第四章 最果てのよるだまり

どんな物であっても捨てるのに抵抗があるのは、きっと私が捨てられる側の気持ちを理解しているからだ。

私の机にはそういった恐怖の残滓に共をした者達が抜け殻となって転がっている。

膨大な量となった命を終えたペンたちの死体。

彼らは修理に回され、第二の人生が始まるのをじっと待っている。

今日も朝が来た。古田珈琲店の外には雨が降っている。


頭が酷く痛む。

ペン先が割れ、血のようにインキがしみ出す様な酷い痛みだ。

幼児の中には稀に胎内の記憶を持つものがいる。

それと同じように、私にもただのペンだった頃の記憶がある。

元の持ち主は、私を酷く虐待した。

インクを入れたまま長く放っておく様な人間で、そのインクというのも万年筆用ではない、画材用のドローイングインキだった。

自動車に軽油を淹れるようなものだ。

そしてペン先が錆びつき、インクは出なくなり、苛立った持ち主に叩きつけられて軸が割れ、私は古田萬年堂に引き取られた。

先代は私のためにインキ止め式の胴軸を誂え、ペン先を外国製の太書きのものに取り替え、鉈型にペン先を研ぎ出して一本のペンとして蘇らせてくれた。

その時に、私は私として生を受けたのだ。


軸を一度、ペン先を一度取り替えた私は、一体何者なのだろう。

私は赤毛に碧眼を持っている。

でも、それらは何処からやってきたのだろう。

私のがっしりとした、骨の太い胴体はいつ、ここに現れたのだろうか。


私は、引き出しの中に入っている"私"を手に取り、そっと胸ポケットに差す。

長らく使い込まれたせいでエボナイトの細筒は油を引いたように艷やかな光沢を帯び、柔らかく撓う二色染め分けの極太金ペン先は、えんじ色のカラーインクをたっぷり含み、紙へおいた瞬間にふくよかに流れ出してくる。

そしてもう一本。

ペンを持っていないお客さんに貸すためのペンを手に取り、これもまた胸ポケットに差した。


クロームメッキの施された弾丸型の真鍮で出来たペン。

1940年代、エバーラスト社によって製造されたゴールデンキング・ファウンテンペン。

中指より多少長い程度の大きさしかない実に小さなペンだ。

小さく安価だがけしてチープではなく、当時としては既に枯れた技術となっていたボタン吸入式を採用しており、ボタンを押して離すだけで自動的に、しかもたっぷりとインクが入る。


