開かれた選択(三)

 草むらの揺れが端に近づき、草の間から灰色っぽい何かが飛び出す。一瞬、ネズミかもしれないと思った。しかしそれにしてはちょっと大きいし、やがて耳が長いのがわかる。

 ――野ウサギか。

 今までにも見たことのある野生動物だけれど、その中ではレアな方には違いない。何より、見てて可愛いし。

 木の実か何かでも落ちているのか、野ウサギは地面に積もる木の葉の間から小さな物を見つけ出して両手で口に持っていっては、口をモグモグさせていた。

 その様子をレンズに収め、何度もシャッターを切る。あの仕草、動画でも残したいけれど、写真と同時はさすがに無理だ。そのうち動画の賞にも応募してみたいな。でも欲張るといいことにならないのはわかっているので、あくまでそのうち。

 たまに止まって何かを食べながら野ウサギはチョロチョロと移動し、やがて別の草むらへと入って見えなくなってしまう。

 しばらくカメラの画面を覗くのに夢中になっていた自覚がある。どれくらいときが過ぎたんだろうと腕時計を見ると、出てきたときから一時間くらい過ぎている。待ち合わせの時間までもう一時間くらい。

 メモした公募の中には夕日の風景というものもあるけれど、今日は丁度夕暮れごろに恵人さんが来るんじゃないかな。これは今日はあきらめよう。

 メモにあるのはエコな写真など……エコなものって、何があったっけ。

 エコバック、クールビズ、風力発電とか? いまいちピンとこないので、実際に探して見てみた方が早いかもしれない。

 わたしは足場の枝の上に立ち上がると、上の枝に引っかからないように前かがみになって体勢に気を付けながら空中に滑り出し、頭上が開けたところで高く空へ飛びあがる。街の上から眺めて、何かエコなものを見つけたらそれを撮るつもりだった。

 そもそも、エコってなんだろう、と頭の中で自問する。エコロジー。地球環境に優しいものを見つけて撮ればいいのだろうか。

 しっかり分別用のゴミ箱が並んでいる観光施設を見つけたが、そんなの撮ってエコの写真、じゃ仕方がないし。公募の中には学生部門とか小学生部門などがあるものもあるが、小学生ならともかく一般部門でそれが受賞できるとは思えない。

 じゃあ、大人らしいものったらなんだろう。やっぱり発電系のものか。

 屋根の上に太陽光パネルを設置した家はたまに見る。それを撮るだけでも芸がないし。

 クールビズは夏じゃないと見られないし、どうしても人が入るから無理だな。ニュースで足に水をつけて涼むのがエコだ、などという光景も見た覚えがあるけれど、今は秋で、気温としては快適な方だ。

 これは、一度戻って調べる必要があるかも。この街にあるエコな施設とか、エコなものは何かとか。いや、この街のじゃなくてもいいのだけれど。締め切りまでまだ二週間以上もあった。

 ああだこうだと見ているうちに、時間もけっこう経ってきているし。

 ホテルの部屋へと戻る。もちろん、入るのは窓からだ。カーテンに隠れるようにしてから能力解除。ちょっと寒くなってきたし、すぐに窓を閉める。

 あと二〇分で六時。ニュースチェックでもしているうちに時間が過ぎるだろう。恵人さんがどうやってどこに来るのかわからないけれど、コビーに案内されてこの部屋に来るのかもしれない。そうでなくても、何かあればコビーに伝言してくれるだろう。

 そう思っていた予想はやがて的中する。

『恵人からの伝言がある』

 ニュースももう終わり、リモコンを手にチャンネルを変えながら見ている途中、頭の中に声が響く。

『六時十分くらいに、二階のレストランで会いたいってさ』

 そうなんだ。もう夕食の時間だものね。

 また奢ってくれるのかしら、なんてあさましい心の声はどうにか出さないまま、AIに礼を言って通信を終わる。

 もうそろそろ六時だ。混んでて中に入りにくいなんてこともあり得るし、早めに出てもいいだろう。

 コートの内ポケットに財布を入れて部屋を出る。

 廊下に出るとき、財布を手に通過していくほかの部屋の客の背中を見かけて追いかける形になった。やっぱり、同じように夕食に向かう宿泊客で混んでいるかな。

 追った客と同じエレベーターで二階に到着。ほかの階からも同じような姿が見えた。でもこの階にあるのはレストランだけじゃない。居酒屋やラーメン店、寿司屋なんかもあり、どうやら客は結構分散しそう。

