Fiction 3.1 京都市左京区
男と横並びに歩いている少女は、両手を自分の口元に持っていき、吐息を吹きかけていた。
京都は盆地で、夏は暑く冬は寒い、とは幾度となく繰り返し言われてきたことだが、彼女もその時その身をもって京都の冬を理解した。すでに朝の十時を過ぎているというのに空は薄暗い。一面に垂れ込んだどんよりとした濃い雲はすぐに雪を降らしかねないほどだった。
「やっぱ寒い」少女は両手を顔の前でこすり合わせていた。
男は隣の少女の様子を傍目に確認して話しかけた。
「そうだな。手、大丈夫か?」
「うん、でもさすがに寒いね。手袋とか持ってくればよかったな……」
「なら百均の安い手袋を買おうか。コンビニでカイロを買ってもいいし」
二人は大阪梅田から阪急電車、京阪電車、叡山電鉄を乗り継いで、修学院駅を出たところだった。少女は周りを見渡す。
「百均はなさそう。コンビニはあそこに……」
この日の少女はその艶やかな黒の地毛を下ろしていた。つまりは、黒髪ロングだ。
「じゃあ、そこ寄って行こう」
少女が今回どのキャラをイメージしているのか、男は今朝ホテルのロビーで集合した時から考えてみていた。残念ながら、二人が行き先を事前に打ち合わせることはないので、彼には毎度その日なんのアニメの聖地を見にいくのか検討がつかないこともあった。これまでのように特徴的なヘアスタイルをしてくれれば察しもつくが、このようにザ・普通な髪型をされると推測も叶わない。
だが、目的地が京都だとわかった頃には、彼のとりとめのないな妄想は収束した。近くのコンビニへと向かいながら、男はその答えをぼんやり確認しようと少女に問いかけた。
「もしかして、今日はここだけじゃなかったりするんじゃないか?」
「……。その心は?」
「俺が今日の目的と予想する作品の聖地は大きく二ヶ所に点在しているからだ」
「ふぅん……」少女は赤くなりそうな鼻を丸めた左手でかいた。
「そして、俺の記憶が正しければ、それはここ京都と滋賀県のどこかだったはず」
「——まあ正解ね」少女はさも重要ではないことの確認を済ませたような顔をしている。「ああ、ここコンビニね」
車道側を歩いていた男から半歩先に歩道沿いのコンビニの自動ドアを少女はくぐった。男は自分の推測が当たったことに満足した。こうなった時のため用意していたある提案を少女に持ちかける。
「てことでさ」
その提案は彼が少女と出会い、彼女の人となりを多少は把握してから、密かに心の隅で暖めてきていたものだった。
「今日は俺のリクエストに応えたりしてくれないか」
「どういうこと?」少女は狭いコンビニの店内を巡り、カイロを探していた。視線は物の多い陳列棚に向けられたままだった。
「今日の目的は『けいおん』だろ?」
「……まあね」
「そして、今日のキャラはみおちゃん、だよな?」
「……」少女は照れたのか、長い黒髪を左手で触れた。
「そこで、なんだが——ぜひここは、あずにゃんで行ってくれないか?」
「へ?」少女はここでようやく視線を男に合わせた。「なんで?」
「なんでって言われると困るんだが……。まあ、その、一つの趣味だ」男は人差し指を一本立てて、前へ出した。
少女は視線を軽く上げて一瞬考える。
「……まあいっか。ヘアゴムでくくるだけだしね」
男は大きく頷いた。少女に何かをお願いしたのは初めてだった。
少女はそのうちにカイロを見つけ、レジで会計を済ませた。続けて男は気を利かせてホット飲料を少女の分も合わせて買った。
男が店を出てそれを少女に渡してやると、少女は意外そうな顔をして受け取った。そのお返しとしてではないが、軽く頭を下げた後、「でもさ、セットするのもちゃんとやりたいし、とりあえず京都はこのままで行く」と言った。
京都の中心部から少し離れ、戸建てや低層のマンションが立ち並ぶ住宅街となっている一乗寺駅周辺に彼らはやってきた。見た目は一見普通の街だが、高野川の風情や、たまに残る長屋の雰囲気などが住宅街の中にも京都らしさを醸し出している。
「せっかくならレフティのベースも持てるといいのにな」
男がスマホを片手に歩いている少女に話しかけた。
「まあそりゃね。黒髪を下ろしてるだけじゃいつもの私とあんま変わんないしね」
「まあみんながみんな、キャラデザだけでキャラを立たせているわけではない、か」
「そうだね。——なんなら、ちょっとボーイッシュな喋り方でもしてみようか?」少女は口を緩めて男を見た。
男からリクエストをもらったのもあながちまんざらでもなかったような、そんな雰囲気を少女は発していた。
