第二章 マイ・スウィーティー・バッドエンド

言葉に食われる時、決まって言葉は虎の姿を借り、現れるという。

ならば李徴は言葉になったのだろうか。

言葉は人を喰う。虎は虎になる。


レコードから放たれた音の粒が一瞬時間を漂って虚空に吸い込まれていく。

曲目は、タイガー・ラグ。

虎革の絨毯。

人を食った言葉もいずれは撃ち殺されて、人の尻に敷かれるのだろう。

手元の本をめくる手が止まる。

一体どれほどの時間をここで過ごしたのだろうか。

数々の人間がこのノートに救われ、人生を切り開くところを見届けてきた。

でも、本当に救われたいのは……?

(このことについて考えるのはもう、やめよう)

私は思った。

私はふるふると頭を振ると、本を開き活字を追う作業に戻る。

暇に飽かせて何度も何度も読み込んだ本だ。

なのに、目が滑ってとても読めたものではない。

自然、脳はもっと楽な思考と哲学の境目を彷徨おうとする。 

役割だ。きっと。

己は救う側であり、そこに疑問を差し挟む余地などない。

言葉にすれば何と単純なのだろう。

あぁ。

きぃ、と蝶番がきしみ、また一人、人生の導べを失った者が店に踏み入ってくる。

彼女もまた、私を置いて勝手に救われるのだろう。

そして、店には二度とやってこない。

私は嘆息すると、客へと呼びかけた。

「お初にお目にかかります。古田春と申します。外はお寒いようですね、どうぞこちらへ」

言葉は衣服である、とは先代の教え。

曰く発する言葉一つで如何様にも己を変えてしまう。

挨拶一つで性格から育ち、敵意の有無までが知れてしまう。

だから、僕は万年筆を作ってきたんだよ。

君は生きているだけで素晴らしいんだよ。

先代はそう言った。

だから、私は教えを守り意図してきめの細やかな言葉を使うようにしていた。

「こんばんは」

彼女はそう言った。

日本人には珍しい青緑色の目に、艶のある長い黒髪。

そして、ねこっ毛のように先が丸まった、空気を含んだような声。

あぁ、と私は思った。

心を痛めた者の声だ。

強がるように周りを威嚇し、持ち手すら刃でできた剣を振り回し、血を流している心も癒やせず隠す事しかできない。

そんな声。

彼女はこんばんはと、そう言った。

外はきっと暗いのだろう。

彼女は続ける。

「平沢冬優姫です」

一瞬聞き流しかけて、私ははたと思い出す。

今、フユキと言ったか。

それに、姓は平沢だ。

その名は私の奥底に深く刻まれていた。

到底忘れることのできない、苦い記憶として。


12年前のあの日も雨が降っていた。

きっと、外もそうだったろう。

私はいつも通りの日を過ごしていた。

7時15分に起床する。

寝間着からジャケットに着替え、伸びない髪を整える。

そして必ず、自分のためだけに一杯のコーヒーを入れる。

その日の調子を確かめるためだ。

それが終わったら店内を清めていく。

一通り終わったら最後にノートの横に置くための万年筆にインクを呑ませる。

まるで同じ本の同じページを繰り続けるような日々だった。

だからこそ、そこに発生する違和は、いつまでも忘れない。

具体的に言えば店にやってきた客の顔、名前、そして叶えた言葉。

5000人を優に超すその全てを、私は記憶していた。

私はカーテンから外を覗く。

何処ともしれぬ店の外には、常に雨が降っている。

あぁ、外は怖い。

私は窓から目を逸らした。

正直言えば憧れる。

憧れるほどに、怖くなる。

外に出る、というのは自分がこれまで積み重ねてきた長い年月の否定だ。

