Fiction 3.2 滋賀県豊郷町

二人の乗る青のスポーツカーは軽快に高速道路を走っていた。

男は手慣れた手つきでハンドルを握り、髪をツインテールにまとめた少女が助手席にちょこんと座っている。

「で?」少女が真っ直ぐ前を見つめる男の方を見て話しかけた。

「で、って?」

「ほら、リクエストに応じたんだから、なんとか感想言ってほしいじゃない」

 少女は冗談でも茶化すわけでもなく、真面目に言った。その純粋さは彼女の心根のよさの表れだ。

男は少女のその言葉を耳にする。そして、

「うん、似合ってると思うよ」と、彼もまた心からの返答をした。

 取ってつけたような紋切り型の台詞だったが、少女は照れて前髪をいじった。

「あ、そうそう。ただ、俺のリクエストにはまだもうワンステップあってさ——」

「えっ?」少女の緩みかかった口元が、不意の言葉に少し開かれた。

「あずにゃんだし、敬語使ってみてよ」男はこれまたいたって真面目に言った。

「はぁ」少女はまだ理解が追いついてないといった風の吐息を漏らした。

「見た目だけじゃなく、言葉遣いもキャラに寄せてみても面白いじゃん、と思ってね」

「まあそれはそうかもね……」

「ちょっとやってみてよ」

 少女はうーん、と何かを考えるように唸り出した。少しして、

「——あなた、もしかしてそういう変態なの?」とニヤついて言った。

 ふふ、と男から笑い声が漏れた。「そういうわけじゃないよ」

「えー」少女は自分の当てが外れ、口を尖らせた。

「本当に単なる思いつきなんだ」

男はさっきから一貫して澄ました顔をしていた。その精悍な顔立ちは大学時代の貧相なそれとはほぼ別物だった。

彼は先ほどからあの懐かしい思い出に引っ張られ、教習所で出会ったあの女のことを思い返していた。

「イメージなんだよ。ポイントは」男は続ける。

「イメージ?」

「うん、そう。俺と君はお互いのことをほとんど知らないしさ」男はハンドルをぽんぽんと叩いた。「出身地も職業も年齢も、しかも名前も知らない。唯一確証があるのは性別くらいか? いやそれももしかすると間違っているかもしれない」

「まあそうね」少女は代わり映えのしない高速道路の先を見つめた。

「そういう人を信頼できるかどうか、そこで大事なのは想像力だと俺は思うんだよ」

「ふぅん」

少女が彼の言うことを理解したのかどうか、その表情に反応は現れない。

ただはたから見れば、彼女がこの時点で男のことをそれなりに信用していたのは明らかだ。

「でもそれと私が敬語を使うのはどうつながるの?」

「バリエーションが見える」

少女は組んでいた両腕をほどき、手を膝の上に乗せた。

「まあいいよ。……敬語使いましょう」そう言って、結局少女は男の要求を受け入れた。

蓋を開けてみれば、少女は基本的に他人にやれと言われたことはやるタイプの人間だった。

「——それでー、あとどれくらいなんですかぁ?」

 少女はわざとらしく猫撫で声を出し、上目遣いをしてみせた。

「いや、それはやりすぎだろ」

けらけら、あどけなく少女は笑った。

 郊外へと延びる休日の昼下がりの高速道路をツーシーターは心地よく飛ばしていく。


  *


「到着―!」少女は車を降りるなりそう言って、すっと伸びをした。

 二人がたどり着いたのは、けいおんのもう一つの聖地、豊郷小学校だ。ここは滋賀県でも京都よりも岐阜や三重に近いところで、京都からの強行軍にはそれなりに時間がかかった。

