4/One-Chance

 この世界にプロボクサーという職業がまだ存在した頃、世界王者の右ストレートは時速60キロのスピードを叩き出していた。

 それは目の前に立つ者からすれば、体感速度で160キロを優に超す神速に等しい。

 見てからの反応など許さない、必中必殺のストレートである。

 肉体と技術の合わさった極地。一人の人間が人生を賭し、ただそのスピードだけを追い求めた一つの到達点。全盛期の彼はそれ一つでベルトを手にするまで上り詰め、以降現役を退くまで対策不可能とまで言われていた。

 ――――だが所詮、これは過去の話。人間の枠組みの内での頂点に過ぎない。

 今は現代。

 ここにはその二倍の速度を持つ豪拳の持ち主と、それに反応する者がいた。

「ハハ、ハハハハハ――――ッ!」

「くそッ、がッ!」

 哮笑を挙げて追ってくるバケモノと、悪態をつきながら避け続ける超人。

 レドラニスカが今まさに、アイザックへと襲い掛かっているところだった。

 レドラニスカは長身の体躯を大きくしならせ、右腕による殴打を繰り出す。

 長くて細かった腕はその原型を失い、異質な奇形へと変貌していた。二の腕の先から肥大化し、肉風船のように膨れ上がった拳。もはや鈍器だ。それを彼は膂力と回転を活かして思いっきり、アイザックへと打ち付ける。風切り音がその拳の凄まじさを語っていた。速く、重く、デカい、極上の一撃である。

 しかし――――アイザックには当たらない。

 彼はまるで未来を知っているかのような素早さでそれを躱す。続く一撃も、躱す。その次も、次も、次すらも。次々に繰り出される暴力の塊を、紙一重で全て躱し続けていた。

 それを見て、レドラニスカの口角がどんどん上がり、やがて三日月のような笑みを浮かべた。

「ハッ! 素晴らしいィッ! こちらの腕が疲れてきますよォッ!?」

「チッ……」

 賞賛の声に、しかしアイザックは舌打ちをしながら両手の武器を構えた。

 二挺の銃だ。やや銃身の長い、独特のフォルムをした装備。

 目の前にかざすと同時、彼の髪の毛の先から紫電が舞い、銃へと纏わりつくようにして吸収され――――直後、電撃と化した弾丸を射出。大気の塵を押しのけて直進する弾道はレドラニスカの脳天と心臓とを貫通し、空に一筋の線を生み出すに至る。

「……」

 そう、確かに敵の体には大きな二つの穴があいた。

 しかし、目の前でその傷はすぐ塞がっていく。

「あぁ、痛いですねぇ!」

 レドラニスカが喜色を滲ませた声色でそう笑う。

 痛いで済むわけがないし、痛いと思っているかも怪しい。

 空いた穴を、周囲の肉が埋めていく。異様な光景だ。ぐじゅりぐじゅりと嫌な異音を立てながら、数秒後には傷の無いレドラニスカがケロリとした表情でそこにいた。

 ――――やっぱり、効いてねえな。

 もう数度目となる光景だ。

 アイザックも、効果を期待して撃ったわけではない。距離を離すための隙が欲しかった。数秒とはいえ足の止まったレドラニスカを置いて、彼は数間距離を取る。

 しかし、

「煙幕を」

「フルルルルルル」

 レドラニスカの声に添うように、戦場に空気の抜けたような声が響く。

 声の主は、ふわりふわりと空に揺蕩う人間大のクラゲのような生物だった。いかなる原理を用いているのかは分からない。しかし現にそのアンブラーは空に浮き、空を泳ぐようにして移動する。

 そんなクラゲが、およそ二〇体前後。

 アイザックから付かず離れずの距離を付きまといながら、周囲を包囲していた。

 細長い半透明の触手のようなものを何本も垂れ流しているクラゲ達は、全員が一斉に口と思われる部位から黒い煙を吐き出し始める。それはすぐさま辺り一帯を埋め尽くす。敵の姿を、隠すようにして。

「……」

 次弾を装填しながら、アイザックは周囲を警戒する。

「ルルルルルルル」「ルルルルルルルル」「フルルルルルルルルルルルルルルルル」

 集中しろ。肩の力を抜き、呼吸のリズムを整え、五感を尖らせる。聴覚をクラゲが鳴き声で乱してくる。嗅覚と味覚は役に立たない。視覚と触覚、そして第六感。濃い煙の中、アイザックは敵の奇襲だけに意識を注ぎ――――、

「シィ――――ッ!」

「――――」

 そして、レドラニスカが煙を切って現れる。

 背後からの奇襲だ。先ほどまでと同じ、腕による叩きつけの攻撃。先までと違うのは、アイザックは殴打の予備動作を確認できておらず、敵の出現位置も分からなかったというマイナス要素。

 それでも《・・・・》、アイザックは反応する。

 敵の出現と同時に、弾かれたようにアイザックの身体が動く。即座に首が振られ対象を視認。攻撃の種類・射程・軌道を即座に把握し、それに応じて腰を曲げ、足を折り、顔面へと迫っていた凶器を低い姿勢で回避する。そこに遅延は一切ない。全てが一秒にすら満たない瞬間にて行われる。

 それは人間に許された反応を超えた動きだった。

 反射の領域かすらも怪しいほどに、ただ速い。まるで自分だけ倍速された世界で動いているかのような反応速度だった。

 彼はそのまま銃を上げ、撃ち放つ。先と同じように二発の弾丸が空を裂き、レドラニスカの身体に穴を穿った。

「速いですね」

「」




 会敵からずっと、この繰り返しだった。

 こちらの攻撃は効果がなく、逃げようとすればすかさず煙幕で退路を潰しに来る。やみくもに走り抜けるのも一度試したが、外で待ち受けるクラゲの攻撃を避ける必要が出てくるし――――何より、逃走は不可能だった。

 今は自分のみを追ってくれているが、こんなバケモノが他の戦場に顔を出せば、一瞬で崩壊する。

 これは幸運だった。





 レビアコロニー内部、南部中央交差点。

 足元のコンクリートは砕け散り、周囲のビルは倒壊していた。窓ガラスは全て戦闘の余波でたたき割られており、信号機がまるで紙細工のごとく折り曲がっている。

 さっきまでのノスタルジックな街並みは見る影もなく、静寂とは正反対の世界が広がっていた。

「オォォオオオオオオオオオ!!!!」

 そんな激しい戦闘音が飛び交う中、一際大きな雄たけびが轟く。

 アイザックだ。彼は跳躍し、両手で握る銃器を目の前にかざす。髪の毛の先から紫電が舞い、それは銃へと纏わりつくようにして吸収され――――直後、電撃と化した弾丸を射出。大気の塵を押しのけて直進する弾道は敵生命体の胴体を貫通し、空に一筋の線を生み出す。

 アイザック=カズイクールの特化機構は体表皮膚、能力は『蓄電荷砲』。

 彼は体内で生成される微細な電流を皮膚下細胞に貯めておける性質と、それを意志によって放電することが可能な継承者である。

 そして彼は、貯めた電力を二種類の方法で戦闘に転用していた。

 一つは肉体強化。筋肉は脳から送られる電気信号によって伸縮を行う。つまり電流を操作することが出来る彼は、神経と筋肉を使うあらゆる反応速度が神がかっている。

 二つ目は武装だ。

 一桁部隊の隊員には、それぞれ自分の能力に応じた武装が与えられる。彼の武装は両手に握る二挺の拳銃。電気を吸う素材で作られた、彼にのみ扱える特注製の銃。電力を火力へと変えるための、小型のレールガンと言っていい代物であった。

 この銃は弾を必要とはするが、しかし火薬を必要とせず、また銃内部の二本のレールによって非伝導体を飛ばす関係上、弾丸も選ばない。道端の石ころを詰めても同じ攻撃を可能とする。

 無限かつ高威力の射撃。

 そして万が一接近戦になったとしても、迎え撃つは光速の反射神経。

 遠近両面において隙のない二丁拳銃使いというのが、彼の戦闘スタイルだった。

 そう、隙がないのが彼の長所のはずだった。

 ――――多すぎるッ!

