オチを付けるな

 投稿作を読んでいてちょくちょく思う――オチを付けるなんてもう時代遅れなのでは……と。

 僕は何とかオチを付けようとしてしまう。敢えてオチがないというのも書きたくなる(書いている)けれど、基本的には何かしらオチのようなものが欲しくなる。他人様の投稿作にも求めてしまう。


 でも、オチを付けると大体三種類の感想が生まれる。


『オチが弱い』

『オチが先に読めた』

『オチがありきたり』


 いっそオチなんてない方が無難なのでは、とも思ってしまう。そうなると『オチがありませんね』と言われてしまうのだろうか。


 以前、他人様のタイムマシンを扱った投稿作を読んだ。一話完結のショートショート。細かくは書かないけれど、人物が2人だけが出て来て、或るピンチが起きて――という内容だった。

 で、所謂オチらしきものはなかった。どんでん返しとか、アイロニーとか、ウィットとか、そういうものではなく、単に仲の良い2人の話だった。寄せられた感想もその点に言及して、それが好評価に繋がっていた。


 そうか、そうなのか、その他の投稿作を読むに付け、物語の構成、構造、伏線、オチ、修辞とかじゃないんだ、そこに描かれたエモい要素こそを読みたいんだ!


 そしてまた、どうやら普段は書き手でありながら、器用に頭を切り替えて純然たる読み手に成れる人達が少なからず存在しているらしい。提供脳と享受脳とを並列に持つ人々と言うべきか。

 でも、本心は分からない。本当は『これでオチがあれば最高なのに』と言いたいが、そういうのは規則違反になりそうだし、お友達関係が悪くなりそうだし、と『大人の対応』をしているのかも知れない。


 つくづく隔世の感あり。世の中は随分と変わっていたのだ。いつまでもオチのある古い作品に固執していると、どんどんもう需要のない作風の方へと阻害されて取り残されて行くのか。

 過去と現在とを比して、生き難さを抱える人々の数がどんな風に分布しているかなんて皆目分からないけれど、『こういうのって良いよね』(以前『CM系』と命名)で何とか精神のバランスを保とうとする時代なのかも知れない、とも思う。


 コロナさえなければもうとっくに止めていた小説なんて再開しなかったのに――と悔いたところで、僕には僕の書きたいようにしか書けないので、書きたいように書くしかない。

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