七話

 お社広場を後にし、山のふもとを目指す。まるで早送り映像のように雪が消えゆく道を、ゆっくりと歩いて下る。木々に降り積もっていた雪は解け、水となってポタポタと滴り落ちる。地面には、雪解けによる水たまりができていた。


「――カイリ!!」


 突然、大声で誰かに呼ばれた。声のする方を向くと、そこには肩で息をする兄の姿があった。全身汗だくで、服装や髪型が乱れに乱れている。……珍しいな。お兄ちゃんの、こんな姿は。

 よく見ると、道中私が脱ぎ散らかした上着を携えている。それらを頼りにして、ここまで辿り着いたようだ。


 兄は息を切らしながらも、ゆっくりと近寄って来る。何か言いたげな、険しい表情で。……あぁ、怒っているんだ。兄の反対を押し切ってまで、危険に身を投じたことを。


 目の前に立ち、こちらをジッと睨み付ける。滲み出る、兄としての威圧感。今から私、叱られるのか……なんて思ったが、その予想は外れた。なんと兄は、その瞳に涙を浮かべ、私を力強く抱きしめたのだ。


「よかった……本当に、よかった」


 兄の声は、弱々しく震えている。私は少しだけ自分の行いを反省した。……そうか、こんなにも心配させてしまったんだなぁ。


「ありがとう……ふふっ、痛いよお兄ちゃん」


 暫く私は、大きくて頼もしい兄の身体に寄りかかっていた。じっとりと汗の臭いがする。こんな格好になりながらも、私を必死に探してくれた。見つけ出し、涙を流して喜んでくれた。それが堪らなく嬉しかった。つい私の瞳からも涙が溢れ出た。何だか悔しい。悔しいけれど……。


 結局、私は兄離れできていない、そう実感させられたのだった。





 二人して再会を喜び合った後、ユキについての話をした。彼女とスノードーム現象の関係について、私が見たユキの記憶を踏まえ、丁寧に伝えた。そしてユキが、再び地上へ戻ってくる、その可能性があることも、全部――。

 現実主義者の兄が、信じてくれるとは思っていなかった。しかし……。


「そうか……一連の現象は、ユキちゃんの仕業だったのか。だったら納得だな」


 意外にも、兄は私の話を全て受け入れてくれた。拍子抜けするくらい、あっさりと。


「信じるの……? こんな、御伽話のような話を?」


「あぁ、信じるしか無いさ。もう既に、科学では証明できないことが沢山起きているんだから」


 兄いわく……極寒のトコナツへ突入した私を、すぐに追いかけたらしい。そして数分も経たないうちに、島全体の気温が急上昇。炎に氷を投じたかの如く、雪が溶け始めたそうだ。


 ――不思議だ。私の体感では、既に何時間も経っている筈。時間の操作、もしくは錯覚? これも、ユキの仕業なのかな。


「それに……お前の強烈な平手打ちを受けて、オレも思うところがあったんだ。やっぱり可愛い妹を信じなきゃ、お兄ちゃん失格だろ?」


「もう……ばか」


 照れ臭くなり、少しだけ顔を背ける。


「それで、ユキちゃんのことだが……。カイリ、お前はどうしたいと思っているんだ?」


「私は……もう一度、ユキに会いたい。スノードーム現象が必要なくなった世界で、ユキを暖かく迎え入れたい!」


 スノードーム現象が必要ない世界を作る。きっと私は、その難しさを完全には理解できていない。何せその具体的な方法が、全く思い浮かばないのだから。


「……できるかな? 私達に」


 私の問いかけに対し、兄は難しい顔をする。自身の髪を掻きむしりながら、何かを考え込んでいる。


「さぁな。恐らく温室効果ガスの削減が、一番の課題になるだろうが……結局そういうのって、世界中の人々がどうするかって話だからさ。オレ達だけが頑張った所で、どうにもならないだろうな」


「そう……だよね」


 思わず目を伏せる。一体、どうすれば……。


「だが、オレ達にしかできないこともある」


「……私達にしか、できないこと?」


 視線を上げると、晴れ渡る夏空を見上げる兄の姿があった。……そうだ。私の兄は、環境科学研究科の大学院生。これほど頼りになる存在はいない。


「あぁ。この度の異常気象によって、オレ達が住むトコナツの島は、世界的に有名になりつつある。つまり、今オレ達が声を大にして何かを叫べば、世界中の人々に届く可能性があるわけだ」


 私の肩にポンッと手を置き、優しく微笑む。その悠然とした立ち振る舞いに、私は希望を見出した。


「まずは島の人々を味方に付ける。――カイリ、一緒に町長の所へ行くぞ」


 彼は足早に歩き始める。その背中を追いかけ、私は彼に着いて行った。雪解け水でぬかるんだ道に、足を取られないように。


 



