Reality I 大阪市北区

やっぱりさ、明日も付き合ってくれたり、しない?」

 少女は手狭な二人席にこじんまりと座っていた。カウンターに商品を取りに行った男はその対面に座る。

 大阪・梅田の繁華街の一角にあるマクドナルド。週末の夜九時を回り、余りある時間を潰さんとする若者たちが店に溢れていた。

「え、でももう夜行バス取っちゃてるんだけど」

 せせこましい二人席が窮屈に感じ出して身をよじっていた男は、少女の突然の提案に一瞬止まり、目を数回瞬いた。

男はちらっとスマホに目をやり、現在時刻を確認した。

「もう二時間もしないうちに出発するんだけど」

「まあ、そうだろうね」少女は軽く頷く。

「——それに宿もないし」

 男はぽつりとつぶやいた。ただその声音に彼女の提案を拒絶したいという意図はひとかけらも含まれていなかった。むしろ、申し訳なく思っている様子だった。

「そうね」少女は素直に男の言い分を認めた。

 少女は突然突拍子もないお願いを打ち明けた割には、執着心というものを見せなかった。

 その少女の様子に言い知れない物寂しさの一端を感じ取った男は、心をむず痒くするような二人の間の沈黙を埋めるために言い訳を重ねた。

「宿なんて今から取ればいいと思うかもしれんが、俺の心許ない財布ではそれも難しいな」

「……でしょうね」

「……」

 男はそこで黙った。結局は気概の問題なのかもしれない、と彼自身は気づいていた。

 彼らの沈黙は、周りの若者たちのざわめきにかき消される。

 すると、

「——それで泊まれない理由は終わり?」と、それまで静かに男の表情を見据えていた彼女が口を開いた。

「——」男は無言で頷いた。

 定職に就かない彼には、差し迫った予定などほとんどない。

「もちろん出すよ、私が。宿泊代も交通費も。あとはバスのキャンセル代?」

 いや、それは……、と男は言いかけた。しかし、その言葉は紡がれず、彼女の「それならどう?」という追い討ちが先手を取った。

 彼女の問いかけに本心から答えるなら、問題はない、むしろありがたい、というのがそれにあたる。その日暮らしで生きる男にとって、タダで自分の知らない街で過ごせることは僥倖だ。

 ただ、少女にお金を出してもらうことには多少の引っかかりがあった。だが、その感覚がどこから来ているのかは彼自身よくわからなかった。

ついぞ断る理由を見つけられなかった男はコクリと頷いた。「うん、まあそれなら」

「よし」少女はほんの少しばかり口角を上げた。「じゃあ、もう出よう」

 少女はササっと荷物をまとめて、雑然としたファストフード店をすり抜け、繁華街へと足を踏み出した。

「宿はさ、とりあえず横になれて硬くないベッドがあればいいよね?」

 少女が煌びやかな街を歩きながら確認してきた。行き先に当てはあるらしく、その歩みに迷いはない。

「そうだな」

 ここに至って贅沢を望んでいるわけではない男は特に不満も見せずに同意した。

「それにしても、そういうホテルに当てがあるんだな。詳しいのか?」

 むしろ男はそこを不思議に感じた。安宿でもなんでもホテルを探すとして、少女がネットを使う気配もなく、案内も見ずに自力で街を歩き始めたのが唐突に思われたのだった。

「そりゃ大阪なんだから、ホテルは無限にあるわよ! ただ今日は土曜だから飛び入りで入れるかは問題だね……」

 俺なら東京だったとしても、ネットも使わず急に人一人をどこかの宿に当てがえるとは思わないな、と男は思った。

「あ、そっか」少女はふっと歩みを止める。「なら、うちのホテルの空き部屋でいいじゃん」

 そして、彼女は踵を返し、反対方向へ同じスピードで戻っていく。

「えでも、それって結構お高いんじゃ?」

自由自在に街を巡る少女に、男は半歩後ろでついていった。

「普通よりはちょっと高いかもね。でも、いいよ。手間取るくらいなら。早く休みたいだろうし」

「……そうなのか。それに、飛び入りなんて断られそうだ」

「そこも大丈夫。空き部屋っていうのはホテルビジネスにとっての天敵なわけだし。充足率っていうのかな、そういうのが大事で、事前に予約が入ってないなら多少割り引いてでも飛び入りの人にお金を払ってほしいんだよ」少女はそんな説明を饒舌に加えた。

「へえ。……詳しいんだな」と、男は少女の知識に感心した。

「まあね」

 男はこれまで少女と付き合ってきて、彼女がかなり博学であることを知っていた。時たま飛び出す彼女の様々な事柄についての背景知識の豊かさは、学校の優等生というよりも自分の興味を追求する知的好奇心の強いタイプを連想させるようだった。

 歩くこと十分弱にして、二人は目的地に到着した。

 男は首をかなり急角度で上に傾けて、そのホテルの外観を見極めた。

「いや、めっちゃ高層ビルじゃん。これ、本当、高いんじゃないか?」

「大丈夫だって。フロントに聞いてみれば問題ないはず」

男の至極真っ当な懸念は取り合わず、少女は確かな足取りでそのビルへと入っていった。

 男もそれに続いて、ビルへ入る。入った瞬間、ふわっと鼻をくすぐる独特な甘酸っぱい匂いを彼は感じ取った。それが外と内を切り分けるサインなのだろう。非日常を感じさせながらも落ち着いている上質なホテルの香りがした。

