第一章『??の鍵』①

 ナルは、幸福の終焉を夢の中で追体験していた。



 いい子、いい子、かわいいナル。

 さぁもう泣かないで。その涙をママが食べてしまいましょうね。

 そうしたらニッコリ笑顔で、かわいいナルに戻りましょうね。



 ナルの母親は、幼い日のナルが癇癪を起して泣きわめくたびにそうやってなだめすかしてきた。

 子供心にトンチキなおまじないだと思っていたナルだったが、世界中で誰よりも大事な人に優しくそうささやきかけられるとまるで魔法のようにイライラがおさまってしまうので、結局何も言えないのであった。

 ナルは重たい瞼をこすり、車窓の外を流れていく木々にぼんやりと視線を移す。

 昨夜は、久しぶりに泣いた。

 泣いて、うんざりするほど涙を流して、母親の愛情たっぷりはちみつミルクをすすって、舌に広がる甘さにほんの少しホッとして、ようやくこの上ない絶望から這い上がった頃には、すっかり夜が明けていた。

 ナルは頬に手をあてる。

 朝日と共に、母親は涙を食べてくれた。

 ナルは、15歳にもなって、母親に涙を指ですくわれ、口に含まれることで、慰められた。そこまでして、ようやくナルの涙は枯れたのだった。

「よく寝てたね、ナルちゃん」

 最悪な気分に拍車をかける男に対して、ナルは無視を返す。

 昨日から一睡もしていなかったので、迎えの車に乗ったその瞬間ふかふかのソファに負けて一瞬で爆睡してしまったのが恥ずかしかったのもある。

「…………もうすぐ桃鎮似(とうちんに)学園だよ。髪と服を整えて、しゃんとしなさい」

 ナルの態度にわかりやすく傷ついたらしく、男の声色は若干濁っていた。

 ふん、いい気味だこのドロボー猫め、とナルは内心で毒づく。

 うん? ドロボー猫は違うか。ママは独り身だからあの男と結婚しようが別に誰に文句を言われるわけでもないし、なんならあの男からママを独り占めしようとしているアタシの方がむしろドロボー猫だったりする……?

 ナルの、元々ちょっとたりないオツムは、寝起きで余計に曇っていた。

 ぼんやりとしているうちに、深く暗い森の最奥に建物が見えてきた。

 夜明けから休むことなく車を走らせ続け、都心を離れておよそ三時間。

 ナルは、目を見張った。

 フロントガラスの向こうに、重厚な歴史の匂いが漂ってきそうな古く、堅牢な建物があった。

 しかしながら女子校らしく華やかで慎み深い、凝った装飾がきめこまやかに刻まれるその姿を、ナルはまるでお城みたいだと思った。

 あれが、桃鎮似学園。

 今日この日からの、ナルの新しい住まいであった。

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