二本のペンを身に帯びると、さながら日本刀と脇差を帯刀する武士のように気が引き締まり、しっくりと馴染む安堵を覚える。


万年筆として生を受けた物が万年筆を侍らせ他人に貸し出して武士のようだもなにも無いものだ、と私は苦笑した。


私は、久々に自分のためだけにコーヒーを淹れ、ゆっくりと香りを楽しみひと口含む。

嗅ぎ慣れた香ばしい香りが鼻に抜け、鋭い苦味が舌の上に広がる。

そして、私は香りが抜けないうちに音楽をかけた。

曲目はビリー・ジョエルのピアノ・マンだ。

独特の深みを伴った甘やかな低い声が、ささやかに部屋という器をみたす。

この店が、世界から取り残されてしばらくが経つ。

店を訪れる人間は年々減り続け、ついに私は一人きりで丸一年を過ごすことになった。


人々はペンを持たず、言葉と向き合うこともなく日々を過ごすのだろう。

それは時に幸せなのかもしれない。

言葉は、柄まで刃の立った諸刃の剣だ。

向き合えば向き合うほどに自らをも傷つける。

私は時々思う。

もしも、外に出る勇気があれば、私の人生、いや、筆生はどう変わっていたのだろうと。

かつての人々が言葉に対してそうしたように、私も私自身と向き合うことができれば、何かが変わったのだろうかと。

この店にいる限り、飢えることはあれど生命は保証されている。

そういうものとして甘んじて受け入れ、ここまでやってきた。

でも、いつかは抜け出さなくてはならない。

私は扉のノブに手をかける。

あとはひねるだけだ。

だというのに、手は動いてくれない。

足が震える。ただ、外へ出るだけ。

人間なら誰もが経験するはずだ。

胎内から産まれ、家を出て一人前になる。

ただ、私はそれに時間をかけすぎた。

百年、百年かかってしまった。

そろそろ先に進まなくてはならない。

分かっているのに。

私は、扉の前で蹲り、泣き始めた。

もう、今日はやめよう。

いや、駄目だ。

私は立ち上がる。

そして、ノブを手に、力をぐっと込めた。

変わるんだ。私は、昨日までの私じゃない。

その時だった。

私が掴んだノブがひとりでに回り始める。

そして、一人の女性が現れた。

「……え……」

私の顔は、随分間の抜けたものだっただろう。

そこに立っていたのは。

「フユキ……さん……?」

紛れもない、平沢冬優姫の姿だった。

頬を上気させ、息せき切らして駆け込んできたという風なフユキさんは、大人びた妙齢の女性へと変貌を遂げていた。

鞘のように紺色のパンツスーツを身にまとい、傍らに革鞄を抱えた姿。

背も伸び、胸も膨らみ丸みを帯びたが、スラッとした身には無駄な贅肉は少しもない。

フユキさんは夢でも見るように、ぼうっと立ちすくんでいたが、やがて感極まったように私の胸へ飛び込んできた。

「ハルさん……っ!」

私の腕にすっぽりと収まったフユキさんは、何度も、何度も私の名を呼び続けた。

「ハルさん、ハルさん、ハルさんっ」

フユキさんは、涙を流してすらいた。

そのまま10分ばかり、フユキさんは私の胸に縋って泣き続けた。

「落ち着きましたか?」

私がフユキさんの顔を覗き込むと、フユキさんは濡れた瞳を私に沿わすように私の瞳を見上げた。

その姿は、先程までの大人びた物とはちがい、あどけないあの日のフユキさんに重なって見えた。

「ずっとずっと会いたかったんです、ハルさん。あなたのことばかり考えてこの10年間を過ごしていました」

そう言うと、フユキさんはバッグから一冊の本を取り出した。

「……これは?」

「私の書いた本です」

「フユキさんが?」

「はい、編集者として働きながら自分の小説を出版したんです。本が書店に並んだのが昨日。お祝いと称して一人で呑み明かして、駅前を歩いていたらこの扉を見つけて……一瞬で身体が沸騰しました」

