第一章『??の鍵』⑦
桃鎮似学園に在籍するのは全国から選りすぐった令嬢と、ごく僅かな超成績優秀な少女のみである。そんな限定的な人数を囲うのに、こんなにだだっ広い土地がいるのだろうか。
ひとしきり案内が終わったところで、すっかりヘトヘトになったナルはそう思った。
「そろそろカフェに行くぅ?」
ナルの顔色を察したのか、じゅりあはそう提案した。じゅりあはこれだけ歩き回ったのに涼しい顔をしている。
「うん、ちょっと休憩したいな……」
少し前から、にわかに周囲が騒がしい気がした。
それまでまばらにしか見かけなかった生徒たちの数が、明らかに増え始めている。歩けば歩くほどに、生徒の数は増え続ける。
ハッと見渡せば、立っている場所が小規模な人込み程度にはなっていた。
ナルは貧乏のせいで遊園地やパンケーキ屋といった行列に並んだことはなかった。よって、人込みには慣れていないのだ。
「うぅ……疲れた……一体みんな、なんだってこんなに集まって……」
「ああ」
じゅりあはナルに背を向けて、ぼつりと言った。
「ビアンカ様……ビアンカ先生よ」
「ビアンカ先生?」
鍵姫とかいうおとぎ話の次は、今度は謎の外国人である。
「それはどういう人なの?」
「説明が難しいわ……」
じゅりあが首を捻った、その瞬間だった。
「ビアンカ先生……一言で言えば、この学園の女王たる御方です!!」
それは、耳元で爆発が起きたかのような声量だった。
「ぎぇっ」
鼓膜が破れたかと思ってナルは両耳を押えた。
わんわんと頭が揺れているが、なんとか聴覚は無事なようで、ナルはこわごわと耳を解放する。
「初めまして、あなたが今日この学園に編入してきた篠宮ナルさんですね!!」
それを狙ったかのように巨大な声量を叩きつけられ、ナルは一瞬意識が遠くなった。
「あら、
じゅりあは目の前に突如現れた爆音の君に、変わらぬ調子で話しかけた。
ナルが著しいダメージを受けたにも関わらず、じゅりあはのほほんとしている。見た目によらぬ体力と言い、じゅりあは意外性の塊である。
「も、素子さん?」
「そう、
じゅりあに紹介されたその生徒は、満面の笑みを浮かべて両足を大きく開き、腰に手を当てていた。
きっちりと結ったおさげに細いフレームの眼鏡、いかにもな文学少女……と言った外見だが、その瞳は驚くほど力強い。目力だけで圧倒されそうだ、
そして、胸元にはやはり鍵を提げていた。エンブレムは……巻物だろうか?
「学年主席の、とっても賢い子なのぉ~。なにせ、難関の特待生枠で入学した子よぉ」
つまり、ナルと同じ庶民出の生徒である――ああ、そりゃそうだよな、とナルは納得する。こんな怪獣みたいな声のお嬢がいてたまるか。
「そ、そう。よろしく。か……篠宮ナルです」
「こちらこそよろしくお願いしますわ!」
耳がきんきんしそうなその声を、ナルは歯を食いしばって耐える。
じゅりあと心を通わせたばかりだというのに、今度は爆音眼鏡の登場である。
「素子さんがここにいるってことは~……やっぱりビアンカファンクラブの集会なのぉ?」
「ふふ、さすがじゅりあさん。九割五分は正解ですわ」
愛なき女王、臆病者の王、鍵姫、ビアンカ先生。
これ以上どんなお嬢様ローカルワードが来ても持ちこたえてみせると心に決めていたナルの耳に、またトンチキな単語が刺さった。
「び……ビアンカファンクラブだぁ?」
素子は誇らしげに胸を張った。
「はい、ビアンカファンクラブです! あ、あくまでこの名称はカッコカリです。ビアンカ先生の高貴さに見合う名称を募集中でしてよ」
「そ……その……ビアンカ先生とやらにはファンクラブがあるの?」
謎の外国人、ビアンカ先生。
そのビアンカ先生とやらが、広大な学園内の敷地において局所的に生徒を集める台風の目らしい。
ナルはこの学園に慣れたいと思ったばかりだったが、さすがに異文化すぎて嫌気が差した。
ナルの前の学校にも、やたら女子にもてはやされた若い教師がいるにはいた。
しかし、さすが女子校! しかも、全寮制の名門校! 芸能界でもないのにファンクラブまであるとは!