伸びを終えて、前を見据えた少女は、あの白亜の校舎を見つけた。パッと彼女の顔は明るくなる。車で荷物の整理していた男を待って、二人はその校舎の方へと進んでいった。

校舎の前には円形の噴水広場が広がっていた。その目の前に来たところで、二人は思わず立ち止まった。そこから見える景色はまさにアニメで見たまんまなのだ。

男は両手を腰に当ててそんな景色を眺めている。

「ここが一番有名なところなわけですね」

各自で景色を見、黙っていたところに、少女が先に口を開いた。

「——でも、ここは一期のオープニングだからまだあずにゃんは出てないやつですね」

 少女は特に嫌な様子も見せずに敬語使いを続けている。

「そうだったな」

「ちなみに私ギターは弾けるんですよ」

「え、まじ?」

「うんうん。まあ残念ながら今はないですけどね」そう言って、少女は両手をひらひらとさせた。

 少女が敬語を使うことによって、二人のコミュニケーションはより自然になった。

その分では、男の試みは成功したと言える。彼は彼女の良く言えば純粋ピュアで悪く言えば世間知らずなナイーブ雰囲気からして、男は彼女にあまり背伸びをさせない方がいいと思った。年相応の立ち位置へと戻してやるのがいい。

別に少女がタメ語を使っていたら悪いわけではない。二人のコミュニケーションがぎこちなかったわけでもない。ただ男が思うに、少女は自分の若さを補うために必要以上に強くあろうとしている、そんな感じがした。だから、自分に敬語を使ってもらうことで、その荷を多少は減らせるのではないか、と彼は思った。

「それで、今日はやるのか? あれ」

二人の会話は続く。

「うーんどうでしょう。ここかなり再現度高いし、問題なく中まで入れますしね……」

「そっか。じゃあ、まあ無理はしなくていいわけだ」

「あの部室の場所に行って考えましょう」

 休日ということもあり、周りにはぱらぱらと観光客がいた。この小学校を見に来た人たちは周りの細かいところにも目を向けたりして、ゆったりと順路を巡っているようだった。二人もいつもよりはゆっくりとした歩調で歩いた。

 まもなく、彼らは作中では軽音部の部室となっている一室へとやってきた。

「わあ、グッズ」

部屋に入るとすぐ、ファンたちが残したたくさんのアニメグッズが二人の視界に入った。そして少女の反応は無意識のうちに声となって漏れた。

キャラの大小のぬいぐるみから、作中で使われたギターまで。けいおんが多くの人に愛された作品であることがすぐにわかる。

 少女はギターが並んでいる一角へと歩み寄った。

「ギターいっぱいありますね」

少女はギター一本一本じっくりと観察した。

はたから見れば、その姿はさながら楽器店で品定めしているかのようだ。しかし、彼女は目を細めて、そのギターたちを愛でるようにしている。彼女の目は焦点が定まっていないようになってくる。

ふっと少女が意識を現実に戻した時、彼女は振り返って、男の方を見た。

「そういえば、けいおんとかガールズアニメの時、あの力使ったらあなたはどうなるんですか? 男キャラってほとんどモブキャラだし」

「まあ、基本はそのモブキャラたちの一人になるかな」

「えーおもしろくないですね」

「頑張れば女の子キャラにもなれなくもないけどな……」

「へえ、すごい」少女はキョトンとした顔を見せた。

「でも、多分めっちゃ疲れるだろうな」

「なんで?」

「自分が女だと自分の脳に信じ込ませなきゃいけないからな。一番難易度が高いかもしれない」

「へぇー。私からしたら、アニメの世界のイメージを他の人に共有する? なんてのができる時点で難易度カンストに思えるんですけどね」

「これは俺だけではないと思うけど——自分の周りの世界についてのイマジネーションは無限大に発揮できても、自分のことには想像力が膨らんでいかないもんなんだ。どうしても現実に引っ張られる、というか」