 次弾を装填しながら、アイザックは駆ける。直後に半透明の触手が、彼の元いた地面を粉砕した。巻き上げられる砂塵。砂遊びをする童子のように、彼らは地にいるアイザックへと襲い掛かる。

 触手の主は、ふわりふわりと空に揺蕩うクラゲのような生物だった。いかなる原理を用いているのか分からない。しかし現にそのアンブラーは空に浮き、空を泳ぐようにして移動する。

 そんな人間大のクラゲ型アンブラーが、三〇はいた。

「ルルルルルルル」「ルルルルルルルル」「フルルルルルルルルルルルルルルルル」

 細長いヒダのようなものを何本も垂れ流しながら、クラゲが啼く。他のクラゲ共も呼応していく。一つ抜き取れば間抜けな声だが、ここまでくると不気味だった。

「うるせえよ」

 構え、撃つ。再度放たれる二発の弾丸。クラゲ型アンブラーは回避すらせず絶命し、地面へと穴の開いた風船のように落ちていく。

 クラゲ型アンブラーは、アイザックの敵ではない。

 色々と面倒な特徴の多いアンブラーだが、しかしアイザックにとっては見慣れた敵だった。空を飛ぶとはいえ高度は低く、銃弾も通用する。数も多いが規模は並。もっと敵の多い戦場などいくらでも経験してきている。

 問題なのは、クラゲ型アンブラーが多すぎるというわけではなく。

 首級と戦いながら相手にするには、あまりに多い雑兵数だということだった。

「背中が空いてますよォッ!」

「チッ」

 アイザックは、背後から強襲に舌打ちをした。

 レドラニスカだ。その声を聞くまでもなく、アイザックは即座に回避体勢に入る。

 そのバケモノは長身の体躯を大きくしならせて、右腕による殴打を繰り出そうとしていた。

 長くて細かった腕はその原型を失い、今や異質な奇形へと変貌していた。二の腕あたりから肥大化し、肉風船のように膨れ上がった拳。もはや鈍器だ。それを彼は膂力と回転を活かして思いっきり、アイザックへと打ち付ける。

 この拳は回避しなければならない。

 だが、周囲にはクラゲがいる。このままだと回避の後隙を刈られるだろう。

 ――――仕方ねえ、使うか。

 一瞬の思考。彼は能力を回避に使用することを決断し、取り合えずレドラニスカの強打を避けようとする。だが、迫りくる鈍器が更なる変形を遂げる。ぐにゃりと肉の塊が内部から蠢くようにして形を変え、それに伴いヒットボックスも変形する。冷や汗。避けきれない。

 その時、レドラニスカとアイザックの間に一人の男が割って入る。

「硬化ァ!!!」

 ジャバルダンだった。

 彼は大きな体躯で機敏に動き、肉塊の前へと躍り出る。その手には体がすっぽり入るほどの大きな盾。彼の叫びに合わせて、盾もまたビシビシと表面に硬質な膜を張っていく。

 瞬間、衝撃。

「ぐ――――おおおおぉおおおおォォ!!!!」

 鈍く重い打撃音が、街の大気を貫いた。

 まともに受けたジャバルダンの足元が数センチ沈む。彼は攻撃を盾で受けながら、能力を全開にして耐え凌ぐ。肉体の硬化。瞬間的な防御力の獲得。それこそが彼の継承者としての能力だった。

 拳は止まり、ジャバルダンは耐えきった。

 すかさずアイザックは射撃。先ほどよりも一段威力を上に調整した弾丸がレドラニスカへと撃ち込まれ、貫通。確かにその体には大きな二つの穴があく。

 そして、目の前でその傷がすぐさま修復し始める。

「あぁ、痛いですね……凄まじい威力の武器をお持ちだ。それにそこの大きな方は、非常にお硬い。殴っているこちらの拳が痛いですよ」

「……クソが」

 脳天と心臓。レドラニスカの身体にはしっかり二つ、向こう側が見える風穴があいており、まともな人間なら二度は死んでいる。

 しかし現実には、レドラニスカはこちらに語り掛ける余裕を保ち、致命傷はぐじゅぐじゅと内部より押し上げてくる肉によって治癒していく。

 恐ろしいまでのパワーと、無尽蔵の耐久力。

 前者もだが、特に後者が厄介だった。傷をつけた先から再生していく。刃物も試したが当然効果がない。高威力の電磁銃ですら数秒時間を稼げるだけだ。

 無限では、ないはずなのだ。相手も生き物なのだから。

 だが無限に思えてくる。まるで水中に弾丸を打ち込んでいるかのような感覚に陥る。

「大丈夫か」

 アイザックは近くにいたジャバルダンに話しかけた。

 彼は痛んだ体を起こしながら、返事をする。

「あぁ……お前こそ、大丈夫か?」

「お前のおかげでな。でも気にしなくていいぜ。いざとなったら使避けられるんだからよ」

「お前は隊のリーダーだ。万が一があったら士気にかかわるし、そもそも自分は盾役だ。こうするのが俺の仕事なのさ。それに……もう、残り少ないだろう?」

「…………」

 ジャバルダンの言葉を、アイザックは沈黙で肯定した。

 アイザックの能力は電気の蓄電とその放出だ。発電ではない。

 彼は体内で生じる微細電流を日頃から貯めておくことで戦闘を行う。もちろんそれだけだと出力が足りないので、普段は支部電源から専用の機器を通して皮膚下細胞へと充電を行っているのだが――――早い話が、彼には体力とは別の、電池切れという制限が存在する。

 戦闘開始から二十分が経過していた。

 体内電力の残量は、既に三割を下回っている。

 これまで屠った敵の数は二〇〇を超す。クラゲ型アンブラーだけではない。彼らはレドラニスカとの交戦が始まってから、ムカデ型、ハチ型、コオロギ型の三種の大群を既に壊滅させていた。敵の親玉の能力が不明瞭な分、雑魚の掃討へと目的を切り替えていたのだ。

 だがしかし、代わりに支払ったのは攻防への能力連続使用という代償。

 アイザックもそうだが、しかしジャバルダンにも他人を気に掛ける余裕はない。彼も度重なる能力の使用と長時間の戦闘によって、朧げに限界を感じ始めていた。既にレドラニスカの攻撃を四度防いでいるというのもある。既にその全身の骨に罅が入っており、それを能力で補強しながら、彼はなんとか生命活動を維持していた。

 その戦士達の佇まいを見て、レドラニスカが薄く笑う。

「――――ふふ、素晴らしい。やはり貴方達は手を取り合うに相応しい存在です。その在り様には芸術的な美すら感じますよ。どうでしょう。今一度、これまでの諍いを水に流して手を取り合いませんか?」

「……」

「貴方はただ頷いて、話を持ち帰るだけで良いのです。そうしてくれるなら今すぐにでも手を引きましょう。ここで命を堕とす必要などないのです。私としても、無暗にヒトを殺すのは本意ではない」

 レドラニスカは両手を体の前で合わせ、芝居がかった口調でそう告げた。

 停戦の申し入れ。

 各地で戦っている仲間のことも思えば受け入れるべきだ。実際小さくない被害が出ている。

 しかし、アイザックは間髪入れずに切り返した。

「嘘をつくなよ害獣が」

「はて、嘘とは? 疑う気持ちも分かりますが、本当にソレだけなのですよ? 頷いてもらえればすぐにでも、えぇすぐにでも同胞達を止めますとも! 嘘偽りなどワタクシには微塵も、」

「そっちじゃねえ、後半だよ。なにが人を殺すのは本意じゃない、だ。お前――――さっきからずっと笑顔だぜ」

 アイザックの指摘に、レドラニスカはゆっくりと指で自分の口元を撫でた。

「――――おや、そうでしたか」

 そして、どこか悲しそうに呟いた。

「失礼。戦の愉悦に少々、興奮していたようです」

「喜々として人を殴る奴にロクなのはいねえ。本当は殺したくて仕方ねえんだろ? 口では聞こえの良い言葉をベラベラ言ってるが、さっきから殺意がダダ漏れだぜ」

「否定はしませんよ。我らの祖は獣。その血を引く我もまた、闘争を前にすれば我を失ってしまうのです。これもまたワタクシの一部。切り離せない性なのでしょう……ですが一方で、共存したいと思う気持ちにもまた嘘はないのですよ」

「ハッ! 信じると思うか?」

「まぁ、その通りですね……仕方ありません。また次の方にお願いするとしましょうか」

 言って、レドラニスカはゆらりと立つ。

 次の方とコイツは言った。つまり、俺達がここで死ねば次の捜索隊がこのふざけた提案を受けるということだ。その負のループを思い浮かべ、アイザックは鼻で笑った。

 結局こいつ等は、自分達の提案を受け入れてくれるまで人殺しを続けるのだろう。話を持ち帰ることに意味なんてない。共存などと言ったが、彼らの求めるのは従属と支配だ。

 どこかで誰かが、このバケモノを倒さなければならない。

 ならばそれは、俺達の役目のはずだ。

「来いよクソ野郎」

「えぇ、続きを始めましょう!」

 アイザックはレドラニスカを睨みながら、二丁拳銃を握りしめる。

 頬を伝う汗。近い限界。通用しない手練手管。終わりの見えない酷い惨状。

 それでも彼らには勝機があった。

 ――――頼むぜ、


 *


 ――――チャンスは一回。確実に決めろ、あたし。

 マキナはそう自分に言い聞かせながら、その時を待っていた。

 彼女の現在地はレビアコロニー内部、南部中央交差点。

 アイザックとジャバルダンの二人が、レドラニスカ率いるアンブラーの群れと戦闘を繰り広げるその現場を、彼女はずっと視認していた。

 否、それどころかもっと前。レドラニスカが姿を現した瞬間から彼女はずっとアイザックの傍に付き従い、あの話し合いの最中も常に近くにいたのだ。

 特化機構は汗腺。能力は『疑似透明』。

 彼女は汗腺が未元物質と置き換わっており、そこから分泌される体液は光の屈折率が極端に高い成分で構成されていた。裏面の景色を体表で鏡面反射させ、表面へと伝える性質。

 早い話が、彼女は裸になればいつでもどこでも、周囲の景色に溶け込める透明人間になれる。

 勿論、今の彼女は衣服を着ている。

 その軍服は特別製だ。マキナの汗腺に馴染む素材を元とした生地で作られた特注品。この衣装は彼女の能力発動と共に一体化し、透明現象を起こす。彼女の武器も同じ。透明人間である彼女には、透明な衣服と武器が用意されているのだ。