ナルはほんの少し頭が痛くなり、癒しを求めてじゅりあの傍に寄った。
「もぉっちろんです! そして 私はファンクラブ会長! 本日はビアンカ先生の素晴らしさを啓もうすべく、これから編入生たるあなたを探しに行く予定だったのです!」
素子は小脇に抱えたカバンから一枚のパンフレットを取り出し、有無を言わせずナルの手に押しつける。
ナルは、学生が個人作成したにしてはあまりにもクオリティの高いパンフレットを見下ろす。
表紙にはおそらく相当に美化されているであろうビアンカ先生とやらのイラストが載っていた。
「あ~じゃあやっぱりビアンカ先生がすぐ近くにいるのね~」
「ええ! こちらに移動してきていると会員から情報が回ってきていますわ!」
移動してきている……ということは、この人込みはビアンカの意思でできたものではなく、周囲にファンクラブを名乗る生徒たちが勝手に集まって出来ているらしい。
「ナル~、じゅりあ達はもうお邪魔しましょうか? じゅりあ達はここに用はないでしょう~?」
ナルは強めに頷く。桃鎮似学園で初めてできた友達が話の分かる人間で本当に良かった、と胸を撫で下ろした。
「……早々に集会を解散してもらおうか、十川」
しかしそうは問屋が卸さない。運命とは残酷である。
ナルの耳に、軍靴のような音が近づいてきた。
ナルは素子のせいで本当に耳がイカレたのではないかと一瞬疑ったが、間違いなく地面を震わすかのように一糸乱れぬ隊列を組んだ一団が、ナルたちの元へまっすぐと向かってきていた。
先頭を歩くその生徒は、明らかに異彩を放っていた。
人込みを切るようにして現れた、腕章付きの一団。彼女らの登場で無理矢理脇に押しやられた少女は文句を言おうとしたのか口を開け、しかし腕章に目が釘付けになってみるみる顔を青く染める。
「ふ、風紀委員……」
細身の美少年にも見える短髪のその生徒は、素子の前で立ち止まる。
それまでビアンカ先生とやらを目当てに集まってキャッキャッとはしゃいでいた他の生徒たちが恐れおののき、辺りがしんと静まり返るなか、素子だけは調子を崩さずに優雅に振り返った。
「これはこれは
「それは皮肉か、十川? 貴様らファンクラブのおままごとのせいで我ら風紀委員は本来の職務を中断し、こうして解散命令を出すために委員長たる私自らが出動する事態になっているのだぞ」
「これはファンクラブ主体のイベントではなくってよ。ビアンカ先生に何度集会への誘致をしても無視されていると、あなたも知っているでしょう?」
「言い訳は結構」
「まぁ、言い訳ではないわ! まったくあなたときたら、どうしてファンクラブがちょっと集まって楽しんでいると首を突っ込みに来るのかしら。東条家の人間のくせに、正義を全うする者としての志が足りないのではなくて?」
「……貴様、私に対してよくもそんな口の利き方を……」
灯理は武人のような張りつめた迫力があり、一睨みされたらそれだけでたちまち逃げ出したくなってしまいそうなくらい恐ろしい。ナルが中学時代にメンチを切り合っていたハンパなヤンキーなど覇気だけで圧倒してしまいそうなほど物々しい少女だった。
しかし素子は、灯理と互いに視線も主張も譲らず、火花を飛ばし合っていた。
よく見れば、素子の周りに集まるファンクラブ会員と思しき生徒たちや、灯理と呼ばれた風紀委員長に率いられた生徒たちも、それぞれ嫌悪のオーラをぶつけ合っている。
「……あれが鬼の風紀委員長?」
ナルが小声でそう訊くと、じゅりあも小声で返した。
「そうよぉ。二年の
ナルはそれなりに危機管理ができるという自負を持っている人間なので、明らかにマズいものや妙なものには最初から近づかない。
だから、『鬼の風紀委員長』などとふざけたあだ名をつけられた先輩や、そのふざけた先輩とタイマンで口論をしているカルトファンクラブ会長などとは、半径50Mの円の中にすらいたくないのだ。
それが、編入初日でこの始末であった。
「あの方はきっと私共のことを愛してくださっています! 愛なき女王と臆病者の王へのリスペクトとして、学園へ赴任したその日から“鍵”を所持していたのがその証!」
灯理は無表情であった。
しかし、青筋が立ち、組んだ腕が小刻みに震えているのをナルは見逃していなかった。
お願いだから十川! これ以上その面倒くさそうな先輩を刺激しないで!
