第三章 マイ・ファニィ・ヴァレンタイン

真夜中2時過ぎ。

薄暗いバーの照明。

磨きのかけられた調度品に、手入れの行き届いた格好のバーテン。

空気にまで糊がかかっているようなその場所で客は皆俺らに見向きもせず、めいめいに酒を楽しんでいる。

俺の格好はヨレヨレのスーツ。

本来ならこの場所の空気を吸うことすら身分違いだ。

なのに俺は今ステージの上に上がっている。

一段目立つ、高いステージの上に。

スポットライトが当たる。

俺はドラマーのハマダに目配せした。

俺はさぞかし不安そうな眼をしていたことだろう。

ハマダはニヤッと笑う。

「こそっと全員、尻から喰ッちまおうぜ」

その眼には一分の緊張も浮かんではいない。

信じられないことに、ハマダはこの状況を楽しんでいた。

「いけるか?マイ・ファニィ・ヴァレンタインだ!」

あいつは鋭く囁き、戯けるようにウインクする。

トランペットを持つ手中の重み。

肌と一体化したぬるい金属が妙に粘る。

ごくり、生唾の喉越しは酷く悪い。

ねっとり、喉に張り付きながらゆっくりゆっくり降りてゆく。

むせちゃいけない。

最初の一音に神を降ろすんだ。

すっと肺を膨らませる。

高級を気取っているやつらと、同じ空気が、肺いっぱいに広がる。

今、俺は……!


