2

「まーたやらかした……」

 明け方。目を覚ました祐介は頭を抱えた。

 結局、何もかも戻してしまった。おかげでかなり楽になったが、達樹にいろいろ迷惑をかけた。もう二度と酒なんて飲まない――とこうなる度に思うのだが、次の飲み会になるとケロっと忘れてしまう。人間なんてそんなものだ。

 ゆっくりと体を起こすと、黒無地のTシャツが目に入る。着替えが必要だったらカゴに入っているからね、と言われて適当に借りたものだ。達樹曰くこのTシャツは部屋着らしいが、一緒に入っていた他の服は無難とは言い難いものばかりで、着るには抵抗があった。

 そういえば、達樹はどうしたのだろう。見回すと、ビーズクッションに体を預けて眠っている。あどけない顔ですやすやと寝息を立てながら黒いジャージ姿で丸まっており、まるで大きな黒猫のようだ。

 すっかり見慣れた光景だが、初めて泊まった時はなかなか衝撃だった。大学で時々すれ違うだけの彼に、優しくて穏やかなイメージはまったくなかったのである。


 学内での五十嵐達樹は、近寄りがたい雰囲気を常にまとっていた。ツーブロックにした黒髪に、シルバーのピアス。どこで買ってきたんだ、と言いたくなるような派手なシャツに、ゴツめのアクセサリーを合わせたファッション。どこのグループにも属さず、独りでいるところしか見たことがない。彼と話したことのある者によると、物腰は柔らかいのだが、それがまた得体の知れないものを感じさせて怖いらしい。

 祐介は、ひょんなことから彼と関わりを持ってしまった。

 先月だか先々月だか忘れたが、今日と同じように遊び疲れて終電を逃した春の夜。歩いて帰るには遠すぎる、だがタクシーを呼べるほどの持ち合わせはない。途方に暮れていたとき、泥酔した先輩がとある知人を紹介してくれた。何らかの理由で家に帰れなくなった学生を無条件で泊めてくれる、お人好しの先輩がいるらしい。ところが、教えてもらった部屋に行ってみると別人が住んでいた。五十嵐達樹である。

「それ、前の住人だよ。留年を繰り返しすぎて退学になったんだって」

 親切に教えてくれた彼は、学内で見かけるいかつい恰好の一匹狼ではなかった。ゆるっとした黒い無地のジャージ。キャラ物のクリップで留められた前髪。あらわになっている、優しげなタレ目が印象的だ。いつもの服装で覚えていた祐介は、名乗られるまで誰だかわからなかった。

 突然の来訪者、それも真夜中に泊めてもらおうと押しかけてきた人間に対して、彼は妙に優しかった。

「行くとこないんでしょ? いいよ、ここにいても」

 何か裏があるのでは、と疑う気持ちがなかったら嘘になる。だが、他に頼れるアテも、それを探す気力もなかった祐介は、お言葉に甘えることにした。

 それが、二人の出会いだった。


「その……ホントにいいのか? いや、助かるけど。迷惑じゃ……」

 祐介はお菓子とコーラが入ったコンビニ袋を差し出しながら訊く。達樹はそれを受け取り、笑顔で答えた。

「ないよ。だって、前の住人を訪ねてきた人は君が初めてだから。ちょっと話してみたくなって」

「なんだそれ」

 祐介もつられて笑う。迷惑じゃないならよかった。それどころか、この状況を面白がられている。

 リビングらしきこの部屋は、可動式の壁で洋室とダイニングを繋げているだけで、本来は2DKのようだ。廊下の奥にあるもうひとつの部屋は寝室だろうか。一人暮らしにしては余裕がある広さなので、一人くらいなら気まぐれに泊めてしまっても大丈夫なのだろう。

「お、これは」

 コンビニの袋を漁っていた達樹が、ポテトチップスを見つけて嬉しそうな声をあげた。

「トリプルコンソメ! これ、好きなんだよね」

 ダブルコンソメ以上に濃い味が特徴で、一部のコンビニにしか置いていない幻のポテトチップス。

「オレ、食べたことねーや」

「食べてみて。ハマるから」

 達樹は袋を開封し、紙ナプキンを敷いたバスケットに盛り付ける。ジャガイモ本来の色なんてわからないほどの鮮やかなオレンジ色だ。

「こんな夜中にポテチとコーラって、背徳感すごくてワクワクするよね」

 コーラをグラスに注ぎながら、達樹が楽しそうに言う。その横顔は、少年のようにきらきらしていた。

「五十嵐くんって、意外と子どもっぽいんだな」

「そう?」

 祐介はポテトチップスを一枚つまんで口に運んだ。強いコンソメの風味が口いっぱいに広がる。旨味の塊とでもいうべき濃さだ。咀嚼しているうちに感じられる芋の味と触感が、申し訳程度のポテチらしさを添えている。一枚で十分かと思いきや、不思議と手が伸びてしまう。

