最果てのよるだまり

荒矢輝人

第1章 さよならモヒート

かぎかっこを、くるくる回す。

くるくる、くるくる、浮いては沈み、私の言葉がコーヒーに溶けていった。

「チョコレートみたいな香りですね」

あの人はそう言って笑う。

私は溶け残ったかぎかっこを少しだけ、嘗めてみる。

かぎかっこは、甘かった。

お米のような自然な甘み。

さしてなんの香りもしない、何にでも合う中庸な味。

「フユキさんはノートになんと書いたんですか?」

ハルさんが小首を傾げる。

ずるいな、と私は思った。

「……愛、です」

気恥ずかしさを誤魔化すように、私はコーヒーを一口啜る。

カカオのような華やかな香りが鼻を喜ばせ……途端に猛烈な苦みが舌を襲った。

「……うぇぇ」

「どうしたんですか?」

ハルさんが悪戯っぽく笑い、革手袋に包まれた指を顎に這わせながら、こちらに視線を送る。

黒縁の小さな丸メガネの奥から、澄んだ深海を思わせる鮮やかな碧眼がちらりと覗いた。

「………苦い、です。私の愛」

ハルさんは笑った。嫌なところがひとつもない、柔らかで寂しげな表情だった。

「苦い愛は現実に、たくさん存在し得ますよ。愛の形はひとつではないから」

そう言うとハルさんは私が口をつけたコーヒーカップを掬い上げると、一口呑み込んだ。

こくん、と音がする。

心臓が痛い。

熱いコーヒーの注がれたカップの表面に、ハルさんの唇の跡がくっきり浮き上がって見えた。

「とても美味しいですよ?フユキさんの愛」

そう言うと、ハルさんは猫のような目を細めて、薄く色づいた唇をゆるめた。

はぁ、と私は嘆息する。

ハルさんが認めてくれたとはいえ、である。

恋ならず、愛までも苦い。

それは、認めたくない事実だった。

あぁ、本当に。


最果てのよるだまり。

第二章 さよならモヒート



「言葉で表現できなくなった時、音楽が始まる」

ドビュッシーは、そう言葉で遺した。

少なくとも彼にとって、音楽の始まりは言葉で表現できてしまうものだったんだろう。


私は違う、私の言葉は、そうではない。

とても舌の上では表し尽くせない、地獄の釜の底を引っ掻き回すような音の塊。


言葉、言葉、言葉。

私にとって忌むべき醜悪なものであり、空想に逃げ込むための唯一の架け橋。

私が言葉を掌に納める前から、言葉はそこに存在していた。

両親が互いを口汚く罵る攻撃の手段として。



かつて言葉に殺されかけた私は、生に醜くしがみつくためにそれを利用した。

私にとって言葉は武器であり、道具であり、それ以上でも以下でもない。

結局のところは、私も言葉で武装しないと生きていけない人間だった。

かつての両親のように。




それを愛おしいと、初めて思わせてくれたのはあの人だった。



誰にだって一番旧い記憶というものがある。

ある人にとっては20年前。

ある人にとっては100年前。

15分前という人だって世界にはいるだろう。

私にとってのそれは12年前。

私が、たった3歳の時だった。


話は遡り半年前。


「行ってきます」

私は誰もいない部屋へと言葉を投げた。

消されたテレビ、締められたガスの元栓。

静まり返った、死んだ部屋の中。

言葉は当然、誰にも受け取られることなく部屋に置き去りにされる。

そうして積もり積もった言葉に圧されるようにしながら、私は今日を生きていた。

部屋を出て鍵穴に鍵を差し込む。

かちゃり。

鍵穴に鍵が差し込まれる音。

その音がいつも置き去られた言葉を萎ませる。

かちゃん。

ひと思いに鍵を回し、私は言葉へ止めを刺した。

二階建ての集合住宅。

手すりも、青いマットの敷かれた鉄の床も、不憫なほどに錆びている。

てかてかとした硬い雪に太陽が反射し、酷く暑苦しい笑みを向けてきた。

私は、朝が嫌いだった。

だって体育教師のようじゃないか。

頼んでもいないのにお節介な光を浴びせかけ、皆を引っ叩いて起こす。

正義みたいな物でパッケージングされたそれは、明らかに暴力だ。

何より朝が来ると学校に行かなくてはならない。

体育教師に見張られながら向かう学校ほど嫌なものはない。

私の人生には、嫌いなものが多い。

朝、学校、教師、親、クラスメイト。

閉じた輪の中で延々狂っている烏合の衆。

奴らの言葉には、まるで重みが無い。

私は笑った。泣きたいくらいだ。

軽口とはよく言ったものじゃないか。

かん、かんかん、かん、ざっ。

私は階段を降りる。

そして、死刑囚のような気持ちでバス停へ向かった。


ぷしゅう、と音を立てて、バスの床が沈む。

眼の前には高校。砂上の楼閣。

「ありがとうございました」

私の背で、バスの扉が閉まった。


外は寒い。

背中に寒が突き刺さる。

空気が恋しい。

新鮮な空気が。

私は震える背を曲げ、ゆっくりと浅く、何度も息を吸う。

冷たい、冷たい空気。

それだけで背に突き刺さった寒は血と馴染み、溶けていく。

溶けた寒が喉へと回り、声を奪う。

代わりに押し出された白息に、唇が震えた。


大丈夫。私は生きている。

だってこんなに痛いじゃないか。

怖くない。あんな奴ら、怖くない。

(うるさい。黙れよ)