はっ、と目が覚めた。

あの時のバーと比べ、不憫なほど貧相に薄汚れた暗い部屋。

俺は酷く重くなった身体を起こす。

俺は動かない体を引きずり、ゴミやらなにやらを蹴散らして用を足しに行く。

別に膀胱に尿が溜まっているわけでもないが、朝起きたらトイレに行かないとなんとなく気分が落ち着かない。

そして文机に向かった。

文机の上だけは聖域のように綺麗に保たれていて、その上には革製のペントレイがそっと横たえられている。

そして、歴史に取り残されたようなエボナイト製の万年筆が一本だけ。

女遊びも博打も飲酒もしなかった祖父が唯一持っていたほっそりとした舶来ペンだった。

俺はそのペンを手に取るとノートを開き、とりとめもなく歌詞を書き始めた。

がり、がりッ。

紙を引っ掻くような書き味だが、インクはしっかりと出てくる。

それで良い。

必要十分だ。

じいさんからこのペンを受け継ぐ前、じいさんはよく俺にこのペンを見せびらかしながら大笑いしていた。

そして決まって神妙な面持ちに変わり、このペンを売ってくれた小さな文具店の話をするのだった。

その文具店の何と手入れの行き届いたことかと。

隅々まで煌びやかなペンが並べられ、常に没食子インクの匂いが漂っていた。

老店主は凄技を持っていて、曲がったペン先も立ち所に直してしまう。

そんな店で買ったペンだ。

カミソリみたいな文字が書けるんだ。

お前なんかにくれてやるもんかと言っては、またげらげら笑ったものだ。


小さな頃、祖父の目を盗んでインクを飲んでみた事がある。

キラキラ光ったブルーブラックのそれは、宝石をとろとろにしたようで本当に綺麗だった。

それを口に含んでみたら、どんな味がするだろうとずっと考えていた。

そしてついにその時が来た。

俺はブルーブラックの瓶を開け、中身を口に含んだ。

甘く華やかな香りがするはずのそれは余りに酸っぱく、血のようなグロテスクな味がした。

俺は驚いて直ぐに吐き出し、わんわん泣いてしまった。

爺さんが飛んできて俺に水を飲ませては腹を圧迫して吐かせ、そのさまを見ていたハマダがマツモトを虐めないでと爺さんの袖を引っ張って泣いていた。


なんというか、子供のような爺さんだった。 

祖父と孫というよりは、何かの間違いで年の離れすぎた兄弟のような妙な心地よさがあった。

だからといって親のようでなかったかと言われれば違う。

絶妙な距離感で、俺らの失敗を許してくれて、笑い飛ばしてくれた。

だからこそ、俺はここまで真っ直ぐ育てたし、ハマダもそうだったのだろう。

がりっ、と万年筆が音を立てる。


今日は、このくらいにしておこう。

俺は、家の鍵を掴むと外へ出た。


近くの森から、アカゲラが木を突っつく音が聞こえる。

心に穴が空いたら、そこから流れるのは血でも木くずでもなくてなんだろう。

自尊心、才能、人生の残り時間。

心の穴を埋めたくてしょうがない。

寂寥と自己嫌悪を酒で流し込もうと、俺はストロングゼロのロング缶を5本買った。

そして、誰もいないがらんどうのアパートへ帰る。

スイッチを押し、電気がつく前にソファーへと倒れ込む。

カサカサに乾いた手でストロングゼロを手繰り寄せると缶を開け、空きっ腹にアルコールを叩き込んだ。


ごく、ごく、俺は喉を鳴らし、ほぼ一息にストロングゼロを飲み干す。

「おぇ……」

酔いは波のように訪れる。

寄せては引いていく。

ゆらゆらと揺らぐ意識を手放す暇もなく、俺はソファーの上を揺蕩う。

「……もう一本……」

俺はコンビニ袋からもう一本ストロングゼロを取り出す。

特段楽しくなるわけでも陽気になるわけでもない。

ただ一時だけ苦しみを忘れることができる。

そして眠ることができる。

ただそれだけだ。

視界がぐわぐわ揺れる。

今日は悪い酔い方の日だ。

水を汲もうと水道へ向かって、そこで俺の意識は途切れた。


深い意識の底、瞼の裏側で俺はまたあの夢を見ていた。

俺はあのバーに立っている。

ハマダがニヤッと笑う。

鋭く囁く。ウインクする。全部、同じだ。

俺の全身から汗が吹き出す。

体が固くなる。息ができない。何も言葉にならない。

待ってくれ、待ってくれ、俺は。

喉に言葉が刺さる。

くそっ、抜けやしない。

手中のトランペットがぬめる。

気を抜くと取り落としてしまいそうだ。

俺は覚悟を決め、深く息を吸い込む。

人生の成功者たちと、同じ空気を。


最初の一音を吹こうとした正にその時、俺は目覚めた。

「…………夢」

それはあの日以来、幾度となく見ている悪夢だった。

そうだ。俺はあの日、最初の一音を外した。

バー中の視線を集めた俺は何もできず、ただただ突っ立っていることしか出来なかった。

己の内側から乾いた笑いが起きた。

「なにあれ、気持ち悪い顔」

失笑を浴びたその日から、俺は心から笑えなくなった。

「しょうがないさ」

帰り道、手ぶらのハマダが肩を叩き、そう言って笑ったのを覚えている。

その手には、血豆が出来ていた。

優しさが苦しかった、痛かった。

俺は、何も言えなかった。


俺は部屋の隅の仏壇を見やる。

白い骨壷と供え物、花だけがたむけられたそこには、爺さんとハマダが並んで笑っていた。


ハマダは、俺の遠い親戚だ。

爺さんとハマダの爺さんは本当に仲が良かった。

なんでも二人は第二次世界大戦時、爺さんが中国のガクリョウで戦っていた頃からの戦友らしい。

一家ぐるみで付き合いがあって、小さい頃から何度も何度も遊んでいた。

俺の両親が離婚して、俺が爺さんの元に引き取られてから5年ほど経った時のことだ。

ハマダの両親が飛行機事故で亡くなったのだ。

爺さんに連れられていった通夜では、ハマダの親戚たちが集まってハマダたちの押し付け合いをしていた。

あの子たち、どうすんのよ。

佐々木さん所、どう?貴女お金に余裕……

嫌ァよ。それより貴女の所どうなのよ?