フユキさんは興奮さめやらぬ様子で語る。

「中に入っても、良いですか?」

私は体をあけるように道を譲った。

「どうぞ」

「お邪魔します」

フユキさんは見るものすべてに声を上げ、慈しむように一つ一つ触れてゆく。

私と命をともにしてきたそれらが、フユキさんの指先に触れられるたび、涙を流すようにさえ見える。

「なんだか、昨日ここに来たばかりのように感じます。全然、久しぶりって感じがしない」

フユキさんはそう言いながら、未だ呆然とする私の手をそっとすくい上げて店内に招き入れ、自らは椅子へそっと腰掛けた。

「ね、ハルさん、あの曲、かけてくれませんか?」

「……うん」

私はレコードをセットする。

曲目はタイニー・ダンサー。

エルトン・ジョンの声は柔らかく、ゆったりと店の空気を震わせる。

私は無言でコーヒーを淹れ始めた。

豆を挽く音にフユキさんが顔を上げる。

ハルさんのコーヒー、と呟くと、フユキさんは顔をくしゃっとさせて笑った。

豆の香りは、先程までのものとはまるで違って感じられた。

とても、甘い香りだ。

一度人を知ると、孤独に耐えられなくなる。

そんなことを思いながら、私は挽いた豆に湯を注いでゆく。

湯気に乗って立ち昇った香りが、エルトン・ジョンの甘やかな声と混じり合う。

ミルクとコーヒーの様に、お互いの境目をなくし一体となって溶け合う。

「いい匂い」

フユキさんが独り言ちた。

「どうぞ」

カップをソーサーにのせ、フユキさんの前にそっと置く。

受け取ったフユキさんは

一口すすると言った。

「懐かしい味」

目頭に、涙がなみなみと溜まっていた。

「私、夢だったんじゃないかって思いながらこの十年を過ごして来たんです」

私は、何も言えずただフユキさんを見つめていた。

実は、この店を出ようと思うんだ。

そんなこと、言えるわけがない。

でも、この人はきっとまた店に来てくれるだろう。

その時に私が居なくて、ここがもぬけの殻だったら、どんな気持ちになるだろう。

言わなくちゃならない。

「実は……」

言葉は、喉につかえて途切れた。

じっと待ちながら、フユキさんはこちらへ目配せする。

「実は、私、ここを出ようと思うんです」

私は思い切って打ち明けた。

フユキさんは僅かに目を見開き、ふっと唇を緩めた。

「良いと思います。ハルさんは幸せになるべきなんです」

今度は、私が目を見開く番だった。

自分がかつて送った言葉が、このような形で帰ってくるとは。

私は、笑った。

「……はい」

きっと私の顔は晴れやかだったろう。

心も、同じだ。

「実は、私、家を買ったんです」

そう言うと、フユキさんはまた一口コーヒーをすする。

その遠慮がちな目を見るだけで、何を言いたいかは呑み込めた。

「せっかくですけれど、遠慮しておきます」

そうですか、とフユキさんは明らかにしょげた顔で言う。

「なら、マンションに来るだけでもどうですか」

とフユキさんが食い下がる。

「ごめんなさい。今、フユキさんに包まれる事があれば、私はきっとまた抜け出せなくなってしまう。それでは、同じことの繰り返しです」

「そうなったら、私がお世話しますよ。ハルさんがただのペンになり、土へ帰るまで見届けます」

それでは意味がないのです。と私は呟いた。

「この日本で、私が知っているよりも随分狭くなったろう日本で、またもう一度出会うことがあれば、そのときはお邪魔したいです」

あまりにしょげているフユキさんに苦笑しながら、私は更に続けた。

「私だって、誘惑を跳ね除けようとしているんですよ」

「身を任せれば宜しいのに」

とスプーンを指で弄びながらフユキさんが唇をとがらせる。

薄く桃色の口紅の差された唇が、コーヒーのしずくを弾いていた。

「私が、きちんと一人で暮らしていけるようになったら、一緒に暮らしましょう」

「でも、どこに居るんですか、ハルさん。戸籍もないし、電話も持ってないのに」

「……探してくれるでしょう?貴女なら、私が世界のどこに居ても」

「はいっ!」

フユキさんは即座に答える。

ぶんぶん振られる尻尾が目に見えるようだ。

それから無くなったコーヒーのおかわりを淹れてフユキさんの前に出した。

フユキさんは揺れるコーヒーの水面を見つめながら言った。

「それじゃ、一緒に準備をしませんか?」

「準備?」

「ええ、この店をこれから訪れる人たちが、自分で自分の願いを叶えられるように、二人で準備していくんです」

「なるほど」

その考えはなかった。

随分素敵なアイデアだ。

立つ鳥跡を濁さないどころか、ささやかに飾り付けて行くのだ。

「そうしましょうか」

そう言って微笑みかけると、フユキさんは元気いっぱい頷いた。

「はいっ!」

そうして私たちは二人きりでこの店を立ち去る準備を進めていった。


私たちは二人で店をささやかに飾り付け、ドリップコーヒーの袋を並べ、ノートの横に彼女の父親が持っていた小さなボールペンを横たえた。

