五話
ユキと結ばれたあの日から、さらに三週間が経った。私の部屋は、今朝も暖かい。しかし窓の外では、甲高い吹雪の音が鳴り響く。渦を巻いた雪が日光を遮断し、まるで夜のように薄暗い朝を生み出していた。
トコナツの島で毎年恒例となった『スノードーム現象』。本来であれば、ちょうど一ヶ月でピタリと終わりを迎える。まるで誰かが、タイミングを計っているかのように――。
しかし今年に限って言えば、この異常な現象は終わりを迎えること無く、かれこれ一週間も長引いている。降りしきる雪は弱まるどころか日に日に勢いを増し、島の住民達の生活を脅かしつつあった。
『トコナツの島では、雪だけでなく風も強まり、暴風雪警報が発令されました。外気温はマイナス三十度を下回っており、異常な寒さに包まれております。現地でお住まいの方、くれぐれも、不要不急な外出は控えてください。場合によっては、島からの一時的な避難も――』
テレビから聞こえるのは、不安を煽るようなニュースの声。私はベッドへ寝転んだまま、リモコンでテレビの電源を消す。その隣で、ユキが心配そうな表情で私に寄り添っていた。
「……大丈夫だよ、ユキ。ちょっと冬が長引いてる、ただそれだけのことだから。きっともうすぐ、外を安全に歩けるようになる。そうなったら、また海へ遊びに行こうね」
「う、うん……」
ここ数日、ユキの様子がおかしい。どこかそわそわしていて、落ち着きがない。なにかあったのだろうか? そう問いかけるのを躊躇してしまうほど、最近の彼女は上の空だ。
無言で、ユキをそっと抱き寄せる。それに応えるように、ユキは私の胸に顔を埋めるのだった。
さて、そろそろ起きて、朝ご飯を食べようか。なんて思っていた矢先――ひとりでに電気が消え、部屋が薄暗闇に包まれた。
「こ、これって……停電!?」
光を求め、慌ててスマートフォンを探す。そんな中、ユキはベッドから起き上がり、窓の外を真っ直ぐ見つめていた。
「私、呼ばれてる。行かなきゃ……」
「えっ……?」
スッと立ち上がり、ゆっくりと窓の方へ歩み寄るユキ。まるで見えない物に引き寄せられるように――。
カーテンをそっと開け、窓に手をかけた。
「ユキ、待っ――!」
窓が開かれた瞬間、物凄い勢いで吹雪が流れ込んできた。轟音と共に、室内はものの一瞬で極寒の渦に呑まれる。身の危険を感じるほどの冷気が、一瞬で私の体温を奪う。暴力的な風圧に耐え切れず、思わず顔を背けた。
「くっ……」
自然界の強大な力に恐怖を感じつつも、何とかユキの方を向く。そんな私の目に映ったのは、天より降り注ぐ青白い光を浴びながら、悲しげな表情で立つユキの姿だった。一雫の涙が、彼女の頬をゆっくりと伝う。
「ごめんね、カイリ。私が家出なんてしちゃったせいで、あなたの故郷が大変なことになっちゃった」
ユキの背後に見えるのは、暴風雪によって真っ白に染まった町の姿。吹雪の音がけたたましく鳴り響くが、何故かユキの声は鮮明に聞こえる。まるで脳内へ直接語りかけるように――。
「でも、大丈夫だよ。ちゃんと私が責任を持って『元通り』にするから」
「ど、どういう、こと……!? ユキ……あなたは一体、何者、なの……!?」
吐息までもが白く凍りつく中、私は震える声を懸命に絞り出す。
「私? うーん、そうだなぁ。……雪の精霊、みたいなものかな」
「それって、どう――」
どういうこと!? もっと詳しく、教えてよ!
そう叫びたかった。しかしあまりの寒さに、声が出なくなってしまった。
床を這うようにして、ユキの元へ近づこうとする。しかし全身が凍りついたように強張り、思うように動いてくれなかった。
「ごめんね。雪は儚く溶けるものだから。……さようなら、カイリ。今まで本当に、ありが――」
ユキの声が遠のく。寂しそうに微笑む彼女の姿が、白くぼやけていく。待って、ユキ。行か、ない、で――。
目を覚ますと、目の前には暖かな色をした海が広がっていた。心地良いさざ波の音が響き、真夏の日差しが降り注ぐ。そして潮風が、私の頬を優しく撫でていた。
ここは……?