私は鞄から筆箱を取り出す。

大事な、大事な万年筆の入った筆箱。

上から撫でると、少しだけ息ができた。

世界から遅れること、きっかり半周。

私は、歩き出した。



がらり、音を立てて教室のドアが開く。

同程度の知能を持った15歳が、ぎちぎちに押し込められた狭い鶏小屋。

呆けたようにべちゃべちゃ鳴いている鶏たちが一斉にこちらを向く。

誰も、何も言うことはない。

教室は私などなかったかのように、直ぐに元に戻る。

水面に放り投げられた石が水底へと沈み、後には何も変わらなく見える。

私は、異物だ。

紛れもない、異物だ。

私は思わず笑いそうになった。

奴らが何も言わないので、当然、私も何も言わない。

すたすたと歩き自分の椅子へと座る。

前でぺちゃぺちゃ鳴いていた鶏Bが口だけを動かして言う。

感じ悪ぅ。

言ってろ。鶏。

そのうち締めてやる。

古びた音響からガサついたチャイムが鳴る。

長い一日が、ようやく始まりを告げた。


私は針でできた椅子に凭れる様にして、念仏のような授業を聞く。

老齢の女性の数学教師だった。

凛と背筋の伸びたしっかりした先生で授業も分かりやすいものだったが、生憎となにも頭に入らない。

誰かのあくび、教科書をめくる音。

シャープペンシルがガリっと音を立てる。

前の席で鶏Bがフーセンガムを破裂させる音がした。

「せんせー」

声を上げたのは鶏Bだ。

「なんですか」

「ビブンセキブンってなんの役に立つんですかー?せんせーより役に立ってますー?」

ぎゃははっと鶏たちが一斉に喚く。

いっそ怒鳴り散らしてやろうか。

般若のような面で怒髪を天へと衝きたて、気が狂ったように喚けばなにかが変わるだろうか。

心にノイズが走る。

その時だった。

「微分積分は社会に出たら役立たずです」

真ん中に意志の通った声がレーザーのように伸びていく。

鶏たちが喚き始める前に教師は更に続けた。

「ですが、それすらできない人間はなんの役にも立ちませんよ」

ぴしゃり、鼻っ面を引っ叩くような言葉に、鶏たちは押し黙る。

世にも珍しい、恥を知った動物。

死ぬまで忘れないといいね。

チッ、と捨て台詞のような舌打ちが響く。

そのあとは、つつがなく授業が終わった。


「あ゛ーッ!ムカツクムカツクムカツク!!!」

昼休み、鶏Bは荒れていた。

「あんのババア馬鹿にしやーッて!」

「落ち着きなよぉ、直美ぃ」

鶏Bの名前はナオミというらしい。

鶏には過ぎた名前だろうか。

鶏Bは私の前に立ちはだかる。

「どけなよ。あたしそこ使うから」

どけなよと言われてもこの椅子は私に割り振られたものだ。

私に使う権利があるのが当然だろう。

だが鶏に人間の言葉が通じるはずもない。

私は黙って弁当を取り出す。

「あー、そう。そういう態度取るんだ」

はーッと鶏Bが息を吐く。

「じゃ、いいわ。あたしここ借りるから」

そういうと、鶏Bは私の机の前側に移動する。

嫌な予感が背筋に爪を突き立てる。

私は机の前においていた筆箱をひったくろうと手を伸ばす。

だが、遅かった。

一足先に鶏Bが筆箱の上に小さな尻でもって力いっぱいのしかかる。

ひしり。

なにか、なにかが割れた音がした。

「なにを……ッ!」

慌てて筆箱をひったくる。

見る見るうちに筆箱から真っ青な血が流れてくる。

血が止まらない。血が。

万年筆が折れたのだ、と気づくのにそう時間はかからなかった。

「サイアクー!スカート汚れたんだけどー」

スカートをびらびらさせてゲラゲラ笑うナオミ。

私はナオミを思い切り突き飛ばした。

「痛ッ!なにす……」

尻を強か打ったナオミの声が途切れる。

私から、涙が切り離されて、床に落ちた。

その音すら、もう聞こえない。

「あんた……泣い」

パチッ、と平手打ちの音がした。

私が引っ叩いたらしい。

ナオミの頬っぺたに紅葉の花が咲いた。

綺麗。そのまま死ねばいいのに。


血が全部頭に流れた。

紫色だったら良かったのに。

痛みがあれば良かったのに。

ぜんぶ、ぜんぶ消えていく。


世界が逆さになる。

ふわり、空に吸い込まれて、私はどうやら倒れたらしかった。


目が覚める瞬間は、いつも白っぽく世界がぼやける。

知らない天井。

保健室かな、ぼやけた頭で思う。

隣から、母親の声がした。

「はい、はい、すみません」

仕切りで守られたベッドの中は比較的安全だ。

人の目に晒されることがない。

その外に出て、何かと対峙するのはとても怖い。

私は仕切りから出る。

疲れ切った母親の顔が、そこにはあった。

「帰るよ」

ため息をつきながら、母親は言った。


91年式カローラの中は酷く息苦しい。

それは内気空調のせいではないだろう。

「同級生、引っ叩いたんだって?」

「それは……」

言い淀んだ。

虐められていると言ってしまえたら。

母親は私が大事に抱えているペンケースを見やった。

「万年筆、折れたんだ?」

「……うん」