 レストランの前まで行ってみる。繁盛しているようだけれど、満席になるほどではないようだ。恵人さんもまだいないし、入り口脇の昔ながらの料理模型付きのメニューを眺めてみる。

 一番彩り鮮やかで目を引いたのはお子様ランチだけど、さすがに選択肢外。イチゴムースとクリームブリュレのパフェが美味しそう。……いやいや、デザートの前にまず主食だ。

 ざっと見ると、ここはパスタがメインらしい。カルボナーラやナポリタン、ミートソースなどのメジャーどころだけでなく、牡蠣とウニのクリームパスタ、エビと旬の野菜のバジルソースのパスタなど、ややマニアックそうなものもある。

 むう。そうやって精巧な料理の模型を眺めていると、段々お腹がすいてくる。

 先に中に入って、席をとっておこうか。待っているうちに何を注文するのか決めておけばいい。

 と思って、入り口を振り返ったとき。

「あ、いた」

 向こうからやってくる、見覚えのある顔。

 服装は、暗い青緑のジャケットにパンツ、黒のシャツに青緑のベレー帽。都会のお洒落な若者に見える。

 早いな、待ち合わせ時間まで十分以上ある。まあ、わたしと同じで彼も早めに来る性格だからだろうけれど。

「丁度良かった。今、中に入ろうと思ってたところなんで。入ろうか」

「うん、結構お腹がすいてきちゃったよ」

 彼が片手に提げた大きな紙袋に目が留まるが、とりあえずは食事だ。

 中に入ると四人掛けのテーブルに案内される。まだ中の込み具合は余裕があるくらい。

 水を出されると同時に、一人一人に大きな一枚のメニューを渡される。

 あんなに種類があるんだから、パスタに自信あるんだろうな。じゃあ、パスタを食べてみようか、という気分になっていた。牡蠣とウニのクリームパスタが気になるけれど、値段を見ると千四百円近くと結構お高い。

「好きなの選んでいいよ、デザートも。僕が奢るから」

 そう言ってもらえると、正直嬉しい。とはいえ……。

「なんだか、悪い気がするね。毎回奢ってもらうのも」

「いいんだよ。忘れているだけで、きみは僕にもたくさんのものをくれたんだ。そのお返しを今のうちにしてしまおうという魂胆なんだから」

「そうなんだ。何をあげたのか後で聞いてみたいものだね」

 貸したままのお金についても忘れているかもしれない。

 では遠慮なく、と牡蠣とウニのクリームパスタとイチゴムースとクリームブリュレのパフェを注文。

「飲み物は?」

「水でいいんじゃないかな」

「パフェに紅茶でもいいんじゃない。僕も飲み物は紅茶にする」

 それと彼は、ラザニアとレアチーズスフレのベリーソース添えを頼んだ。

 頼んだ後で思ったけれど、ちょっとわたしの方は量が多かったかもしれない。

「色々な話はあとにして……まずは、最大の用事を済まそうか」

 恵人さんはテーブルの上にあの紙袋を持ち上げた。焦げ茶色の袋から、大きめの見覚えのあるデザインのリュックサックが出てくる。わたしが選んだ、大きなどんぐりに見えるデザインのリュックサック。

 恵人さんがどんぐりの傘に見立てた蓋を取って見せると、そこに透明な袋に折り畳まれたジャケットが入っているのが見えた。

「思ったより大きそうで良かった」

「後は、丈夫に作れているといいんだけれど。一応、力のかかる部分には補強を入れたりしているんだけれどね」

 と、彼はリュックサックの蓋の留め金を何度か差し込んだり外したり、ベルトを持ち上げたりしてみせる。ベルトは、肩に当たる部分に柔らかそうなパットがついていた。長時間背負っていても重さのかかる肩が痛くならないようにするため、たまにショルダーバッグなどにもついているアレだ。