そしてその時がやってきた。

店を綺麗に片付け終えた私たちは、二人きりで最後のコーヒーを飲む。

「長かった。この世に生まれてくるのに百年もかかってしまいました」

「でも、ハルさんは今日、お父様の作った安全地帯を抜け出す。産声を上げ、世界を知ることになる」

「そうですね」

「ハルさん」

「なんですか?」

「誕生日、おめでとう」

「……ありがとうございます」

そうして私達は静かにカップを打ち鳴らし、アルコールのない祝杯を上げた。

私は、カップを洗い、水気を拭き取ってきれいに並べてゆく。

私達は微笑むと、扉を開けた。

私は今日古巣を飛び立つ。

私自身が幸せになり、世界を見て回るため、捨てられなかったもの全てを一度に切り離す。

「せーので越えましょ、せーの!」

右隣りから、フユキさんの声がする。

せーので私達は店を飛び出し、外へ踏み出した。

風が吹く。風など百年ぶりに感じた。

私は細めた目を開く。

アスファルトの濡れる匂いとともに、一面に雪が降りしきるコンクリート・ジャングルが現れる。

目を洗うような鮮やかなネオンの下をせわしなく歩く現代人たち。

彼らは皆耳に見慣れぬものを詰め込み、携帯電話に目を落としながら夜の街を行く。

もはや馬車に乗るものなど居ないのだ。

全てが初めて見るものばかりで、セピアに慣れた目の奥がちりりと痛む。

ひやり、頬を撫ぜる風に任せ、私は空を見上げた。

オリオン座だ。

白銀色に輝く、オリオン座だ。

本で見たことしかない、英雄の姿がそこにあった。

私の頬を一筋の涙が伝う。

私の背後で、今、音を立て扉が閉まった。

私は振り返ることなく、前へ進んだ。

街は燦々に輝いている。

百年前では思考すら及ばない、遠い未来の不夜城だ。

だが、今まで店を訪れたお客さんによって、途切れ途切れの情報を得ることが出来ている。

慣れるまでに時間はかかるが、きっと一人で生きて行けるはずだ。

「それじゃあ」

私は言った。

「ええ」

フユキさんは、泣いていた。

私達は背を向け、お互いの道を歩き始めた。

それから私は一年かけて日本を回った。

東京を出発して、南回りに日本を一周し、北海道を経由してまた東京に帰ってくる旅だ。

道中では店に転がっていたジャンクのアンティーク文具を直してカバンに詰め込み、少しずつ売りさばきながら路銀を稼いだ。

その金で古道具屋を回り、さらに壊れた文具を仕入れて直して売った。


ぐるりと日本を一周した私は、今度は世界を見て回ることにした。

苦労はしたものの、何とか記憶喪失を装って戸籍を作った。

旅先で関わった人たちもそれに協力してくれた。

成田を出発し、台湾から始まり、パキスタンへ渡り、インドへ向かい、中東からアフリカを経由して欧州へ。

そこからロシア アラスカを経由して アメリカ 大陸を縦断する長旅だ。

道中、様々なことがあった。

インドでは万年筆が未だ文具の王者として揺るぎない地位を得ていたし、中東ではなんと、古田萬年堂の万年筆を未だに使い続けている青年がいた。

驚いて尋ねると先代が中東へ少数を輸出していたものが、未だに生き残っていたらしい。

先代の万年筆はペン先のイリジウムにこだわり、うんと硬くぽってりと長いものを選び抜いて溶接していた。

それが功を奏して、今の今まで先代の遺志が生き残っていた。

それも日本からこんなにも離れた遠い異国の地で。

私は思わずその青年の手を固く握りしめ、それを作ったのは私の先祖だと伝えた。

最初こそいきなり手を握られ、青年は顔を赤くして照れていたが、次の瞬間伝えられた事実に青年は思わず声を上げるほど驚いていた。

感動した青年は、私を家に招き、羊の肉の一等良い部分を振る舞いながらそのペンの思い出をたくさん聞かせてくれた。

曰くそのペンはオスマントルコも終わり際の頃、その青年の曽祖父が先代から直接買い付け 今の今まで脈々と受け継がれてきたものらしい。

帰り際私が持っていたペンを青年に合わせて研ぎ出して贈ると、青年はいたく感激した様子で彼の宝物にしていた極太ペン先の銀軸万年筆をくれた。

その後彼とは連絡を取り合う仲になり、彼と文通する時はその万年筆を使っている。

各国において何事にも収集家というのは熱心なもので、この二年の世界旅行の中で店にあったジャンク品の山も、日本で仕入れたアンティーク万年筆たちも大方はけてしまった。

代わりに私の手元に残ったのは、物々交換で手に入れた様々な思いの詰まった万年筆たちと、何年かは楽に暮らしていける程度の現金だった。

万年筆達の価値は問題ではない。

中国の小学生がなけなしの現金で先代の遺した小さく可愛い鉄ペンを買い求め、値引いてあげたら喜んで宝物の古い英雄万年筆をくれたことがある。

そんなこともあればアメリカの路上でペンの修理を請け負った時に、先代の遺した肉厚で豪奢な金のペン先を奢った溜塗りの万年筆に驚いた旅行者が、自分の持っていたアンティークのモンブランと交換してくれと言ってきたことがある。