「お父さんの万年筆、捨てたと思ってたけどアンタが持ってたんだね」

「……うん……」

「ねえ、フユキ」

母親は言った。

「母さんに引き取られて良かった?」

何に答えることもできずに車は走っていく。

分厚いタイヤが小石を跳ね飛ばす音がした。


家について、母親の作ったたらこパスタを二人で食べる無言の食卓。

塩分がたくさん入っているはずのそれは、もそもそとした塊にしか思えなかった。

いつもこうだ。

食べ物はいつもモソモソしていてゴムの切れ端をたくさん突っ込んだみたいだ。

かといって塩を増やせば塩の塊を食べているような痛々しい食味が私の味蕾を突き刺す。

どうしようもない。

どうしようもないんだ。

「ごちそう様でした」

結局全部食べきることはできずに七割方残してしまった。

私が無駄にした命はどれくらいあるんだろう。

よせばいいのに、たらこ、大体何粒などと調べてしまう。

20〜30万粒、という結果が出てきて、更に心が重くなる。




コーヒーでも飲もうか、と思案する。

母親が喫煙者なので、コーヒーのパックは常に常備してある。

私はコーヒーを入れると、部屋へ引っ込んだ。


一人きりの部屋の中で、私は恋愛小説を読んでいた。

私が小学生の頃、その小説はまだ書籍という形では世に出ていなかった。

ネット連載。

きっかり週に一回更新されていたその小説を、私は貪るように読み続けた。

不思議なカフェを舞台にしたその小説が書籍化されたときは、本当に驚いた。

本当に好きな物語ではあったけれどかなりマイナーな小説だったし、ブックマーク数もそんなに多くなかったように記憶していたからだ。

学校帰り、駅前の丸善ジュンク堂で私は再びその本と巡り合う事になる。

私はページを開き、文字を咀嚼していく。

文字が滑る。

言葉の塊が、ところてんのようにぐにゅりと脳から押し出されていく。


そんなの、ひどい。

小説を読まないで生きていけ、なんて、私に言わないで。

私は冷めきって酸っぱい匂いになったコーヒーを口に含む。


苦い。

あまりにも苦い。

コーヒーとはこんなに苦い飲み物だっただろうか。

ただ苦いだけ。

ただ苦いだけのかたまりだ。


もどしそうになって、私は慌ててトイレへ駆け込んだ。


じゃーっと、命の流れていく音がする。

結局頑張って三割食べたパスタはコーヒーと一緒にほとんどトイレへ流れていった。

コーヒーの苦味、たらこのえぐ味に胃液の酸っぱさが加わる。

最悪のマリアージュだ。


「死にたい」

限界だったのだろう。

私はそう呟いた。

呟いてしまった。

とさり。

母親の手から、畳み掛けの洗濯物が落ちる音がした。

「大丈夫、フユキ」

母親は私を抱きしめる。

「大丈夫、明けない夜はないから、大丈夫。必ず朝が来る。神様は見てるよ。一緒に頑張ろう」

母親の口から吐かれる言葉は溶けて嗚咽と混じり、境目なんかわからなくなる。

あぁ、と私は思った。

この人は私を愛してはいないんだな。

私を愛する、自分が好きなんだろう。

だって今、世界でこの人だけが泣いている。

私だって泣けないのに、この人だけが。

「ごめんなさい」

そう言って私は母親の腕をすり抜けた。

「出かけてくるね。泊まってくるから」

「どこに行くのよ」

直ぐに素面に戻った母親が怪訝そうな顔で聞く。

一瞬言葉につっかえた。

「……ナオミの家」

とっさに出たのは、あいつの名前だった。

答えを待たずに鍵をひっつかんで家を出る。

一刻も早く、息がしたかった。

ガチャリ。

ひどく剣呑な音を立てて鍵が閉まる。

言葉が、萎んでゆく。

私から切り離すことすらできずに。


私は階段を降りた。

足裏にスパイクのついた長靴がひどくうるさい音を立てる。

後ろで扉がたたかれる音がする。

誰の家だろう。

聞こえない。

聞こえない。

私は走り続けた。

いつのまにか駅前に付いていた。

ポケットには500円玉がひとつ。

そして、息絶えた万年筆と、恋愛小説。

コンビニも飲み屋もホテルも空いている。

でも何を食べる気もしない。

財布を忘れてきた。

でも帰りたくはない。

重たい足を引きずって私は神社に向かった。

神社なら変な人は寄ってこないだろうと、甘っちょろい考えをぶら下げて向かった。

少し眠ろう。

そう思っていた。

ふわり。

裏路地との境目に足を踏み出した私の鼻をくすぐるコーヒーの香り。

馥郁と心を含んだようなその香りが、私の絡まった心を少しだけ解いた。

どこから漂ってくるんだろう。

財布を持ってもう一回来たいな。

そう思って私は香りの元を辿った。


裏路地の奥の奥。

そこにその店はあった。

"古田珈琲店 営業中"

温かみで満たされた店内から漏れる明かり。

木製の看板がかけられたドア。

上半分を占める天国みたいなステンドグラス。

そこは、小さな幸せで満ちた空間なのだろう。

小さい頃にかかった小児科の先生の言葉を思い出す。

幸せってなんですか?