 兄は、私が話した内容を、そのまま町長に伝えた。ユキのことも含めて、包み隠さず全て話していた。

 最初はかなり驚いた顔をされたが、「トウマ君がそう言うのなら――」と、最終的には兄の言うことを信じてくれた。

 町長を説得する兄の姿を見て感じた。私のお兄ちゃんは、こんなに偉い人からも信頼されているんだな、と。彼は立派な大人なんだということを、改めて実感させられたのだった。



 そして数日後。町長の計らいにより、環境保全事業を立ち上げる運びとなった。トコナツの島全体を挙げた一大事業、なのだが……。

 発足するに当たり、町長は私達に『ある条件』を提示してきた。それは……。


 ――島民全員の、承諾と協力を得ること――


 そう告げられた時、私は胸を締め付けられるような感覚に陥った。何故なら、島民全員――その言葉の意味を理解していたから。

 この島に住む人口など、たかが知れている。そして皆基本的には良い人ばかりだから、きっと何かしら協力してくれるだろう。

 問題なのは、一時的に島の外で生活している人々だ。そう、例えば――。




「……」


 自室にて、スマホと睨めっこをしたまま固まる。画面には、疎遠となってしまった幼馴染みの電話番号。発信ボタンをワンタップすれば、たちまち電話をかけることができる。しかし……。


 どう話せばいいのだろうか。温室効果ガス削減のため、一緒に環境保全事業へ参加して欲しい? いやいや、いきなりそんな話、突拍子が無さすぎる。まずは挨拶から……久しぶり、元気してた? こんな所かな?


 ふと、思い出の写真をビリビリに破いた記憶が脳裏に浮かぶ。その映像は、私の決心を鈍らせるには十分だった。ダメだ……私、電話出来ない。どんな顔をして話せばいいか、分かんないや……。



――私は思うんだ。この世界の物は完全に壊れない限り、必ず元通りにすることができるんだ、ってね! ――



 ふと、ユキの言葉を思い出す。彼女の白く柔らかい手で、そっと背中を押されたような気がした。……そうだ、まだ完全に壊れたわけじゃない。私が一方的に拒絶してしまっているだけ。

 むしろこれは、ユキがくれたチャンス。あの写真をパズルみたく直してくれたように、人間関係を『元通り』にする機会を与えてくれたのかもしれない。


「よし……」


 決意を固め、そっと発信ボタンをタップした。



『ただ今、呼び出しております。しばらくお待ちください』


「……」


 等間隔で鳴り続く発信音。出るの!? 出ないの!? 出ないなら出ないでも……あっでも、また掛け直すのは勇気がいるから、できれば出て……!


 そんなことを考えていると、発信音がぷつりと途切れる。そして電話特有の籠った声で、女性が話し始めた。


『もしもし……』


「あっあっ、もしもし、カイリだけど……トモ、だよね?」


 はち切れそうな心臓を抑えながら話した。


『えっ!? カイリ!? ちょー久しぶりじゃん! 電話番号変えたんだ!』


「う、うん。それで、あの……」


『元気!? 今何してるの!? 島にいるの!?』


「う、うん……」


 話を遮るように、質問攻めが始まった。うわ……やっぱりきついかも。

 トモは中学時代、もっとおとなしい子だった。しかし高校に通い始めて、彼女は変わってしまった。話し方や、立ち振る舞い。見た目もすっかりお洒落になり、別人になってしまった。トモだけでは無い。他の友達も、皆……。

 当時の私にとって彼女達の変化は、言い表しようの無い程衝撃的で、どうしても耐えることができなかったのだ。


 でも……。


『ねー聞いてよ! ユカがさぁー、また変な機械を発明して、見せびらかしてくるんだよ! あの子小さい頃から変な物ばっかり作ってたよねー』


「そうそう。ふふ、懐かしいー! ユカは相変わらずだなぁ!」


 ……あれ?


