2.真昼の月

 空のケースを積んだバイクで、いつも通り弁当屋に向かう。細道をたどって弁当屋の裏口にバイクを止め、インターフォンを鳴らせば、程なくして白い割烹着の店主が顔を出した。

「遅かったな、ニチカ」

「朝ごはんが美味しかったので、つい」

「またあの小僧んとこに入り浸ってたのか?」

 丸ノミで彫り込んだような額のシワを更に深くした店主が、腕組みをして私を見る。どんぐり眼でじろりとこちらを見つめた店主はたっぷり一呼吸分おしだまってから他人に肩入れするのは程々にしておけよ、と苦い顔をして言った。

「ガキの面倒見れるほど懐に余裕はねえんだろ」

「むしろ見られてる側なので」

「情けねえ大人だな」

「面目ない」

 テメェにゃあもとから面目なんぞ無いだろうがとため息をついた店主の視線から逃れるように、ポリポリと頬をかきながら昼の配達以外に仕事はありますかと尋ねる。出前の配達か、皿洗いかはわからないが何にしろ手伝えることが残っているといいのだが。

「そういやうちで飯食ってく市役所のお役人がよ、配達屋がほしいんだと。」

「お役所が?」

 珍しいな、と思う。ああいうところは、もっと大きい企業の配達屋に仕事を頼むものだと思っていたのだが、最近はそうでもないのだろうか。

「今日の輸送船で出さなきゃいけねえ書類らしいんだが、はがきやらなんやらの郵便はもう回収終わっちまってるからよ、言ってきてくれるやつがほしいんだとさ」

「ああ、なるほど」

「だからよ、お前ちょっといってきちゃくれねェか」

「書類一通で港までじゃ、バイクの電気代も賄えませんよ」

「そういうな、俺が夕飯都合してやるから」

 店主の言葉に、ふむ、と顎を撫でて考える。ここの賄いはなかなか美味しいし、量も多い。魚釣りよりよほど確実に夕飯にありつける。

「カゲツの分もつけてくれます?」

「そんなら午後は俺んとこで皿洗いしてくれや。給料は出すからよ」

「構いません」

 そう言って首を縦に振る。お人好しめとため息をつかれたけれど、たまにはいいところを見せておかないと大人として立つ瀬がないというのが本当のところだ。先立つ物がなくては暮らして行けないが、プライドはそれなりに保たないと心に悪い。高すぎる自尊心はトラブルのもとだが、まったくないと今度はトラウマのもとだ。何事もバランスが大事というわけである。

「決まりだな、じゃあ昼の配達前にいってきてくれ。輸送船は正午出発だと」

「もう9時なんですが」

 これから3時間で港まで間に合わせろとおっしゃる?と渋い顔で苦言を呈したこちらなど気にもとめず、それじゃ任せたぞと書類の詰まった封筒が渡された。

 容赦がないとため息をつきながら書類をリュックサックに入れてバイクに跨り、エンジンを掛ける。向かうのはカゲツが普段働いている港ではなく、クジラの右脇腹に当たる場所……コンテナを積み上げるクレーンなどが揃っている港湾だ。

 クジラの胸びれと尾びれに囲まれた形になる脇腹の港は大型船が停めやすく輸送や交易をする上で使いやすい良港であり、この街の物流を担う街の懐と言える場所でもある。

 当然、物流のかなめとなる場所だけあって主要道路は交通量も多く、一筋縄では移動できない渋滞続きのルートであり、3時間では厳しい距離だ。

 市役所へと往復した後、昼の弁当配達も行うので店に戻ってから弁当を12時までに運ばなければならない分の時間を差し引けば、往復2時間の片道1時間と言うのが正確なところだろう。

 私はストライカーズではないのでこんなタイトなタイムアタックは趣味ではないと苦情を申し立てたいところだが、そんなことをしても私の懐があたたまるわけではないし、お腹が膨らむわけでもない。

 雇い主へ苦情を言う時間があったら今日の夕飯を買いたい人間としては、腹を膨らませない文句より腹を含ませてくれる仕事におもねるのが最善だろう。

(面倒だけど仕方がない)

 裏道を通ろうと決めて、バイクを住宅街に向けて走らせる。役所やそれを取り巻くいくつかのビルが落とす長い影を潜り込むように進めば、古くて背の低いビルや小さな家がサンゴのように身を寄せ合う街並みへ景色が移り変わっていった。