外へ踏み出し、言葉の供給が切れた瞬間に自分が一本のペンに戻るのではないかという恐怖。

そして、それでも外に焦がれる心。

その全てがじりじりと爪の先に火を灯すように私を削ってゆく。

もしも、私の心が削られきったとして。

その先に待ち受けるのは安寧か、深淵か。

多分、無だろう。

一本のペンに戻ることすら、出来ないのだろう。


思索が淀み始めたその時だった。

きいい、と蝶番がきしむ。

現れたのは、端正な顔立ちの男性だった。

飴色のレザージャケットにハンチング帽。

私よりも10cmばかり背が高いだろうか。

180cm後半ほどのよく筋肉の付いたその身体は雨に濡れ、髭の蓄えられた顎先から雫が滴り落ちている。

「こんにちは、お初にお目にかかります。古田春と申します」

男性は戸惑うような表情を浮かべた。

「……今は丑三つ時のはずだが」

男性はちらりと時計を見る。

朴訥とした喋り方からは、不器用な生き方が滲んでいるように感じられた。

「……それは失礼いたしました。時の流れに疎いもので」

「……平沢雪弘」

「はい?」

「……名を名乗られたら返すのが礼儀のはずだ」

つまり、この人は礼儀を重んじてくれたのか。

私はカウンターから出ると、椅子を引こうとした。

「……いい」

男性は一言、そう言う。

「……女性にエスコートさせるのは性に合わない」

継ぎ目のない言葉を一息に吐き出すと、男性は椅子にどっかと腰掛けた。

ふぅっ、と息をついた男性は、ずぶ濡れの腕で顔を拭う。

「……タオルはご入用ですか?」

「…………」

男性はきっかり5秒考えた。

「頼みたい」

「はい、ただいま」

私は鉄瓶に水を張り火にかけると、裏へ引っ込みタオルを探した。

柔らかく肉厚で、目の細かいものを軽く温めて出そう。

さっと選ぶと直ぐに店へ戻る。

私は、洗いたての真っ白なタオルを男性へと差し出した。

「どうぞ、お使いください」

「……有り難う」

男性はレザージャケットの上からごしごしと全身をこすると顔を豪快に拭き、拭いた面を内側に畳んでこちらに寄越した。

私はそれを仕舞いながら、お湯が沸くのを待つ。

「お飲み物は何になさいますか?コーヒーと、お茶とがあります」

「……茶で」

「かしこまりました」

ふつふつと湯の沸く音がする。

その間に、男性はちらりと時計を見やる。

「ちょっと」

「はい」

「あと8分したら、僕に手のひらを見るように伝えてくれないか」

「……承知いたしました」

男性はポケットからボールペンを取り出す。

イタリア製らしいそのペンは、男性の大きな手のなかで居心地悪そうに身を縮めていた。

アウロラ社は、ボールペンも作っていたのか。

私と、同じ故郷を持つペン。

正確には、私の半分と。


男性はキャップをノックすると、アシュフォード製のシステム手帳を取り出してさらさらと何やら書きつけてゆく。

私は沸いた湯を茶葉へ注いだ。

ふわりと茶葉が湯に浸り、湯は目も覚めるような緑に色づいてゆく。

茶を淹れるのは久しぶりだ。

昔、旨い茶の入れ方を教わった。

曰く、最高級の玉露に熱々に熱した湯を一息に注ぎ入れるのだという。

教えてくれたその人は、邪道だけれど、と言って困ったように笑っていたっけ。

私は湯呑に熱々の茶を注ぐと、少し冷まして茶托に乗せ、出した。

「……有り難う」

ぶつ切りで男性の口から出てくる感謝の言葉。

男性はすっぽり包むように湯呑を掴むと、一息に茶を流し込んだ。

「……あぁ、良かった。美味い」

男性は表情を一分も変えずに言った。

そろそろ、8分が経つ。

男性は時計を見やると、目を閉じた。