『みどり先生、覚えてる? 小学校の頃の担任』


「あー、懐かしい! 若くて綺麗だけど、怒ったら怖かったよね!」


『そうそう! あの先生さ、この間男の人とデートしてた! ちょーイケメンだったよ!』


「えぇーそうなの!? 見たかったなぁ!」


 あれ? 意外と、悪くないかも……。

 言葉を交わす度、パズルのピースが修復されていく。私の中にあったモヤモヤが、一つ、また一つと晴れていく。


 ……さっきまでの私は、一体何を気にしていたのだろう。




 気づけば時間を忘れ、二時間近くも電話していた。


『……で、話が大分逸れちゃったけど、何か用があって電話くれたんだよね!?』


 その一言で、私は本題を思い出す。


「あ、そうそう! あのね、トモ。協力して欲しいことがあるの……」


 トコナツの島で発足予定の環境保全事業について、丁寧に伝えた。話し終えた後、トモは暫く無言で考え込んでいた。当たり前だ。こんな話題、久方ぶりの友達にする内容ではないことぐらい分かっている。

 でも……それでも話した。島の綺麗な海を守りたいという気持ちは、きっと同じだって信じているから。


 暫くして、黙っていたトモが沈黙を破る。


『なるほど……カイリ、凄いね』


「えっ!?」


 凄い? 私が? いや、そんなことはない。高校を一ヶ月で辞めた私なんて、何も凄いことはない。

 年相応に高校へ通い続け、華やかな青春を送る彼女達の方が、よっぽど凄いに決まっている。


『いや、私はさ。高校で何も考えずに日々を過ごしているだけなのに、カイリは色々考えてんだなーって思ったらさ。私も何かしなきゃって、思えるじゃん?』


「そ、そうかな……」


 私だって、今までは何も考えず、ただ海で写真や動画を撮影するだけの毎日だった。変わったのはいつからだと聞かれたら……そうだ。きっと、ユキと出会ってからだ。


『よし、分かった! 私にも協力させてよ! 中学の他の友達と、あとは高校の友達、彼氏の友達、部活の先輩……声をかけられそうな所には、伝えておくから!』


「あ、ありがとう、トモ!」


『ううん、私こそ、頼ってくれてありがとね! ……正直、カイリとは昔みたいに話せないと思ってたからさ、嬉しかったよ!』


 ふふふっと笑うトモ。電話越しでも、彼女が万遍の笑みを浮かべていることが分かる。


『じゃあ、また! 頑張ろうね、カイリ!』


「うん、頑張ろ!」


 こうして、トモとの通話が終了した。




 ベッドへ倒れるように横になり、枕を抱き抱える。つい先程の会話を思い出しながら。


「ふふっ、ふふふふ――」


 嬉しくて、ニヤケが止まらない。全身がくすぐったくて、そのまま宙へ浮いてしまいそうな感覚。そのままコロコロと寝返りを打ち続けた。すると――。


「邪魔するぞー」


 兄がノックもせずに、私の部屋に入って来た。見られた!? 私の奇行を!? 恥ずかしくなり、手に持っていた枕を兄に投げる。


「かっ、勝手に入らないでよ!!」


 枕は見事、兄の顔面に直撃。ボフッという気の抜けるような音を立て、そのまま地面に落下した。


「ったく、乱暴だなぁ。もう大学院に戻るから、挨拶に来ただけなのによ……」


 私の攻撃を、ものともしていない兄。よそ行きの服装で、大きめのリュックサックを背負っている。――そうか、もう行っちゃうのか。


「友達には、連絡できたのか?」


「……うん」


 私の返事を聞き、兄は安心した様子で微笑みを浮かべる。


「そうか。じゃあ、オレの方から町長へ伝えとくから。ひとまずこれで、無事に始まるわけだ。『ユキちゃん奪還作戦』がな!」


「そう……」


 煮え切らない返事をしてしまった。本当に、これで上手くいくのだろうか? ユキは……帰って来てくれるのだろうか? 言い表せない不安が、私の中で渦巻いてもどかしい。

 兄は何かを察したのか、私に近寄り、そっと頭を撫でてきた。


「大丈夫だ、あとは大人達に任せておくといい。オレもこれから、色々行動するつもりだし。……まぁ、良いようになるさ」


 あぁ、また子供扱いされてる。ほんと、嫌いだ。嫌いだけど、今はその優しさがありがたく思えた。


 ――でも、その優しさに、いつまでも甘えてはいけないことも分かってる。


「ねぇ……私にも、何かできることは無いかな?」


「カイリ……」


 兄は驚いた表情をしていた。そしてフッと一息吐くと、私に笑顔を向けながらこう言った。


「そうだな……周りを見てみろ。お前にしかできないことが沢山ある」


 そう言われ、部屋をぐるりと見渡す。目に入るのは、壁にびっしりと貼ってある写真。今まで趣味で撮影してきた、私の宝物達だ。

 

「まぁ、あとはどうするか、それはお前の頭で考えるんだな。それが『大人』ってもんだ」


 兄はそう言うと、私の部屋から立ち去っていく。そして入り口付近で再度立ち止まり、こう言い残した。


「できるさ、今のお前ならな」




 兄が去った部屋で一人、自分の両手を見つめる。


 ――私の写真で、何ができる?