 住宅街にしろビルにしろ、どの建物も骨のように揃って白いのは、街の建造とともに建てられた住居が多いからだ。海上都市への移住を促す宣伝とともに売りに出された家は当時のデザイナーがスペインなどをイメージした関係で眩いほどに白い家が多く、はっきりいうと見分けがつかない。

 美しさの代わりに随分と迷いやすい造りの居住区だと苦情が出たという噂もまことしやかに囁かれている。

 とはいえ港からの輸入品を運ぶ大型トラックは港から中央へ直通になる高速道路の方を通るため、輸送速度やコストの障害にはなり得ないというのが行政の見解で、現在もこの白い家並みは観光資源として市議会に推奨されている。景観維持政策の一環で白い家を維持すれば補助金がでるということで新しい家もまた白くなり、家並みはますます白くなるばかりというわけだ。

(きれいだけど、照り返しが目にちょっと痛いのが難点だよなあ)

 そんなくだらないことを考えながら走る私の頭上で、港から街の中央へとかけられた高架橋を大型の輸送トラックがひしめくように走っている。午前も終わりに近づいて渋滞し始めているのだろう。走行距離こそ住宅街を走るより短いだろうが、あんなにも混んでしまっては到着時刻は住宅街を走るよりずっと遅くなる。

 裏道を選んで正解だったなと思いつつ、メーターパネルの端にちょこんと乗った時刻表示に目を走らせる。

 10時45分。あと15分もあれば港に到着できるから、昼の配達には十分に間に合いそうだ。帰り道が混まなければ、という注釈はつくが。

(午後の仕事も調達できそうだし、今日の稼ぎはそこそこ余裕が出そうだ)

 バイクの車検も近いので稼いでも貯めてそなえるだけだが、懐に余裕があるのは悪いことではない。稼ぐためにストレスを溜めるのは本末転倒だが、生活は少し余裕があるぐらいのほうが不安が少ないのも事実だ。

(明日の稼ぎもよかったら、少し良い食事を買ってもいいかもしれない。肉は無理だけど)

 なんて、そんな皮算用を立てていたのが神様の気に触ったのだろうか。

 唐突に、強い風が皮膚に爪を立てた。どん!と遅れて爆音が鼓膜を掘削し、バイクが強風に煽られて体が放り出される。投げ出される直前に受け身を取ったが、アスファルトの上に強く叩きつけられた体は転がった勢いで後頭部を強く打ち付け、吐き気とも頭痛ともつかない感覚で脳みそが揺さぶられ、連動してグラグラと視界も揺れる。私は事故を起こしたのだろうか。

 なにかに追突したのか、それともどこかから車が飛び出してきたのか、それさえよくわからない。

 すりガラスごしに覗いた景色のように視界がぶれていて、自分のバイクが近くに転がっている。

 ああ、車検が近いんだが、バッテリーは大丈夫だろうかなんて場違いに悠長なことを考えている自分に気が付き、思考が回っていないと漠然と理解する。

 だからといってそれで冷静になれるわけでもなくて、頭はグラグラと揺れながら無駄なことを考えつづけるばかりだ。

(燃えてる、高架橋が……)

 さっきまで大型トラックが走っていた高架橋が、炎と煙を立ち上らせて燃え上がっているのがグラグラと揺れる視界の中でも良く見えた。直ぐ側では橋の上から落ちてきたのだろうバイクが横転していて、車体に刻まれた雷と狼のマークが衝撃で曲がったフレームの影響を受けて凸凹に歪んでいる。

 玉突き事故、という言葉が頭に浮かんだ。

 ここではなく、高架橋の方で事故が起きたのだろう。なんとか体を起こし、吐き気をこらえてアスファルトとバイクの間に挟まれた運転手に呼びかけるが意識がない。落下のショックで頭を打ったのだろうか。

 舌打ちしてバイクのハンドルを握って車体を引き起こし、反対側に倒した。そのまま運転手の両脇に手を差し込んで気絶した相手の体を引きずり出す。体を打ちつけた痛みはまだぬけきっておらず、一歩体を動かして運転手を安全な場所に運ぶたびに瞼の裏で痛みの星が散った。

