六話
ここは……何処? 見上げると、濃いピンクと薄紫のグラデーションがかった空が広がり、その中心には黄色に輝く太陽が、若草色をした薄雲の切れ目から日光を供給する。辺りを見渡すと、周囲を水色の山々が囲んでいる。まるで現実から逸脱した配色の世界。そして大地には、雲だか煙だか分からない白色の物質が、膝下辺りでもくもくと立ち込めていた。
天国、かな? つい先程、身体の芯まで凍りついてしまった私。ユキと共に、物言わぬ氷像へと成り果ててしまった筈だ。
……じゃあ、今ここにいる『私』は誰?
『私』はゆっくりと前へ歩み始める。そこに意思とか、自我なんて物は無い。まるで空っぽの人形だ。ただ己が使命に従い、無心で目の前の道を進み続けた。
やがて、大きな湖へと辿り着く。透明に澄んだ水面が、日の光を鏡のように跳ね返している。その
すると、ひんやりとした空気が立ちこめ、周囲の気温が下がり始める。ゆっくり目を開けると、目の前には大きな氷の塊が宙に浮いていた。まるで大きなクリスタルのように透き通っており、日の光をミラーボールのように乱反射する。氷の塊はゆっくりと下降し、やがて吸い込まれるように湖へ沈んでいった。
何事も無かったかのように、その場からスッと立ち上がる『私』。不意に水面へ目を向けると、青い海の真ん中にポツンと浮かぶ、真っ白な島が映っていた。間違いない、これはスノードーム現象を迎え、雪化粧をした私の故郷『トコナツ』だ。私にとって馴染みのある、よく知っている場所の筈、なのに……。
気づくと『私』は、その美しい島の姿に釘付けとなっていた。今まで感情なんて持ち合わせていなかった『私』が、初めて覚えた『好奇心』、そして『感動』。弾む息を抑えつつ、水面に映る景色を覗き込んだ。
もう少し、もう少しだけ近くで見たい……その一心で、『私』はギリギリまで身を乗り出す。やがて頭の重さに耐え切れなくなり、そのまま湖へと落下してしまった。しかし、身体が濡れることは無い。何故なら――はなからそこに、水なんて物は無かったから。
いつの間にか、『私』の身体は空中へと投げ出されていた。重力に従い、下へ下へと落下していく。その先には、先程まで見惚れていた美しい景色があった。雪化粧をした『トコナツ』と、それを囲むように広がる青い海。初めて感じる『期待』と『不安』が、胸の中で渦を巻いていた。
落下するにつれ、徐々に青緑色の絨毯へと近づき……。激しい衝撃音と共に、『私』は海へと吸い込まれた。その瞬間、燃えるような激痛が『私』の身体を襲った。
――熱い、熱い! こんな所、来るんじゃ無かった! これは、『私』が初めて感じた『苦しみ』そして『後悔』。もがこうにも、身体はちっとも動いてくれない。
そんな時、柔らかくて暖かい人の手が、『私』の身体に優しく触れた。
「うわぁ、びっくりした! あなたは……えっと、氷のお人形さん!?」
浮き輪に捕まる一人の少女によって、私の身体は海から引き上げられた。た、助かった……。胸をなで下ろしつつ、恩人の顔をまじまじと見つめる。褐色に焼けた肌、くりっとした瞳。あれ? ひょっとして……。
その子が身に付けているスクール水着、見覚えがある。なんと胸元の名札には、ミミズが這うような字で『カイリ』と描いてあった。
「ど、どどどうすれば……おにーちゃん! 早く来て!」
目の前の少女は、分かりやすく慌てふためいている。その様子から見て、かなり幼い頃の自分なのだろう。
間もなくして、一人の少年が泳ぎながらこちらへとやって来た。あれは……トウマお兄ちゃんだ。彼も懐かしい姿をしている。中学生くらいかな? だとすると、私はまだ小学生にもなっていない筈。
「おぉ、こいつは大きな『
ゴーグルを付けたまま、兄はそう話した。まだ完全に声変わりをしていない、少し高い声に違和感を覚える。
「おにーちゃん。このお人形さん、お空から落っこちて来たの! どうにかして、お家に帰してあげられないかな?」
動くことのできない『私』を優しく撫でながら、幼い私は兄に問いかける。
「カイリ……よしよし、お兄ちゃんに任せろ! こっちへ来るんだ」
『私』を抱いたまま、幼い私は兄を追い、海から桟橋へと上がった。
「そのお人形さんを、暖かい場所に置いてやるんだ。そうすれば、この子はゆっくりと空へ帰ることができるさ」
「うん、分かった! ありがとう、お兄ちゃん!」
そう言うと、『私』を日当たりの良い場所にそっと置いた。暖かな日差しが『私』の全身を包む。心地よさと共に、フワフワと空へ浮かび上がるような感覚に見舞われた。
「そう言えば、あなたのお名前は何て言うの?」
幼い私は真っ直ぐな瞳で『私』に尋ねる。名前……、何だっけ? 答えられず、沈黙の時間が流れる。
「分かった! じゃあ私がお名前を付けてあげる! えーっと……あなたは雪のように冷たいから、『ユキ』ってお名前ね!」
目の前の幼い私は、ニコッと微笑んだ。その瞬間、『私』の中で暖かい感情が芽吹くのを感じた。とてつもなく愛おしく、甘美で、それでいて何処か儚くて……。これは紛れもなく、『私』が初めて抱いた『恋心』だった。
「おーいカイリ、もう一泳ぎするぞ~。お兄ちゃんと競争なー」
海の方から、幼い私を急かす兄の声が聞こえた。
「あー、待ってよお兄ちゃん! ……じゃ、私はもう行くから。ユキも元気でね。ちゃんとお空に帰るんだよ」
幼い私はそう告げると、浮き輪を抱きかかえ、海へ飛び込むのだった。
……そうか、『私』はユキ。今見ているこの映像は、きっとユキの記憶。私たちは、ずっと昔に一度会っていたみたいだ。でも、どうして私が、ユキの記憶を覗いているのだろうか?
