたら、子供が保護者の隣で激しく奇妙なアクションをしていた。アテレコするならば間違いなく「そんなの関係ねぇ!」だった。いつの時代も子供は反抗するのに打って付けのフレーズを待望している(このエピソード自体が関係ねぇ)。


 読書感想文というものは、何の為に書くものなのだろう。教育現場であれば、多くの子供が嫌がる事をさせて忍耐の練習を――否々、子供の能力を評価する材料として書かせるのだろう。

 僕としては「何故、感想を求めるのだ」「何故、感想に字数や枚数を指定するのだ」「何故、そもそも感想を持たなければならないのだ」と『三大のだ』の怪気炎を上げたかった。

 なので、カクヨムでも感想を書くのが下手。作品の周辺的情報に論点をずらし勝ち、自分自身に引き付けて語り勝ち、通り一遍な当たり障りのない事柄に終始し勝ち、という『三大勝ち』になり勝ち。


 子供の頃に思ったのは――読んだ本の内容自体を感想文の読者(教師)と共有していないと訳が分からないじゃん、だった。

「○○(登場人物)の頑張りに涙が出るくらい感動した」と書かれても、物語がどんな展開をして何をどう頑張ったのかのかが併記されていなければ、読者は「何じゃらほい?」。

 なので、粗筋的な記述も必要になる。それを逆手に取って「大半を粗筋で埋めちゃえば文字数を稼げるぜ」という読書感想文必勝法も生まれるのだろう。


 評論家だったら評論をすれば良い。発明家だったら発明をすれば良い。愛妻家だったら妻を愛せば良い。

 では『感想家』は本当に感想だけを書くのかと言えば、どうしても雑味――添削、採点、助言を入れてしまう。喜怒哀楽だけでは『子供の感想文』みたいで恰好が付かないからではないかと推測する。これはカクヨムのコメント欄やレビューにも関係する事柄だろう。


例1「主人公が幸せになってとても嬉しかったです」


例2「主人公が幸せになる展開が良く書けていて、書き手の力量を感じる事が出来た。しかしながら、欲を言えば要所要所のレトリックにもっと大胆なダイナミック且つアクロバチックな飛躍を意識する事でより主人公の内面に肉迫した表現に消化し得るのではないかと――」(以下略)


 読書の感想は『書かれている内容について』と『書いた著者について』とが入り混じる事が少なくない。子供の感想は前者に偏るだろうが、大人になると、特に「自らも文章を書いている同じ人種」となると後者にも言及したくなるのだろう。


 国語の試験問題に「問1:この時、主人公が感じたであろう気持ちを次の選択肢の中から選びなさい」と命令形で強要するパワハラ事案を散見するが、あれは「感想には正解があるのだ」「作者の意図こそ大事なのだ」「読書感想文は作者の意図を汲んだ唯一の正解に沿った感想を書けるように鍛えるものなのだ」という事だろうか。

 正に無味感想……。

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