そんな少女の挑発的な仕草に、彼は落ち着きを促す。
「いやあ、いいよ。不自然になりそうだ」
「じゃあやっぱベース?」少女はまだ畳み掛ける。そこには多少男を扇情しようとする悪戯気があった。
そんな年相応の彼女を見て、男は気を緩めてしまった。少しくらい少女のおままごとに付き合ってみるか、と。
「ベースをかき鳴らせるなら俺が買ってやってもいい」
「いつ?」
「この場で」
「え、ほんと? じゃあ早速、楽器屋行こうか。やっぱ、GibsonとかFENDERがいいかな……」
「え、うそだろ。まじで弾けちゃうのか?」
「逆に弾けないと思ったの?」
「うん。万に一つでギターは弾けても、まさかベースを弾けるとは」
「まあ、弾けないけど」
男は文字通り閉口した。そして、流し目に隣を行く少女の姿を眺めた。くつくつ、と笑っている。男をいいようにからかえて十分満足したようだ。
男は雰囲気を一旦区切ろうと、咳払いをした。そして、次の話題を提供する。
「ここらへん、全体的になんとなく見覚えがある気がするな」
少女は再びスマホに視線を落としながらゆっくり歩いていた。今や男がほとんど隣を歩いていた。
「さすが京アニってところじゃない? 多分一つ一つの背景がちゃんとロケハンどおりになっているんでしょう」
「でも前みたいに、学校とかメインのスポットがないとやりにくいところだな」
「そうね、でもそれで言うと、滋賀の学校の方をメインにすればいいのかもね」
「じゃあ、こっちは普通の聖地巡礼で済ませちゃってよさそうか?」
「うん、そう——あ、そこそこ!」
少女は前を指差した。そこには、何か寺社仏閣の類いの存在を示す石柱が立っていた。
「ん? あんな神社って出てきたっけ?」男は首を傾げる。
「ここ唯ちゃんの家だよ。その隣の普通の家のとこね。アニメではだいぶデフォルメされてるし、この家を模写してはないけど」
その説明を受けても男はまだピンと来ていなかった。
「ほらほら」そんな様子に少女はスマホの画面を彼に向けた。「これこれ」
そこにはちょうど同じ画角のアニメ画が映されていた。細部の違いを除けば、ほとんどこの風景が写し取られていることが分かる。
「あーほんとだ。これ、ほぼそのままじゃん」
そうして二人は京都市左京区に広がる『けいおん』の聖地を巡った。そのやり方はいたってシンプルで、アニメに登場する地点をできる限り押さえて回るというものだ。特段変わった能力は必要ない。要るのは偏在している目的地を愚直に回れる体力だ。それは少女が得意とし、男が不得手とすることだった。
二時間ほど少女の気の向くに任せて歩いていた結果、男は自分の両足に痛みを感じ出した。
運よくちょうどその時辿り着いたのが、劇中で登場するファストフード店だった。外観を見ただけで満足そうな少女に、男はせっかくだからと中に入ることを提案した。
「せっかくもなにも、どうせまた疲れたんでしょ?」
少女は澄ました顔をしている男の痛いところを的確についた。
男は苦笑いをするしかない。心の中では彼女に対する親しみと不満の両方を同時に覚えた。
「でもこれで分かったよ。きらら作品と他の違い」男は注文口への人の列へ近づきながら言った。今度は少女が男の後を追ってきた。
「と言うと?」
「今の言葉、みおちゃんのセリフっぽいけど、相手が俺みたいに男だとなんかツンケンしてる感じが異常に増すんだな。中途半端に男が出てくると、これじゃない感がある、ってところだろ」
男はセリフの内容の割にいたって真剣な顔をしていたが、少女はそれをある種の軽口だと受け取った。
「ふぅん。——じゃあ、今回の場合はあなたには女装してもらわないといけないかもね」
「いやいや」
「でも、あなたの能力を使えば、本当の意味での女装は必要ないんじゃない? コスパが良くていいことね」
男はまたもや苦笑いをするほかなかった。「冗談だよな?」
「はは」少女は乾いた笑いを漏らした。「それとさ、これは本当のお願いなんだけど、滋賀にはここから車を借りていくのはどう? 運転免許は持ってる?」
「ああ、持ってる」
「じゃあ、いいかな?」
「ダメってことはないな。飛び入りで車が借りられるのかってところが問題だろうけど」
「そこの手配もお願いしていい? そのかわり、私はその間に今度はあずにゃん風にセットしてくるからさ」
「分かったよ」
そうしているうちに、彼らの注文の番がやってきた。
【en hommage à『けいおん!』par かきふらい】
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