あぁ、そうか。きっとそれは、氷像として私とユキが一つになったから。
そんなことを考えている間にも、『私』の身体は太陽によって溶かされていく。海では、幼い私が浮き輪にしがみついた状態でバシャバシャ泳いでいる。あぁ、もう少しだけ、あの子と一緒にいたいな。そんな後ろめたさが胸をよぎる。やがて身体は溶けきり、蒸発が始まった。
……よし、決めた! もう少し大きくなったら、またここに来よう! あの子と再会する為に! そう決心し、『私』は空へと戻ったのだった。
ユキの過去を映した映像は終わりを迎え、再び真っ白な意識の中へと戻された。余韻に浸りつつも、頭の中に散らかった情報を整理する。
私の元に舞い降りた、不思議な美少女『ユキ』。彼女の正体は、雪の精霊だった。
彼女の使命、それは『スノードーム現象』を引き起こし、世界の海水温度を一定に保つこと。
しかし、彼女は私に会う為、自らの使命を放棄し、地上へと『家出』した。それが原因で、『スノードーム現象』は制御不能となり、暴走してしまった。
極寒の檻と化したトコナツの島を元通りにする為、彼女は元いた場所に戻る道を選んだ。雪の精霊としての使命を纏うする為に……。
私は、そんなユキに着いていく道を選択した。ユキが精霊だろうが何だろうが、そんなことは関係ない。ユキと一緒に居られるのなら、もう他には何もいらないから。だから――。
ずっと、私を離さないでね、ユキ……。
頭元で、何かが擦れる音がする。サラサラ、サラサラと脳裏に響く音によって、私は深い眠りから目を覚ました。
まるで長い夢でも見ていた気分だ……。なんて思いつつ、ゆっくり起き上がって周りを見渡す。ここはお社広場。あの夜、ユキが舞い降りた場所、なのだが……。私の目の前では、夢のような光景が広がっていた。
「なに……これ?」
降り積もった雪が、天へと吸い上げられていく。さながらギリシャ神殿に立ち並ぶ白い柱のように、トコナツの島の至る所で、天へと昇りゆく雪の線が引かれていた。真っ白に染まった山や木々に、暖かな緑色が返却されていく。
「――カイリ」
途方に暮れていると、背後から声をかけられた。振り返ると、そこにはユキが立っていた。……いや、正確に表現すると、彼女は少しだけ宙に浮いていた。まるで幽霊のように半透明な身体で。
「ユキ、その姿……」
驚く私を見て、彼女はやや目線を落とし、バツが悪そうな顔をした。
「うん。えっとね、神様に怒られちゃって。やっぱりカイリは人間だから、こっちに来るのはダメなんだって」
話している間にも、ユキの身体は少しずつ薄くなっていく。水で薄められた絵の具のように、彼女の存在が、この世界から少しずつ消えていく。
「来年も、そのまた次の年も、今年と同じようにスノードーム現象が訪れる。でも私は、もうここに来ることはできない。またトコナツの島を、雪で埋め尽くしちゃうから」
「えっ!? そんなの……嫌だよ! 折角ユキと一つになれたのに!」
私はユキを抱きしめようとした。抱きしめて、ずっと離さないでいたかった。
……しかし私が伸ばした腕は、ユキの身体をすり抜けてしまった。
「そんな……だめ。私、ユキがいない世界なんて、耐えられないよ……」
大粒の涙が溢れ出る。そんな私の顔を、ユキの両手が優しく包み込んだ。直接触れている訳ではないが、不思議とひんやりした心地良い感触が伝わる。
「カイリ、顔を上げて。実は神様から、一つだけチャンスを貰ったの。こっちを向いて、今から私が言うことをよく聞いて」
「……チャンス?」
俯いていた顔を上げ、ユキの大きな瞳をすがるように見つめる。
「うん、あのね……もし、仮にだよ? この世界から、スノードーム現象が必要なくなったら――」
一呼吸置いた後、私を真っ直ぐ見つめながら言った。
「私は、雪の精霊としての使命を終えることができるんだ」
――雪の精霊としての使命を終える……その言葉の意味を理解するのに、少しだけ時間がかかった。そして理解した瞬間、私の中で何かが勢いよく弾けた。
「えっ!? じゃあ、もしそうなったら……!?」
真っ暗な未来に、一欠片の光が見えた。それは私にとって唯一の、希望の光。
「ふふっ。……うん、そうなったら良いね! きっとできるよ、カイリなら!」
片目を瞑りながら、ユキは優しく微笑んでいた。
「分かった。私、頑張るから! それがどんなに難しいことだとしても……! 何年経ってでも、必ず成し遂げてみせるから! だから――!」
右手の小指を立て、彼女に向ける。
「約束しよ! お互いのこと、絶対に忘れない。そして何があっても諦めないで、必ずトコナツの島で再会すること!」
「分かった。私とカイリ、二人の約束だね」
ほとんど消えかかった身体。しかし彼女が万遍の笑みを浮かべていると、はっきり分かった。
ユキの小指が、私の小指に重なる。その瞬間、ユキは空に溶けるように消えていなくなってしまった。
「約束、だからね……」
青く澄んだ空を見上げ、決意を固めるように呟いた。
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