Reality II 3年前

ファストフード店での小休憩を終えて、男は独り京都駅周辺をさまよっていた。

 少女曰く、帰りは京都駅から新幹線に乗るから、車を借りるならその周辺が良い、とのこと。それで男は彼女と別れ、こうしてレンタカー屋を覗き回っている。なんでも当日利用の場合はネットにすべての空車情報が載っているわけではなく、実際に店を訪れて確認すべきらしいのだった。

 二店舗を巡って断られた後、男はこの観光都市で休日の夕方からその場で車を借りようとするのがそもそも間違っているのだと思い始めていた。そんな時、歩いていた道路の脇に、あまり名が通っているとは思われないローカルなレンタカー店を見つけた。その店のレトロな雰囲気を壊さぬように、男はゆっくりとガラスのドアを押した。

「すみません——」

「はいはい」

 男の声に反応して奥からカウンターへと出てきたのは、腰が少し曲がったお爺さんだった。

少なくとも七十歳は越していそうな風体だった。

「今日このあと借りられる車がないか探しているんですが……」

「このあとすぐかぁ。えらい急な話やね」

地元言葉で話すそのお爺さんは、前の二軒のように彼を門前払いすることはなかった。そこに男は一縷の望みを感じた。

「どうやろなあ……」お爺さんはカウンターの下からファイルを引き出して、ページをくり始めた。「まあなくはないけどな。ちょっと古い車で、しかも値段が張ってまうかもしれんけど」

「構いません」

「そうかぁ、ほんならちょっと待っとき。それと、うちもこういう感じやから、いくらか前金貰うようにしてるからよろしくな」お爺さんはそれだけ言い残して、扱いづらそうな両足を動かし、店の奥へと消えていった。

 男は「しめた」と内心喜んだ。前の二店舗での反応を見る限り、こうでもしないと車は調達できないはずだった。少女はえらく簡単そうにこのミッションを言い渡してきたが……。どうせなら梅田のホテルを手配してもらったように彼女の力を使った方が効率的だったかもしれない。

 しばらくカウンターの前でたたずんでいると、低音でよく響くエンジン音が聞こえてきた。すぐに店の前にツーシーターの青い車が止まった。運転席から今度は壮年の男が出てきて、彼の方へと向かってきた。

「お兄さんですか?」その壮年の男はドアを開いて店へ入るなりそう言った。

「はい」と返事をする男の脇を通って、彼はカウンターの向こうへと入っていった。

「ほんじゃあ、この書類を書いてもらえればと思います」彼はデスクに置いてあった紙の束から必要なものを抜き出して提示した。「あ、お兄さん、初心者ちゃいますよね?」

「いえ、違います」

「ほな進めましょ。ここにサインしてもらって、あとは免許証見せてもらえれば」

 はいはい、と答えながら、男は財布から免許証を取り出した。それをチラッと一瞥した後、壮年の男へと手渡す。

「ええと、カワバタさんですね。免許取得は——もう3年前やから初心者ちゃうね」

「ええ」

男は微笑んで、返された免許証を受け取った。そして、サインした書類を入れ替わりで彼に返した。

「ほんじゃあ、準備するんで、ちょっと待っててね」

少しして、男は少し古いがよく整備されたマツダ・ロードスターの助手席に収まった。


 南北に正確に引かれた京都の道の上に車を走らせながら、男は少し前、免許を取った頃のことを思い返していた。

 男がまだ大学生だった頃だ。

 親に頼み込んで始めた都内での一人暮らしにも慣れ始めていた。

 日々のスケジュールは、出席が必要な大学の講義と自動車教習所の授業とあとは何でもないようなことだけで埋まる日々。そんな単調な日々には、退廃的な一人暮らしが祟って、どんよりと暗雲が垂れ込めていた。

埼玉に一軒家を構える両親は、彼がわざわざ家賃のかさむ都内で一人暮らしをする必要性を感じず、彼は費用は自分で稼ぐといって親を説得する羽目になった。その説得を真に受けた両親は結局雀の涙ほどの仕送りだけ、申し訳程度に彼に与えた。

そんな事情で、男は暮らしのためそれなりの日銭を稼がなければならなかった。しかし、一人暮らしに慣れると、軽い倦怠感が常日頃彼を付き纏うようになる。バイトを始めて金を稼ぐ気にはさらさらならず、そうして彼は食費を削って必要なお金を捻出した。

その影響で彼の顔は日に日に細くなった。その変化に周りの友人たちも気づき出し、時には軽く指摘するまでに至った。けれど、大学の友達というのは互いに絶妙な距離感を保つもので、腰を据えて彼の不摂生を咎めるところまでいく者はいなかった。彼らは、彼の適当な愛想笑いを見て納得し、少しの心配も他の雑多な話題の中にすぐに忘れてしまうのだった。