 とはいえ意識のない人間を道路の真ん中に放り出しておくわけにもいかない。引きずって安全な路肩に運転手の体を横たえ、意識と呼吸を確認する。声掛けをしても起きないが息はしており、胸も動いているから死戦期呼吸も起こしていない。アスファルトとあの高さから落ちたバイクに挟まれながら圧死もしていないというのもすごい話だなと思いながら運転手の体にほかに怪我がないか確認すれば、怪我の代わりに体に小さな葉っぱがたくさんついている。周囲を見回せば、植え込みの枝が何本か折れているのが見えた。

(植木がクッションになって落下速度が落ちたのか、運のいい人だ)

 感心しながらバイクとアスファルトの隙間にも太い木の枝が何本か挟まって隙間を作っていたのを思い出す。あの隙間のお陰で怪我が少なかったのだろう。

(少なくとも命に別状はない、今はそれでいい)

 そう考えることにして、私のバイクに設置してある発煙筒を引き抜いて点火する。後続の車両に異常があることを伝えるためだ。

 体が痛かったが、立ち止まる暇はなかった。なにしろ後続の車がこちらの発煙筒に気が付かずに突っ込んできたら、そのまま派手に事故を起こす可能性が高いのだ。私や運転手が大怪我を負うだけでなく、上でも下でも玉突き事故になったら救急車を呼ぶどころではなくなってしまう。

 とにかく警察と病院に通報だなと上着から引っ張り出した端末のスリープモードを解除するが、画面がつかない。さっきの衝撃で内部部品が壊れたらしかった。

 仕方なく周囲を見回して、何が起きたのか確認しに来たらしい女性に声をかける。近隣の住人と思しき白髪交じりの髪をした初老の女性は急に話しかけられて戸惑っていたようだが、事故を目撃して避難措置を取ったが急ぎの配達があるのでここにいられないことと、端末が壊れて通報できないので通報してほしいことをつたえれば、こちらの事情を理解したのかやや時間こそかかったものの了承してもらえた。

 そこまでしてようやく、どうにかなったなと路肩に移動させたバイクに跨り、アクセルを踏むことができた。

 体はどこもかしこも痛んでいたが運転できないほどでもない。

 問題は時間だ。船には間に合うだろうが弁当を配達する時間に間に合うかがわからない。まいったなと苦い顔をしながら隙間を縫うようにバイクを走らせながら頭の中で最短ルートを組み立てる。

 この街の入り組んだ道の中で覚えていない場所はなく、通ったことがない道も同じくない。平凡な私のささやかな自慢だ。

 骨のように白い街の中をするするとすり抜けるように走り抜ければ、11時をやや過ぎたところで港にバイクを停めることができた。ほっとしながら窓口に書類を託し、ついでに公衆電話で事故にあいかけたことと少し遅れる可能性があることを店主に伝える。

 怒られるかと危惧したが、意外にも怒られる代わりに心配された。存外あの店主も人が良いらしい、とおもったのもつかの間、役所絡みの仕事で怪我されるとあとが面倒だと付け加えられていや人が良いわけではないなと思い直す。

 ため息を付きながら弁当屋にもう一度向かい、ケースを受け取って次の配達に向かうころには体の痛みもましになっており、打撲だけで住んでよかったとため息をつく。怪我を放置するのが褒められた行為ではないのはわかっているが、医者は高いし私の懐は薄いので時間経過で治るのなら時間経過に任せたい。

(端末の修理もしなくてはいけないし、嫌だな、稼ぎが増えても出費が増えるばかりだ)

 こういうのを火の車というのだろう。世知辛いなとため息を付きつつ荷台に積み上げた弁当ケースを崩さないように走り、クジラの頭に位置する市役所へとバイクを走らせる。普段より遅れる旨は店主が連絡を入れてくれたらしく、急ぐ必要がないのは不幸中の幸いだった。痛みと疲れで集中力を欠いたままでの運転に時間制限までついてしまえば事故の元だ。繰り返すようだが、私にとってタイムアタックは趣味ではないのである。

