33話


 僕らは地下金庫の隠し金庫の前に立っていた。あの日から変わらず、薄暗くてカビ臭い。床のタイルを外すと、小さな戸があり、英語のキーボードが埋め込まれている。キーボードの上に二股に分かれた笛の記号と、翼の生えた女性が描かれてある。

「上原さんはこの中にあるものを取りだそうとしてたんだよ」

 僕が言うと、アテナは呆れた。

「それはわかってるわよ。でも、パスワードがわからないから、開けられなかったって漱石が言ってたじゃない」

「その通り。そして、この金庫のパスワードは至極簡単だ。上の記号に答えが書いてある」

 僕の言葉にアテナは首を傾げた。

「ギリシャ神話を知っていれば、誰だってわかるパスワードだったんだ。この前、図書館で推理をしたついでに調べたんだよ。翼の生えた女性の記号は『ニケ』。翼の生えた勝利の女神で、女神アテナの化身ともされている。そして二股に分かれた笛の記号は『アウロス』。女神アテナが作った自作の楽器で、それを神々の前で演奏すると、彼女は頬が膨れて醜くなり、嘲笑の的にされたんだ。美に敏感だった彼女は笛に呪いをかけて、捨てたって話がある」

 僕は隠し金庫のパスワードを打ち込んだ。

『nike』、『aulos』

 すると、錠が開く音がする。

 僕は上原宅に伺った時のことを思い出していた。

 ——本当はアルバム以外にも学校で作った作品とかあれば、いろいろ思い出せるんだけど——

 戸を開けると、大きいビニール袋が出てきた。中を検めると、彼女の小、中学校時代の通知表や、図工の作品が入っていた。

 それを見たアテナは驚いていた。

「こんなものが入っていたなんて……」

「そう。上原さんはお金じゃなくて、アテナの思い出を取り出そうとしていたんだよ」

 僕が言うとアテナは少し泣きそうになっていた。

「……私はね、死んで幽霊になった瞬間に、私の人生は、後に何も残せなかったって思ってたんだけど……だけど、私の生きてきた軌跡を思い出そうとしてくれた人がいるってわかって……それだけで、私の生きている意味はあったって、思えるわ」

 アテナは目尻の涙を拭った。

「僕もきっと忘れないよ。アテナのことをきっと忘れない」

 僕が言うと、アテナは照れていた。

「あっ。懐かしいわね」

 アテナは通知表を指差した。僕はそれを開けると、体育以外は全部パーフェクトだった。

「すげえな」

「でしょ?」

 アテナは得意げな顔をしていた。

「なんでもナンバーワンになりなさいって帝王学をお父様から叩き込まれたのよ。だから定期テストも学年で一番だったわ。だから、体育だけ悔やまれるわね」

「へえ。僕はそんなこと言われなかったな。むしろ、親父があんなんだから、オンリーワンを目指せって言われたよ」

「いいお父さんじゃない。私はナンバーワンを目指し続けて、取り続けたけど、でも、テストや成績なんて学校だけでしか通用しないじゃない? それに、ナンバーワンを取った後、それ以上の目標を見つけられなかったのよ。だから、嬉しかった反面つまらなさもあったわ。そのせいで私は密かにオンリーワンにこだわっている節はあるのよ。オンリーワンっていえば、私は物語の主役に憧れていたわ……」

 アテナは遠い目をして語った。

「あっ。懐かしいもの見つけちゃった」

 アテナは四つ切り画用紙を指差した。僕はそれを取り上げた。

「あけみの似顔絵だ。中学の美術の授業の時に書いたやつね」

 アテナは苦笑いを浮かべた。その絵はお世辞にも上手いとは言えないが、筆使いや、色遣いが丁寧で、優秀な作品であることは間違いない。

「よく書けてるよ」

「うん。下手だけど。私なりにはうまく描けたと思ってるわ」

 アテナははにかみながら話した。

 僕はあけみの似顔絵を見て、彼女がなぜ、親友のアテナを殺そうとしたのか、理解できなかったし、たとえ、彼女の話をきいても理解できるとは到底思えない。だけど、ぼくはそれを確かめたいと思った。

