第一章『??の鍵』⑩
ナルは、目の前の光景がとても現実だとは思えなかった。
はちみつミルクの香りに誘われてやって来た場所には、小さな東屋があった。
それだけであったら、ナルはそこをただ通り過ぎるばかりである。
しかし、そこにはいたのだ。
木造のベンチに寝そべり、目を閉じ、静かな寝息を立てている、女神のような女が。
「ビアンカ先っ……」
思わず声が出そうになり、ナルは自分の口を両手で押える。
ただの東屋だというのに、眠るビアンカの姿がそこにあると、一枚の絵画を眺めていると錯覚してしまうほどに出来すぎなシーンが完成していた。
ナルは忍び足になり、そっとビアンカに近づく。
顔を覗き込むと、心臓が飛び出そうなほどに跳ね回った。
長すぎる睫毛はやはり金色であった。すっと通った鼻筋も、色素の薄い唇も、何もかもが繊細そうで、衝動的にとはいえその顔を殴ったナルは、取り返しのつかないことをしてしまった気分に駆られる。
ナルは、しばらくその顔を眺めつづけた。
周りには木々のざわめく音しかしない。昼間、この女とあれだけの人数に囲まれていたことが嘘のように。
ナルは、この世界でビアンカと二人きりであるかのような錯覚に陥った。
「……さま……」
そのとき、ビアンカの口元が、少しだけ動いた。
ナルは耳に手を添え、ビアンカの声を拾おうとする。
「……おかあさま……」
ビアンカは、消え入りそうな声で、しかし確かにそう言った。
そして、一粒の涙が、ナルが叩いた頬の上をゆっくりと伝っていった。
その瞬間――ナルは、自分の、心の奥底の方で、何かが爆ぜたような気がした。
ビアンカの前で居直ると、軽く拳を握って人差し指をゆるりと伸ばす。
自分でも、何故そうするのかさっぱり理解できない。
唯一頭によぎるのは、自身が幼い頃に母親と過ごした、幸福なひと時だけだった。
さぁもう泣かないで。その涙をママが食べてしまいましょうね。
ビアンカの涙は、人間と同じでしょっぱかった。
舌の上でビアンカの涙の味を感じるのに精いっぱいであったナルは、脳天を貫くか雷のような衝撃に対して完全に無防備であった。
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