吐き捨てるように言った私に、先生は笑った。

「お日様が暖かいとか、お布団がふわふわとか、そういう小さなものが幸せだよ」

私が欲しくてたまらなかったものは、そんなものだったのか、と気づいたとき、深く絶望したのを今でも覚えている。

私はドアの取っ手に手をかける。

この先に、幸せがあるのだろうか。

そのままドアを開けかけ、私はゆっくりと手を離した。

いや、駄目だ。

こんな上品そうな店のコーヒー、きっと500円じゃ全く足りない。

私は踵を返す。

やっぱり神社に向かおう。

寒いけれど、死ぬことはないはずだ。

その時だった。

店の中から音楽が聞こえた。

酷く情報量の多い音。

録音されたスタジオの空気さえ含んだ生々しい音質。

息遣い、命、全てが込められた焼けたような声。

私は確かにその曲を聞いたことがあった。

遠い昔、まだ父親が失踪する前の事だ。

私は弾かれるようにドアを開いた。

きっと騒々しい音が鳴ったはずだ。

「……あ」

私は自らの所持金を思い出す。

「す、すみません、帰ります」

そう言ってドアを閉めようとしたその時だった。

「お代は要りませんよ」

りん、と冬の朝に手を打ったような声が通る。

店の奥を見やると、こちらへと歩いてくる人が見えた。

灼鉄色の髪、小さな黒縁の丸眼鏡を挟んだ向こう側に、深海から覗く青空みたいに澄み切った瞳。

背丈は176cmくらいに見える。

品の良さそうなジャケットは酷く古い作りの男物で、しっかりと引き締まった肉体にひたりと寄り添っている。

切れ味鋭い美貌に自信をまとわせたその人は、とても日本人には見えなかった。


「お初にお目にかかります。古田春と申します。外はお寒いようですね。どうぞこちらへ」

言葉が全て粒立っていて、夢の中でも聞き取れるような声。

「こんばんは、ええと、平沢冬優姫です」

深層に蓄えられた感情がわずかに表に出てきたような驚きが、ハルさんの表情に浮かぶ。

私は導かれるように店の中へ入る。

そしてハルさんがスマートに引いてくれた椅子にすとんと腰掛けた。

まるで初めて水の中に入った魚みたいな気持ち。

息が出来るって、こういうことなんだ。

「まずは……そうですね。コーヒーでも淹れましょうか」

ふつつ、こぽこぽ、音が鳴る。

ハルさんが湯をコーヒー粉に注いだ瞬間にふわっと香り立つコーヒーの匂い。

香ばしくて、くすぐったい香りが店の中に満ちていく。

「どうぞ」

ことり、と置かれたカップ。

私は持ち手を左側に引き寄せて、音が出ないようそっと持ち上げた。

一口含むと、渋い味すら包み込んでしまうほどの香りが花へまっすぐに抜ける。

「…………おいしい……」

美味しかった。

明確に味を感じた。

香りが生きていた。

「……おいしい……っ……」

ぽろり、とこぼれ落ちた涙。

涙はすぐに嗚咽へ変わった。

何度も何度もしゃくりあげてしまう。

喉の奥が攣りそうになるほど、泣いた。

それを、ハルさんは何も言わずに見つめている。

あぁ、それにしても。

泣きながら人の顔色を伺っている自分が本当に嫌いだ。

「……落ち着きましたか」

あれから10分ほどだって嗚咽の波も少しずつ引いてきた。

「はい、すみません」

まだ赤い鼻をすすり、私は言った。

「……この店では、デザートはご自身で作っていただきます」

喫茶店とは、そういうものなのか。

素敵だな、と思った私の目の前に、古びたノートが置かれる。

ノートとデザートに何の関係があるのだろうか。

「あの、これは?」

「願いをを叶えるノートです。このノートに書かれた願いは現実になり、このノートに書かれた言葉は浮き出てきて、食べられます」

「はぁ」

よく知らないが、そういうコンセプトのお店もあるのだなと思った。

そして、思い出す。

「私のペン、壊れちゃってて……」

「見せて頂けますか?」

ハルさんは真っ二つに折れた私のペンを手に取る。

青みがかった夜の海のように滑らかな胴軸に、ステンレスでできた中字のペン先。

「これ、お父さんのペンで……お母さんがお父さんとの結婚祝いに送った……大事なペンなんです……でも……」

「……ペン先はさして傷んでいませんね。吸入器は別体ですか……これがコンバーターってやつですかね……Eボンドでくっつけたあと……」