きっかり20秒が経った頃、男性は目を開いた。

男性の表情は何処か憑き物が落ちたように柔らかく、少し人懐こささえ感じるほどに豹変していた。

私は言った。

「手のひらをご覧ください」

男性は手のひらを見やる。

男性の顔が見る見るうちに青ざめていく。

男性は急いで手帳を取り出すと、ページを繰った。

あぁ、というため息が漏れる。

「なんと」

私は無言で茶を淹れると、男性の前へ置いた。

「よろしければ、事情をお聞かせ頂けませんか?」

「僕は、平沢雪弘と言う、らしい」

「……言うらしい?」

「ああ、ここには、そう書いてある。僕は、プロレスラーで、興行中、頭を強く打って病院に運ばれた。そして、僕の記憶は15分しか保たなくなった、と」

男性はあえぐように言った。

「なんてことだ、母さんも、父さんも、死んでしまったのか、それに僕は結婚もして、そうだろうな……」

男性は苦悩に満ちた顔を歪めた。

「……お茶、頂いても?」

「ええ、勿論」

「……ありがとう」

男性は大きな手のひらにすっぽりと湯呑を握り込むと、一息に茶を流し込んだ。

「……美味い」

男性は息の塊を喉から押し出すように言った。

その言葉はきっと、嘘偽りではないのだろう。

「ところで、ここは?」

「古田珈琲店です。人生に迷った方に珈琲を一杯、召し上がって頂く店です」

「……そう、か。残念だけれど、僕はコーヒーは飲まないんです」

「左様ですか」

「ええ、タバコを吸わなくなってから、コーヒーも吸わなくなったんです」

不躾かとは思ったが、一つの疑問が浮かぶ。

「それは、覚えているのですか?」

「ええ、三年前、娘が生まれたはずなんです。娘の事だけは、酷く鮮明に覚えています。くりくりの目をしたあの娘が生まれたその日に、僕はタバコを止めた」

「成程」

「ええ、娘がくしゃっと笑う顔だけ、その顔だけ、頭に焼きついて……それだけが僕を生かしてくれる」

男性はシステム手帳を取り出すと、また何やらボールペンで書きつけてゆく。

「……素晴らしいボールペンですね」

「……誕生日、と言っても昨日、妻が贈ってくれたもの、らしいです。肌に書くことも多いだろうから、万年筆でなくて良かった」

切れ切れに言うと、男性は深いため息をついた。

「それにしても、僕はもう、45になったか」

その声は酷く重く、頭に残るような鈍さがあった。

「……店主さん」

「はい、なんでしょう」

「なにか、食べるものを頂けませんか」

「……ここでは、ご自分で茶請けを用意して頂く決まりになっています。こちらのノートに願いを書くと、願いが叶います。言葉を書き、ノートを閉じると言葉が浮きでてきて、食べられます。甘い言葉は甘く、苦い言葉は喉に刺さります」

そう言って、私はノートを指す。

「……や、信じてみましょうか」

男性はボールペンをノックすると、ページをめくった。

さらさら、男性は文字を書きつけてゆく。

フユキ、ユキヒロ、そして、愛。

男性はノートを閉じると、はぁ、とため息をついた。

「……疲れた……」

「……お疲れですか」

「……あぁ、一つ、お願いがあります。僕はまた記憶を失うでしょう」

「そうですね」

「記憶を失う間際、少し乱暴になると思うのです。僕は今、酷く疲れ切っている。こういう落ち着いたところでも無ければ、人に配慮する余裕もゆとりもないでしょう」

「……そうでしょうね」

「どうか、嫌いにならないでほしいのです」

「……分かりました。約束いたしますよ」

そう言って私は笑った……はずだ。

うまく笑えているだろうか?

