映像化とは何だろう

 漫画の実写化が絶えない。アニメ化と比べてどちらが多いのだろう。


 賛否を巻き起こすのは断然、前者の方だろう。漫画とアニメとは元々親和性が高いというか、生身の人間が登場しないという大きな共通点がある(中には実写画像や映像をミックスする表現もあるが)。


 小説もまた実写化、アニメ化される。が、この場合は文字媒体から視聴覚媒体への翻訳みたいなところがあり、登場人物の配役や造形、筋立ての改変などが槍玉に挙げられる事はあっても、別物という暗黙の了解が存在するように感じる。舞台化もこれに準ずるだろう。


 つい最近、子供の頃から敬愛する某漫画家作品が実写化された。過去にも実写例はあるが、今回は何作も纏めての実写化だった。


 こういう時、いつも同じ心持ちになる。

 気にはなるけれど、観ようとは思うけれど、期待が四分の一、杞憂が四分の三。


 最近は、原作以外は総じて派生物に過ぎないとの諦観の境地に達し、原作至上主義者になる事にしたので、お陰様で派生物の出来が良かろうが悪かろうが然して関心はなくなった。


 しかしながら、やれやれ、とは思う。


 今回の実写化に当たり、作り手側のコメントが公開されていたが、その中で割りと共通するポリシーみたいなものが印象に残った。


『原作漫画のコマ割りや構図等にまで忠実に拘った』というのである。


 以前、同漫画家作品が実写化された際にも、同様の演出に拘った作り手が居た。それはそれはとてもとても斬新で異色で印象に残った(オブラート仕様)。自分なりの色を出したいという極端な顕示欲や虚栄心や承認願望がそうさせるのかどうかはよく解らないが、こういう演出を手放しに褒めてはいかんと思った。


 昭和から平成に掛けて漫画が映像化される際、改変が加えられるのは普通だった。全体の筋立て、登場人物(性格付けや絵柄、原作からの割愛や逆に映像版オリジナルキャラの追加)さえ異なる場合も珍しくなかった。

 実写よりも原作に忠実に出来そうなアニメであっても、話数に拠って別のアニメスタジオが手掛けると絵柄が異なる場合もよくあった。子供心にも不思議な感じはしたが、受け入れていた(勿論、絵柄の好みはあった)。


 でも、改変から名作が生まれる場合もある。

 要は、改変一般が悪い訳ではなく、効果的な改変もあれば、そうでない改変もあるという事である。


 案の定、件の作品では漫画の台詞を役者にそのまま言わせるシーンが頻発し、違和感があった。逆に漫画にないシーン(というか演出)にも違和感があった。原作を知っているが故に「忠実な部分」と「そうでない部分」とがちゃんと混じり合っていない印象を受けた。


 中には作品愛が強過ぎてどんな改変も許せないというファンも居るだろう。その気持ちも理解は出来るが、僕がもっと気になってしまうのは『原作に忠実に』という極端な気遣いが寧ろ原作を貶める結果に繋がるというパラドックスなのだ。

 前記した『コマ割りや構図まで再現する』事が原作に対するリスペクト(引いてはファンへの気遣い)になると素朴に思っているのだろうか。


 もしかしたら『原作に忠実=ファンが喜ぶ=クレームが出ない=ヒットする』という方程式に突き動かされているのかも知れない。だとしたら、これは或る種の事なかれ主義と言えるのではないだろうか。

 先に実写を観た人が、そもそも原作自体が面白くないのかな、と勘違いしない事を祈る。


 で、全話を観終わった感想としては――全体的には良い実写企画だった、と言い添えておきたい。






※追記:本稿は藤子・F・不二雄氏の実写化の話である。

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