私の言葉も届かないほどに深く考え込んだ後、ハルさんは結び目が解けるように笑った。

「直りますよ」

「……本当ですか!」

この人なら本当に直してくれるだろう、という信頼感のある人だった。

「……好きにしても宜しいですか?」

ハルさんは私の目を覗き込む。

空色の目は、まるで獲物を捕食しようと狙う猛獣のように野蛮に輝いている。

こくん、と私は頷いた。

ハルさんは万年筆の首を外し、液体接着剤で胴軸のヒビをくっつける。

そしてハルさんはペン先を調整し始めた。

ルーペで覗き込み段差を揃え、軽く耐水ペーパーで磨き、金磨き布でバフかけをする。

その間ハルさんは何度もこちらを気にして、コーヒーを淹れ直してくれた。

「どうでしょう?」

そういうと、ハルさんは小さなインク壺を用意してくれた。

私はつぷん、とインクをペン先に纏わせる。

そして、回転吸入器をくるくると回してインクを吸い上げた。

ペン先は黒みがかった青色のインクでどこか艶やかに濡れていた。

さらさらした細字の万年筆。

私は静かな音を立てて斜線や直線を引いてみる。

さり、さり、さりっ。

ぞくり、と背筋を何かが走った。

恐ろしいほどに気持ちがいい。

する、するり、私はノートに文字を書く。

自分の名前、年齢。そして、恋という文字。

もっともっと書きたかったが、我慢した。

「もう、宜しいですか?」

私は、頷いた。

ハルさんは、ぱたん、とノートを閉じる。

「5分待てば、言葉が浮かんできます」

そしてハルさんは不思議そうに聞いた。

「願い事は書かれなかったのですね」

「はい……その、うまく言えないんですけど……」

口ごもる私を、ハルさんは何も言わずに見守る。

「それっきりになる気がして」

ハルさんがわずかに目を見開いた気がした。

「…………そうですか……フユキさん」

「は、はい」

ハルさんがなにか口にしようとした、その時だった。

ゆっくりとノートが開いてゆく。

紙面は眩いくらいに輝き、言葉がゆっくり浮かび上がった。

「……うわ……すごい……」

ここまで来てようやく理解した。

私はお伽噺の世界にでも迷い込んだらしい。

「…………頂きましょうか」

「……はい」

私は恋を、ハルさんは私の名前を手に取る。

そして、同時に歯を突き立て、言葉を噛み破った。

さくっと音を立て私は恋を半分齧る。

まずパイのように何層にも重なった生地感のある快い食感。

そして果実のような馥郁たる香りが鼻へ抜け……そして私は思わず恋を吐き出した。

苦い、苦いのだ。

私の恋が苦い。

私は目頭から涙がじくじくしみてくるのを感じた。

なんでこんなに泣いてしまうんだろう。

そう思ったが、涙は止まってくれない。

「……うぅー……」

私は両手で恋を摘みながら泣き出してしまった。

私のなのに。

私の恋なのに。

私の口には合わないんだ。

「お口に合いませんでしたか?」

頭の上からハルさんの声がする。

「にがい、私の恋、にがいん、です」

しゃくり上げながら私は言う。

ハルさんは、私の手から恋を掬い取った。

そして私がそうするよりも大事に恋を扱い、一口齧り取る。

「大丈夫。美味しいですよ。香りが良くて、さくさくしていて、とても美味しいです」

「なんっ、で……っ……」

そんなに、優しいのか。

そう言葉は続くはずだった。

「…………年の功、ですかねぇ」

しばらくして緯度のずれた答えが返って来る頃には、私の嗚咽も止んでいた。

「落ち着きましたか?」

ハルさんは口元に私の恋を貼り付けたまま笑う。

「……ついてますよ」

そう言って、私も笑った。

ハルさんは、口元についた恋を摘み取ると、口へ運んだ。

私の恋、全部食べてくれたんだ。

私も食べられなかったのに。

別段私が産み出した訳でもないのに、変な感情が湧いて出てきた。

「……ボンドが乾いたら、またいらっしゃってください。そうしたら……」

「そうしたら?」

「傷跡に金箔、貼っちゃいましょう」

それは、古傷にタトゥーを施すような、素敵なアイデアに思えた。


「……はいっ!」

私は頷いた。

さっきまでの私が、今の私を見たら軽蔑するだろうか。

きっとするだろう。

他人に心を開き、あまつさえ背には振られる尻尾さえ見えそうな始末。

(でも……)

