抗したくなる言葉

 子供の頃、周囲が自転車の事を「チャリンコ」、または「チャリ」と呼ぶ事に馴染めなかった。自転車という名称があるのに何で別の呼び方をするのか、と思っていた。


 でも、子供心に、彼等の子供心には薄々気付いていた。大人は使わないジャーゴンを使う事で俺達意識を醸造したかった、ちょっと不良っぽく振る舞いたかった、仲間内で流行っているから当然のように使った(使わないと仲間っぽくない)――そんなところだろう。僕がそういった『仲間』から弾かれていた為に抱いた違和感かも知れない。


「マジ」にも馴染めなかった。江戸時代には既にあった言い方らしいが、皆と同じ言葉遣いをする事で自分が現代の若者である事を証明しているかのような、自分は時代に遅れていない、格好良い、という自意識を必死に肯定しているかのような、居心地の悪さを感じていた。


「て言うか」も中々使えなかった。自作内でも台詞として使う事はあっても、基本的には「と言うか」を使いたい。良い歳をしてブログに「てか」「つか」と書いている明らかな中年世代も居るが(方言という説もあるやに聞くが)、読んでいて恥ずかしくなる。文章で若作りをしているようにも見え、浅ましく感じてしまう。


 今時の言葉遣いというものがある。現代っぽい雰囲気を出すのに、特に若者を描く場合、言葉遣いは大事な要素になるとは思う。

 ただ、現代っぽさは何れ現代っぽくなくなる時が来る。例えば、1960年代の不良とされるような若い女性の言葉遣いは、現在の感覚からすると結構上品に聞こえる(昔の映像を観た記憶から)。もしかしたら『不良っぽさ』は特に時代性が出るのかも知れない(既に『不良』という言い方すら古く感じるが)。

 老人に役割語を喋らせるのも、昔話以外はどんどん難しくなるだろう。近未来の老人口調は「~なんじゃ」ではなく「~じゃね?」の方がリアルになるかも知れない。

 一方で、現在の年配者は余り『死語』を使わなくなったようにも感じる。言葉から年齢差、地域差、性差が消えて行っているからか、流行語が特定世代全体には浸透しなくなり、使用期間も短くなり、記憶され難くなっているのかも知れない。


 僕は、自分の書いたものが何十年後まで読まれる事なんて想定していないけれど、気持ちの上では『何十年後の人間が読んでも意味が通じるようにしたい』と思っている。なので、流行語を口にする時は「あえて流行り言葉を使ってみた」という自意識とのセットになる。自分でも面倒臭い人間だと思っている。

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