 彼女の武器は奇襲性。

 目に見えないというアドバンテージを活かした遊撃役。何もない空間から突如として現れる暗殺者。必殺の一撃を叩きこむその大事な役割を、マキナは課されていた。

 彼女もまた、レドラニスカの強さを理解している。

 致命傷すら決定打にならない理不尽な再生能力。一桁部隊の隊長ですら仕留めきれないバケモノ。マキナは普段、巨大な戦斧を自身の獲物として使っていたが、そんなものはすぐに捨て置いた。この二十分の戦闘を見れば、斧なんて効果的でないことは流石に分かる。

 ――――だから、コレしかない。

 彼女の手の中には一本の注射器があった。太く長い針。中には緑色の液体が波々と入っている。コレならば、通用する。彼女はそう信じ、撃ち込める隙をずっと探し続けていた。

 そして、その時が訪れる。

「えぇ、続きを始めましょう!」

 大手を広げ、レドラニスカが前傾姿勢を取る。彼の意識は完全に前。アイザックとジャバルダン、その二人に注がれている。

 それに、敵の数が減っていた。

 マキナは奇襲に長けている代わりに、本体の戦闘能力はそこまで高くない。この戦法は一度バレれば警戒されるし、足音や匂いといった要素も消せない(装備でいくらか軽減しているが、それでもアンブラーの中には気付くものもいる)。つまり、アンブラーの大群ひしめく真っただ中を走り抜け、レドラニスカに接近するのはあまりにもリスクが大きかったのだ。

 けれど今、彼の周囲からは護衛が離れていた。

 隊長達のおかげだ。彼女は心の中で礼を言い、腕を振り上げる。

 レドラニスカとアイザック。二人を結ぶその真ん中の地点。

 彼女は敵の肥大化した腕めがけて、思いっきり注射器を振りかぶり――――刺した。

「――――ッ!?」

 レドラニスカの動きが止まり、その目が驚愕で見開かれる。

 注射器の針は彼の身体に深く突き立てられ、中の薬剤が体内へと消えていく。レドラニスカはすぐさま空中から出現した注射器を引き抜き、マキナがいたであろう中空を薙ぎ払った。しかし当たらない。彼女は既に場を離れている。

「隊長、成功しました」

「……よく、やった」

 疲労困憊といった様子で、マキナの声にアイザックが反応する。

 同時にマキナも能力を解いた。何もなかった空間に突然小さな少女が出現する。

 全身汗だくで、その顔からは疲労が見てとれた。彼女もまた限界だ。長時間における能力連続使用と、隠密による精神的負担。嗚咽を漏らしながら、彼女は膝に手をつく。

 だが、成果は出した。

「……一体、何をッ……ぐゥ、ォオオオオオオオアァアアアァァァアア…………!!!」

 レドラニスカが訝しみ、そして、すぐに苦痛にのたうち始める。

 マキナの注射した薬剤は、炭素結合に反応する劇毒だ。

 血管に注入されれば、体内のあらゆるタンパク質を結合崩壊させていく。そこに再生の余地はない。なにしろ生命活動に必要不可欠な臓器が勝手にどんどん崩壊するのだ。血肉をいくら増やそうが、増えた先から崩壊させていく毒には対抗できないだろう。

 相手がどんなアンブラーであれ、生物である以上必ず通用する一撃必殺の致死毒である。

「いギッ……おェッ……な、なるほど、……これを待っていたの、ですね……!!!」

「頑張らなくていいぜ。さっさとくたばれ」

「つれな、い……ですね……ひ……ハ…………」

 劇毒に侵されながらも喋るのは、流石というべきか。

 レドラニスカは地面を転げまわると、青色の血を吐き、やがて動かなくなった。

 ビクビクと痙攣していた体が本当に停止したのを見終えてから、ようやく、アイザックはため息をつく。

「……終わったか?」

「気を抜くなアイザック。クラゲ共はまだやる気みたいだ。どこかに別の司令塔がいる」

「マジか……一体何人いるんだか」

 ジャバルダンの言葉通り、周囲に浮かぶクラゲには一切取り乱した様子がなく、尚もアイザック達を襲おうとしていた。アンブラーはリーダーが死ねば統率が乱れる。乱れないということは、こいつらにはまだ上がいるということだ

 だが、レドラニスカは死んだ。それだけでも今は充分だ。

 ――――さっさと他を助けに行かねえとな。

 アイザックは二丁拳銃を握り直し、取り合えずクラゲ共を処理しようと構え、


「では、第二ラウンドといきましょう」


 殺したはずの男の声を、聴いた。

「アイザック!!!!」自分の名を呼ぶ友の声。いや、確実に死んでいたはずだ。奴の死体は目の前にある。だが、しかし。レドラニスカの声は違う方向から聞こえた、ような。あらゆる思考が脳裏を駆け巡るが、勘が即座に能力の使用に踏み切る。筋電位の操作。思考の一切介在しない回避行動。姿勢を低くし、そのまま見えている方向へとアイザックの身体が飛びのいた。

 だが、遅い。

「ぐッ、おおおおおおぉおおおおおおォォォォ」

 鈍い音が体内で弾ける。足が叩き折られる感触。回避が遅れたせいで、ふくらはぎから下が持っていかれる。空中で体勢を崩されたため着地に失敗。叩きつけられるようにして彼は地面へと倒れ込む。

「な、にが……」

「おや、躱しますか。やはり素晴らしい。驚嘆すべき身体能力ですね」

 顔を上げれば、そこにはレドラニスカがいた。

 五体満足で、涼しい顔をして立っている。顔も声も仕草も、その全てが先ほどと全く一緒。

 ――――なら、さっき殺したはずのアレは一体なんだ!?

 死体は今もすぐそこで、地面に倒れ伏している。変わり身、分身、別人。可能性だけなら幾つか思い浮かぶが、しかしおかしい。それだと計算が合わない!

 進化因子は、生物に新たな力を与える。

 だが、一つの生命が獲得できる特化機構の数は知れている。大体の生物は一つか二つ。五つ持つ例も確認されたことがあるが、一つあたりの機能は些細なものだ。全生命体が同ポテンシャルではないため個体差はあるものの、一生命体の強化幅にはある程度の限界値が存在する。

 生命は、多すぎる変化に耐えられない。耐えられるように出来ていない。

 遺伝子を組み替え、組成を壊し、全く関係のない特質を手に入れる。そんな超常を何度も受け入れられるほど、生命という器は頑丈ではないのだ。

 人とコミュニケーションを取れる知性。

 小さな体に似合わない膂力。

 傷を負っても瞬時に再生する回復力。

 どれか一つを取ってみても珠玉の能力と言える。つまり、レドラニスカにはもう引き出しがない。これ以上特殊な能力を有することは絶対に不可能だ。

 ならば別人か。否、違う。アイザックの勘は、コレが先ほどまでのレドラニスカと全くの同一人物であると判断している。

 訳が分からない。

 ただ一つ分かることは、敵は健在で、こちらは足を潰されたということだけだった。

「足、痛いですよね」

 レドラニスカがこちらを見下ろしながら、話しかけてくる。

 周囲の状況を確認する。ジャバルダンとマキナもまた、遠くの地面に倒れていた。彼らはアイザックのような回避能力を持たないため、レドラニスカの奇襲が直撃したのだろう。足を粉々に砕かれた自分よりまずい状態だ。焦りと絶望が迫ってくる。

 レドラニスカはアイザックをどこか愉しそうな表情で見下ろしながら、告げる。

「最後にもう一度だけ問いましょう。ワタクシ達と共に歩みませんか?」

 それは、三度目となる提案だった。

 状況は最悪だ。これ以上の継戦は不可能。隊を預かる身としては、一時しのぎでも首を縦に振るべきなのかもしれない。生きていれば次がある。ここは形だけでも恭順を示して、命乞いをしよう。それが賢い選択ってやつなのかも、しれない。

 ――――けれど、俺は戦士だ。

 継承者という特異種。十億の人類の上澄み。

 今までの、そしてこれからの人類全ての願いを背負う俺達は、逃げられない。これまで散々同胞達を殺してきたバケモノに下げる頭などないし、頭を下げてこの先を生きていけるほど利口でもまた、ない。