どこかで、それでも良いや、と思う私がいた。





2回目に店を訪れたとき、ハルさんが言った。

「煙草、吸っても良いですか?」

「はい、もちろん」

ハルさんはその言葉を聞くとジャケットからくしゃくしゃの紙箱を取り出し、濡れた唇に紙タバコを挟み込むとマッチを擦る。

イオウの香りがツンと鼻を触った。

ハルさんはパシッとマッチを弾き、火を消す。

ゆったりと肺まで煙を吸い込み、紫煙を吐きだすハルさん。

ハルさんをくるんでいるぬるい煙が、私の方まで漂ってきた。

ひどく懐かしい、甘い香りがする。

煙はすでにハルさんから切り離された全く別個体のものであるはずなのに、それすら妙に色づいて見える。

「万年筆の調子はどうです?」

「すっごく良いです。本当に気持ちよく書けます。ただ……」

「ただ?」

「書きすぎてインクが……」

ハルさんは微笑んだ。

まどろんだような笑みの端っこで、タバコがかすかに揺れる。

「なら、また入れていけばいい、でしょう?」

「……そうですね」

ハルさんはカウンターから小さなインク壺を取り出した。

ことり、と厳かな音が鳴る。

ハルさんがゆっくりと蓋を開けた。

中に、たっぷり夜が溜まっている。

もうここにしか、夜は無いのかも。

そんなことを思いながら、自分の詩的感性の鈍さを恥じた。

私はゆっくりとペン先をインクにつける。

この瞬間、この瞬間が一番、高揚と緊張のないまぜになった不思議な気持ちになる。

回転吸入器のノブを回す。

ぷく、ぷく、音を立てながらピストンが空へ降りていく。

再び上がってきたとき、ピストンは夜を連れてきた。

ふ、と息をつく。

そして、私は胴軸を戻した。

「……緊張したぁ……」

「……ふふっ、はじめのうちはそうですよね」

ハルさんの喉奥でくつくつと音が鳴る。

「……約束通り、簡易的ですけど金継ぎしちゃいましょうか」

「やった!」

この空間、この空間にいるときだけが、本当に幸せだった。

私は、幸せを手にしたと本気で思っていた。


5回目に店を訪れたとき、私のお腹はデモを起こしていた。

くるくると鳴り、給料を寄越さねば死んでやると喚く。

カウンターに突っ伏す私を見かねてハルさんが言った。

「なにかお作りしましょうか?」

「いいんですか?やったぁ」

カウンターから顔を上げると、ハルさんはデニム生地のエプロンを身につけている所だった。

「まぁ、ここから出る頃にはお腹空いちゃってると思いますけどね。ナポリタンならすぐ作れますよ」

「お願いします!」

ハルさんは手際よく玉ねぎを切っていく。

小さく、みずみずしい玉ねぎ。

泥がついたままのそれは、昨日採ってきたばかりのように見えた。

さく、さく、音がする。


ハルさんはオリーブオイルをフライパンの肌から注ぎ、温めると玉ねぎをぱらりと落とし、ぷりぷりのソーセージをそこに加えた。

ソーセージはたっぷりと太っていて、私が普段スーパーで見るものとはまるで違っている。

熱々のフライパンの上でソーセージが踊る。

じゅわぁっと音を立て、鍋肌でソーセージの油が弾ける。

ぱちぱち、ぱちぱち、幸せが音を立てる。

玉ねぎがきらきら光って透き通る。

ソーセージが油をまとって本当に美味しそうに照っていく。

ハルさんはそこにケチャップをたくさん、たっくさん入れて、ゆっくり煮詰めていく。

ふつふつ、くつくつ、幸せの色が変わる。

食欲をそそる香りが心の奥をみたしていく。

色が沈んで食材がまとまってくると、ハルさんはそこへ固めに茹でたスパゲティを加えた。