「へえ。じゃあ逆に言えば、完全な異世界系アニメの世界とかにも入り込めちゃうんですか?」

「まあちゃんと聖地があるやつよりは難しいだろうな。けど、できなくはない。自分をTSさせるよりは絶対に簡単だよ」

「へえ。そんな夢みたいな能力にもいろいろあるんですね」

 少女は再びグッズが並ぶ部屋の角へと目を向けた。

「にしてもすごいなあ」

少女の目は輝いているのだろう。後ろ姿だけでもそんな様子が男には感じ取れる。

「それじゃ、どうしましょうか」彼女はまたこちらを振り向いてくる。

「どうしたい?」

「どうしたい、かあ。難しいですね」

「君の仕事のやりやすさとしてはどうなんだ?」

「……。こうやって聞くと、私が本当の仕事をしてるみたいですね」

「本当の仕事じゃないのか?」

「ええ」

「じゃあ、本当じゃない仕事ってなんなんだ」

「いやいや。そういう哲学的な意味じゃなく……私のはお金をもらう仕事じゃないってことです。私が今やってることはどちらかというと宿題に近いんですよ」

「へぇ。でも前に仕事がどうのこうのとか言ってなかったか?」

「それは多分、『やるべきこと』って意味での、しごと、でしょうね」

「なるほど」

 少女はうんうんと首を縦に振った。男はそんな様子を一歩引いて見ていた。

「まあ仕事にせよ宿題にせよ、どうする?」

「まあ私の都合を言えば、あなたの力を使ってくれたほうがいいですね」

「じゃあやろうか」

 男はふうと深呼吸をし始めた。自分の力を引き出すための導入だ。だが、

「でも」と、少女は男の集中を遮った。しかし、言いかけた言葉を途中で飲み込む。

「ん?」

「なんでもないです」

 男はその言葉を聞いて、頷く。そして、目をつぶった。

頭の中の記憶を引っ張り出して、アニメの世界を脳内に作り上げる。彼に言わせてみれば、その作業はルービックキューブを揃えていくのに近いらしい。彼の中で立体的なイメージが組み上がった時、男は両目を開いた。

 隣には、眠っているような少女がいる。全身の力が抜けていた。

彼女の表情は母親の胎内に浮かんでいる時のように安らかだった。

周囲を見渡せば、彼女の周りにあったはずのファンが残したグッズたちがなくなっていた。そこにあったはずのファンたちの作品愛による熱気もまた消えていた。その代わりに、彼を包むのは女子高生たちの若々しいエネルギーだ。どこからか、甲高く響く笑い声が聞こえてきた。

男はそこまで周りを観察して、その完成度に満足した。彼が思った通りのけいおんの世界が組み上がった。

 そこで男は今まで挙動を止めていた体を動かし出した。血が体に巡っていくのを感じた。手を揉み、足踏みして、感覚を確かめる。その後、隣の少女の華奢な体の前でパンパンと手を二度叩いた。

 そして、少女は目を覚ました。ぼけっと、意識のはっきりしない様子だ。

男は少し離れたところにある椅子へ向かって、腰を下ろした。男は普通の黒のスラックスにワイシャツの格好だ。完全なるモブキャラだった。

 目を数回しばたいた少女は自分の服装を見回した。そして、一度頷いた。

「よし」そう一言をつぶやいて、少女は立ち上がった。彼女の身は制服に包まれていた。アニメに出てきたのと同じデザインだ。その制服に黒のツインテールはよく似合った。

「とりあえず敷地を動き回ろうかな」と、少女は男にも聞こえるようにつぶやいた。

 少女はさっきとは少しだけ趣の変わった部屋を見渡し、興味がありそうな様子を見せたが、そのまま扉の方へ向かっていった。男はそんな後ろ姿を見て立ち上がり、彼女の後をついていく。

 廊下に出て、男が声をかけた。

「あの部屋、もっとよく観察しなくてもいいのか? 軽音部室」

「しますよ。でも、最後に」

 少女は振り向いて、男に向かって笑みを浮かべた。


少女は迷わず学校内を歩いていく。そして、男はそれについていく。

この構図はいつも変わらない。

 二人でフィクションの世界へと潜り込んでいる時、少女が何をしているのか男は全く理解していない。そして、そのことについて、少女が男の能力について思うのと同じくらいには不思議に思っている。

 二人で廊下を歩いていると、前から女子生徒が二人連れ立って近づいてきた。その女子生徒たちは2Dのイラストでありながら、立体的に動いている。少女はその生徒の方に遠慮しつつも視線を当てている。とはいえ、その生徒たちは特になんの反応も見せずに、彼らとすれ違っていく。

「相変わらず、ですね」

「ん?」

「その能力」

「ああ。自分としても今回はなかなか完成度が高い気がするよ」

「完成度ね……。百歩譲って、アニメの世界が目の前に広がるのはわかるんですよ。今どき、VRとかARとかもあるし。でも、完全に二次元のキャラクターが三次元で動いているってのが全くわけわかんないんですよね」