 故に、答えは一つだった。

「ハッ……一度断られたことを何度も持ち出すなんて、女々しいったらありゃしねえな」

「……」

 こちらの返答に、あからさまに不機嫌そうな顔をするレドラニスカ。

 そのツラ拝めて良かったぜとアイザックは笑いながら、言葉を続ける。

「俺達がなんて言ったかもう忘れちまったのか? 最後にもう一度だけ答えてやるから、二度と忘れるんじゃねえぞ――――お前に従うなんて、死んでもお断りだ。地獄へ落ちろイカレ野郎」

「個人の小さなプライドで、お仲間の存亡を決めてもいいのですか?」

「あぁ俺が決める。俺が隊長だ。他の誰でもない俺様だけが決められるんだよ」

「……これは、我々アンブラーとヒトとのファーストコンタクトなのです。その意味を貴方は理解しているのですか?」

「グチグチうるせえな。お前、さては友達いねえだろ?」

「……一時でも貴方に抱いた尊敬の念は間違いだったようです。事の重大さを理解できない愚かさを悔やみなさい」

「ほら、本性が出た。底が浅いと大変だなァ!」

「殺す――――ッ!!!!!」

 レドラニスカの顔が初めて憤怒に染まり、その右腕が異形の容へと変貌する。

 現れたのは先ほどまでよりも凶器的なフォルム。鋭い三本の鉤爪を備えた、肉厚に詰まった筋肉の塊。それは凝縮された殺意と暴力を体現していた。

 彼は大きく振りかぶり、至近距離よりその一撃を見舞おうとする。

 眼前に迫る死。

 しかし、アイザックは取り乱さない。

 口元に浮かべた笑みを絶やさずに、彼は深く息を吐く。

 ――――久しぶりに、軽口叩いた気がするな。

 知らず、気が重くなっていたのだろう。友人の失踪と死。人型アンブラーという理外の存在。隊長という肩書。大人数を率いる責任。なんだかずっと、重い荷物を背負っていた気がする。

 もうちっとリラックスしてれば、良い結果になったような気もするが。けど今更そんなこと言っても仕方ねえか。俺に出来ることはもう、信じることだけだ。

 ――――あとは任せるぞ、ガキ共。


 直後、駆動車が一台、空を飛ぶようにして戦場へと飛び込んできた。


「!?」

 レドラニスカはそれに反応するが、しかしトドメを刺すことに集中していたせいで、恐ろしいスピードで突っ込んでくる車の対処まで手が回らない。

 それでも彼は駆動車を視認した。乗っているのは女が一人。ハンドルを握り、紺色の長髪を振り乱している。自殺特攻でもするつもりか。一切ブレーキを踏む様子を見せず、こちらへ突っ込んでくる鉄の塊。その運転手の口の動きを、レドラニスカはしっかりと読み取った。

『兄さんから離れろ』

 そして、衝突。

 響く重厚な破砕音。バンパー、エンジン、フロントガラス、フレームがひしゃげ、歪み、変形し。

 そのまま駆動車は内から膨れ上がるようにして、轟音轟かす大爆発を起こした。


 ***



 レドラニスカは強敵だ。

 だからソラリさんに自爆特攻させよう。

 その俺の提案は、案の定ジュノーによって却下された。

「流石にそれは……まずいだろ、レイジ」

 レビアコロニー内部、南部ゲート入口付近。

 外部にいた後方部隊のカタを付け終えた俺は、駆動車にエレノアと武装を詰め込んで、またレビアコロニー内部へと戻ってきていた。

 その途中で、一人で戦闘をしていたジュノーを確保。

 少し移動したところで、他の隊員達と一緒に行動しているソラリさんと合流。

 そして現在、ジュノーとソラリの二人を乗せて、最も激しい戦闘地であろう南部の中央地へと車を走らせているところだった。

 ちなみにエレノアはソラリさんと入れ替える形で他の部隊に預けてきてある。彼女はリタイアだ。出来る限り安全な場所で休んでもらうしかない。

 俺は瓦礫を避けるためにハンドルを切りながら、ジュノーを諭す。

「インカム越しの通話聞いてて分かってるだろ。師匠が手こずってる時点で相当ヤバい。試せるもんは全部試すべきだ」

「分かるさ、分かってる。分かってるけどよ……」

 自分でも道徳のない提案なのは分かっている。

 しかし生きるか死ぬかの瀬戸際だ。非情で未来が買えるなら喜んで鬼になる。この提案には試す価値がある。

「レイジ隊員の言う通りだ。私は乗るよ」

 そしてその思いは、当の本人も同じのようだ。

 俺とジュノーの背後。後部座席で武装の物色をしていたソラリさんが、端末を操作しながら答えた。彼女は落ち着いた声でゆっくりと言葉を発する。

「ジュノー隊員。心配してくれるのはありがたいが、私は死なないことが取り柄なんだ。兄さんがいるから普段はやらないが、自爆特攻ぐらい考えたことはある」

「ソラリさん……」

「全員が命を削って戦っている。マードックもサカズキも他の戦線を維持するのに手いっぱいで、三桁部隊の隊員達にも少なくない被害が出ている。この隊の副官として、私は自分に出来ることをしなければならない」

 そこまで言われて、流石のジュノーも押し黙った。

 優しいのは良いことだ。こんな状況でも他人を慮れるのはコイツの長所と言っていい。しかし優しさと甘さでは勝てない戦もある。残念ながら、今がその時だ。

 俺は手脇に置いてあった防弾ベストを取り出すと、後ろのソラリさんへと投げた。

「これ使ってください」

「む、なんだこれは」

「勇気ある先輩にピッタリな神風特攻セットです。中に爆薬詰めてあります。車ごとぶつかる時にスイッチ押すと、素敵な花火があがりますよ」

 前もって用意しておいた爆弾を渡すと、ソラリさんは苦笑した。

「お前は本当に、優秀で嫌な後輩だな」

「可愛い後輩からのプレゼントです。もっと喜んでもいいと思いますが」

「先輩に自爆特攻しろと言い放つ後輩の、一体どこが可愛いんだ?」

「お兄さんといいジュノーといい、ソラリ先輩を甘やかす奴が多いですからね。俺は鞭担当です。先輩のためを思って言いたくもない提案をした後輩は、可愛いでしょう?」

「ふふ……そうだな。うん、ありがたく使わせてもらう」

 ソラリ=カズイクールは、死んでも生き返るという極めて優秀な自己治癒能力を有している。

 彼女は心臓に穴が開こうが脳を真っ二つにされようが、一定の時間を置けば再生する。幾つかの制約はあるらしいが、過去に何度か死んだ経験からすると爆発という極めてありきたりな外傷ならば再生可能なのは分かっていた。

 よって、この駆動車ごと戦闘中のレドラニスカに突撃をかましてもらう。勿論爆薬も一緒だ。奴もまた恐ろしいまでの治癒能力を持つ。一緒に爆発四散してもらって再生力バトルしてもらおうという寸法だ。

 そのあまりにもノンデリカシーかつ人間性の欠けた作戦をなおも気にするジュノーに、俺は声をかける。

「お前は今の内に、持ち出す武器を見繕っといてくれ。この駆動車は爆撃機だ。後部座席に積み込んできたものは乗せたままだと無駄になっちまう」

「お前は冷静だな。俺は胸がいてえよ。代わってあげたいぐらいだ」

「お前がやっても焼身死体が無駄に増えるだけだ。適材適所さ。ソラリさんのためを思うなら、お前にしかできない仕事をやれ」

「……分かってるさ。割り切れない俺が悪いんだろうな」

 言って、ジュノーは助手席から後部座席へと移動を開始した。後ろに積み込んである武器を見に行ったのだろう。俺はハンドルを握りつつ、インカムの周波数を切り替えて戦況を確認する。

 ――――さぁ、出たとこ勝負だ。

 今のところ、確認された人型アンブラーは五体。

 ジュノーとソラリさんが一体、僕とエレノアで一体倒している。そして現在、〇六部隊のメンバーが他二体と交戦中。状況は悪くはないものの、良くもない。損害が出ているし、全員が疲弊していた。

 そしておそらく、残る一体であるレドラニスカが親玉にあたる。

 明らかに他より被害が大きい。建物を倒壊させ、地面を叩き割るほどの破壊力。あのアイザック、ジャバルダン、マキナの継承者三人組を相手にして完全な優勢を築いているバケモノ中のバケモノだ。喋り方や立ち位置的にもコイツがボスで間違いない。

 だから、あの戦線を突破しなければ、この戦争は負ける。

 敵は人型アンブラーだけではない。ワラワラと付き従うアンブラーの軍勢もまた小さくない脅威だ。敵が増援を呼ばないとも限らない。何より、僕達継承者には限界がある。時間は敵の味方なのだ。