火にかけながら、スパゲティを具材と和えてゆく。

スパゲティが陽だまりみたいな鮮やかなオレンジ色に染まっていった。

「どうぞ」

そう言ってハルさんは黒い陶器の皿にスパゲティを盛り付けてくれる。

「箸しかないですけど、これで良ければ」

「いえ……本当に、美味しそう。いただきます」

私は箸にスパゲティをくるくると巻き、口へ運ぶ。

甘酸っぱいケチャップがたっぷりと絡まったソーセージから爆弾みたいな旨味が弾ける。

じゅわり、口の中で川みたいに流れる肉汁で流し込むようにスパゲティを頬張った。

こんなに沢山肉汁を摂取しているというのに果実のように華やかなオリーブオイルのお陰で全くしつこくない。

「ふわ…………おいひ…………」

私は間抜けみたいな声を上げ、スパゲティを次々口へ運んでいった。

鼻の奥がつんと痛む。

スパゲティは、なんだか小さい頃見た夕焼けみたいな味がした。

「母さんは」

「はい」

「母さんは、私の事、愛していないと思うんです」

こんな言葉、ご飯を不味くするだけだ。

そう思うのに、言葉は止まってくれない。

「私、母さんに死にたいって漏らしたことがあるんです。その時も私をダシにして自分の世界に浸ってて……本当に嫌い、本当に嫌いなのに……」

涙がこぼれそうだった。

鼻の奥がツンと痛む。

鼻と口の間が、少しだけしょっぱい。

「なのに、家族を好きになれない自分が一番嫌いなんです。なんというか……正しくない感じがするんです、幸せそうな家庭をみると苦しくなるんです」

ハルさんが丸渕メガネの奥で目を細める。

そして、言った。

「殆どの人間は簡単に親になれるが、子供が皆生き残る訳では無い」

「……誰の言葉ですか?」

「……わたしの言葉じゃ、ありません。ここに来店された方の言葉です。彼もまた、子を持つ親でした」

私は少し驚いた。

てっきり、子供側から発されたなけなしの礫のような言葉だと思っていた。

子を持つ親がその言葉に至るまで、どれ程の痛みを伴ったのだろうか。

「そろそろ、呪いを解いても良い頃なのではないですか?」

ハルさんが穏やかに言う。

まさに、そう、紡ぐような、滑らかな音の連続。

「呪い?」

「ええ、フユキさん」

ハルさんは、私の目をしっかりと見つめる。

どこまでも真剣で、どこまでも優しい。

「貴方は、幸せになっていいんですよ。義務ではないけれど、貴方の大事な権利のはずです」

あぁ、駄目だ。

泣いてしまう。

そう思ったときには、ぼろぼろと涙がこぼれてきた。

「……ハルさんっ……」

「はい、なんですか?」

「私、幸せになります……っ……」

泣きながら、私はハルさんに向かって宣言した。

ハルさんは、喉の奥で鈴を転がすようにして笑っていた。


食べ終えて店の外に出ると、すうっとお腹が空いてくる。

でも、暖かい食卓の記憶が消えるわけでは無かった。


それから何度も何度も、私は店に訪れた。

ハルさんは相変わらず文字しか口にしなかったし、私もそれを疑問に思うことはなかった。

そういうもの、とは全く便利な言葉だ。

それから半年が経った。

いつも通り、私は店に訪れる。

違うのは、格好。

私は結局ほとんど汚れることのなかった制服を身に纏い、古田珈琲店のドアを開こうとしていた。

左手には卒業証書の入った筒。

手をかけ、扉を引く。

きぃ、と蝶番がきしむ。

ドアの先には、いつも通りの微笑をたたえたハルさんが、いつも通り読書をしていた。

心臓が跳ねる。

鼓動が、うるさい。

当然だ。