 しばらくバイクを走らせれば、白い町並みの奥にそびえる白い電波塔がよく見えた。この街の市役所は電波塔を兼ねていて、この街で一番背が高い建物でもある。クジラの頭に位置するこの白い塔を角になぞらえて、住人はこの建物をクジラの角と呼ぶ。この街を「角持つくじら」という愛称で呼ぶ人間がいるのもこの建物が由来だ。都市の完成当初はクジラの背びれに位置する場所に立っていたらしいが、ハリケーンで電波塔がへし折れたあとに作られた二代目の市役所兼電波塔が頭の位置に建てられたので背びれの代わりに角を持つクジラが生まれかわったと言うわけだ。この街をデザインしたデザイナーも想定外だったろう。設計思想などたやすく飛び越えるのが経年と運用だという好例と言える。

 足を踏み入れた市役所では手続きをする人間が待合席に座ったり書類を描く机の側に立ったりしていて、戸籍謄本や各種届出などの発行手続きを行っている。

「どうも、ご注文のお弁当をお届けに上がりました」

「ありがとうございます、お弁当ですね。……はい、照会がとれました。第二会議室に搬入をお願いできますか?」

「はい、わかりました」

 手続きをする人々の間を通り抜けて受付窓口に声をかけた。受付スタッフが引き渡された注文表を確認したあとで指示された内容に二つ返事でうなずき、台車を貸してもらって弁当のケースを積み上げる。エレベーターにのり、会議室がある三階で降りた。

 カラカラと弁当を載せた台車を転がしながらリノリウムの床を進めば、ほどなくして第二会議室と銘打たれた部屋にたどり着く。会議中なのか扉はしまっていて、誰かが出てくる気配もない。

(入口前においてってもらって大丈夫だ、とはいわれたけど、落ち着かないな、ものだけおいてくの)

 なれないなあ、と口をへの字にしながら弁当ケースを載せた台車を入口のそばにおいて本当に誰も弁当を取りに来ないのかを確認するために少しだけ待つ。

 待ちながら覗き込んだ市役所の廊下の窓ガラスは大きく、窓辺ではハナミズキが桃色の花をブーケのように咲かせていているのがくっきりと見えた。きれいな花だな、と漠然と思う。

 仕事の合間の僅かな息抜きのような五分ほどの待ち時間の後も誰かが弁当を取りに来ることはなく、冷めてしまうんだけどなと少し悲しい気持ちになる。悲しい気持ちのついでにお昼ごはんを食べていないせいでお腹が空き始め、空腹を抱えながらエレベーターに乗って一階に降りることになった。

 一階に降りれば市役所の待合席にはもう誰も座っておらず、昼食の時間だからか受付も一旦止まっていて、閑散としていた。

 無人駅じみた市役所はガランとしていて、どうも落ち着かない気分になる。早く外に出ようと早歩きで足を進めれば、待合席の側に設置されたモニターが昼のニュースを小さめの音量で流しているのがよくみえた。

 今日の昼のニュースには私が立ち会った高架橋の事故も流れていて、マスメディアというのは忙しいのだなと苦笑した。さっきの事故から一時間と少ししか経っていないのによくやるものだ。

(被害が多いな。乗用車トラック含めて十三台が玉突き事故か)

 原因は車両の速度違反による追突、横転だそうで、ニュースキャスターに意見を聞かれた黒縁メガネをかけたコメンテーターが昨今の配達業者の無理な運転どうの、速度偏重主義や利便性の追求のために安全が犠牲になっていると言いながらストライカーズをやり玉に挙げている。

『こういう運送グループの背後には反社会組織がつながっていることも多いですからね、便利で安いからと言って多用していいものとは私には思えません』

訳知り顔で言うコメンテーターの言葉に唇を引き結び、気に食わないなと思いながら市役所を出て隣接するコンビニエンスストアでチョコレートバーを買う。苛立ちを抑えるために、噛みごたえのある食べ物が欲しかったからだ。

 コンビニの壁に持たれて怒りを抑えるようにガリガリとチョコバーをかじり、リュックサックから取り出した水筒の蓋を開けて水で口の中いっぱいにつまったチョコバーを押し流す。単調かつ怒りに満ちた反復運動を繰り返しながら、私は胸にこみ上げるムカムカした気持ちを消化するのに必死だった。

(好きかって言いやがる。少なくとも私は、ストライカーズが反社会組織と繋がってるなんて話は一度だって聞いたことはないっていうのに)