「目が覚めたか、カイリ」
「お兄ちゃん……」
辺りをゆっくり見渡す。今、兄に背負われた状態で、いつもの桟橋にいるようだ。しかし、そこには見慣れない大きな船が停泊しており、島の住民たちが順々に乗船していた。
「私、何で……?」
「ヒートショックだとよ。急激な寒暖差による、一時的な失神症状だったらしい。……歩けそうか?」
「う、うん……」
ゆっくりと、兄の背中から降りる。うん、少しふらふらするけれど、大丈夫だ。
「私達、何処へ行くの?」
「本土へ避難するんだ。……この島はもう、人が住める環境じゃない」
話しながら、サングラスを掛ける。その言葉を聞いた私は、気絶する前に見た光景を思い出した。荒れ狂う極寒の吹雪、青白い光、そして……。
「ユ、ユキは!?」
慌てて後ろを振り返ると、そこには変わり果てたトコナツの姿があった。
私の故郷は、そこだけ世界から切り取られたように白く染まっている。建物や山、その影すら何も見えない。まるでスノードームをひっくり返したように、真っ白な雪が音を立てて渦巻いていた。
「ユキちゃんは……何処にも、いなかった。家の中、そして家の周りも、隈なく探したんだが。見つけられなかった」
「そんな……」
兄は悔しそうに下を俯いている。そんな筈はない。ユキは、きっとまだ何処かにいる筈。その一心で、私は目を凝らす。
すると、真っ白なスノードームの中に、淡く輝く青白い光を見つけた。
「ユキは……あそこにいる!」
「……は?」
戸惑う兄を他所に、彼のキャリーケースを探り、服の選定を始めた。
「お、おい、カイリ! お前何をするつもりだ!?」
兄の声が、徐々に大きくなる。しかし今は、それどころではない。行かなくちゃ! ユキに会って、真実を知るために!
防寒具を可能な限り重ね着し、そのまま島へ向けて歩き始めた。
「おい、待てよ!!」
怒鳴り声と共に、兄が腕を強く掴んできた。彼のサングラスが日の光を反射し、大人びた輝きを放つ。
「離してよ! ユキは一人で、きっと寂しい思いをしている! 放ってなんかおけない!!」
一生懸命に振り解こうとするが、兄の力には到底敵わない。
「まぁ落ち着けよ、カイリ。ユキちゃんは、きっと先に避難したんだ。今はそう信じよう」
「ユキはあそこにいる! あの子は雪の精霊で……何処か遠くへ行こうとしているの!」
「はぁ? 何のことかは知らないが……お前、もう十七歳になるんだから、もう少し現実的に考えろよ、な? いい子だから、我が儘を言うんじゃない」
兄の口調が、徐々に穏やかになる。困ったような表情で、額の汗を拭う仕草をしていた。まるで駄々をこねる子供を
……ムカつく!
「なぁ、頼むからさ。あんまりお兄ちゃんを困らせないでくれよ」
この気怠げで、それでいて全てを知っているような口振り。ほんっとうに嫌い……!!
「もう! 離してってば!!」
掴まれていない方の手で、兄の頬を思い切り引っ叩いた。衝撃で、彼のサングラスが吹き飛ぶ。一瞬緩んだ兄の手を振り解き、そして――。
「いつまでも、子供扱いしないでよ!!」
彼を思い切り、海へ突き落とした。スローモーションのように水面へと吸い込まれ、高い水飛沫を上げる。周囲の住民達が驚き、一斉にこちらを振り返った。ざわつき始める人々。不穏な空気の中、人混みを掻き分けるように走った。
真夏と真冬。通常であれば、決して隣り合うことのない関係の両者。その境目で、一度立ち止まる。一歩前へ踏み出せば、そこは生物の存在を許さぬ真冬の世界。逆に後ろを振り返れば、暖かい世界と大好きな海が広がっている。一瞬、ほんの一瞬だけ、心が揺れてしまう。しかし、戻るわけには行かない。進まなきゃ。
後ろから、私を呼ぶ兄の叫び声が聞こえる。もう振り返らない。覚悟を決め、大きく息を吸う。暖かい空気を、なるべく身体に取り込んだ状態で、荒れ狂うスノードームの中へと踏み込んだ。
島に入った瞬間、極寒の吹雪が襲いかかる。まるで雄叫びを上げる魔物のように、轟音と共に大気中を渦巻いていた。
あまりの寒さに、鼻が、気道が、そして肺が凍りそうだ。なるべく吸気を温めようと、咄嗟に手で鼻を押さえる。
暴風によって地面の雪が再び舞い上がり、視界を奪っていた。というより、あまりの風圧に目を見開くことすらままならない。薄目を開けながら、僅かに見える青白い光に向かって、一歩ずつ歩み始めた。
想像を絶する程の冷気。しかしいつの間にか、私の身体は発熱時のような感覚に見舞われていた。熱い、とにかく熱い。頭がぼーっとして、関節が痛い。体温は奪われている筈なのに、身体の内側から燃え上がるような感覚が私を襲っていた。
道中、火照る身体に耐えきれず、私は重ね着した防寒着を一枚ずつ脱ぎ捨てる。しかし服の数が減った所で、熱が治まることはない。それでも私は脱衣を続け、そして――。
気づけば、殆ど部屋着の状態となっていた。でも、やはり寒さは全く感じない。どうして……?