「……僕さ、あけみちゃんの面会に行こうと思ってるんだ」

「はあ? どうして?」

 アテナは驚いた。

「僕は事件を俯瞰で解決してきたんだけど、やっぱり当事者の話を聞いて、僕なりに事件を整理したいんだよ」

 僕が言うと、アテナはしばらく考え込んで、

「……まあ、いいんじゃないかしら?」

 彼女は子どものように唇を少しだけ窄めた。僕は彼女の表情を見て、やはり、アテナの中で、なにか素直になれないものがあるんだと思った。

「アテナは伝えたいことはあるか?」

「私? そうね……」

 アテナは考えこんだ。

「やっぱり……私はあけみのことを一生許すつもりはないから、かける言葉もないわ」

「本当に? それでいいの?」

 僕は聞き返した。

「そうね……」

 アテナは複雑な顔をした。

「……ちゃんと反省して、罪を償ってって伝えてくれるかしら?」

「うん、きっと伝えるよ」

 僕が微笑むと、アテナも笑顔で返した。あの手紙の一件が無ければ、そのまま事件が解決して、アテナとあけみは一生交わることがなく終わっていたはずだ。だけど、彼女の心の中に、あの出来事が教訓として刻まれているのだろう。それに、アテナにもゼロにちかい数の割合であけみを許したい気持ちがあるのだと思って、安心した。

「……でもね、私はちょっと心配しているのよ」

 アテナは不安げに切り出した。

「何を心配してるの?」

「あけみはこれから刑務所で反省して、出所するわけじゃない? 出所した後に、あけみはどこに行くんだろうって思ったのよ」

「ああ、なるほど」

 僕は頷いた。あけみが何罪に問われて、どんな刑を受けるかはまだ決まっていないが、仮に彼女が罪を償って、出所した場合。あけみはどういう選択を取るのだろうか。とりあえず実家に帰るだろうし、就職先を見つけるだろうけど……元犯罪者を受け入れてくれるような会社は、きっと少ない。

「たぶん、誰にだって居場所は必要なのよ。じゃないと、寂しいからね」

「なるほど、未来のあけみに居場所があるかとうが、心配しているわけだ?」

 僕は言った。

「うん。でも、それは先のことだから、今は考えなくてもいいけど……」

 アテナは不安そうに言った。

 僕はアテナの不安を取り除いてやりたいと思った。

「そうだね。だけど、今の話を聞いて、僕はそこの勉強もこれからチャレンジしてみたいと思ったよ」

「……もし、あけみが何かあったら、漱石が助けてあげてね」

「もちろん。約束するよ」

 僕はアテナに言った。僕の言葉を聞いたアテナは、安堵した様子だった。


 僕は地下金庫から出て、家に戻ろうとしたところで、話を切り出した。

「そうだ、今日はアテナに晩御飯作ってやるよ。何が食べたい?」

「唐突にどうしたのよ? どういう風の吹き回し?」

「事件が解決できたんだ。ちょっとぐらい祝ってもバチは当たらないだろう?」

 僕が言うと、アテナは悩んだ。

「そうね……じゃあ、ハンバーグ作ってよ」

「意外に子どもっぽいんだな」

「ちょっとバカにしてるの?」

「いや、社長令嬢ってもっといいもの食べてるんじゃないのかよ」

「毎日高級食材を食べてるわけじゃないのよ! っていうか、食べ物ってお焚き上げできるのかしら?」

「やってみないとわからないけど、試す価値はあるだろう?」


§


 晩ご飯の材料を2人分買って、スーパーを出た。

 今日は妹が遊びに出かけて、母も父も帰ってこないので、アテナとふたりきりだ。そういうシチュエーションは何度かあったが、晩ご飯をふたりで食べるなんてことはなかったから、どうしてか変に意識してしまう。いやいや、たかが晩ご飯じゃないか。

(ここで、決めようとしているわけか……)

 いきなり何言い出すんだよ。

(自分の気持ちに対して、決着をつけたいんだろ?)

 決着だなんてちょっと大袈裟じゃないか? そういうことじゃなくて……

(いやいや、大袈裟なんかじゃない。だけど、自分の気持ちに対して正直に行動することは悪くないことだ。その結果の良し悪しは、結果を見て判断すればいい。素直になることは悪くないことだよ)


 家に帰って、晩ご飯を作り、庭に出た。

「ちょっとワクワクするわ」

 アテナは楽しそうに言った。

「じゃあ。御焚き上げするぞ」

 僕は準備しておいた焚き火台の中に、紙皿に置いたハンバーグと割り箸に火をつけた。ちょっと勿体無いような気がしないでもないが、仕方ない。しばらくすると、空からアテナの元にダンボール箱が落ちてきた。箱を開けると、

