存在しない言葉

 日本語がそのまま国際語になる場合がある。スシ、カラオケ、モッタイナイ等々、沢山あるだろう。


 考えてみれば、日本語の中にも元は外来語というのがごまんと存在する訳で、別に珍しい事でもない。


 外来語がそのまま使われる大きな理由の一つに、『的確に言い表す言葉が自国語に存在しないから』というのがある。


 料理とか物品は兎も角、『忖度』や『過労死』等、何とか訳せるがニュアンスまでは伝わり難いという言葉は、感受性が大きく関わるからだろう。


 中には、自国内なのに的確な言葉が存在しないのではないか、と思われる場合がある。


『敷居が高い』


 ご存知の通り、常に誤用ワードランキングの上位に君臨している慣用句である(そんなランキングが?)。


 辞書に拠れば『不義理や不面目な事があった人の家に行き難い事』を示すとあるが、昨今は『高級だったり、ハイセンスだったりする場所や物事に対し、オイラみたいな庶民はご相伴に預かれませんぜ、へっへっへ』(町人談)といった具合で使われる。

「そういう時は『ハードルが高い』って言うんだよ」と賢しらに注意したりなんかして――。


 でも、ここで思う。


 ハードルとは陸上競技で使う、実は走行中に倒しても別に減点されない、でお馴染みの、英語表記ならば『hurdle』となる列記とした外来語である。


 訳すならば、障害走で使用するので『障害器具』。なので前記の慣用句を完全に日本語として表現するならば『障害器具が高い』となる。競技用具に限定しなければ『障壁が高い』でも意味は通る。


 そして、更に思う。


 障害走の歴史は知らないけれど、『ハードル』はどう考えても近代になって入って来た外来語の筈で、暇を持て余した平安貴族が蹴鞠の片手間にハードルで遊んでいたという話は聞かない。


 昔の日本となれば身分制度や絶対的貧富の差が歴然と存在していた訳で、『ハードルが高い』場面もあった筈で、ではそういう時に何と表現していたのだろうか。


 もし前記した『障壁が高い』に類する慣用句が昔から存在していたのならば、外来語ありきの『ハードルが高い』なんて言い方は生まれなかったのではないか。増してや『敷居が高い』を誤用する事もなかった。


 それはつまり、『ハードルが高い』に相当する慣用句が存在していなかったからこそ、現代人は『敷居が高い』を誤用までして流用している可能性が高いと思われる。


 シチュエーションとしてあり得るのに、それを表現する言葉を欠いたまま、この列島、島国の人々は何故、不便に思わずにやって来られたのか。


 仮説になるが、嘗ては『分相応』の感覚が徹底されていた、人々の感覚に内在化していたのではないだろうか。

 高貴な身分やお大尽に憧れる事はあったろうが、自分がその地位に上り詰めるなど一部の例外を除いてはあり得ない事。百性が貴族に成る事も、長屋暮らしがタワマンに引っ越す事もないのが、長く歴史の常態だった。


 身分制度のない現在でも『親ガチャ』論争が起きる程、家系や血筋に依って二世、三世と呼ばれるポジションが与えられ、近代以前の社会が未だに息衝いているようにも見える。

 建て前上は誰でも自由に生きられる事になっている。けれど『ハードルが高い』場面は存在する。

 逆に『分相応』が深く浸透していた時代に於いては、今で言う『ハードルが高い』と感じる場面自体、皆無だった――という仮説である。


 それにしても『分相応』なんて言葉、それこそ的確な外国語があるのだろうか。

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