「背負って飛ぶことは想定していないのがちょっと難点だけども。一ヶ月くらい使ってみて、感想を聞かせてくれるといいな」

 差し出されたそれを、わたしは落とさないようにしっかりと受け取った。

 蓋を開けてみる。外側のポケットは左右横についているものだけだが、内側にもポケットがいくつかある。それと、よく見ると蓋に横に開くチャックがついていた。ここにも小物が入りそうだ。

「ありがとう。大事に使うよ」

 うん、これはありがたい。ジャケットにも一度袖を通してみたいが、部屋に帰ってからにお預け。

「ジャケットはサイズ合っているはずだけど、合わなかったりしたら言ってね」

 一応タグを見たけれど、サイズはMだった。今着ているコートも同じだし、たぶん問題はないはず。

「Sサイズほど華奢な体格じゃないし、Lにも見えないでしょ。これで合ってるよ」

「それはそうだけど。でも、そのしゃべり方、記憶を失う前のきみらしい」

 そうなのか。全然自覚があるわけでもなく、少し不思議に思う。

 ただ、思い返せば夢の中のわたしはそういう話し方をしていた気がする。

「どうやら、昔のわたしはもうちょっと突き放した感じだったみたいだね」

「そうだよ。突き放して、でも本当は見守ってくれるみたいな」

「今のわたしには、誰かを見守る余裕なんてないもの」

「じゃあ、スキルや能力が戻ったら性格も元に戻るのかな」

 そうすればわたしはステータス的には強くなる。でも、本当にそれだけで元に戻ったと言えるのだろうか。スキルや能力が戻っても経験が戻るわけじゃないし。

「レベルの高いスキルや特殊能力を持っていても、わたしはその使い方まで全部知っているわけじゃないよね」

 うーん、と向かいに座る相手はうなずく。

「それは確かに。使いこなすにはそれなりの練習が必要だけれど、体験、記憶は戻らないんだよね。なら、また練習しなおすしかないんじゃないかな、今のところは」

 一気に記憶が戻ってしまえば楽なのに。別に辛い記憶のショックで記憶喪失になったわけじゃないとわかった今、それが一番手っ取り早くて楽だった。

 恵人さんが口を開きかけたとき、料理が運ばれてきた。

 ウニの練りこまれたクリームの香ばしい匂い。ラザニアのチーズとトマトの匂いも強い。デザートと紅茶も間を置かず運ばれてきた。

「とりあえずは腹ごしらえということで」

「そうだね」

 いただきます、とささやかな挨拶の声が重なった。それぞれに紙ナプキンの上に置かれたフォークを手に取り、料理に取り掛かる。

 わたしの家族はパスタが好きな者が多かったり、勤め先の飲食店でもパスタはいくつか置いてはいたけれど、わたしはそんなには食べる機会がなかった。食べたとしてもほとんどナポリタンかミートソースだ。

 そういえば、学生時代にペペロンチーノか何かを作って凄く辛かった記憶がある。思えば、あれ以来あまりパスタを、正確にはスパゲッティを食べなくなっていたかもしれない。

 しかし、このクリーミーで濃厚な旨味と甘さの溶けたスパゲッティは、わたしの中のスパゲッティ観に革命をもたらした……といっても過言ではない。

 大げさかもしれないが、要するに美味しいスパゲッティだった。

「相変わらず美味しそうに食べるねきみは」

 言われてそちらを見ると、彼はラザニアを口にしながらこちらを見ていた。

「それは口に合わなかったの?」

「美味しくなくはないけれど、食べ続けると飽きそうな気が。それに、チルドのラザニアをスーパーで買ってきて食べたことがあるけれど、それを超えて美味しいかって言ったらそれほどでも……」

 うーん、わたしはスーパーで売っているレトルトなどのパスタソースも買って味わったりしてなかったから、その分の感動もあるかもなあ。母がたまにナポリタンやミートソースのものを買ってきていただけだ。