「わっ。ちゃんとハンバーグじゃない!」

 アテナは目を輝かせた。僕はその様子を見て、安堵した。つーか、料理も梱包してくれるのかよ。

 できることならもっと豪華に梱包してくれと注文するべきだった。

「じゃあ食べようか」

 倉庫から机と椅子を引っ張り出して、アテナと向かい合わせに座る。

 アテナはハンバーグを綺麗に割って、小さな口へ運ぶと、

「うん。いけるじゃない」

 味の感想に僕は満足した。

「あんたをうちのシェフに雇いたいぐらいだわ」

「お前ん家のシェフなんてごめんだよ。だって出勤時間が早朝だろ?」

「でも、給料は悪くないわよ」

「料理は好きじゃないのでパス」

 拍子抜けするぐらいにいつも通りの日常だった。さっきまで、動揺していたことがアホらしくなってくる。

 僕らはあっという間に夕食を平らげた。

「そういえば、漱石が探してたやっすん、見つけたわよ」

「へー。見つかったのか」

 あまりに自然な流れだったので、素で返してしまった。

「……マジかよ。本当か?」

「当たり前よ。町内のほとんどを探し回ったけど、案外みなもの家の近くに隠れていたわ」

「そんなところにいたのかよ」

「すぐに漱石に会いたいって言ってるけど、どうする?」

「…………」

 僕は迷った。もちろん会いたいけど、いざ、会えるとなると、別の懸念が顔を覗かせた。

「……前に言ってたけど、僕は霊感がないから、アテナが僕に姿を見せていて、それで、幽霊が人間に取り憑ける人数は1人までなんだよな?」

「そうよ。だから、やっすんと会うときは。やっすんがアンタに取り憑いて、私が居なくなるのよ」

「やっぱりそうだよな……」

 僕は懸念していた不安がどんどん膨らんでくるのがわかった。

「じゃあ、やっすんと会ったあと、アテナはまた僕に取り憑いてくれるって約束してくれるか?」

 僕はアテナに訊ねると、彼女は黙った。彼女の瞳は微笑んでいるように見えるが、どこか哀しさがちらついて、眉尻が下がっていた。唇が上がっているのように見えるが、真っ直ぐに結ばれているようにも見えた。その表情に僕の胸が締め上げられる。

 アテナが僕に取り憑いてから、色んなことが起こった。それらは僕の心に種としてばら撒かれ、発芽して根を張り巡らし、元々の自分を含めた、ひとつの生態系を作った。

(その中で、僕を変えてくれたものが確かにあった)

 それは“想い”を行動で示すだけじゃなく、言葉にすることも、とても大切なことなんだっていうことだ。

 僕はアテナのことが……、

「好きなんだよ。おまえのことが好きだから、ずっと側にいて欲しいんだ」

 僕が言うと、アテナは一粒の涙をこぼした。

「僕はおまえの望むもの全てを手に入れてやるよ。だから……」

「ありがとう漱石。その言葉だけで充分よ」

 アテナは僕の言葉を遮った。

「本当にありがとう。何度言っても足りないわ……」

 アテナは言葉の続きを考えていた。僕はそれを待っていた。

「私が幽霊じゃなかったら……私の全てをあなたにあげるのに……でもね、それができないから、せめて、漱石がくれたものに対して、恩返しがしたいの。私の過去の清算を手伝ってくれたのだから、今度は私が漱石に過去の清算をさせてあげる番なの。それが私が漱石にあげられる唯一のものよ」

——別れた線路の先にそれぞれやっすんとアテナの二人が立っている。僕は暴走したトロッコの進行方向をまだ変えることができる。僕は確かに過去の清算に囚われているけど、そんなことよりも、アテナの方が大切だ。

「……僕の過去なんて、どうでもいい。アテナが側にいてくれるだけで充分だ」

 言っていて、言葉が震えるのがわかった。涙が溢れ出しそうになる。

「漱石。死人と付き合うだなんて、あまりにも現実離れしてるわ」

「そんなの関係ないよ」

「私は……私は漱石が好き。あなたは私だけのスーパーヒーローよ。そんなあなたと一緒にいられたことを、私は一生忘れない……私はその気持ちだけで、漱石との思い出だけで、もう充分に成仏できるわ……思い残すことなんて、ないわ」

 アテナの言葉を聞いて、僕は我慢していた涙が一気に溢れ出た。

 ——アテナは無理やり進路を自分の方へ切り替えようとする。だけど、僕はそんなことしたくないし、そもそも、現実に犠牲者は出ないんだ。やっすんがいなくなった後で、アテナが帰ってくればそれで済む話なんだ。

「そんなこと言うなよ。僕はアテナの全てを手に入れたいんだよ。僕はアテナのために生きていきたいんだ。これからも思い出は作れるだろ。ふたりでいろんな場所にいこうよ。いけるところまで行こうよ。だから、僕がやっすんと会った後に戻ってきてくれよ……」

 僕が涙からがらに言うと、アテナは首を振った。

「漱石、本当にありがとう」

「やめろ。いかないでくれ」

「……私に青春をくれて、ありがとう」

 アテナは涙を拭って、笑顔で家を飛び出した。僕はすぐに追いかけたが、道を出たところで、彼女の後ろ姿が光になって消えた。 

 力がスッと抜けて、膝から崩れ落ちた。

 僕の世界の全てが止まった。

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