この人の不安を呑んでしまうくらい、上手く。

「……はは、ありがとう」

そういうと、男性は目を閉じ、言った。

「……お別れですね」

「ええ、おやすみなさい」

そして、きっかり10秒が経つ。

男性の目がパチリと開いた。

「……ここは……」

「ここは古田珈琲店。美味しい文字とコーヒーのお店です」

「文字……?あのう、僕の名前は……」

「手帳をご覧ください」

私が促すと、男性は手帳をパラパラとめくり、先程と同じ色の絶望に襲われた。

「僕は、平沢雪弘と言う、らしい」

「左様ですか」

「ああ、ここに、そう書いてある。僕は、プロレスラーで、プロレスの興行中、頭を強く打って病院に運ばれた。そして、僕の記憶は15分しか保たなくなった、と」

男性の目に悲観が映り込む。

悲観は、綺麗な翡翠色をしていた。

「なんてことだ、母さんも、父さんも、死んでしまったのか。それに僕は、結婚していた?」

私は茶を入れると、男性の目の前に置く。

「どうぞ、召し上がってください」

「……ありがとうございます」

呆然としながらも、男性は湯呑を鷲掴みにし、ぐいっと一息に茶を飲み干した。

「ふう。ようやく落ち着きました……ところで、美味しい文字というのは……?」

「この店には、不思議な不思議なノートがあります」

私は少しだけ、おどけてみせた。

「そのノートに文字を書きつけてノートを閉じ、5分待つと言葉が浮きでてきます。言葉は食べられますし、願いを書いたなら願いも叶います」

ね、不思議でしょ、なんて呟いてみる。

「……俄には信じがたいですね。野暮かもしれませんが、それは……どうしてですか?」

「そういうもの、なんです」

「……信じてみましょうか」

男性はそういうと、ボールペンを手にしてノートを開く。

その時だった。

ぽんっ、と音を立ててノートの中から文字が飛び出す。

「うわっ!」

「わっ」

私は覚えていたはずなのに、男性の声に驚いてしまった。

中から飛び出した言葉はフユキ、ユキヒロ、そして、愛。

「……フユキ……?」

男性が呆然とつぶやく。

「あぁ……そうだ。僕には娘がいるんだ。なんで、なんで忘れていたんだ。フユキ……」

男性は文字を我が子のように拾い上げる。

「……本当に触れるんですね」

「ええ、勿論」

「僕は……これは食べられません」

「それでは、私が頂いても宜しいですか?」

「……ええ、よろしくお願いします」

私はフユキを手に取ると、そっと歯を立て突き破る。

会ったこともない、顔も声も知らないまだ三歳の娘の名前。

口の中で転がすと、フユキは雪のようにとろけていく。

鼻に抜けるカカオの実のような華やかな香り。

フユキは、本当に甘かった。

100年以上生きてきたが、間違いなく一番甘い。

ミルクチョコレートに砂糖を混ぜ込み、中に練乳を封じ込めたような甘み。

これだけ甘いと、苦手な人も居るだろうな。

そう思いつつも、何処か心地よい懐かしさを覚える濃い甘さだった。

「……美味しいです。とても」

「はは、なんだか複雑ですね」

男性はそう笑うと、ユキヒロ、と愛、を半分に割る。

「私一人で食べるのも申し訳ない。店主さんもご一緒にどうですか?」

「頂きます」

私はまず、ユキヒロから先に口にする。

ほろほろと口の中で崩れるクッキーのような舌触り。

ビールに含まれるアルコールと、血、胃液の混じったような苦しい香り。

そして、苦く、しょっぱい。

もしかしたらこの人の人生は、苦くてしょっぱいものなのだろうか。

私は一口かじったユキヒロを残すと、愛を齧った。

サクッと歯ざわりの小気味良い愛。

ナッツのような香りが鼻に抜けるそれは、やはり苦かった。

ユキヒロの比ではない。

だが、香りが華やかな分、こちらの方が大分食べやすい。

私は愛を全て食べ終えると、一息ついた。

「はは、不味いな。僕も、僕の愛も」

「いえ、食べやすいですよ」

食べ残したユキヒロを袖に隠し、私は笑った。

後から食べよう。