 ソースも出さずに誘導するような報道をするなと苛つきながらチョコレートの衣で覆われたビスケットをガリガリかじる。

「機嫌悪いねえ、ニチカ」

「んぐ、つふよはん」

「食べてから喋んな」

「ふぁい」

 かけられた声に顔を上げて喋ろうとしたが、たしなめられてそのまま口いっぱいに行儀悪く頬張っていたチョコレートバーを水筒の水で流し込み、はふ、と息を一つつく。

 それから顔を上げ直せば、月色の瞳と目が合った。白金にも似た色合いの金と銀の間の色をした瞳を見つめ返しながら、私は穏やかに笑って彼女に返事をする。

「ひさしぶりですね、ツクヨさん」

 肩口までの黒髪を風に揺らした彼女が久しぶりだね、と笑った。

 真正面から向き合うと、黒いライダースーツを身に着けた彼女の右胸に雷と吠える狼のシルエットでできたロゴが刻まれているのがよく見える。ツクヨさんはストライカーズでも名うての走り屋であるのでこのロゴを背負うことは何らおかしいことではない。正確にはロゴの他にもツクヨさんがストライカーズのメンバーからもらった称号とか内部で形成された組織の序列を表す図などもあるらしいが、私はその辺には詳しくない。わかるのは、彼女にそのロゴがよく似合うということだけだ。

「そうだね、3年ぶりかい?あんたがストライカーズを出てったのがそれぐらいだったろう?」

「ああ……そうですね、もうそんなになりますか」

 ツクヨさんの言葉に、私は少し目を伏せた。個人運送業を始めてすぐ、右も左も分からない私をストライカーズにツクヨさんが誘ってくれた記憶を思い返す。当時はまだ今のように速度を競うチームではなく、困ったときの互助会兼バイク好きの集まりという調子だった。街を走り、街の景色を楽しみながら、専業だったり兼業だったりしながらお金を稼ぐ人々の緩い集まりというか。そういう様子のチーム。

 それがそのうち、物を運ぶ速度の速さから企業に多く声をかけられるようになって、お金を稼ぎたいドライバーがストライカーズのマークを掲げてより良い依頼を受けられるようになりたいと参入するようになって、諍いが増えた。最初期にいた人間は一人減り、二人減って、最後はツクヨさんと私しか残らなくて……お世話になったツクヨさんを今のストライカーズに捨て置け無いという気持ちと、もうストライカーズとして走るのが辛くて苦しい、という気持ちがずっとあって、走るのが楽しくなくなってしまった。

「……私だけ逃げ出してしまって、すみません」

「いいさ、あたしがいいっていったんだから。生き方も楽しみ方も人それぞれだ。あたし達は速さを競うことが好きで、あんたは楽しんで走るのが好き。押し付け合うもんじゃない。」

 それにあたしは速く走るのも好きだからね、とあっけらかんと笑ったツクヨさんに、私は苦笑する。私の暗い気持ちを吹き払うように、ツクヨさんはせっかくの再会だから奢るよ、と自販機を指差してウィンクを一つする。初めてであった頃と変わらず、明るくてきれいな笑顔だった。ツクヨさんは、凍えるような寂しい夜に、暖かな光を投げかけてくれるおつきさまのような人なのだ。

「じゃあピーチティー奢ってください、あれ好きなんです」

 そういって甘い飲み物をねだれば、いいよ、とツクヨさんが返事をする。それから自分の分は何をしようかと悩んで自販機のボタンの前で指をさまよわせはじめた。私からするとピーチティ一度なのだが、ツクヨさんにとってはずいぶん悩ましいラインナップだったらしい。

「あれどうですか、マンゴーピーチ・オレ」

「勘弁しなよ、あたしはあんたほど甘党じゃないんだ」

 ええ、と拗ねながらペットボトルの蓋を開けてピーチティーに口をつける。甘くておいしい。甘露甘露と喜ぶ私に呆れながら、ツクヨさんが懐かしむように目を細める。

「変わらないね、あんたは」

「ツクヨさんも変わらずおきれいですけど」

「やだよ、この子は!相変わらず口が上手いったら」

 くすくすと笑うツクヨさんに瞬きしながら本当のことですからといえば、人たらしに育ったねえとまた笑われた。なにかツボに入ったらしい。

「ああ、おかしいったら。……そうだ、忘れてた。あんた、今日はうちのチームの子を助けてくれただろ?」

「チームの子、ですか?」

 なにかしたかな、と首を傾げる私に、昼頃に玉突き事故のニュースが有っただろう、とツクヨさんが補足する。アレがどうかしたのだろうか。

「うちのチームの奴があれに巻き込まれてね、真っ赤な太陽とハイビスカスのステッカー貼ったバイクに乗った子にたすけられた、っていうから。」

 あれ貼ってるの、このあたりじゃあんたぐらいしか知らないからね、と言ったツクヨさんにそういえばフレームこそボコボコになってしまっていたが、助け起こした運転手がストライカーズのステッカーを貼っていたなと思い出す。