「なにこれ、めちゃウマなんだけど」

「でしょ? これに慣れると普通のコンソメじゃ満足できないんだよね」

 なるほど、悪魔の食べ物だ。

「これ、酒にも合いそう」

「お酒かぁ、飲んだことないや。成人するまで飲まないって決めてるから」

「え、意外なんだけど」

 目をぱちくりさせる祐介。

「大学生にもなって飲んだことないって珍しいな。下戸か?」

「いや? 両親はザルだし俺も強い方だと思う」

 確かに、どれだけ飲んでも顔色が変わらないイメージがある。実際は飲んでみないとわからないものだが。

「暁くんは? 強いの?」

「……飲めるけど、強くはない。てか、弱い。オレさぁ、カシオレ一杯で真っ赤になったの。今日」

 お酒の味は好きなのに、肝臓が受け付けてくれない。居酒屋の薄いカクテル一杯でほんのり顔が赤くなる。短時間で二杯、三杯と飲めば、たちまち酔いが回ってべろべろになってしまう。

「体質でしょ、気にすることないよ」

 お酒を飲まないほうが楽しめるかもよ、ともっともらしいことを言う達樹。祐介は首を振った。

「だって悔しくない? 自分だけシラフで飲兵衛の輪に入ってくの」

「そうかな」

「酔ってフワフワした頭で、適当に騒ぐのが楽しいのに。それができないって」

 昨夜は良心のある先輩がカシオレ一杯で止めてくれたのはよかった。おかげで自分の足で帰る……ことはできなかったが、ここにたどり着くことができた。

だが、「意外」「かわいい」と思いっきり笑われてしまったのが悔しくもある。眠気に負けてからは「大丈夫?」「そっとしておこう」なんてよしよしされてしまい、なんだか自分が幼い子どものように感じた。

「飲み続けているうちに強くなれるかなぁ」

 そんなことないと頭ではわかっている。でも、上手に嗜める『大人』になりたい。

 へらへらと笑う祐介を、達樹は生暖かい目で見ている。やがて、軽くため息をついてから口を開いた。

「……また困ったらおいで。週末の夜ならいつもいるから」

 再び同じようなことをやらかしそうだと思われたに違いない。祐介にとって、あまりに都合が良すぎる申し出だった。

「いいの?」

 達樹は大きなタレ目を細めてうなずいた。

「暇だから。話し相手にでもなってくれたら嬉しいな」

「そのくらいならお安い御用だ」

 もっと話してみたい。そう思ったのは祐介も同じだ。ここにきてから三分に一回くらいは「こいつ、こんな奴だったの?」と思っている。大学での近寄りがたい外見と雰囲気はなんだったのだろう。優しくて穏やかな好青年じゃないか。

 奇妙な出会いだったが、このまま逃すには惜しいと感じた。

「そういや、なんで成人するまで飲まないの?」

 聞きそびれていたことを訊くと、達樹はニコッと笑った。

「オトナの楽しみは、そのときまでとっておきたいから」


 それ以来、遊び疲れた夜はここに泊まっていく。朝まで愚痴を聞いてもらうこともあれば、お菓子を食べながら映画を観ることもある。泥酔して床で寝てしまい、ソファまで運んでもらったこともあった。それでも追い出さずに「またきてね」と言ってくれる達樹に、祐介は完全に甘えていた。大学では相変わらず没交渉だし、他の場所で会う機会もない。

「オレ、よく考えたら五十嵐くんのことよく知らないかも」

 無邪気な寝顔を晒している達樹を見て、ふと思った。この男のあらゆるギャップはどこからきているのだろう。友達ですらない何かの祐介に、知る資格はあるのだろうか。しかし、初めてここを訪れた夜、彼は確かに言ったのだ。話し相手になってほしい、と。深い意味はないのかもしれないが。

――でも、少しくらいなら訊いてみても許されるよな?

「いつもありがとう、五十嵐くん」

 起こさないよう、呟くように礼を述べてから、そっとリビングを抜け出す。

 そろそろ始発の時間だ。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る