 考えて、考えて……頭の中で思考を巡らせる。そして答えを出した。それは今まで目指していた物――将来の夢。人々の心を動かす写真を撮ること。見つめていた両手を、ギュッと握りしめた。


「よし!」


 今、私の中で『やりたかったこと』と『やるべきこと』が重なった。やってやる! 私なりのやり方で、必ずユキを取り戻してみせるんだから!






 あれから、随分と月日が流れた。今日もトコナツの海は、宝石のように綺麗だ。

 暖かい日差しを浴び、心地よい潮風に身を晒す。今日の撮影を終えた私は、桟橋でマリンスーツを脱ぎ、ビキニの水着姿となった。相変わらず褐色に日焼けした肌と、真っ白の水着がよく映える。もうスクール水着で泳ぐような歳ではないし、何より……サイズが合わなくなった。特に、胸あたりが。


 ユキと別れて、もう十年が経つのか……。長いようで、あっという間だった。あとどれくらい頑張れば、ユキと再会できるのだろうか。もしかしたら、このままずっと会えないのかも……そんな不安が、時折胸をよぎることもある。


 でも、私が弱気になってはダメだ。この十年、みんな本当に頑張ってくれたのだから。




 トコナツの島全体で立ち上げた環境保全事業は、世界中に大きな反響を呼んだ。今でもドキュメンタリー番組に取り上げられたり、CMが放映されている。日本では『環境の日』という祝日が制定されたほどに、『環境を大切にする』という思いは、人々の間で定着しつつあった。


 また、個々人の活躍も功を奏している。トモは学校の先生という立場から、環境保全の大切さを子供達に伝えている。小さい頃おかしな発明ばかりしていたユカは、温室効果ガスを削減する家電製品の開発に次々と成功している。

 

 そして何といっても、我が兄の活躍は目を見張るものがある。スノードーム現象の真相に迫った科学者、という名目で一躍有名人となった兄は、大学院博士号を取得後、環境省へ入閣。その後もスピード出世を果たし、異例の若さで環境大臣にまで登り詰めた。その立場から、環境保全や地球温暖化対策に関する様々な計画を策定している。


 私は、というと……やっていることは、前と変わらない。海の美しい写真や動画を撮り続ける日々。変わった所と言えば、美しい海を一緒に守るよう、作品を通じて世界へ発信していることだ。




 十年前、まず私が始めたのは貯金だった。近所のスーパーでバイトを行う傍ら、写真の販売も開始した。私のような駆け出しのカメラマンが撮影した写真でも、安価であれば買ってくれる人は沢山いた。

 そして貯まったお金で、今度は英語の勉強を始めた。この身一つで海外へ飛び立つために。


 一年後、最低限の英語力と貯金を携えた状態で、私は世界各地を巡り始めた。海の美しい姿を撮影し、その写真や動画を通じて、人々に環境保全の大切さを伝える……そんな活動を開始した。

 異国の見知らぬ地で、人々の心に訴えかけるのは容易くなかった。全く耳を貸さない者もいたし、私のことを偽善者と揶揄する者もいた。何度心を折られただろうか。それでも、私はめげずに活動を続けた。全ては、ユキと再会するため……。



 そして今、久しぶりに故郷へ帰省しているというわけだ。

 ふぅ、と大きく息を吐く。今日もトコナツの島は暑い。真夏の気候だ。しかしもうそろそろ、冬が来る。スノードーム現象が、今年も同じように訪れる筈だ。

 

「――やっぱり、ここにいた」


 後ろから、女性の声がした。それは柔らかくて、耳当たりの良い声。この十年間、片時も頭から離れなかった声。


「ふふっ。相変わらず、チョコレートみたいで美味しそうだね、カイリは」


 ゆっくりと、この瞬間を噛み締めるように振り返る。彼女は、何も変わっていなかった。銀色の髪も、雪のように白い肌も、吸い込まれるような瞳も、そして無垢な笑顔も……。全てが十年前のままだった。


「少し、髪伸びた? 背も高くなったようだし、それに、お胸も――」


「ユキ!!」


 すかさず、ユキに思い切り抱きついた。十年分の思いを込めるように。

 成長した私の身体を、彼女は華奢な身体で受け止めてくれた。そして私の背中に手を回しながら、耳元でそっと呟く。


「……ただいま、カイリ」


 おかえり、という言葉の代わりに、私は彼女を抱きしめ続けた。暑い暑い夏空の下。ひんやりとした彼女の体温が、日焼けで火照った身体に心地よく染み渡るのだった。

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