「ありがとうね、連絡が早かったおかげで入院も短くて済むそうだ」

「後輩の役に立てたなら良かった。高架線の下を走っていたおかげですね」

 なるほどそれでお礼を言いにきてくれたのかと納得しながら、冗談を交えて返事をする。ストライカーズへの微妙な気持ちはいまなおあるが、後輩の怪我が少なかったというのは純粋に喜ばしい話だ。人の不幸を笑う趣味はない。

「ああ、なるほどそれでアンタは怪我が少ないんだね」

「ええ、私は打撲だけですね、病院はまだいってないですが骨折はなさそうです」

 笑いながら大丈夫だとわかりやすいように片手をひらひらとふれば、それはよかった、とツクヨさんがホッとしたように笑った。ストライカーズを抜けた今も、私は彼女にとっての後輩なのだろう。だから気にかけて声をかけてくれたのだろうと思えば、暖かくてやわらかい気持ちになる。

「アンタが元気にやれてるなら良かったよ。ストライカーズが解散する前に会えたのも神様のご加護ってとこかね」

 心が温まったのもつかの間、解散、という言葉にぱっと目を丸くした。なくしてしまうんですかと恐る恐る尋ねれば、ああ、もう限界だろうからね、とツクヨさんは言った。

「最近どうも、速度にかまけすぎて危なっかしい運転したり、無理する連中が多いからね。これ以上チームとして残し続けても後を濁すだけさ。だからもう、潮時だろうねって話だったんだよ。反対してるやつも多かったが、今日の玉突き事故があったからね」

 一歩間違えれば死にかねない事故に巻き込まれた人間が出た、という状況は強引にでもチームを解散させる名分としては十分な話だろう。人の不幸を都合がいいとは言いたくないが、少なくともチームを解散する理由としては十分だ。

「事故に巻き込まれた子が恨みを買いませんか?」

「大丈夫だよ。反対してたのは運送業で生計を立ててた連中だ。ストライカーズを解散したって仕事がなくなるわけでもない。新しいチームを設立させて企業にはそっちのチームがこれから仕事を受けるようになると伝えて矛先をそらさせたから」

 多少陰口は叩かれるかもしれないが、と付け加えたツクヨさんはきり、と引き絞った弓のようにはっきりした声で続けた。

「それでも向けられる物があるならあたしが跳ね除けるさ。あんたと同じ、あたしの可愛い後輩なんだからね」

 そういってよく晴れた星空のように微笑んだツクヨさんに、かなわないな、と苦笑する。一度懐に入れたら何があろうと自分の叶う限りで心を尽くしてくれるこの人の善良さが眩しくて、珍しく声を立てて笑ってしまった。あの頃私の居場所だったチームはもう無いが、私を教え育ててくれた人の生き方は何も変わらない。月が何度かけても満ちるように、ツクヨさんも何も変わらない。それがチームを抜けた私にはたまらなく嬉しかった。

「ツクヨさん一人で手が足りないときは呼んでください。手伝いに行きますから」

「はん、言うじゃないか青二才」

「あなたに育てられましたから」

「言うねえ、じゃあ頼るときは遠慮なく頼らせてもらうよ」

「喜んでお答えします」

 なんとなく格好つけてみたくなって、恭しくお辞儀なんてして見せる。様になってないよとツクヨさんがまた笑って、私も笑った。

 じゃあまたと握手を交わして、飲み終わったピーチティのペットボトルを捨てる。こぼれた笑みの名残を口元に残しながらまたがったバイクは降ろした弁当ケースの重み分以上に軽い気がして、心が少し暖かい。朝よりもずいぶん心地良い気分を胸の中に抱えて、私はその場を後にした。

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