言葉は決して残したくない。

どんな言葉であっても、どんな味であっても。

「もう少し、食べてみたい。もう少し書いても?」

男性は重たい声でそういった。

きっと、二度目の別れが近づいているのだろう。

さっきよりも大分、別れの間隔が近いように感じたのはきっと気のせいではないはずだ。

「ええ、どうぞ」と、私は言った。

男性はボールペンをノックすると、さらさら、音を立てて書きつけてゆく。

「あぁ、限界だ。くそっ」

ぱたん、とノートを閉じ、男性は目を閉じた。

しん、と耳に刺さるような静寂が訪れる。

きっかり5秒待って、男性は目を開けた。

「……ここは……?」

「ここは古田珈琲店です。美味しいコーヒーの店ですよ」

「あぁ……そうですか。なんだか懐かしい気持ちになりますね」

「ええ、お客さんは常連さんですから」

男性はぽかん、としたあとに相好を崩してみせた。

「たしかに、こんな店なら毎日でも通ってしまいそうだ」

「もったいないお言葉です」

男性は迷うように口を開きかけて、少し躊躇した後に言った。

「僕の名前はわかりますか?」

私は、少し迷った。

この人は、なんど知らぬ伴侶の存在に驚けば良いのだろう。

この人は、なんど親の死に頬を張られれば良いのだろう。

ふう、と私は息を吐く。

言おう。

この人が、そう望んでいたはずだ。

「……手帳を、ご覧ください」

「……手帳……?」

男性は暫くジャケットのポッケをまさぐる。

「手帳、どこだろう、手帳」

男性は何度か、そう呟いた。

「あ、あった」

男性は内ポケットに入っていたアシュフォード製のシステム手帳を引き抜くと、中をぱらぱらとめくる。

「……なんだか、他人事の様に感じますね」

「少しも、憶えてはいませんか」

「ええ、何も」

男性は無機質な息を吐く。

息は虚空で散らかって、消えた。

「なにか、食べるものを頂けませんか?あぁ、いえ、腹が減っているわけではないんですが」

「……ええ、分かりました。それでは、そこのノートを開いて頂けますか?」

「……?ええ」

男性は怪訝そうにノートを開く。

次の瞬間だった。

ぽんっ、と音を立ててノートの中から言葉が溢れ出す。

「あ……」

男性はそう声を漏らすと、言葉を拾い集め組み上げていった。


こんな世界に産み落としてごめんなさい。

愛している。フユキ。


「…………」

「その言葉は、食べられます。そのノートに願いを書いたなら、願いが叶う。言葉を書けば、浮き出てきて食べられる。それがこの店で出せる料理です」

男性は無言で言葉をつまむと、口へ運んでゆく。

「あぁ、苦い。苦いなぁ」

男性の目から、ぽろぽろと涙が溢れる。

「店主さん、思い出せない、何も思い出せないんです」

「…………左様ですか」

「でも、この苦味を僕は知っている気がする」

そう言うと、男性は無言になって言葉をつまみ、噛み砕いては飲み込んでゆく。

「……ご馳走さまでした」

男性は手を合わせると、息をついた。

「最後に、もう一つだけ。願いを書いても良いですか?」

「……ええ、もちろん」

「ありがとうございます」

男性はボールペンを取り出すと、さらさらとノートに書きつけてゆく。

「……これで終わり」

男性はぱたん、とノートを閉じると言った。

「コーヒーを頂けませんか」

「ええ、ただいま」

私はゆっくりと時間をかけてコーヒーを淹れる。


「どうぞ」

「ありがとう」

男性は言葉少なに言うと、血色の悪い唇にタバコを挟む。

ひび割れた唇から血が滲み、タバコの巻紙がそれを飲み込んだ。

男性はマッチを擦り、タバコに火を移す。

そしてマッチを軽く弾き、火を消した。

石が川底を転がりながら自然と磨かれていくように、何十年と続ける中で洗練された自然な仕草だった。

記憶を失った中でも、その仕草の中に以前の彼が佇んでいるのだろう。

すこし、憧れるな。

少なからずそんな感情を抱いた自分に驚く。

私が灰皿を差し出すと、男性は薄く微笑んで礼を言い、マッチをそこに横たえた。