 急げ。

 そうして僕はアクセルを強く踏み、市街地を突っ切らせる。『――――おおおおおォォォォ!!!』耳元で聞こえる、師匠の苦悶の声。事態が急変していた。端末で位置情報を確認。「このまま突っ込みます。ソラリさん、運転変わってください」「分かった」思った以上に余裕がない。狭い車内で座席を入れ替え、すぐさま僕も武装を背負う。十秒。「飛び出るぞ、三、二、一ッ!」運転中の車内から、俺とジュノーが飛びのき。


 そして、爆発が起こった。


 音と衝撃が大気を揺らす。

 舞い上がる黒煙。ドロドロに溶けたフレームの破片が飛んできたので、手で払って叩き落す。

 背負っていた武装を下ろし、行動開始。僕とジュノーはすぐさま視界の悪い煙の中へと、怪我人回収のために突っ込んだ。

 ほどなくして三人を発見。この状況において一番大事なアイザック隊長は余裕のあるジュノーに任せ、俺はマキナとジャバルダンさんを両手で担ぎ、即座に離脱する。

「意識はあるか! しっかりしろ! ジャバルダン、マキナ!」

「聞こえて、いる」

 大声を出して意識を確認。ジャバルダンさんは声を、マキナは俺の背を叩く形で反応を示す。命があって何よりだ。応急処置をするため瓦礫の山へと身を隠し、二人を地面に横たえる。

 ジャバルダンさんは比較的軽傷だった。頭から血を流していたがその程度だ。彼は呻きながらも、僕の応急処置を断った。

「俺は良い。それよりも、そっちを見てやれ」

 あぁ、そう。その通りだ。

 僕は彼の言葉に従い、もう一人の重傷者へと寄り添う。

「あは……しくじっちゃった」

 力ない笑みを浮かべながら、マキナが声を絞り出す。

 その左腕は、根元から吹き飛んでいた。

 断面は肉がねじきられたかのような凄惨な状態。工作機械に腕を突っ込んでもこうはならない。

 僕はすぐさま自分のベルトを抜き、止血処置に入る。致命傷だ。すぐさま処置しなければ今にでも死ぬ。継承者は頑丈だが、しかし彼女は中でも肉体面の強化量が少ない。というか腕が吹き飛んだら大体の人間はショック死、ないしは失血死する。

 してしまう。

 脂汗を滲ませながら、マキナが口を開く。

「ごめんね」

「意識を保て。昨日何を食べたか思い出せるか? 三足す三は? 大丈夫、お前は死なない。大丈夫だ」

「うん……大丈夫、大丈夫……」

 マキナの上着のボタンを外し、首元をあけてやる。すぐさま造血剤と鎮痛剤を準備し、注射。ちゃんとした輸血もしたいし、衛生も心配だ。だがここにそんな上質な物資はないし、そんなことをしている暇もない。僕に出来るのは応急処置だけだ。

「もう戦わなくていい。安心しろ。後は俺達がやる」

「…………ごめん」

「お前は充分頑張った。あとは安静にしてるだけでいい。大丈夫だ」

 しっかりと言葉を区切り、言い聞かせるように告げる。

 ずっと見てやりたいがそうも言ってられない。僕が声を掛け続けることでマキナの生存確率は上がるだろうが、僕が戦わなければこの戦場における勝率は下がる。負ければ二人共死ぬ以上、僕がこの場に居座るメリットよりデメリットの方がデカい。猿でも分かる計算式だった。

 処置を済ませると、芯のある太い声が耳に入ってくる。

「いけるか?」

「はい。ジャバルダンさんは?」

「俺は動ける。動かねばならん」

 僕の隣では、ジャバルダンが既に戦闘準備を終えていた。

 流石は〇六部隊の隊員だ。仕事人という評判は確からしい。赤銅色に輝く瞳は不屈の意思を湛えており、血の滲んだ頭部のバンダナを気にすることもない。彼は大盾を構え、今すぐにでも戦えるという闘志をこちらに示す。

 二人して岩陰に背を張り付け、別方向へと退避したジュノー達からの連絡を待つ。

「断片的に会話は聞いていましたが、情報が不足しています。敵の情報を教えてください」

 戦闘を有利に運べる情報があれば欲しいと、僕はジャバルダンさんに問いかける。

 彼は一瞬言葉を選ぶ素振りを見せた後、口を開く。

「奴は複数人いる」

「は?」

「奴の武器は三つ。俺達と同じような思考を可能とする知能、掠るだけで四肢をもぎ取る腕力、脳天や心臓に穴を開けても瞬時に再生する治癒力だ。そのためタンパク質分子崩壊剤『ガドミン』を使用し、殺した。だがその死体とは別の、新しい個体が現れた。敵は最低でも二人以上いる」

 その言葉に、僕は驚く。

 『ガドミン』はその特殊な生成法と、あまりにも強い効用のせいで使用が制限されている劇毒だ。だがその分威力はお墨付き。試したことはないが、理論上ソラリさんの不死能力すら凌駕できるという話の、まさに最強の化学兵器。それすら通用していないというのは耳を疑う。

「別人ってことですか?」

「こちらも情報が不足していて、新たに表れた敵が一体何なのか分かっていない。だが見た目と声質、そして先ほど喰らった一撃からするに、同一個体の可能性が極めて高い」

 ジャバルダンさんは表情一つ変えずに、続ける。

「俺は撤退すべきだと考えている。敵の能力の底が見えん。手持ちの人員、兵器群の中に、あのバケモノを打倒せしめる手段が思い浮かばない。今生きている人員だけでも支部に戻るべきだ」

 その案には僕も賛成したいところだった。

 だが、問題が二つ。一つ、帰り道も安全ではない。疲弊した状態で荒野を突っ切る関係上、徘徊するアンブラーの群れと会敵すれば被害が出る。二つ、このまま逃げるのを敵が黙って見逃すわけがない。殿を務める者はまず間違いなく死ぬ。

 そしてそれらを分かっていて、ジャバルダンさんは俺に話している。

 彼には覚悟があった。

 彼は僕の目の前で、胸元からアンプルを取り出す。そしてそれを首筋に突き立て、押し込む。使ったのだ。継承者にとっての最後の手を。

「うっ、く……アイザックも、あの足ではこれ以上の戦闘を望めない。俺も限界が近い。他の部隊員も交戦中で、援軍もない。この負け戦に、お前達が付き合う必要はない。逃げるべきだ」

「優しいですね」

「これは二つの地獄のどちらを選ぶかという話であり、決して優しさではない。それに年の功がある。この世は年齢の高い者から死んでいくべきだと俺は考えている」

「それを世間では優しさと呼ぶんですよ。師匠じゃなくて、あなたみたいな人が隊長をやるべきでしたね。そうすれば僕みたいな生意気な後輩ではなく、思いやりに溢れた部下が育成できた」

「ふ……初めて話すが、面白い奴だなお前は。アイザックが気に入るのも分かる」

 僕の軽口に、彼は少し笑った。彼もまた、あの師匠と上手くやっている時点で善人なのだ。

 話を分かってくれそうな人ならば、提案してみる価値はある。

 僕はそのまま、上官へと自分の案を提示する。

「少し試したいことがあります。手伝ってください」

「今ならば、俺の犠牲だけで逃げられるかもしれん。それでも試したいのか?」

「僕に仮説があります」

 僕は手短に、自分の思考をジャバルダンへと伝えた。

 初めて出会う人型アンブラー。まるで見当のつかない敵の能力。分からないことだらけだ。

 それでも僕達人間は、物事を推測することが出来る。記憶にある知識と、今までの経験、この数十分で得た情報。いくつかの質問をしながら、僕は独自の論を展開していく。

「――――と、思っています。どうですか?」

「……賭ける価値はあるな。いや、見事だ」

 果たして、プレゼンテーションには成功したらしい。

 錬磨の戦士は僕に頷いた。協力してくれるということだろう。

 彼の能力は大きな一助になる。傷ついた先輩を無理やり働かせるようで気が引けるが、戦場で上下関係もクソもない。あるのは命令系統と、純粋な勝利への意思共有のみだ。

 その時、無線通信が入ってきた。

『こちらジュノー。アイザック隊長はリタイア、意識はあるが戦闘復帰は不可だ。そっちは?』

「こちらレイジ。マキナがリタイア、重傷だがギリ生きてる。ジャバルダンさんは軽傷。以降、ジャバルダン隊員の指揮下に入る」

「……いや、良い。手負いの兵では指揮に乱れが生じる。ソラリに隊長を、青桐レイジにその副官を委譲する」

『委譲、了解しました。レイジ、俺は何をすりゃいい?』

「さっき話した通りに」

『……了解。気張れよ』

「そっちこそ」

 相談は終わりだ。目で合図する。

 僕達は岩陰から飛び出し、爆炎が飛び散る黒い煙の中へと突入した。


 *


 最後に目にしたのは、兄に飛び掛かる敵生命体の姿。

 次に、暗転。暗闇に揺蕩う、彼女にとっては慣れた世界。彼女はそれを死後の世界と呼んでいた。肉体のない魂だけの状態。彼女だけが行き来できる生と死の狭間。じれったさを感じながら、彼女は夜が明けるのをただじっと待つ。