 ——そんな中、何気なく惰性で通っていた教習所で、男はある女に出会った。

 その日、全くの偶然に彼はその女の隣に腰を下ろした。教習の座学が行われる教室だった。授業に遅れそうだった彼は目についた席を選んだのだった。

特に問題なく始まった授業が進んでいくと、男はちょっとした違和感を覚えた。その日の授業を担当した講師が珍しいタイプだったのだ。その講師は学校のように、生徒たちを当てて問題の答えや彼らの意見を話させた。しかし、そこまで真剣な生徒もいない教習所の雰囲気とその講師の振る舞いはミスマッチで、男はなんとなくの居心地の悪さを感じた。

そのうちに男はその授業の中でもとりわけ掴みどころのない質問をその講師にぶつけられた。確かその質問は「信号機も横断歩道も使わずに安全な道路交通の仕組みを作るとすればどうなるか?」みたいな感じだったはずだ、と男は記憶する。

 そして、その時男は唐突なその問いかけに考え込んでしまった。

「—————」

 すると、隣に座っていたその女が急に男だけに聞こえるくらいの大きさで吹き出したのだ。そしてこっそり男に「そんな考え込まなくていいじゃん。イメージするだけ」と小声で耳打ちしてきた。彼女の顔は頑張って笑いを抑えているような様子だった。

「……危ない、と思います」

自分がそのアドバイスを聞き入れたのかどうかについてはあまり覚えていないが、男は彼女の言葉の後にそう答えたことを記憶している。

 そして、その彼の答えに女は堪えきれず吹き出した。今度はさすがに前後一列の生徒たちには分かってしまっていただろう。そのあんまりな反応に男は自分の冴えない回答を恥じつつ、機転の利かなさを呪った。

「そんなに笑わなくてもいいじゃないですか」

 授業が終わって人も散り散りになっている中、男は荷物をまとめていた隣の女に不平を漏らした。教習所で隣に座っただけとはいえ、あれだけ馬鹿にされたら文句の一つでも言いたくなった。

「……。ごめんごめん」女はカバンをまさぐっていた手を止めて、男の方へと視線を合わせた。「あんまり真剣に考えてたからさ。あれは先生も意地悪だよね」

「……。あなたならなんて答えるんですか?」

「……うーん、何だろね。確かに危なくはあるけど……、もし信号も横断歩道もなければ、全部の道を立体交差にする、とか?」

「でもそれは、——」男は反射的に言った。

「たいして面白くないって?」

「まあ、はい」

「まあそうかもね。でもこんな教習所のあんな先生の適当な質問なんだから、イメージをそのまま伝えればいいんだよ。君は想像力をもっと鍛えよう」

 そこで、その女は教室の外から顔を覗かせた友人らしき人に名前を呼ばれた。そして男に軽い会釈をして出ていった。

 彼女の言う『イメージ』という言葉がやけに彼の脳裏にこびり付いて離れなかった。


 それから、男はたびたび教習所でこの女に出会った。互いの本名を知らない奇妙な関係だったが、だからこそ逆に本音で付き合ってもいい気がお互いしていたのかもしれない。

 女は男の見てくれについても遠慮なく問うた。身長の割りに痩せすぎではないか、と。

 男はそう言われるたびに自分の不真面目さや計画性の無さを責め立てられているような気がして、曖昧な反応で煙に巻こうとしたが、女はそれを許さなかった。

「一人暮らしなんでしょ?」

彼らが話し始めて一ヶ月ほどが経過した時だ。二人は教習所の待合室のソファに腰掛け話していた。

「はい、そうです」

「まあ売れない芸人とかバンドマンって柄じゃなさそうだし、苦学生ってとこ?」

 女はペットボトルのミネラルウォーターを口に含みながら言った。

「そうかもしれないですね」

「でも、あれでしょ。地方から出てきたわけじゃないんじゃない?」

「……」

「ありゃ図星か。そこまで当たっちゃうとはね」

「それもまた『イメージ』ってやつですか?」

「そうそう。君の感じはなんとなく地方っぽくないかなって。でもただそれだけ」

「じゃあ運よく当たっていた、と」

「まあねえ」ふふっと、そのひとは微笑んだ。「でも、私のイメージが間違ってたとしても、何の損害も責任もないからね。ただの遊びだよ」

「へぇ」

「でも、君みたいなタイプはやっぱりもっといろんなこと想像してみるといいよ。イメージするだけで、世界は幾分か明るくなるよ」


 ふと意識が現実に引き戻されたのは、カバンのスマホが震えていたからだ。

 空いている路肩を見つけて車を一時停止させる。思った通り、少女からの電話だった。

「もしもし」

「あーもしもし。車見つかった?」

「うん、なんとかな」

「そっか、よかった。ありがと」

「それで?」

「そうそう。私も準備できたから迎えに来てほしくてさ」

「場所は?」

「地下鉄の丸太町駅の近くなんだけど分かる?」

「調べて行ってみるよ」

「はい、ありがとう」

 男が車を十分ほど走らせると、ちょうど歩道の脇で待つ少女を見かけた。その付近に車を停める。少女は髪をロングツインテールにしていた。

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