ルールはいつの間にか決まった
文章のルールというものがある。でも、いつ誰がそう決めたのかを正確に言及出来る人がどれだけ居るだろうか。僕も出来ない。
『段落の頭は一マス下げる』
『!や?の後ろは一マス空ける』
『括弧の文末に句点を打たない』
『段落頭の括弧は一マス下げない』
――他にも色々あるだろう。
カクヨムでもこういったルールに言及して「基本的な事すら分かっていない人が小説を書いている」というようなエッセイ的文章を見掛ける。
ところが、昔の著名な作家の小説でも、このルールに従っていないものが見受けられる。大体1970年代くらいまでだろうか。当時は別のルールがあったのか、ルール自体が整っていなかったのか。括弧の文末に句点を打っていたり、段落頭の括弧も一マス下げられていたりする。
ただ、そんな旧作も重版のタイミングで現在のルールに直されているようだ(旧字体が新字体にされる等)。
作家は我が強くて当たり前のイメージがある。拘りも強そうな気がする。当時の作家から「何故ルールで縛るんだ」「何故ルールを変えるんだ」という声は上がらなかったのだろうか。それとも「そもそも表記のルールなんかに拘らない、勝手に校正しとけ」というのが器の大きい作家の態度だったのだろうか。
昨今は何かとルールに敏感な人が多いのかも知れない。某社会学者に言わせると、法律やルールを盾にして『正論』を吐き、他人をマウントしようとする『法の奴隷』タイプの人間が増えているらしい。
言葉の誤用問題と同じで、社会は大勢を占めた側が『正義』になる場合が多い。「『だらしない』は元々『しだらない』が正解だから後者で書き続ける!」という拘りがどれだけの人々に共感されるのか(発音し易いように音の並びが入れ替わる事を『音位転換』と言うらしい)。
思えば、旧仮名遣いから新仮名遣いになったり、当用漢字やら常用漢字やらの区分けで使わなくなった漢字があったりと、時代毎にルールは変わる訳で、現在のルールに固執する事にどれだけ意味があるのかは決して自明ではない。
古い作品には『周り』と『回り』の使い方が曖昧なものがあり、『池の回り』と書かれていたりする。一方で近年でも『首周り』『胴周り』と書く人は少なくないと思う(辞書には『首回り』『胴回り』とある)。因みに『外回り』は辞書に載っているが『外周り』は載っていない(色んな辞書があるが)。これも当用漢字、常用漢字のルール変更が原因らしい。
そもそもが歴史上、標準語なるものが意識されるようになってからもまだ日が浅い。余りにも現在のルールを盾にマウントを取ろうとすると、後々恥ずかしい事になるかも知れない。
まさか差別語でもない言葉にまでキャンセルカルチャーの刃が襲い掛かる時代がやって来るのだろうか。
「目上の人に向かって『貴様』と言っていた平安時代の人間はマジ無礼!」――とか。
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