そんなやり取りを断ち割ったのは爺さんの怒鳴り声だった。

「じゃかァしい!こったら小ッせェガキに小汚ぇ姿見せてんでねェ!」

そうして、まだ小学校に上がったばかりのハマダと、ハマダの妹に向けて言った。

「タツヤ、ツバサ、家来るか?こったらクソ野郎共さ身ィ預けるより大分マシだべ」

そして、日に焼けた顔をくしゃっとしてみせた。

そうして、俺らは家族になったんだ。


あの演奏のすぐ後、ハマダも死んだ。

もう、5年前になる。

バイク事故であっけなく死んだ。

俺はゴミを蹴散らして歩き、ハマダの前に座るとパーラメントメンソールを一本だけ取り出して火を点けた。

むわっと嫌な匂いが部屋に広がる。

俺は一口だけ吹かした。

一口が限界だ。

メンソールのタバコは嫌いだから。

中でもパーラメントメンソールが一番嫌いだった。

でも、お前は大好きだったもんな。

俺はパーラメントメンソールを香炉に立てる。

爺さん、タバコの煙キライだろうけど、ちょっと我慢してくれな。

心のなかでそう唱えると、供えてあったモンスター、キューバリブレを一息で飲み干し、冷めたコンビニ弁当をもそもそ喰らう。

その様子を、あいつは笑ってみている。

どうだ、面白いか。

もう少し、待ってろよ。

俺はもう一回心で唱えると、制服を手に近くのセブンイレブンへと向かった。

「いらっしゃいませ!」

鏡に映る俺は落ちくぼんだ眼窩に隈を引っ提げ、やたらギラギラ輝く目を持った気持ち悪い顔をしていた。

「いらっしゃいませ!」

客がぎょっとした顔でおにぎりを取り落とし、慌てて拾って棚に戻す。

その時だった。

俺は気づく。

いつもやってくるクレーマーのお爺さんが入店してきている。

お爺さんはずかずかとレジへやってくると「いつもの!」と叫んだ。

まずい。

このお爺さんはいつもなんのタバコを注文していただろうか。

首筋がしんと冷える。

こめかみがぎりぎりと痛んだ。

「す、すみません。番号で伺ってもよろしいですか?」

俺はなんとか笑顔を浮かべながら言った。

俺は、上手く笑えているだろうか。

「はぁ?いつものったらいつものだべ。なんも覚えてねえの?お前さん何年やってんの?」

「一年、です」

「一年やってて客の好みもわかんねぇんだ?なぁ!」

「は、はは」

「へらへらしてんでねぇよ!もういいわ、セッタ寄こせ、セッタ」

俺はセブンスターを取り出して渡す。

お爺さんはセブンスターを拾うと、俺の顔に投げつけてきた。

角が頬を傷つけ血が滲む。

「違えよ!メンソールだべ?使えねえな」

「すみません」

謝りながら、俺は時間が早く過ぎないかと何度も何度も心のなかで唱え続けていた。

お爺さんは俺の顔を覗き込んで言った。

「気持っち悪い顔」

お爺さんは捨て台詞のように言葉を吐いて捨て、去っていく。

その言葉が頭の中で何度もリフレインする。

そういえばあの日。

最大の挫折を経験した日も同じ事を言われたっけ。

うっ、と酸っぱいものが込み上がってくるのを感じる。

店長がそっと肩を叩く。

俺はそれに甘え、トイレへ引っ込んだ。



胃の中味をすべて吐き出すと、少し楽になった。

「大丈夫かい、ケンイチ君」

「はい、もう全然大丈夫です!」

俺はなんとか誤魔化そうと声を張り上げる。 「大丈夫そうじゃないね。最近辛そうだったでしょ?オーナーの僕が言うのも何だけど、コンビニ弁当ばかり食べていてはいけないよ」