ナルは心の中で拳を握りしめて叫んだ。
灯理の視界には、明らかにナルやじゅりあも入っているのだ。
「……貴様、見ない顔だな」
恐れていた事態はナルの想像よりずっと早くやってきて、灯理はナルのことを目線だけで見下ろした。
ナルは、ひっと小さく息を飲む。
「あらー!? 形勢が悪くなったら今度は他の生徒にいちゃもんですの! 灯理様ったら相変わらずおこちゃまなんだからー! 」
素子は煽るあおる。ナルは素子を恨めしく思いながら頷いた。
「は、はい。今日一年に編入してきた、かと……篠宮ナルです」
「……ファンクラブには入るのか?」
「はい?」
あまりにも予想外なことを言われて、ナルは灯理の質問を理解するのに時間がかかった。
それが灯理の機嫌を余計に損ねたらしく、鋭い目つきがより細く、剣呑となる。
「ファンクラブに入るのか、と聞いている」
「入るに決まってますわよね、ナルさん?」
素子が勝手に返事をしたので、ナルは慌てて素子の口をふさいでもげそうなほどの勢いで首を横に振った。
「ははは、入りません! 自分、ビアンカファンクラブのこととかよく知らないんで!」
「…………」
灯理の目の奥が、暗雲が立ち込めるが如く黒々と濁る。
ナルは答えを間違ったのかと思った。しかし、これ以外の選択肢がどうしても浮かばない。
だって、どう見たってビアンカファンクラブと風紀委員ははちゃめちゃに仲が悪かったじゃないか!
「これだけは言っておく、篠宮ナル。私は正義を重んじる者。お前が風紀を乱さない限り、私はお前に干渉はしない……しかし」
灯理の底冷えするような声がナルの心臓を凍えさせる。
「…………十川素子には近づくな。絶対だ」
こいつ、さっきから言ってることメチャクチャだな!
ナルの率直な感想はそれであった。
先輩という存在の理不尽さはナルの短い人生でも痛いほど知るところだったが、理不尽を言うなりにせめて適切なコミュニケーションは取ってほしいものだ。
ナルの中で灯理の恐ろしさより混乱の方が先立ってしまい、素子の強烈なキャラと交わってもやもやいらいらとした塊が胸の中で急激に膨らんでいった。
「……あのねぇ、ナル」
じゅりあは少し遠慮がちにナルに耳打ちした。神妙な表情をしているので、ナルはそっと素子を解放してからじゅりあの方へさらに寄った。
「さっき、『鍵姫』の話したでしょう~?」
「ああ、あのおとぎ話の……それが今何の関係があるの?」
「おとぎ話じゃないわぁ。だってあの二人」
ナルとじゅりあは、
「あの二人、愛なき女王様に選ばれた、知恵の鍵姫と正義の鍵姫なんだものぉ」
ナルは皺の寄る眉間を指でおさえた。
だから取り巻きみたいな生徒がいるわけか! ただ組織の長だから、というわけではないんだ! ナルはカッカと湯気が出そうな頭で妙に納得してしまった。
と、言うことは……ナルは沸点の低い自分をなるべく抑え込みながら、恐るおそるじゅりあに尋ねた。
「じゃあ……こいつら、この学校のボス的な存在?」
じゅりあは猟犬のリーダーとそれに相対する猿山の姫を見比べ、首を縦に振った。
「限りなく近いかも~……」
「まぁ、この学園のボスはビアンカ先生でしてよ!」
蚊の鳴くような小さな声で密談していたナルとじゅりあの言葉を拾い上げ、素子は高らかに叫んだ。
「この学園に統治者はいない。だから正義の代行として我ら風紀委員にあらゆる権限が与えられているのだ」
灯理は負けじとカッと目を見開いて素子に言い返す。声量は素子に劣るが、極めてよく通り、極めて支配的な、他者を圧倒する声だ。
右から素子率いるビアンカファンクラブ、左から灯理率いる風紀委員に挟まれ、ナルはいよいよ歯ぎしりした。
胸に溜まったフラストレーションが血液にのって徐々に身体の先端まで運ばれていき、体温が急激に上がっていく。
ナルは、自分のおつむに自信がある方ではない。子供の頃から頭より手が動く方が、ずっとずっと早かった。じゅりあがいなかったら、今頃とっくに発奮していた。
まさにナルの手が獲物を求めて宙に上げられたそのととき――。
「……見つけた」
ふわり。
と、ヒートアップした生徒たちの熱気にそぐわない、甘い香りが漂った。
その女は、ナルを見て一言、そう言った。
素子と灯理の間を、まるでそこに人などいないように颯爽と通り抜け、ナルの前でぴたりと立ち止まる。
その間の障害となっていた生徒達は、まるで糸で操られたかのように、はたまた夢幻でも見ているかのように、ごく自然にその女の為に道を開けた。
ナルは、振り上げた手の行先を見失ったまま女を見上げる。
「で……」
でかっ!!!