 そして、心臓が鼓動を始める。

 瞳に光が入ってくる。肌が熱さを訴える。大きく呼吸をすると、煙たい黒い空気が肺を満たした。たまらずソラリは咳込みながら、急いで現状を確認する。

 いたるところに散乱した駆動車の残骸が炎を上げて燃えていた。黒い煙をもうもうと上げている。自爆特攻は成功した。敵の姿を探しながら、彼女はあたりを警戒する。

 ――――上着が燃えたか。

 彼女達の用いる軍服には防火の機能も備わっていたが、流石に爆薬をつけたベストを着ていては燃える燃えないの話ではなかったらしい。上半身ごと吹き飛んだのだろう。ズボンが残ったのはせめてもの救いか。火災の熱が肌を焦がすのを感じつつ、ズボンの腰からナイフを抜く。

「単身で乗り込んでくるとは……勇敢なのか、はたまた無謀なのか」

 声のした方へと振り向くと、そにはレドラニスカがいた。

 煙を切るようにしてこちらに歩いてくる。彼の黒緑色の光沢を持つ服は新品同様で、長くうねる髪も焦げた様子はない。つまり無傷だ。事前にその可能性を指摘されていたとはいえ、現実に見せられるとクるものがある。炎の熱ではなく、非情な現実によって汗が流れる。

 レドラニスカはじろじろと上裸のソラリを見ると、呟いた。

「それにしても素晴らしい治癒能力ですね。あたり一帯を吹き飛ばすほどの爆発を受けて、もう完治しているとは。成程、それならば先の爆弾特攻は実に合理的です! あぁ、貴方達は本当に面白い! 次から次へと披露される戦術に、ワタクシ感服致します!」

 彼は大仰な台詞を告げると共に、口元を歪めてこう続けた。

「さて――――果たして貴方は、どこまで耐えられるのでしょうか。頭を失っても生き返るとなれば、ミンチにすればどうなります? それとも海に流したらどうでしょう。そもそもあと何回、その自然の摂理に反した奇跡を繰り返せるのでしょうか。ワタクシ、気になります。えぇ気になりますとも!」

「……ッ」

 レドラニスカは、目の前の女は死なないという事象を事実として飲み下す。原理などどうだっていい。迷いなく彼は数多の殺害方法を思い浮かべ、それを一つ一つ試さんと向かってくる。

 その時、煙をかき分けて三つの人影がレドラニスカを囲んだ。

 三方向。背後と両側面から現れた彼らは各々の獲物を振りぬく。

「一人は貰いますよッ!」

 レドラニスカの反応も速い。彼は敵を確認するや否や、防御を捨てた。

 そしてすぐさま一番手近にいた右側面の敵へと、全力で殴りかかる。

「硬ッ、化ァアアアアアアアアアアアア!!!!!」

 狙われたのはジャバルダンだ。

 ジャバルダンは攻撃に使っていた片手斧を投げ捨てると、両腕で大盾を構えた。ビシビシと音を立てて盾が金属質な膜で覆われていく。直後、ダガンと金属を打撃する音。周囲の黒煙が吹き散らされる。

 盾を握る男の顔が苦痛に歪む。体中から響く嫌な音。その彼の全力を以ってしても衝撃は殺しきれず、大盾に縦一列の亀裂が入る。

 だがその犠牲のおかげで、絶命の一閃が放たれる。

「――――ッ!?」

 レドラニスカの顔が驚愕に染まった。

 彼にとって、被弾は許容したものだった。自身の耐久力を盾に、三人の内一人を殴る選択。肉を切らせて骨を断つ。だから例え斬られようが殴られようが構わないと、そう捨て置いた。

 だが、何の感触もないままに左腕が体から離れたのは、想定の範囲外だった。

 レドラニスカは驚いて視線を移す。見ればそこには漆黒の片腕を持つ男。その手に刃物はない。だが、その男はまるで腕で触れることこそが目的と言わんばかりの構えで追撃の体勢を取っている。

 本日二度目の嫌な予感。得体のしれない敵を前に、レドラニスカは後退しようとし――――その体が固定されていることに気付く。

「おォォオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!」

「ぐ、往生際の悪いッ!」

 ジャバルダンが、レドラニスカを縫い止めていた。

 彼の能力は身体硬化。自身の細胞を高硬度合鋼へと瞬時に置換することができる。

 その効果対象は皮膚細胞だけではない。体内の血肉や骨すらも適応範囲内だ。彼は自身の大盾の素材にそれらを組み込むことで、大盾も自身の身体の一部と見做していた。

 そして盾を砕き抜いたレドラニスカの腕にはその破片が纏わりつき、ジャバルダンはそれに触れている。ジャバルダンの瞳が緑茶色に輝きを放つ。能力発動の証。本来は一瞬しか持たないその置換能力を連続使用することで、彼はレドラニスカと自身とを金属によって一体化させ、回避行動を許さない。

「二発目、行くぜ」

 動きの制限されたレドラニスカへと、ジュノーが腕を振るう。

 狙いは胴だ。彼は脇腹へと一直線にした手を添える。瞬間、レドラニスカの衣服に線が浮かび、上半身と下半身とが分かたれる。ずるりと嫌な音をたて、輪切りにされた胴が地面へと落ちる。

 胴体切断による絶命だ。並の生物ならばコレで死ぬ。

 だが、これで死なないからこそ、ここまで事態が長引いている。

 ジュノーは気を抜かなかった。だからこそ気付く。薄くなりだした周囲の黒煙、その向こうにシルエットが浮かび上がるのを。

 ジュノーは切断した死体を放置し、煙の中にいる人影のほうへ駆け出した。

 彼の絶対切断能力は敵に接近する必要がある。そしてその性質上、先手を打ち続けることこそが最優であり、故に取るべきは先の先。右手を構え、人影へと振るう。

「流石ですね、もう警戒されますか」

「よう、もう一回斬ってやるよ」

 シルエットはレドラニスカだった。報告にあった通り傷一つない新品の姿。彼は向かってきたジュノーへと殴りかかる。先ほどと同じ、防御を捨てた体勢で。

 ――――それは愚策だぜ。

 ジュノーは即座に攻撃から回避へと意識を切り替える。

 彼は姿勢を屈めると、レドラニスカの拳を躱した。反射神経の強化されたレイジや電気信号による命令系統を持つアイザックほどではないにしろ、彼もまた継承者であり優秀な戦士だ。いくらデカくて速いとはいえ、単調な暴力なんてこれまで何度も避けてきていた。

 そして彼は伸びきった腕へと、自身の黒腕をそっと添える。

 両断。拳から肩までが一直線に裂かれ、またしてもずるりと肉が落ちる。続けてもう一閃。半分だけ残っていた拳が横に裂かれ、レドラニスカの腕の七割が消失する。

 ここにきてレドラニスはようやく事態を理解した。

 触れれば終わる。この敵に対して、受けの一切は成立しないのだと。

「――――厄介な、能力ですね」

 目の前の男の脅威を正しく認識したレドラニスカは、ここにきて初めて苦い顔をする。

 片腕を失くしたレドラニスカ。その眼前には三人の戦士が準備を整えていた。ジュノーが衣服をソラリへと渡す。ジャバルダンは砕けた大盾を捨て、小盾と片手斧を構える。レドラニスカの腕の断面が盛り上がり、再生。衣服と共に万全の状態へと戻る。

 総力戦だ。

 レドラニスカは仲間のアンブラーを呼ぼうとしたが、控えた。手持ちの駒の余裕がないという理由もあったが、それ以上に。目の前のこの甘美な敵を余すとこなく味わいたいという欲望が優先される。

 知らず、その長い舌が唇を舐めた。

 自分の内にある荒々しい部分が歓喜しているのを感じながら、しかしそれでも、レドラニスカは形を守った。

「ダメ元ですがもう一度。手を取り和を結びませんか」

 その言葉に、髪を束ねながらソラリが答える。

「くどいぞ。私達は何があっても応じない。無辜の民を守るために私達はここにる」

「無辜? 自業の間違いでしょう。変わりゆく環境に適応できなかった愚かな者ですよ」

「お前と言を交わす気はない。私達の意見は兄さんと同じだ。先遣隊を殺害した時点で、お前は既に人類の敵でしかない」

「かたき討ちなどという一時の感情で、このチャンスを不意にするのですか?」

 心底理解に苦しむといった表情で、レドラニスカは惜しむような顔を見せる。

 それに対し、ソラリは切って捨てるように対応した。

「お前達獣には、かたき討ちという概念はないのだろうな。数多のアンブラーの死にも、私達が討った人型アンブラーにも、お前は何も感じない。仲間の死に対し、何の感情も抱いていない」