次に彼は入った広間を見渡した。その広間には落ち着いた色味の絨毯が敷かれ、木張りの天井には細かい装飾が施されていた。しかし、見渡す限りフロントのようなものは見つからない。かわりにあったのは、かなり高い階まで通じるエスカレーターだった。

 少女は真っ直ぐ進んで、迷いなくそのエスカレーターへと乗った。

「ここに泊まってるんだよな?」男はエスカレーターの一段下から少女に問うた。一段下とはいえ、まだ男の方が多少背は高い。

「うん、そうよ」少女は男がいる後ろへと顔を向けた。

「直江津の時とはレベルが違うな」

 男は頭の中で二つのホテルのイメージを比べる。直江津へ行った時も、彼は少女の泊まるホテルを訪れてはいたのだ。

「さすが大都市って感じでしょ?」

「だな」

「まあ、これが手放しで良いとは思わないけどね」

彼女は、やれやれという表情で首をすくめた。高級な雰囲気では気が休まらず、肩が凝るというジェスチャーなのだろう、と男は理解する。

「にしても、君は本当に何者なんだ?」男は何気なくそんな質問を口にした。徐々に上昇していく途中でエスカレーターからその豪勢なホテルの四方八方を見通せるようになっていた時だった。

「そういうのはまだナシ」

静かにそう答えた少女は人差し指を口の前へと持ってきた。ナイショ、のサインだ。

「まだ?」と男は思ったが、内心にとどめ、口には出さなかった。

エスカレーターで目的の階へと辿り着くと、その目の前にフロントが構えていた。全体的に薄暗い雰囲気の中、フロントだけがシックなダウンライトに照らされていた。

先に降りた少女は男に、「そこで少し待っていて」と脇のソファを指さして言った。そして、前を向き彼女はフロントへとゆっくりと近づいていった。

「すみません」

「はい、何か御用でしょうか」

 フロントスタッフの壮年男性は彼女の接近に応じて恭しい態度をすでに作り上げていた。

「今晩まだ空いているお部屋はあったりしますか?」

「ご予約はなされていない、ということでしょうか」

「ええ、そうね」

「ただいまお調べいたしますので、しばらくお待ちください」

 スタッフは手元のキーボードを叩いた。

 フロントから見て、左手後方の壁寄りのソファに座った男はフロントに立つ少女の姿を見ていた。そして、ちらっと自分の今の身なりにも目を遣る。

 少女は今朝から華やかな黄色のブラウスに紺のコーデュロイのスカート、それに良い生地のロングコートを着ていた。朝待ち合わせの時や日中歩き回っている時は、あまりにフォーマルで洒落込んだ服装だなと思っていたものだが、彼女が元来こういう場所、雰囲気に属しているのだとすれば納得する。

 一方の男はと言えば、機能性重視の格好しかしていなかった。今どき、高級ホテルにだってそういう服装の人はいるだろうが、気質としてはやはりそこに馴染んでいるとは言い難かった。

「お客様。お調べいたしましたが、本日、今からお部屋をご用意することは難しいかと……」

 スタッフはフロントデスクの内に隠してあるPC画面を覗きながら、少女に告げた。そのホテルのグレードにしては歳の若い彼女の願いを真面目に取り合っていないためか、彼は渋い顔を作り、左腕に巻くスマートウォッチを気にする仕草を見せた。

「そうね……」少女はスタッフの反応を踏まえて、少しばかり逡巡する。そして、決断した。「あの、ごめんなさいね。私、2001号室に泊まっている者なんだけれど、それでどうでしょう? あとこれ」

少女はスッと財布から黒いカードを取って、カウンターにのせる。

「はい?」瞬時の混乱を隠しきれなかったスタッフは、数秒ののち、再びPC画面へと目を落とした。「——大変失礼いたしました。2001号室ヤマノ様ですね……」


 数分間のフロントスタッフとの応答の後、少女はソファに座る男の方へと歩いてきた。男はぼうっとその姿を眺めている。彼の意識のはっきりせぬ間に彼女は男のそばへと近寄る。彼は自然、彼女を見上げることになる。

「ほら、用意したわ」

 スッと彼女は左手を開いて、彼にカードキーらしきものの束を差し出した。

「ありがとう」

 先に充足率云々の話を聞かされていた男は少女が首尾よく部屋を取ってきたことに疑問を感じなかった。素直にキーを受け取り、その場で立ち上がった。「じゃあ、ありがたく使わせてもらおう」

「そうね」

 二人は揃ってエレベーターホールへと向かう。まもなく到着したエレベーターに二人で乗りこむと、男がキーを確認しようとモタついている間に、少女は十二階と二十階のボタンを押した。

「あなたの部屋は十二階だから」

 その声を聞き取り、男は自分の両手の動きを止めた。「そうか、ありがとう」

 そして二人はしばし無言のままエレベーターの上昇をやり過ごした。十二階に到着する直前、男は「明日何時までに準備すればいい?」と聞いた。

 少女はそれに「……それはまた連絡するわ」と答えた。

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