「はい、すみません」

俺がそういうと、オーナーはぽんっと俺の背中を叩いて笑った。

「よし、これ、持ってきなさい。怪我してるでしょう。そんで今日はもう上がんなさい。もうそろそろお客様も少なくなるし、今日はゆっくり休むと良いよ」

そう言ってオーナーはクローバーの絵のついた絆創膏を差し出す。

「すみません」

オーナーのその優しい言葉さえ、俺には力不足だと言われているようで。

「……すみません」

いたたまれなくなりながら、俺は荷物を持ってコンビニを後にした。

俺はがらんどうの部屋に帰ってくる。

ゴミで溢れた小さな部屋。

小さな、俺の部屋。

俺はどさっと音を立ててベッドに横たわる。

久々に、ゆっくり眠りたかった。

俺はそのまま泥のように眠った。



また俺はあのバーに立っている。

喘鳴が耳を揺らす。

死にそうな体で必死にバランスをとって、バーの空気に立ち向かおうとする。

だが、どうしてもできなかった。

足は震え、汗が噴き出す。

目が霞んで立っていられなくなる。

ハマダは、そんな俺に気づかない。

あの時のように笑い、あの時のように鋭く囁く。

やめてくれ、どうして。

泣きわめきたい、狂いたい。

でも俺は理性を捨てられない。

声が出ない。声が。

喉に刺さったまま抜けない言葉の痛みに空気の塊を押し出し、透明な空気を喉に入れたり出したりする。

夢だ、これは夢だ。

そして、俺は目覚めた。


起きてみれば、目の前一杯に顔が広がっている。

見慣れた顔だ。

「ツバサ……?」

そう問いかけると、妹は安堵したように表情を緩めた。

「良かった。ぐっすり眠っていたから、もう起きないのかと思いました」

そう言って笑う妹の前で、俺はかたかた震えていた。

「嘘だ、ツバサがここに居るはずがない。夢だろ、これは夢だ」

頭を抱え、惨めに叫び、狂ったように頭を振り乱す。

そんな俺の前で、ツバサは困ったように笑っていた。

「そんな事言われても、私は私ですよ。ケン兄さん」

そう言って、ツバサは俺を抱きしめる。

柔らかい感触、俺にもたれかかる体のぬくみ。

確かにツバサは、そこに存在している。

久々に感じる人間の感触に、俺は泣きそうになっていた。

「温かいでしょう、脈打っていますよね?私、ここに居るんですよ」

体の震えがおさまっていく。

ゆっくりと息ができるようになってきた。

「落ち着きましたか?」

ツバサは俺の顔を覗き込む。

その表情は俺の記憶にあるツバサその物だった。

「……もう大丈夫」

俺は、そう言った。

「ちょっと仕事に行ってくる」

「……いってらっしゃい」

ツバサは少し、寂しそうに笑った。


洗濯の終わった制服を持ってコンビニへ向かう間、俺は少しだけ心が軽くなったのを感じていた。

家に家族がいるなんて久しぶりのことだ。

帰ったら誰かがいる。

それだけで生きていくことができるような気がしていた。

「いらっしゃいませ!」

俺はあのおじいさんに笑顔で挨拶していた。

「何だ。まだ辞めてねがったのか」

「はい!」

元気よく答えて俺におじいさんはお、おう、と尻込んだ。

「何だかケンイチ君、元気になったよね」

店長が笑ってそう言う。

「はい、まぁ」

俺はそう答えた。

「何かあったのかい?」

店長が言う。

「家に帰ったら、待っていてくれる人がいるんです」

「それはいいね!恋人でも出来たのかい?」

俺は帰り支度を終え、事務所を出ながら言った。

「いえ、妹です」

俺は家に帰ると一息つく暇もなく、一心不乱にノートに歌詞を書きつける。

がり、がり。

砂を巻き込んだコンクリートに書いているような書き味だが、それでも書けている。

問題はない。

「そういえば、兄さん」

ツバサが何気なく言った。

「トランペット、捨てちゃったんですか?」

「あぁ……どっかしまい込んじゃったかもな」

俺は答えた。

相当歯切れが悪かっただろう。

舌がもつれたようだった。

「そうですか」

ツバサは残念そうに言うと、今度は部屋の隅の仏壇を見やる。