ナルは寸でのところでその言葉を飲み込んだ。
その女は、ナルが首をぐいと上げなければ目を合わせることができないほどの高身長であった。それまでこの場の誰よりも大柄だった灯理を飛び越えてさらに大きい。
……が、その女の姿は、それどころではとどまらなかった。
ナルは、その女の容貌が一瞬にして目の奥、脳の中枢までに焼き付けられてしまった。
誰に説明されずともわかった。
これが、『ビアンカ先生』だ。
これはファンクラブができるのもうなずける。『美しい』という形容が陳腐にすら感じるほど、ビアンカという女は肉体の隅々までが完璧だった。
背中まで届く黄金の髪は獅子の毛並みの如く輝いていた。彫刻のように均整の取れたグラマラスな白い身体にはシンプルな漆黒のスーツが恐ろしいほど映え、神の至高の芸術品と呼んでも全く過言ではない顔立ちの上には、太陽を思わせる力強い二つの瞳がある。
ずっと目を合わせていると、立ち眩みにあったかのように足腰から力が抜けそうになった。
並大抵の人間であればビアンカの容貌の虜となってしまうだろうし、それが思春期の女子でともなると最早抗う手段などないに違いない。
「……御前だ」
ビアンカは、ぼそりと言う。
しかしその声には、素子のものとも、灯理のものとも異なる、人の心を軽妙に絡めとる不思議な魔力が宿っているような気がした。
事実、ナルはビアンカに圧倒され、うまく言葉が出てこなかった。
ビアンカはナルを見下ろす。ナルはビアンカを見上げる。
ビアンカとナルの様子を、周囲を取り囲む生徒達は固唾を飲んで見守っている。
ナルは、ひどく緊張した。
桃鎮似学園に来て、初めての感情であった。
今すぐこの場から逃げ出したくてたまらない。
早く、一秒でも早くこの女の目の届かないところへ逃げたい。
ずっと一緒にいると、頭がおかしくなってしまいそうなほどに、ビアンカという女は美しすぎた。
そんなワケノワカラナイ存在が何故目の前に立っているのか、本当にわからない――。
「……っまぁああ! ビアンカ先生!!」
緊迫した空気を躊躇なく引き裂いた素子の声量に、ナルは思わずずっこけそうになった。
「さすが私が育て上げたファンクラブ会員たち! 本当にここに現れたわ! なんと精度の高い情報でしょう!」
キラキラした瞳でビアンカを見上げる素子の横顔に、ナルは呆れながらもほんの少しだけ尊敬の念を覚えた。
すごい、すごいよアンタ。あの誰もが張り詰めた状況で、よくそのマイペース崩さないな!学年主席ともなると、ここまでの変わり者も出てくるのだろうか。
ビアンカはちらりと素子を見て、すぐにナルに視線を戻す。
「ビアンカ・サンドレッリ先生。あなたを中心に生徒達が非公式に集会を開いています。即刻ここから立ち退いていただけますか」
ビアンカはちらりと灯理を見て、またすぐにナルに視線を戻す。
知恵の鍵姫、正義の鍵姫という二大巨頭に挟まれて、ビアンカは至極平然としていた。
まるで、そこに自分とナル以外、誰もいないように振る舞っている。
そして。
「……はちみつミルクだ」
やおら屈みこみ、ナルの耳元でささやき――。
すん、とナルの匂いを吸い込んだ。
「!?」
周囲の生徒達が声にならない悲鳴を上げるのと、上げっぱなしで固まっていたナルの手が振り下ろされたのは、ほぼ同時だった。
金糸で編まれたカーテンが広がるようにして、ビアンカの長い髪が舞い上がる。
ナルは肩を上下させ、熱い空気が出入りする肺を感じながらビアンカを睨みつける。
「いきなり何すんだよテメー!!」
大きく見開かれたビアンカの目は、ナルの手に思いきり頬を殴られた衝撃で明後日の方向を向いていた。
ビアンカは無言である。
無言のまま、黄金の瞳がナルを探して彷徨っていた。
「……ナルさん! 何を!」
「篠宮、貴様……」
重なる素子と灯理の言葉に、ナルは急激に頭が冷え、それまでビアンカだけしか映っていなかった視界がぐいと広がった。
ビアンカファンクラブの生徒達が眉をひそめている。
風紀委員の生徒達が何やら隊列のようなものを形成し始めている。
素子が、灯理が、そしてじゅりあが、ナルという人間一点に視線を集めている。
ナルは、桃鎮似学園に不本意で編入した。
それでも、じゅりあのような心優しい、気の合う友達はたくさん欲しいと思っていたし、前の学校でそうであったように、なんというか、うまくやりたい、と願っていたのだ。
ナルは髪をぼりぼりと掻く。
心の中で、素子に負けないくらいの大声で、「あちゃー!」と叫んだ。
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