「…………」

「それがヒトと獣を分ける境目だよ。お前には心がない」

「――――なるほど。憶えておきましょう」

 レドラニスカは納得した。たしかに彼女の言葉は的を射ている。彼はどうしてここまで誘いが断られ続けるのか分からなかったし、なぜここまで抵抗されるのかも分からなかったからだ。

 ただ、彼は自身の無理解を客観的に理解した。

 心というものが自分には欠けているらしい。

 ならば次の機会までにはそれを改善しておこうと、彼は思った。

「敬愛すべき先人の教えです。有難く参考にさせてもらいましょう」

「さて――――終わらせましょうか」

「ワタクシの全力を以って、お相手させていただきます」

 レドラニスカの声が、三方向から聞こえた。

 見れば新たに二体、全く同じ背格好の男がいつの間にかこの場にいた。同じ顔から同じ声で別の言葉が放たれる。

 やはり、どう見ても複数人いるのだ。しかも別々に動けるらしい。

 これで三対三。

 数の優位を失いつつも、しかしジュノー達に驚きはない。

 ――――レイジの言った通りだな。

 種は分からない。どういう原理でレドラニスカが複数人いるのかなど、この場の誰も知らない。

 だが、こうなる可能性は全て彼に示唆されていた。ソラリもジャバルダンも同様だ。予期していた事態のため、平静を保つことが出来ていた。

 だが、それを相手できるかどうかまでは分からない。

 彼らにとっての、最後の戦いが始まる。


 *


 進化因子のもたらす恩恵は、千差万別かつ荒唐無稽である。

 個々人によって作られる特化機構は全く別だし、未元物質と呼ばれる前例のない未知の物質を生み出すために発現する能力も違う。例えばアイザックとソラリは兄妹で共に継承者だが特化機構も能力も違うし、血筋と適合率との相関は薄いという研究結果もある。十人いれば十人十色。それが進化因子の起こす変異だ。

 だが、そこには二つの規則が存在する。

 一つ。適合元についてだ。

 僕達は普通の人間から継承者になる時、体に進化因子を取り込むのだが、その大元は現存するアンブラーである。彼らの細胞、大体の場合は血液を摂取して、進化因子のタネをもらう。

 例えばマキナは、カメレオン型アンブラーの血に適合した継承者だ。原理は違うが能力は似ており、どちらも姿を消すという共通項を持つ。同じくエレノアはどこかの支部が殺した巨大な鳥の血に適合し、空を飛ぶ翼を手に入れた。僕もジュノーも、アイザック隊長も、進化因子の元であるアンブラーと似通った進化を遂げている。

 そして二つ。無から有は生まれないということ。

 進化因子はエネルギーを摂取し、別の形で出力する。僕達の場合はカロリーや脳で作られる電流が消費され、代わりに未元物質を生み出したりそれを稼働させる燃料となる。すなわち、物理や化学の領域を超えた事象を起こる場合でも、必ず代わりの何かが消費されている。

 要約しよう。

 レドラニスカにも、限界は存在する。

 彼もまた進化因子の感染者キャリアだ。暗色の緑に発光し続ける瞳は特化機構を稼働させているからに他ならず、何らかの能力を彼はずっと行使し続けているのは明白だ。

 だが疑問が生じる。その能力が分からない。

 ジャバルダン達は、レドラニスカは知能、膂力、再生力の三つを有し、更には複数の肉体まで有するのはおかしいと評した。確かにその通りだ。いくら何でも節操が無さすぎる。


 ――――なら、それらが能力ではないとしたら?


「……やっぱりな」

 そうして僕は、確信を得た。

 手に持っていた物体を投げ捨て、全てを理解する。ジュノー達三人に戦闘を任せ、検分と観察に徹して得た確信。全員に、そして何よりレドラニスカに聞こえるよう、僕は大声で叫ぶ。

「足を狙え! それで終わる!」


 *


「足を狙え! それで終わる!」

 その声に、誰よりも強く反応したのはレドラニスカだった。

 三人のレドラニスカその全員が、雰囲気を一瞬にして変えた。先ほどまでの余裕を感じさせる表情から、急に研ぎ澄ましたナイフのような気配を放ちだす。

 ――――つまり、ビンゴだ。

 ジュノーは即座に腕や胴を狙うのをやめ、標的を足元に絞る。ジャバルダンとソラリも敵の豹変を見て理解した。レイジの言葉は、おそらく相手の急所を抉るかのようなものなのだと。

 鬼気迫る表情で、レドラニスカがジュノーへと襲い掛かる。

「シ――――ッ!」

 唸りを上げて迫る右の豪拳を、ジュノーは躱す。

 伸びた腕へと指で触れ、切断。遠くの方へと肉片が飛ぶ。

 しかし止まらない。一体退けてもまだ尚二体。別のレドラニスカ達が彼を狙う。

「させん!」

 その内の一撃を、ジャバルダンが止めた。

 インパクトの前段階。拳を振りぬかんとする予備動作を狙って、前跳びにタックルをかます。「面倒なッ!」レドラニスカは悪態をつきジャバルダンを引き剥がす。

 もう一体はソラリが相手をしていた。腕力の差はあったが、しかしナイフでの牽制とその治癒力を前に時間が稼がれる。無理に押し通れないと判断し、レドラニスカは下がらざるをえない。

 そこに、今まで表に出てこなかったレイジが合流した。

 彼はレドラニスカへと、答え合わせをするかのように告げる。

「ずっと疑問に思ってた。お前には僕を吹き飛ばすぐらいの身体能力がある。なのに、なんで走らないんだ? 両足が一度たりとも地面から離れる瞬間を、僕は一度も見ていない」

「――――」

 そう、そこが最初の疑問だった。

 レドラニスカは優れた腕力を示し続けているが、しかし腕力とは腕の力だけで構成されるものではない。殴打の一撃は全身の筋肉が連動する必要がある。当然、そのパワーを生み出す土壌である足腰も頑強であるのが普通だ。

 なのに、レドラニスカは走らない。

 跳躍も走行も行わない。この街中で立体的な運動を行う機会はいくらでもあったのに、彼はいつだって歩いている。アイザック達が距離を取った時も、彼は走って追いかけるのではなく、気付いたら近くにいたという出現方法をしていた。

「もう一つ気になることがある。お前、やたらと地面を壊しがたがるよな。最初は煙幕のつもりかと思っていたが、それにしては執拗すぎる。通ってきた場所のコンクリは全部丁寧に引き剥がされてる。砂地が現れるまで綺麗にな」

 レドラニスカはずっと、地面を狙っていた。

 本体もそうだが、アンブラーの群れも確かに地面を狙っていた。実際、それは目くらましの役割を兼ねていたし、戦闘跡地がぐちゃぐちゃになるのはいつものことだ。特に今まで気にする余裕もなかったが、確かに、彼はずっとコンクリートを砕き、下にある地面を剥き出しにしていた。

 まるでそちらにも目的があるかのように。

「最後にこれだよ」

 レイジは、手に持っていたレドラニスカの脚を、放り投げた。

 黒緑の衣服を纏った、長細い脚だ。

 そして、その踵からは細長い白い線が伸びていた。

 ずっと、これがしたかった。仮説を事実に押し上げるための必須行為。すなわち死体の検分だ。レドラニスカという生物の正体を知るために、身体の構造を直に見る必要があった。

 ジュノー達は時間稼ぎに過ぎない。

 本命は、これだった。

「お前の死体は、輪切りにされてるのに出血があまりない。骨や神経も通ってはいるが、どれも最低限の機能しか持たない未成熟なものだ。おまけに細胞構造が動物のそれじゃあない。進化因子による変性を加味したとしても、あまりにも動物の構造とはかけ離れている。細胞壁だ。植物にのみ見られる、角質な断面図なんだ」

 結果はアタリだ。

 確信を以って、彼は答える。

「お前はだ、レドラニスカ。そうすれば全ての辻褄があう。大本が別の場所にあって、そこから根を通してという形でお前は派遣されているんだ」

 ジュノー達にも教えるために、言葉を続ける。

「僕達が殺したと思っていたのは、お前にとっては木の実や枝に当たる部位なんだろ? だから脳や心臓を潰すことに意味はないんだ。ヒトの形をしているだけで、その体は末端に過ぎない。それなら話が早い。治癒行動は根から栄養を貰っての『創傷応答』であり、新しく表れた分体は『成長』という形で説明がつく」

 それが意味することは、一つ。

「つまり、能力じゃないんだ。植物であれば最初から有している能力なんだよ」

 さらに続ける。

「ジュノーを見た時、お前は厄介な能力だと零し、さっきからジュノーの攻撃は避けようとしていたよな。お前は切断を恐れたんだ。脳や心臓を撃たれるだけなら被害は軽微だけど、細胞を切り離されたら終わる。被害量の問題で、ジュノーだけは看過できなかった」