「ちゃんと、弔ってくれてるんですね」

そのしっとりしたセリフにピースしたハマダは似合わないけれど。

「当たり前だろ」

俺はガリガリと音を立てながら筆記を続ける。

例え未来に繋がらないとしても、止めるわけにはいかなかった。

義務感、焦燥感。

あるいはその間に追い立てられながら、俺は書いていた。

「お腹減ったな。なにか作ろうか?」

「いえ、私は良いです。あんまりお腹空いていないので」

「そっか、分かった」

俺がバイト仲間からもらったコンビニ弁当を食べるのを、ツバサは複雑そうな顔で見つめていた。


平和な毎日だった。

平和な、退廃だ。

俺はどん底から抜け出すわけでもなく、ただ抜け殻のように仕事をこなし、家へ帰る。

その毎日にツバサが組み込まれた。

ただそれだけの話だ。

俺は、今日も疲れ切って家へ帰る。

「ただいま」

しかし反応は返ってこない。

おかしいな、と俺は思う。

そしてもう一度ただいま、と言った。

結果は同じだ。

何の反応も返ってこない。

それどころか、人の気配が一切ない。

俺は部屋に駆け込んだ。

誰もいない。おかしい。

ツバサはこれまで一度も外出していなかったはずだ。

だんだん心配になってきた。

どこかで事故に巻き込まれているんじゃあるまいか。

ひょっとしたら……

そう考えると居ても立ってもいられない。

俺は机の上に散らばっていた必要そうなものを適当にポーチに詰めると、家を飛び出した。


ツバサの行きそうな所など見当もつかない。

俺は街中を駆け回ったが、街のどこにもツバサの姿はなかった。

諦めて電車とバスを乗り継いで、文鎮のようになった体を引きずり引きずり俺は家まで帰ってきた。

家のそばまで来たその時だった。

不意に懐かしい匂いがした。


懐かしいあの日、爺さんが指先からいつも漂わせていた匂いだ。

俺は臭いの元をたどった。

ふわり、ふわり。記憶に誘われるように俺は路地を行く。

やがてたどり着いた先にあったのは、小さく瀟洒な洋館だった。

「綺麗だな」

俺は思わずそう呟いていた。

焦って暴走していた気持ちが少しだけ元の位置に戻って来るのを感じる。

看板には、古田珈琲店、開店中の文字。

珈琲店と言う割にコーヒーの匂いは漂っては来ないな、と俺は思った。

俺は財布の中身を確認する。

そして磨き込まれたドアをそっとノックした。

「どうぞ」

中から声がかかる。

俺はそっとドアを開けた。


中からまず漏れてくるのは、ノスタルジーを酷く刺激する濃密な酒石酸の香り。

ランプの柔らかな明かりに照らされた古書の革表紙。

ジャズ・エイジから時を止めた様な用具や機器の数々。

人を幸せにするのに充分な物がそこに揃っていた。

本当に素敵な空間だ。

カウンターの向こうには西洋人的な顔貌を持つ店主。

彼かも彼女かも分からぬ主は読んでいた本を畳むとこちらへ歩み寄り、椅子をそっと引く。


俺はすみません、と小さく呟き、椅子に腰掛けた。

「コーヒーでよろしいですか?」と店主が問う。

俺は無言で頷いた。

店主がコーヒーを淹れていく。

「どうぞ」

その言葉と共に、目の前にコーヒーカップが置かれた。

「ありがとうございます」

そう言って俺は一口コーヒーをすする。

熱いコーヒーから立ち昇る懐の深い立体的な香り。

鼻腔をすっと通り抜ける清涼な風のようにも感じるその香りが、頭を冷めさせる。

「うまい」

気づくとそう声が漏れていた。

「良かった」

と言って店主は笑う。

俺は無言でちびちびとコーヒーを啜り続けた。


「それにしても」

店内を見渡しながら俺は言う。

「こんなところにカフェなんてあったんですね」

店主は訝しげな顔をしたあとに言った。

「ええ、まぁ」

どことなく歯切れの悪い返事だ。

俺は首を傾げた。

何か引っかかるような質問だっただろうか?

「そうですね、この店は普通じゃない。こうあるべき、のような概念で構成されているんです」

あまり聞き馴染みのない単語が並ぶ。

喫茶店の説明に概念などという単語を用いるだろうか?

