それでも嫉妬は大事

 翻って考えるに、僕は十代の頃から『おはなし』を考えていた事になる。途中、全く縁遠くなった期間もあるが、癖として付き纏っている気がする。


 世の中には、自分でお話を作ろうなどと考えた事もない人が沢山居るだろう。人口の何パーセントなのかは不明だけれど、多数派だとは思う(この際、ぼんやりとした妄想レベルは除外しておこう)。


 少数派の中から晴れてプロとして活躍するようになった創作者が審査、批評、育成側に回る事がある。その道のプロとして長く活躍しているのだから、当然その道を目指す人達やその作品の真贋を見極める眼力がある筈。


 でも、何処まで明鏡止水の心で他人(の創作)を眺める事が出来るのだろうか。手塚治虫氏はその時々で売れている漫画家への嫉妬が凄かったと聞く。他にもそういう創作者は居るだろう。


 あからさまではなくとも、内心では――

「アマチュアは所詮アマチュア」

「昨日今日の新人に負けて堪るか」

「若い芽は摘んでおく」

 ――そこまで考えるかどうかは兎も角、ライバル視、仮想敵視する事は幾らでもあるだろう。

 それとも、プロとして華々しい経歴や盤石なポジションを欲しいままにしたら、多くは金持ち喧嘩せずの境地で泰然として居られるものだろうか。


 一方で、プロとて日常的に消費者(読者、視聴者、観覧客)から辛辣且つ無責任な言葉に曝されている訳で、プロデビューを夢見るアマチュアに往時の自身を重ねて共感する事も多々あるかと思われる。


 では、アマチュア同士の場合はどうか。道を同じくする者同士程、そして思いが真剣であればある程、嫉妬の感情が生じ易いのではないか。

「悔しいくらい面白い作品」

「あんなもんが評価されてるのは我慢ならない」

「まるで太刀打ち出来ない、もう筆を折るか」

 色んな嫉妬のかたちがあろうかと思う。


 一般に嫉妬はネガティブな感情とされている。「見っともない」「女々しい」「格好悪い」――嫉妬は何も生まない不毛な感情なのだろうか。


 カクヨムで嫉妬の感情を顕にしている人を見掛けない(僕が知らないだけか)。でも、ネガティブな物言い(勝手に批評)をする人はちょくちょく見掛ける。そして、世の風潮、人気の小説ジャンルに物申す的な人も。あれはもしかしたら嫉妬の裏返しかも知れない。否、間違いなく嫉妬成分含有案件。矢鱈に持論をぶつのも裏に嫉妬が隠れていたりして。

 

 あらゆる感情の中で最もストレートに伝えられないのが嫉妬ではないだろうか。「悲しい」「腹立たしい」「嬉しい」は公言しても、精々が「悔しい」レベルに留まる。

 井上陽水氏の歌にずばり『ジェラシー』というのがあるが、コピーライターの糸井重里氏が面白い考察をしていた。最初は単純に『愛する人への嫉妬の歌』として聴いていたけれど、段々と『嫉妬のない愛なんて不完全』と聴こえるようになった、と。流石、コピーライターらしい過剰な深読みと思えなくもないが、価値が反転する瞬間を垣間見た気がした。


 嫉妬、良いじゃないか。嫉妬が正のモチベーションに繋がる事もあるのだから――と自分に言い聞かせる日々。

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