そんな疑問を抱きながらも、漸く青白い光の元へ辿り着いた。いつの間にか吹雪は弱まり、音もなく降り積もる粉雪へと変化している。宙を舞う雪は青白い光によって照らされ、幻想的な世界を演出していた。
まるで星空の中を歩いているような気分になりながら、光の中心を凝視する。そこには、予想通りユキの姿があった。降り積もる雪の上にちょこんと座り込む彼女は、祈るように両手を重ね、瞳を閉じている。私は震える声で、彼女の名を呼んだ。
「……ユキ」
「……えっ!? カイリ!?」
ユキは目を開け、こちらを向く。彼女は既に、肩から下が氷像のように凍りつき、青白い光をキラキラと反射していた。そして今も、パキパキと乾いた音を立てつつ、徐々に凍結が進行している。
「よかった……まにあった」
一歩、また一歩とユキに近づく。ユキは眉毛をハの字にして驚いていた。
「ねぇ、カイリ。どうしてあなたが、こんな所にいるの!?」
「いったでしょ……あなたのこころに……はいりこむって」
「嘘でしょ……そんな真っ白な姿になってまで、ここに来てくれたの?」
「まっしろ……?」
ユキに言われ、自身の腕を見る。彼女の言う通り、私の褐色の肌は、霜が張りついたように白く染まっていた。
なるほど……通りで寒さを感じなかったわけだ。身体自体が、徐々に氷へと変化しているのだから。
「あぁ……きづかなかったな」
「髪も顔も、全身が真っ白。カイリ、冷たくないの?」
「うん、へいき。……えへへ、ユキとおなじだね」
「もう……仕方ないなぁ、カイリは」
ユキの顔が綻ぶ。安心したような表情で、優しく微笑んでいる。その笑顔を一目見ただけで、私の心は満たされた。
もう、私の身体は元に戻らないかも知れない。それ即ち、死ぬということ。
にも関わらず、不思議と恐怖は感じない。ユキに会えた、それだけで満足だった。いっそのこと、このままユキと二人、氷像として永遠を共にするのも悪くない。あるいは夏の太陽に溶かされて、混ざり合って一つになって……。あぁ、それも良いな。
ユキの手を取り、見つめ合う。いつ見ても、彼女の瞳は吸い込まれそうなほどに綺麗だ。
「ユキ……あたためてあげるね」
凍りついたユキの身体を抱きしめる。あぁ、でも今の私の身体じゃ、温まらないか。
「……ありがと。すごく温かいよ」
ユキは満遍の笑みを向けてくれた。私を真っ直ぐ見つめる瞳も、徐々に透明な氷へと変化していく。そして――。
「カイリ……大好き」
その言葉を最後に、ユキは完全に氷像となってしまった。カチカチに凍りつき、話すことのできなくなった彼女の唇。そこに、私は自身の唇をそっと重ねる。柔らかさこそ失っているが、ひんやりツルツルしていて、やはり心地良い。
再び、パキパキと乾いた音が鳴り響く。――あぁ、今度は私の番か。
手足の末端から、透明な氷へと変化する。ユキを抱きしめたままの姿勢で、私の身体が固定されていく。同時に、人としての感覚が、じわりじわりと失われていくのを感じた。
――ユキ、私もすぐ、そっちへ行くからね。
腰から胸、そして首元へと、凍結が進行する。まだ、意識はある。最後の瞬間まで、ユキを感じていたい。その一心で、彼女と唇を重ね続けた。
やがて顔が凍りつき、唇を離すことができなくなる。そこから先は早かった。視界が奪われ、嗅覚、聴覚も失われていき……頭がぼーっとし始める。恐らく脳が凍り始めたようだ。何も考えることができなくなって、そして――。
私の意識は、ゆっくりと、冷たい氷に閉ざされていった。
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