「そうですよね、いきなりこんなことを言われても呑み込めないのが普通です」

店主は頭を振った。

「この店は、私の店です。そして私は、この店を訪れた方の言葉を食して生きています」

店主は俺の目をしっかりと見つめる。

信じがたいことを話しているはずなのに、店主の堂々とした態度を見るに、嘘やまやかしの気配は微塵も感じられない。

「私はそういうものとして生まれました。そしてこの店も。だからこの店はどこにでも存在し、どこを探しても見つからないんです。悩みを抱えたまま言葉と向き合う方へ向けた、言葉のイデアのような存在なんです。この店は」

「ええと、つまり」

今度は俺が口ごもる番だった。

「この店はファンタジー小説なんかに出てくる、いわゆる不思議なカフェのようなものですか?」

「の、ようなものですね。或いはそういう概念に囚われたもの」

どうやらそうらしい。

一縷の希望が見えた、と思った。

「じゃあ」

「…………」

店主は黙ったままの俺を静かに見つめる。

僅かな沈黙の後、俺は鉛のようになった口を開いた。

「うちの、うちの妹を知りませんか」

俺はそういった。

店主は少しだけ黙る。

そしてこう言った。

「私は、知りません。手の届く範疇のことしか知りませんから」

そう言うと、店主は無記名のくたびれたノートを差し出した。

「でもこれはその埒外にいます」

そんなすごいノートには到底見えなかった。

今でもちゃんと使えるのだろうが、それにしたってボロボロに見える。


「これが?」

俺はさぞかし滑稽な顔をしていたことだろう。

それは相手にも十分に伝わったらしい。

「ええ」

店主は続ける。


「このノートに言葉を書いて願えば、それは叶います。そしてこの店には一生来られなくなる」

信じがたい話だ。

俺はそう思った。

そして誰でもそう思うだろう。

だが、俺にはその与太話を信じなくてはならない理由がある。

「何でも、何でも叶うんですか」

「大概のことは叶います。言葉と真剣に向き合うことができればという但し書きがついていますが」


「分かりました、書きます」

俺はそう言ってペンを取り出した。

じいさんのあのペンだ。

何でもいい。

藁にでもすがりたかった。

「随分と古い万年筆ですね」

俺の手元を覗き込んだ店主がそう言った。

俺の手に握られた小さなエボナイトのペンには、じいさんの本名である松本勝一の文字が彫ってあった。

「あぁ、じいさんがこの近くにあったっていう文具屋で買ったみたいなんです」

がりがり、がりがり、音を立てて彫るように文字を書いていく俺。

それを見て店主が言った。

「書きにくくはないですか?万年筆は長く使っていると、ペン先のイリジウム玉が使用者の持ち角度に合わせて削れるんです。所有者にとっては最高のペンになり得ますが、その人以外にとっては最悪な代物になります。よければ研ぎ直しましょうか?」

「……そうですね。それを聞いて余計研いでもらう気が無くなりました」と、俺は続ける。

「なぜ?」

そう言って店主は話を聞く態勢に入った。

「だって、研ぎ直してもらったら、じいさん居なくなっちゃうじゃないですか」

俺はそう言い切ったあと、更に続けた。


「じいさんよく言ってたんです。このペンを買ったとこの店主のおじいさんの話。そうしてひとしきり話終わった後に、決まってこう言うんです」

俺は息を吸い直し、続けた。

「これは本当に最高なペンだ。カミソリみたいな文字が書けるんだ。お前なんかに使わせてやるもんかって、こーんな悪ガキみたいな顔して」

俺は目の横に手をやって目を細めてみせる。

店主の喉から初めて、くすり、と笑いが漏れた。

「そしてじいさんが死んだ後、このガリガリした酷い書き味のペンを使って思ったんです。あぁ。爺ちゃん、生きてるんだなって。このちっさいペンの中に。そんで使うなって言ってるんだ。このペンに執着しているんだって。だから」

「だから?」

「追い出してやらなきゃいけないんです。俺が、このペンを俺のものにして。そしたらじいさん、成仏できるでしょう?それは俺の役目でないといけないんです。もう、誰もいないから」

