11
ガタ、と何かが動く気配に、なずなは目を開けた。一番に視界に飛び込んできたのは、見慣れない天井だ。まだぼんやりとしている頭の中、ゆっくりと視線を動かすと、クローゼットの前に小さな背中が見える。白い髪の少年、ハクだ。
「あの、すみません、ここは…」
そう声を掛けると、小さな背中はびくりと震え、恐る恐る振り返る。大きな瞳に涙をいっぱい溜めて、怯えきっている様子だ。
「あの、」
「ご、ごめんなさい!」
再び声を掛けると、ハクは慌てた様子で部屋を出て行ってしまった。ふと、彼が居た場所に目をやると、子供用の白いワイシャツが落ちている。なずなはベッドから出るとそれを拾い、改めて室内を見渡した。壁一面には、びっしりと本が詰まった棚があり、子供用の勉強机、丸々とした白い鳥のぬいぐるみ、おもちゃの飛行機。ベッドこそ大人のサイズだが、ここは子供部屋のようだ。
「…あの子の部屋?」
首を傾げつつ部屋の外に出ると、向かいにも同じようなドアが三つあった。なずなが出た部屋側にはドアが四つ、左を向けば、角にトイレと階段がある。右を向けば、突き当たりから空が見える、ベランダがあるようで、洗濯物が揺れていた。
階下へ続く階段を恐る恐る下りて行くと、リビングからマリンが出て来た所だった。その足にはハクがしがみついている。
「おはよう、昨夜はよく眠れた?」
「おはようございます。すみません、お世話になってしまったようで、」
「いいの、あなたは悪くないわ、気を失って当然よ。怖い思いをさせてしまって、ごめんなさいね」
眉を下げるマリンをおずおずと見上げる。この美しい女性は、体が水で出来ていた。獣の腕を取り囲むように水が這い出し、ギンジに釘を刺すようなあの眼差しは、標的になっていないなずなも、息を呑む程の恐怖を覚えたが、今の彼女は普通の人間、ただただ美しい女性だ。
何も怖くない、それよりも心配そうな眼差しを見ていたら、何だか申し訳なくなってきた。
「そんな、私こそ、失礼な態度をとってしまってごめんなさい。あの、助けて頂いてありがとうございました」
頭を下げたなずなにマリンはきょとんとして、それから擽ったそうに笑った。
「あら、ふふ、こんな反応は初めて」
「…あの、」
「嬉しいのよ、受け入れてくれたような気がして。私はマリン、マリリンって呼んでちょうだい」
手を差し出され、少し緊張しながらも、なずなはその手を握った。なずなよりもスラリと背が高く、まるでモデルのような彼女、その手はとても華奢で折れてしまいそうだ。きめ細かい滑らかなその肌は、彼女が水だからだろうか。なずなは、壊れ物を扱うようにその手をそっと握った。
「私は、
「よろしくね、なずちゃん。それから、この子はハク。この子は化け狸なのよ」
マリンがそっとハクの背中を押す。なずなはハクの視線に合わせてしゃがんだ。ギンジの凶暴な姿を見た後だからか、化け狸と言われても、驚く事はなかった。ハクが怯えていたからかもしれない。
「なずなって言います、よろしくね。さっきは驚かせちゃってごめんなさい。それから、ハク君のベッド使っちゃってごめんね」
そう言いながらシャツを手渡すと、ハクは少々怯えながらシャツを受け取り、首を横に振った。
「ハクちゃんは人見知り屋さんでね、恥ずかしいだけなのよ。気にしないで」
「そうなんですね、怖がらせちゃってごめんね」
なずなは申し訳なく笑って立ち上がった。キッチンの方へ顔を向けると、ちょうどフウカが顔を出した所だった。
「体は大丈夫ですか?昨夜はすみませんでした」
「いえ、こちらこそお世話になってしまってすみません」
申し訳なさそうに頭を下げたなずなに、フウカも拍子抜けした様子だ。怯えられると思って、身構えていたのかもしれない。
「…あの、少し昨日の事をお話させて頂きたいんですが、お時間大丈夫ですか?お仕事とか」
「大丈夫です、お恥ずかしながら…職探し中でして」
「あら、大変ねぇ…」
「それなら君にぴったりな話があるよ」
のんびりと声を掛けながら、なずなの肩に腕を回したのは
「こら、なずちゃんの気持ちが大事だって事を忘れちゃダメよ」
マリンは窘めるように言うと、それとなく春風の腕をなずなから離し、なずなの体を自らに引き寄せた。
「あれれ、随分仲良くなったこと。いい傾向だね~」
「だから、そういうのはちゃんと理解してもらってからって、マリンさんが言ったばかりじゃないですか」
フウカも溜め息混じりに言うが、春風は肩を竦めるだけだ。
「しょうがないでしょ、僕には彼女が必要なんだから」
「え?」
春風はきょとんとするなずなに、ふふ、と微笑むと、自らの口元に扇子を当てた。
どういう意味だろうと考えていれば、フウカが「はいはい」と、軽く手を叩いた。
「とりあえず、ご飯にしましょうか」
「あれ?ギンジ君とナツメ君は?」
「もう仕事に行きましたよ、僕は今日休みを貰いました。また勝手な事をされては困りますからね」
そう春風に釘を刺すフウカに、なずなは戸惑った。それはつまり、フウカにとって自分は迷惑という事だろうか。
「ふふ、フウちゃんのご飯美味しいのよ、毒なんか入ってないから安心して」
ぽん、と後ろから肩を叩かれる。それからマリンは、「ギンちゃんは居ないから安心して」と微笑んだ。その言葉に、獣と化したギンジの姿を思い出し、なずなは蘇る恐怖から逃れるように、マリンを見上げた。包み込むような微笑みはまるで女神のようで、そっと心を落ち着けてくれるようだ。昨夜守ってくれた安心感もあるだろう、彼女がいてくれて良かったと、なずなは思った。
それから、協力するという話がどこまでのものかまだ分からないが、もし出来る事なら協力してもいいと思っていた。
曾祖母の手紙の事もある。何より、彼らの事に興味を持ち始めている自分がいた。
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