私が快く応じると彼は小躍りして喜び、万年筆にも私の頬にも何度もキスをして去って行った。

その 金無垢の万年筆を眺めていると、彼がどれだけ先代の遺した万年筆に惚れ込んでくれたのかが伺われて、胸に灯りが灯るような心持ちになる。

他にもドイツで万年筆を修理した時に、九十歳に届こうかという婦人がやってきたことがある。

その夫人は近くに住んでおり、ペンを直に調整してくれる人間が訪れていると聞いて杖をついてやってきた。

貧しい生活をしている中今まで修理するお金もなかったと言い、一本の万年筆を持ってきた。

ご主人の形見であるというゾェーネケンのボタンフィラー万年筆 だった。

ペンを見た瞬間、どれだけこのペンがいたわられてきたのか、手に取るように分かった。

その万年筆はきちんと 定期的に使われていた様子はあったのだが、長い年月の末に筒の中でゴム製サックが鳥のもつ焼きのように縮れて固まり、到底インクを吸える状態ではなかった。

ご婦人は仕方なくインクを抜き、丁寧に洗浄し 、ご主人の愛用されていたハンケチに包んで引き出しに横たえていたのだという。


とろみを帯びたセルロイドの軸から、かすかにシェーバークリームの清潔な香りがした。

私は軸が変形せぬよう慎重に温めて外し、ゴムサックを取り替え、ペン先をほんの少しだけ整えてご婦人へと手渡した。

「少しカリカリするわ」

そうおっしゃるご婦人に、私は片言の拙い英語で伝えた。

「ご主人が長く愛用なさっていた間に、ペン先のイリジウムがすり減っています。ご主人の痕跡を取り去ってしまわぬ程度に、慎重に磨きました。貴女に合わせて研ぎ上げることもできますが、いかがなさいますか?」