「でも夢みたいなものだからな」

「ですよね。ほんと、夢みたいな能力です」

「そういうことじゃなく。夢を見ていると思えばいいんだよ」

「どういうことですか?」

「君も子供の頃、寝ながら大好きなアニメの世界に入り込む夢を見たことはない? 今はあれに近い」

「……そうか。なるほど」

 そうしている間に、二人は校舎を出る。白塗りの校舎は実物よりもアニメ絵の方が無垢な感じがして良い。そう観察しながら、二人は講堂へと辿り着いた。

「ここがかのステージですね」

 そのまま講堂のステージへと足を運ぶ。そのステージの最前に立って、少女が誰もいない客席の方へ向かってエアギターをしてみせた。少女は照れ笑いを男に向けた。

 それを見た男は魔法をかける。

次の瞬間には、少女の肩にはギターが掛けられ、目の前には満員の観客、そして後ろにはけいおんのバンドメンバーが楽器をかき鳴らしていた。少女が目を脇へそらすと、男がステージの袖から少女にアイコンタクトをして頷いた。少女はギターを握り、ピックで弦を鳴らす。軽快なギターテクニックを少女は披露した。

 一曲が終わると、スッと会場は元の空の講堂に戻った。男が少女のそばへと歩いてきた。

「どうだった?」

「楽しかった」少女は満足そうな表情をしていた。「今までで一番かも」

「それはよかった」

「でも、楽しいだけじゃダメだからね」

「そうなのか?」

「そうだよ。宿題なんだから」

「ふーん」男は不承な顔をした。「それと、タメ語に戻ってる」

「あ、ごめんごめん」

「一応ね、頼むよ」

「今日はちゃんと敬語でいきましょう。決めたことはやり切らないとね」

二人はその後校舎をぶらつき、そしてまた部室に戻ってきた。

「やっぱり、けいおんって本当に学校のシーンはこの部屋ばっかなんですね」

「確かにな」

 二人とも校舎のいろんなところに見覚えはあったが、心が湧き立つようなところはそう多くはなかった。聖地を訪れる楽しみがその作品世界の空気を感じ取ることにあるとすれば、作品を象徴する場こそが最大の目的地になる。

 けいおんという作品について言えば、この部室に全てが詰まっていると言ってもいい。その場所で二人は午後の穏やかな陽光に包まれているような、落ち着きながらも、心が軽く浮く感覚を覚えた。

それがこの男の作品解釈だ。

「なんか眠くなってきました」そんな雰囲気の煽りを受けて、少女は目をこすった。

「ティータイムシーンにでも飛ぼうか?」

 男は半分寝ているようにぽうっとした少女に問いかける。緩く暖かい空気にくるまれた少女は「いやいいかな」と答えた。

「本当にいいのか?」

 それをやるのが一番の目的だと勝手に考えていた男はちょっとした驚きを見せた。

「うん、いいです。そこまでやるとみじめになっちゃいそう」

「みじめ?」

 眠たげな少女はその男の反応には答えなかった。

「今日はだいたいこれで十分かなあ」

「そうなのか」

切り上げるタイミングを指示するのはいつも少女の役目だ。なにせ男は彼女が何を目的としているかも知らない。そのため、彼は少女の言うとおりにする。

 男がふっと意識の集中を解くと、現実の匂いがふわりと彼の鼻をくすぐった。続いて認識するのは目の前に広がるいつも通りの世界だ。

こういう時まず初めに働く感覚は嗅覚や聴覚なのだ。それだけに彼は他人よりも鼻が利き、耳が良くなった。世界に満ちているのが空気だとすれば、空気の入れ替わりには鼻や耳が一番に反応する。

 隣の少女も目を覚ました。二人の周りには数人の観光客がいて、彼らは先んじたファンたちが残したグッズを見回していた。

「じゃあ帰りましょう」

少女は清々しい顔をして歩き出した。後ろ髪を引かれている様子はない。

男はやはり黙ってついていく。


【en hommage à『けいおん!』par かきふらい】

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