店主はじっと黙ったあとに言った。

「分かりました。申し訳ありません。差し出がましい真似を」

「いえ、申し出は嬉しかったです」

そう言って俺はノートに願いを書き込んでゆく。

がりがり、ごりごり、心地よい音が脳を支配する。

俺は願いを書き終えるとノートをぱたり、と閉じた。

「それでは、5分間お待ち下さい」

ところで、と店主が言う。

「その万年筆、本当に綺麗ですね」

「俺も本当にそう思います」と俺は答えた。

飴色に枯れて細ったエボナイト。

硫化し変色したペン先には、確かに年月が蓄えられている。

「じいさん、こうも言ってました」

俺は続ける。

「その文具店の店主のおじいさんには幼い娘さんがいたらしいんです。と言っても、爺さんがまだ小さい頃だったから1930年とかそれぐらい」

俺はそう言ってそっと万年筆を撫ぜた。

潤いのあるエボナイトの軸は、生まれたての赤ん坊の頬のような滑らかさを持って肌に吸い付く。

「そんで爺さん、その文具店のおじいさんにずいぶん可愛がってもらったみたいで、よく聞かされました」

「……なんと?」

俺はすっかり冷めてしまったコーヒーをすする。

すこし酸味の立ったそれに、俺は顔を顰め、そして続けた。

「この子は、幸せになるべきだと。そしてそれ以外は全て些事でしかないと」

店主の表情は、引き絞られた洋弓のように張り詰めていた。

何かが店内の空気をぴん、と震わせ、音を奏でる。

あぁ、店主の声だ。

「見てきたように、語るのですね」

「ええ、じいさんが酒を呑むたびに聞かされ続けてきましたから」

「そのお店の名前を、伺ってもよろしいですか?」

「……古田萬年堂」

あぁ、と店主の喉から声が漏れる。

諦念、解放、納得。

様々な色に飲まれ何色にもなりきれぬ声だった。

その時だった。

ノートがほんのりと淡く光り始める。

これで、ようやく楽になれる。

そんな思いが俺を支配する。

「開いても良いですか?」

店主はゆっくり、顎を引くように頷いた。

俺は店主に従い、ノートを開く。

ぽんっ。

そう音を立てて中から飛び出てきたのは、俺の書き込んだ言葉だった。

俺はバラバラの文字となった言葉を拾い上げていく。

そして、願いが叶えられるのを辛抱強く待った。

しかし、一向に願いが叶えられる気配はない。

「やはり、こういうのは自分で解決しなくてはならないんですね」

俺は言った。

店主は黙っていた。

帰ろう、と思った。

俺はもうここに居ちゃいけない。

「お会計をお願いできますか?」

俺はそう言って財布を取り出した。

それを止めるように店主が手のひらをかざす。

「いえ、うちはお金を取らないんです。その代わり、お客さんの生み出した言葉を頂くことになっています」

なるほど、と俺は思った。

ファンタジーの世界から飛び出てきた様な店には、ファンタジーの世界から飛び出てきた道理があるものだ。

俺は納得し、店の扉に手をかけた。

「今日はありがとうございました」

「いえ、お力になれず申し訳ありません」

店主は慇懃に腰を折る。

俺は扉を開け、一歩を踏み出す。

ふと俺は思い立ち、スローモーに閉まっていく扉の向こう、腰を折ったままの店主へ声をかけた。

「あの、お名前は?」

「……古田と申します」

深々と下げられた頭が、扉に遮られる。

縁を断ち切るように、扉が閉まった。


夢のような時間が覚める。

俺はまた一人だ。

俺はぼぅっとしながら街を歩いていた。

足は自然、コンビニへと向かう。

酔いたかった。

酔わなくてどうやって生きて行けると言うのだろうか。


俺はストロングゼロ・ドライを買い求めると、アパートへと引きこもる。

そして缶を開け、高く登ったお日様の下で酒盛りを始めた。

ぷしゅ、缶を開ける音。

喉を炭酸とアルコールが焼き、脳に回った酒が多幸感を生み出し始める。

虚栄の幸福は酷く寂しかった。

ひと口が一杯になり、一本が二本へ化ける。

どんどん酒は無くなっていく。

ふらつく頭。もつれる口。

俺はうっかり意識の淵から足を滑らせてしまった。

無限の底なし沼へ落ちながら、俺は思った。