そうするとご婦人はわずかに目を見開き、その後に柔らかく目を細めて言った。

「お願いします。あの人の元へ、旅をするお供をしてもらうわ」

私がオイルストーンを使って仕上げ研ぎをしている間、ご婦人ははらりと一粒涙を落として言った。

「あの人、とっても変なペンの持ち方だったの」

そうしてご婦人は、自らの反省を語り始めた。

軍人として戦地に駆り出された夫との大恋愛。

夫と息子を続けて癌で無くし、家族を看取って自分は一人残されてしまったこと。

夫の遺した万年筆が大変な値打ち物だとわかった後も売る気になれず、ずっと引き出しの奥に眠らせていたこと。

研ぎ上がった万年筆を前にインクをつけて試筆し、ご婦人は大変感激した後にぽつりと言った。

「あの人は神の御元に行ったの。もう居ないのよ。これでようやく忘れられるわ」

「これからどうなさるんですか」

と私は問うた。

ご婦人はさっぱりとした顔で言った。

「恋をするわ」

そうして日本に帰ってきた私は、千葉県我孫子市に店を構え、万年筆の調整販売を始めた。

小さな安全地帯に引きこもっていた百十年を取り戻すように毎日を貪った激動の三年は、こうして終わりを迎えた。

店はこだわって作った。

どこにも宣伝はしていないが、毎日数人のお客様が訪れては万年筆を買い求めていく。

ある日曜の午後だった。

道は柔らかな木漏れ日に照らされ、春の陽気に桜が舞い散る中、子供達がたわむれながら家に帰っていく。

そんな平和を体現したような光景を眺めているうちに眠くなり、うとうと船を漕ぎ、ついに私は眠りこけてしまった。


私は夢の中を落ちていく。

ひどく懐かしい夢だった。

幸せな鳥かごの中で、泡沫の百十年を過ごしていた頃の夢。

フユキさんに、その父親。

青年に、作家の夢。

私はふっと笑った。

こんな時でもいつも真っ先に思い出すのはフユキさんの姿だった。

あの時はまた誰かに依存することが怖くてあんなことを言ったが、今はそうではない。

人間との関わり方を覚えた途端にあの人が恋しくてたまらなくなった。

連絡先を交換したわけではなかった。

そもそもあの時の私には戸籍も住所もなかったのだ。

寂しい。

気がつくと、夢の中で私は泣きじゃくっていた。

赤子に戻ったみたいだ。

感情の制御が効かなくなるなんて、今までになかった。

私は先ほどとは反対に夢の中を浮遊していく。

どこまでも、天国までも。

夢から覚めるその瞬間。

あの人の声を聞いたような気がした。

私は夢から覚める。

私は目を擦り、まだ覚めやらぬ頭を振る。

あの人が、いた。

目の前の小道、桜の花吹雪も裂いてしまうような鮮やかな笑みで、あのときと同じく息せき切らして立っていた。

「ハルさん。迎えに来ました」

はい、と私は言った。

十分後、東京へ向かうタクシーの中で私はフユキさんに問うた。

「それにしても、どうしてここが分かったんですか?」

「この写真」

とフユキさんはケータイの画面を見せる。

何の変哲もない、私の店を映したSNSの投稿らしい。

あ、と私は声を漏らした。

写真の隅に、平に積まれた本が写っている。

フユキさんが三年前に出版した物語だった。

「この本、もう絶版になってるんです。実はあんまり売れなくて」

なるほど、と思った。

道理で書店を何件もハシゴしないと数が集まらなかったわけだ。

「あの本、あれだけ集めてくれたんですね」

フユキさんは、宝物でも見つめるみたいにケータイを抱きしめた。

「そうですね」

私は 気恥ずかしくなりながら答えた。

そうこうしているうちにタクシーが停車する。

フユキさんはスマートに会計を済ませると 私の手を絡め取るように降車した。

フユキさんのマンションは都内の一等地に建つ豪勢なものだった。

部屋に招き入れられた私の前にコーヒーが出される。

他人の淹れたコーヒーを飲む事など、今までなかった。

コーヒーを一口飲むと華やかな香りが鼻へ抜ける。

キリッと締めるような酸味の後味も合わせて、とても美味しいものだった。

「おいしいです」

と言うとフユキさんはハルさんには敵わないですけど、と言って笑った。

「ハルさんに見せたいものがあるんです」

そう言ってフユキさんは私を寝室へ案内した。

小さなランプ、原稿用紙、ラップのかけられたサンドイッチ、そして万年筆が置かれたベッド トレイが備え付けられていた。

「デカルトの真似っ子です」

そう言ってフユキさんは照れくさそうに笑った。

そしてフユキさんは、私へと原稿用紙の束を差し出した。

「それ、新作なんです。ハルさんに真っ先に見てもらいたくて」

と、フユキさんは言った。

「……はい」

と言って私は原稿用紙の束を受け取った。

「私も、フユキさんに渡したいものがあります」

そう言って私は胸元に差してある"私"を差し出す。

「それって……」

「貴女なら大事にしてくれるでしょう?他の、誰よりも」

「は、はいっ!」

とフユキさんは頷いた。

ふるふると小さく震えながら受け取るその様は、まるで結婚指輪でも手にしているかのようだった。

いや、それ以上かもしれない。

「どうぞ、試筆してみてください」

「はいっ」

フユキさんは緊張した面持ちでリーガルパッドを取り出すと、さらりとペン先を於くように書き出した。

「わぁ……っ!」

感嘆のため息を漏らしたフユキさんは、そこから一言も話すことなく黙々と書き続けた。

頭をなでられているような妙な心地よさと共に、私は原稿用紙に目を落とす。

ペリカン社製ブルー・ブラックインクで書かれた可愛らしい丸文字。

内容は恋愛モノのようだ。

同性に恋をした少女の話。

少女は叶わぬ 声に身を焼きながらやがて手の届かないところへ行ってしまう初恋の相手を思う。

三十分程度で読み終わると、私はフユキさんに礼を言った。

「ありがとうございます。面白かったですよ」

その瞬間まで、フユキさんはずっと"私"で文字をかきつづけていた。

私は、苦笑しながら続けた。

「でも、かなりビターな物語でしたね」

「そうですか、私はもっとビターでもいいと思っていたんですけど」

虚を突かれた私は、思わず驚いた。

そして、少しだけ吹き出してしまった。

「何が可笑しいんですか」

つられて笑いながら、フユキさんが言う。

「貴女の愛は、ずっと変わらない味なんですね」

そんなところが、好きなのだけれど。

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最果てのよるだまり 荒矢輝人 @tillhito_araya

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