 しかし、そんな理由があるとしても。今これを美味しいと思ったことに嘘偽りはない。今は味わって食べよう。

 わたしはそれをじっくりと味わい、しかし食べている途中で、パスタの皿のそばに鎮座するパフェに気がついたのだった。途中から食べるのが駆け足になる。

 もうしばらくはパフェなんて口にできないかもしれないと思っていたのに、こんなに早く再会できるとは。

 イチゴのムースとクリームブリュレが何層か交互に重なっており、その上に生クリームのタワーと飾りつけのウェハース、ベリー系が多い何種類もの果物、という、あまり背の高くないパフェだ。しかし一つ一つの要素に本気度の高さがうかがえる。何よりムースとクリームブリュレが美味しい。

 それを味わいながらデザートにスプーンを伸ばす恵人さんを見ていると、ふと、頭に浮かぶ光景があった。

『いや、暁美さんが来てくれて助かった。さすがに男女二人でこういうところで、っていうのは問題ありそうだもの』

 今の恵人さんではない恵人さんが、スプーンを手に言う。

『地元でもないし、知り合いじゃなきゃ誰も気にしないでしょ』

『でも、知り合いに会う可能性もゼロじゃないし。そこで変な噂になるとか何かあったら気が引けるじゃない。先週みたいなケーキバイキングとかなら平然と行けるけどね』

『いいですね、ケーキバイキング。今度はわたしも連れて行ってくださいよ』

 女子会のような光景。それは何度か開催されていたらしい。

 そういえば、暁美さんも甘いものが好きだったみたいだ。

「恵人さん、今のわたしと一緒にいるのはつまらない?」

 ふと、そんなことを訊いてみる。

 そのことばに相手は表情を曇らせて手を止めた。

「そんなことはないけど……どうして?」

「記憶を失う前も、何度もこうして会っていたみたいだから。その記憶がリセットされたわたしは時間が巻き戻った反応しかしないだろうし、こうして会ってもおもしろくないんじゃないかと思って」

「そんなことか」

 彼は何でもないことのように笑った。

「時間が巻き戻ったって言っても同じ状況、同じ場所じゃないし、失った部分はまた新しく作っていけばいいんだよ。それに、本当はこうして一緒にまた食事ができるだけでも嬉しいんだ」

 その顔には、本当に心から嬉しそうな笑顔が浮かぶ。

「だって、〈シルバーアロウ〉掃討作戦の最中に連絡が取れなくなったときは、きみたちは死んだかもしれないなんて思ったんだよ。二度とこうして一緒に食事をとることすらできないんじゃないかと思った瞬間もあったから、それに比べれば今は顔が見られるだけでも幸せなんだよ」

 そうか。記憶を失うと同時にゲーム上から消えたわたしたちのことは、ほかのみんなからは消えたように感じられたはず。死んだように見えたのか。

「だからね、何も気兼ねしたり心配することはないんだよ。生きていてくれただけでありがたいんだ」

 生きているだけで奢ってもらえてありがたがられるなんて、わたしってなんて存在価値が高いんだ。と、冗談半分に思う。

「このままのんびり旅を続けたいと思うならそれでもいい。わざわざ戦おうとすることもない。昔のスキルや特殊能力だけコビーにもらって、今まで通り好きに旅を続けたっていいさ」

 それもひとつの選択肢かもしれない。

「僕はそれをお勧めするよ。旅をするにも生活をするにも有利になるだろう。いつまでスキルや能力を使えるのかもわからないから、せっかく持っているものは使えなくなるまで有効活用しないとね」

「使えるのは、偽人類がいる間だけものね。それも考えておくよ」

 恵人さんは、わたしを偽人類との戦いから遠ざけたいのかもしれない。きっと、一度は失ったと思った命だから?

 少なからず、彼らはわたしを大事に思ってくれているらしい。そう感じると、こそばゆいような照れ臭いような、でも確実に嬉しくは思う。

 気を逸らせようと口にしたクリームブリュレがやたらと甘く美味しく感じたのは、その生クリームの甘さだけが原因ではなかったかもしれなかった。

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