 それは、レドラニスカにも限界が存在することの証明だ。

 本当に無尽蔵の命を持つ不死身ならば、攻撃を避ける必要はない。事実彼はずっとそうしていた。だが、ジュノーの攻撃を悟ってから、彼は腕を差し出すことで対応し、ジュノーを執拗に狙っていた。狙わなければならない理由があったのだ。

 そして次に、レドラニスカになぜ『ガドミン』が効かなかったかを話す。

「マキナの毒が効かなかったのは、お前の身体がタンパク質を中心に組成されていないか、全体像が大きすぎて致死量に足りなかったかだ。分体が苦しんでいたことを加味すれば両方、つまりその身体には微量ながらタンパク質が含まれているが、致死には至らなかったと推測できる」

 進化因子は、動植物に作用する。

 植物もまた、対象範囲内なのだ。

 例はある。例えばラフレシアという花が進化したアンブラーがいる。アンブラーにしては珍しい小型化という形の変異を遂げたその種は、植物に寄生するだけだったその生態を動物寄生性のものへと変化させ、アンブラーの身体に根を張る形で生存戦略を取っている。

 植物のアンブラーがいるならば、植物を元にした人型アンブラーだっているだろう。

 それがレイジの立てた仮説だった。

「僕達の間違いは、お前を動物だと思っていたことだ。脳や心臓を狙っていたのが悪かっただけで、これまでもお前に対する攻撃は効いていたんだ」

 そして、結論を告げる。

「対象法は簡単だ。お前にとって一番被害の大きい殺し方……足元からの切除を行うだけで勝手に損耗する。もう一つあるぜ。人体に有害な毒じゃなく、除草剤を撒けば良い――――バケモノ退治じゃなく、雑草駆除をすべきだっただけだ」

「――――よく、気付きましたね」

 そして、レドラニスカは認めた。

 パチパチと。三人のレドラニスカが拍手を送り、その内の二匹の身体がいきなりその場で。後にはドロドロの粘液が残り、形あるのは一人だけとなった。

 レドラニスカはもう、隠そうとしなかった。

 用済みということだろう。タネがバレた以上、人数を増やしたところで殺される体積が増えるだけ。彼はバレたものは仕方ないと割り切り、レイジの言葉を肯定した。

「素晴らしい考察です。えぇ、認めましょう。ワタクシは全員がワタクシであり、またワタクシではない。貴方の想像通り、本体とも呼ぶべきものは別にいます。ただ一つ、訂正するならば『手足』と評してほしいですね。木の実や枝などと評されるのは、気に障ります」

「随分と人間的な表現に拘るんだな。ただの雑草が」

「間違いを訂正しているに過ぎませんよ。しかし、本当によく見破りました。同胞も踏まえ、こうも短時間で私の本体に気付いたのは貴方が初めてです。敬意を表しましょう」

 本当に、心底感心したといった態度で、レドラニスカは深く辞儀をした。

 それを見ながら、レイジが鼻で笑うようにして応える。

「人間様を舐めるんじゃねえよ。お前はここで終わりだ。余裕ぶっちゃいるが、アイザック隊長や先遣隊まで含めれば、お前どんだけ減らされた? さっきから分体も再生させずに使ってたよな。底が見えてるぜ」

「ハハ――――参りましたね。そこまで把握していますか。終わり、終わりですか――――」

 レドラニスカは最早隠すでもなく、饒舌に言葉を紡ぐ。

 そして彼は、狂った人形のようにして体を折った。

 ジュノー達は、レドラニスカの様子を見て警戒を強める。

 あれほど鬼気迫る表情をしていたというのに、どうしてか穏やかな雰囲気へと戻っていたからだ。開き直ったのか、諦めたのか。どちらにせよ良くない兆候を感じ取る。こちらに利するようなことをペラペラと喋り出すということは、喋っても構わないということに他ならず――――。

 ――――勘弁してくれよ。

 光明は見えた。

 だが、ジュノーは素直に喜べなかった。

 ソラリとジャバルダン、この二人の消耗が激しすぎる。見たところ明らかに無理をしている。これ以上戦えば、例え勝てたとしても死ぬ。その域にまで達している。限界が近いのではない、限界を超えているのだと彼は悟る。

 ソラリ達もまた、最後の一仕事だと身構える。命の残量を感じつつ、しかし見えた光明に沿ってただ歩くのみ。一滴の油断もなく、彼らはレドラニスカと相対する。

 だが、次に彼が起こした行動は、そのどれでもなかった。

「では、逃げるとしましょうか」

「――――は?」

「それではご機嫌よう」

 言って、最後に残っていたレドラニスカが目の前で崩れ落ちた。

 てっきりここからもう一戦あると思っていたジュノー達は、一瞬惚けてしまう。だが、レイジの言葉が正しいなら奴は神出鬼没だ。大地のある所ならばどこへでも出現してくる可能性がある。

 つまり奇襲だ。

 言葉はブラフ。気を抜けば襲われる。彼らは地面を警戒しながら、緊張の糸を張り直そうとし――――、

「そこまで警戒しなくていい。本当に逃げたよ」

 そうあっさりと、レイジが言い放った。

「……なんで分かるんだ」

「言っただろ。視界を悪くしていたのはタネをバラさないためであって、アレの真価は物量にある。分体を大量に出して数で押してこない時点で、あいつも余裕がなかったんだ。だから逃げたんだよ。今は連戦で消耗してるだけで、回復したら今度は冗談抜きでその戦法を取ってくるんだろうな」

 レイジは当たり前のことを話すかのようにそう結論付けた。

 アンブラーは基本的に逃亡をしない。襲われたら闘うのが奴らの基本設定である。もちろん勝てない戦はしないものの、基本的に人間というご馳走を前にした彼らは理性が吹き飛ぶため、逃げるという選択肢が頭にない。

 だが、アレには知能がある。

 しかも大量のアンブラーを束ねるリーダーだ。他のアンブラーは上からの命令に従うだろうが、アレだけは独自の思考回路と決定権を持つ。勝てない戦と見れば逃げようとするのは、考える頭があるならば当然のことであった。

 それを聞いていたソラリが、肩で息をしながら質問した。

「……逃がして、よかったのか」

 逃げてくれてよかった。これ以上戦えば犠牲が出ていたのだから。

 だが同時に、逃がしてよかったのかとも思う。明確な首級だ。それに、レイジの言葉通りなのであればここで逃がすと更なる脅威となって帰ってくる公算が高い。

 その言葉に、レイジは首を振る。

「いや、逃がしませんよ。あんな化物さっさと始末しないと。それにあんだけペラペラ喋ったんですから、殺しとかないとまずいですって」

「……逃げたではないか。というか、さっきからお前、一体何を――――」

「お、来ましたね」

 レイジがずっと弄っていた端末から顔を上げ、道路の先を見る。

 そこには一台の大型駆動車がこちらに近付いてくるところだった。乗っているのは三桁部隊の隊員が二名。彼らはレイジ達の目の前に車を止めると、急いだ様子で降りてきた。

「指示通り、お車手配しました!」

「ありがとう。言っていた物は?」

「整備済みで後部格納庫にしまってあります!」

 隊員達は素早い動作で大型駆動車の背面へと回り込み、内部から何かを取り出し始める。一台のバイクと、幾つかの武装だ。レイジは彼らに礼を言いつつ、一人で単車に跨りだす。

 ここでようやく話が見えてきた。

 状況を悟ったソラリとジュノーが詰め寄る。

「一人で行く気かよ」

「お前、勝手に部隊を私物化したな……ぐっ……」

 ソラリが足元を崩し、身体がぐらりと揺れる。ジュノーがそれを咄嗟に支えるが、立つことすらままならない。気が抜けたのだろう。限界を超していた体が休息を欲していた。

「ソラリさんとジャバルダンさんはもう立ってるのも限界でしょう。安静にしててください。ジュノーもだ。ここに戦える奴が残らないのはまずい。アイツは俺が一人で追いかける」

「追いかけるっつったって……本体ってのは、根っこの先にいるんだろ? 場所分かんのかよ」

「当てがある。まず間違いなく、奴はそこにいる」

 ヘルメットを被り、武装を点検していく。バイクの燃料も十分。いける。

 キックスターターを入れる。エンジンが点火。ドッドッドッドと重低音がなり、振動が始まる。

「……」

 こちらを咎めるかのようなジュノーの視線。

 だが仕方ないだろうとレイジは思った。全員限界だ。比較的余裕のある自分かジュノー、どちらかがこの場に残らなければ安全の確保が出来ない。そして、あの敵を相手にするのはジュノーよりも自分の方が適している。

 だから、彼の告げるべき言葉は決まっていた。

「任せろ。それより、ちゃんとマキナ達をよろしく頼むぜ。戻ってきたら全員死んでましたとかシャレにならんからな」

「無線は常に入れとけよ。ヤバそうなら、助けを呼んでくれ」

「そっちもな」

 武装を背負い、地面を蹴る。時代遅れのガソリンバイクが動き出す。

 目指すは地下に広がる、あの大空洞だ。

 奴は必ずそこにいる。

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