あぁ、またあの悪夢が待っているんだろうな。


気づけば、俺はまたあのバーに立っていた。

ただ、ひとつ違うところがある。

俺はハマダと二人きり。

客は一人もいない。

生き物の発する気配のまるでない、音も冷めるような静かな薄明かりの中で、俺はトランペットを握っていた。

持ち重りのする生ぬるい金属の塊。

俺はかつてその1キロの黄銅に命を預けていたのだ。

ハマダはあの日と同じように笑った。

「こそっと全員、尻から喰ッちまおうぜ」

俺の眼はあの日よりずっと頼りなく、あの日よりずっと弱くなっていたはずだ。

なのに、ハマダは悲しいほどに変わらない。

その時だった。

俺は誰もいなかった客席の後ろ、暗がりからこちらへ歩み寄ってくる人影を認めた。

ツバサだ。

間違えようもない。

ツバサだ。

ツバサはゆっくりと客席へ腰掛けると、こちらをしっかりと見つめて、笑った。

固く結んだ髪の毛が解けるように、笑った。

「マイ・ファニィ・ヴァレンタインだ。いけるか?」

ハマダは俺の方をしっかり見て、柔らかく囁いた。

その声はどこまでも温かく、優しく、弟を見守る兄のようだった。

その時、俺は気づいた。

ああ、ハマダは今、ぜんぶ分かっているんだな。

俺は腹を決めた。

すぅっと肺一杯に息を取り込む。

迷っている暇はない。

ただただ無我夢中で最初の音にすべてを注ぎ込む。

果たしてそれは足りなかったパズルの最後の一ピースの様にぴったりピッチがあった姿で現れた。

俺は流れるように音を紡ぎ、服を作るようにトランペットを吹きこなしてゆく。

長年のブランクを、思い出の中で積み重ねた経験が上回った。

二人きりのバンドに、一人きりの観客。

俺は最後の音までしっかり演奏しきった。

静まり返ったバー。

世界が手のひらへ帰ってくる。

ぱち、ぱち、ぱち。

拍手の音が薄い暗がりを満たす。

俺はトランペットを置き、ステージから降りた。

その瞬間俺はただの一人の人間に戻った。

俺はツバサの横に座る。

そしてツバサに言った。

「どうして俺の前に現れて、どうして消えてしまったんだ」

「分かっていますよね?」

そう一言だけツバサは言った。

「分かっているはずですよ。みんな心配してます」

その言葉に、俺ははっ、とツバサの方を見た。

ツバサは、泣いていた。

その大きな瞳からたっぷりの涙をハラハラこぼしていた。

「今度はケン兄が幸せになってください。ありがとうございます。嬉しかったですよ、きちんと弔ってくれて」

ツバサはとん、と俺の肩を押す。

それだけであっけなく俺の体は倒れていく。

「兄さんのことも、私のことも」

俺は落ちていく。

まだ夢から覚めたくなかった。

この幸せな夢をずっと見ていたかった。

落ちていく。俺は落ちていく。

落ちていった先に現世が待っていた。


見慣れた黄ばんで薄汚れた天井。

仄暗い白熱灯の周りにちらちら何か飛んでいるように見える。

俺は帰ってきた。生きているんだ、俺だけが。

俺は泣いた。さめざめ泣いた。

そんな俺を見守るようにじいさんと浜田の遺影、そしてツバサの入った骨壷が佇んでいる。


ツバサは死んだ。

じいさんが死に、ハマダが死んでから心の均衡を崩し、自殺した。

カレンダーを見る。

今日はちょうどツバサが死んでから四十九日目だった。

ひとしきり泣いた後、俺は部屋の掃除を始めた。

いらないものを全て捨てていく。

ゴミ袋が3個パンパンになった頃には、部屋は綺麗に片付いていた。

俺はとりあえずゴミの日までゴミ袋を押入れに詰めておくことにした。

俺は押し入れを開ける。

そこには、角の擦り切れたハードケースが収められていた。

俺はぱちん、とハードケースを開ける。

中には、鈍く白い光を放つトランペットが収められていた。

何年も、何年も主を待ちながら眠り続けたトランペット。

俺は思わずトランペットを手に取った。

マウスピースをはめ込み、息を吹き込んでみる。

魂の奥底を引っ叩く様な音とともに、最初の一音が俺の手の中に帰ってきた。

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