男性は唇の端から空気を取り入れ、煙と混ぜながらゆっくりとタバコを吸う。

深く、深く息を吸い込んだ男性は、紫煙をゆったりと吐き出す。

そして、コーヒーを口に含み、飲み下した。

「あぁ、うまい」

男性は沁み入るように呟くと、灰皿にタバコの火を擦りつけて消す。

流れるように滑らかな男性の仕草の中にあって、それだけが精彩を欠いて見えた。

「……タバコは、お吸いになりますか」

男性の嗄れた声が耳の戸を叩く。

「いいえ、でも、吸ってみたいなとはかねがね思っておりました」

「そうですか」

男性は柔らかく笑うと、私にタバコの箱を差し出した。

長いことポッケの中に留め置かれていたのであろうクリーム色の箱は角が潰れ、くしゃり、くたびれている。

金色で印字されたCream Peaceの文字だけが、きらりと輝きを帯びていた。

「吸わなくても良い。ここに置いておいて頂けますか。私にはもう必要ない。マッチも置いていきましょう」

男性はそう言うと、ことり、と音を立ててマッチ箱を置く。

中の棒がからりと虚しい音を立てた。

「ありがとうございます」

私はマッチとタバコを受け取り、引き出しの中に収めた。

あぁ、と思う。

これではまるで、形見分けではないか。

この人がノートに願ったこと。

それは……

私を横目に捉えながら、男性は話し始める。

「生き方を選べない時代があったんです。田舎から出てきた学のない少年が、一発ですべてをひっくり返すには、道を選んではいられなかった」

男性はそこまで語るとコーヒーを一口すすり、そして少し惜しそうにタバコを一瞥した。

「僕は、本当は言葉を紡ぐ人間になりたかったんです。沢山本を読んで、自分の中に溜め込まれた言葉の糸を手繰り、紡いで生きていけたらどんなに良いだろうって、そう思っていたんです」

私は思わずぽかん、と口を開けてしまった。

「……記憶が……?」

男性はゆっくりと頷いた。

「ええ。なぜかは分かりませんが」

男性は私の目をしっかりと見据える。

疲れ、やれ切った、しかし一本意志の通った真っ直ぐな眼差し。

「どうも、ご迷惑おかけしました。楽しかったですよ。最後に本物の作家にもできない体験ができた。言葉を紡ぐ、真似事がね」

その瞬間、ぱあっとノートが光り始める。

男性は眦を緩めた。

「どうか、お元気で」

「待っ」

ノートを開く男性の手を、私は止めようとした。

しかし、元格闘家のそれに叶うはずもない。

男性は私の手をするり、すりぬける。

パタン

ノートが開く音がした。

現れたのは、虎。

半透明のその虎は薄い黄金色に輝き、男性をじっと見つめる。

男性はそっと両腕を広げ、死そのものを抱擁する。

男性は虎を抱きながら、目を閉じた。

きっかり、2秒。

男性は目を開ける。

何も知らぬ無垢なその瞳に、安堵が映った。

しゅわり、音を立てて男性が分解されていく。

男性は光の粒子へかわり、空へと吸い込まれ、夜に溶けていった。

ころん、と音を立てて、男性が最期まで握っていたペンが床に落ちる。

「……あ、」

私の喉から空気が押し出された。

男性がノートへ最後に書きつけた文字は、ごめんなさい。

誰に宛てたのかも分からないその言葉の裏には、たしかに死にたいが隠れていた。


「あぁ」

目の奥がじくりと痛み、熱くなっていく。

私は泣いていた。

ふと、袖の奥にごろごろしたものを感じる。

袖をカウンターへ向けて振ると、ころりとユキヒロの欠片が落ちてきた。

私は、ユキヒロの欠片を口へ含む。

滑らかに舌の上で溶けるユキヒロは、確かに甘くなっていた。

娘のそれのように。

「甘いじゃ、ないですか」

虚空へ放った言葉は、もう誰にも届かない。

がらんどうの店は、酷く広い。

雨の音に混じるように、エルトン・ジョンのタイニー・ダンサーがかかっていた。

いつまでも。

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