私は今からいつも通りを打ち破るんだから。

「いらっしゃい。フユキさん」

ひらり、革手袋のはめられた手が踊る。

私はその下の、裸の指を知っていた。

「いらっしゃいました。ふふ」

私は照れくささのかわりにふ、ふ、と二度、息を口から追い出した。

「今日は何をかけますか?ヴォーン・モンローのオールド・ソルジャーズ・ネバー・ダイ?それともチェット・ベイカー・シングスが良いかな?」

「ええと……いえ、何もかけなくていいです」

「おや、珍しい」

ハルさんは戯けたようにわざとらしい表情を作ってみせる。

けれど、私の真剣な表情に気づくと直ぐにいつもの真っ直ぐ相手を射抜くような目に戻り、私の継げぬ二の句をじっと待った。

言葉が喉に刺さったようだった。

「卒業、したんです」

痛みを伴うほどの時間の後、私はようやくそう一言だけ言うことができた。

「……おめでとう」

「……それで、あの」

「……うん」

「入学式、来てほしいな……って……思ったん……です、けど」

痛いほどに優しい目のまま、ハルさんは言った。

「……ごめん、それはできない」

「……そう、ですか」

少なからず落胆はあった。

だが、次に発されたハルさんの言葉が落胆を驚愕で上塗った。

「私は、ここから出られないから」

「…………え?」

一瞬、息が止まる。

今ハルさんはなんと言った?

「君には、もっと早く伝えておくべきだった。私は生まれてこの方、この店から出たことがない」

「生まれてこの方……って……?」

虐待、ネグレクト、様々な言葉が頭をよぎる。

私の心を見透かすように、春さんのまなじりが寂しげに細められる。

「……私、こう見えて結構長く生きているんだ。君のお祖母さんやお祖父さんよりもきっと長く。付喪神って、知っているかい?」

「……ええ、聞いたこと、あります」

「私が生まれたのは、戦争が起きる少し前……だから……110年か、それくらいの年月を重ねてきた」

にわかには信じがたかったが、ハルさんの眼は真剣そのものだった。

「この店の中と外で時間の流れが違うのもそういうこと。私は、先代に生み出された一本のペンなんだ」

ハルさんは厳かに語る。


ハルさんは引き出しを少しだけ開くと、一本のペンを取り出した。

ぬらりと妖しく光る漆の塗られたエボナイト軸のペン。

よく手入れされた黒猫の毛並みのような艶のあるその軸は、黒に幾重にも黒を塗り込めて作り上げられたような極めて純粋な黒色をしていた。

「見える?これが、私。私とこのペンは一蓮托生なんだ」

「ハルさんは……」

私は短い間に何度も逡巡した。

「つらく、ないんですか。外を知らずに生きてきて……」

言葉を選び、やっと出てきたそれは、酷く凡庸なものだった。

「辛いよ。でも元のペンに戻るよりはずっと良い」

ハルさんは目を伏せてそう言った。

「……そんなの……酷いです……勝手ですよ。ハルさんのお父さん……私が……」

「君には、何もできないよ。フユキさん。君は幸せになるべきなんだ。もうここには来ないほうが良い」

ハルさんは、心を閉ざすように私に背を向けた。

「私、絶対に迎えに来ます」

「あぁ、期待しないで待ってるよ。君がまたこの店を見つけられて、私が一本のペンに戻ってもいいと思えるようになったら」

ハルさんの声は、震えていた。

「私を……ここから」

「はい、必ず」

私の背で扉が閉まる。

その日から私は、古田珈琲店を見つけられなくなった。

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