三話
翌日。しんしんと降り積もる雪の中、ユキを思い出の地へと案内した。通い詰めた公園、駄菓子屋、定食屋、商店街。小中学校や、島で一番大きなスーパー等。
昨晩、ユキのせいで胸の高鳴りが収まらず、中々寝付けなかった私。完全に寝不足状態だが、隣で楽しそうにはしゃぐ彼女の姿を見ている内、いつの間にか気にならなくなっていた。
案内中、会う人全員がユキに声をかけてきた。無理もない。こんな小さな島では、住民皆が知り合いみたいなもの。ユキのような見知らぬ美少女が歩いていたら、気になるのは当然だ。
そして島の住民たちは皆、ユキのことを暖かく受け入れてくれた。これはユキ自身の、上品かつ愛嬌に満ちた振る舞いのお陰だろう。
そんなこんなで、思い出の地を順々に巡り――。お昼下がりになる頃、最後の目的地へ到着した。
「わぁ〜、海だー! 綺麗〜!」
そう、ここはいつも私が泳ぐ桟橋。相変わらず、島から一歩出ると、そこには真夏の世界が広がっていた。照りつける太陽。その日差しを反射した海が、エメラルドグリーンの輝きを放つ。
暑さに耐え切れず、私はすぐにコートを脱ぐ。しかし、ユキは上着を脱ぐ素振りを見せず、ただただ海の美しさに見惚れていた。
「ユキ、暑いの大丈夫なの?」
「うん、気温が高いのは平気だよ。水温が高いのはダメだけどね――」
そうなんだ。……まぁ、今更気にすることはないか。ユキが不思議な子だということは、もう十分に分かっている。
「――そこのお嬢さん方。こんな所で何をしているんだい?」
突然、男性が話しかけてきた。兄の声だ。彼は桟橋の隅に座り込み、ノートに何かを書き記している。今日も今日とて、環境調査を行っているのだろう。
「あっ、カイリのお兄さん……えっと確か、トウマさん! こんにちは!」
ペコリと頭を下げるユキ。それに応えるように、兄は笑顔で片手を挙げた。
「カイリが、この島を案内してくれているんです! 色んな所へ連れて行って貰いました!」
「そうかい、そいつは良かったな! 良い所だろう? この島は」
「はい! 楽しくて綺麗で、住民の皆さんも優しくて。たった一日で、この島のことが大好きになりました!」
徐々に盛り上がる二人。そして暫く会話した後、兄はゆっくりと立ち上がった。
「さてと。若いお二人さんの邪魔をしちゃ悪いし、お兄ちゃんはそろそろお暇するよ。科学者は色々と忙しいんだ。調査結果をまとめなきゃだしな」
またしても一丁前なことを言う兄に対し、私は皮肉混じりに言ってやった。
「まとめる程の調査結果なんて、得られてるの?」
「おいおい、あまりお兄ちゃんをバカにするなよ? それなりに成果を挙げているんだ。代表的な物でいえば……やっぱり『スノードーム現象と海水温度の関係』だな」
兄は手に持っているノートをパラパラと捲り、記載した内容に目を通す。
「元々世界の海水温度は、地球温暖化によって指数関数的上昇を見せていた。それはこの島『トコナツ』周辺の海でも、同じことだ。だがここ数年は違っていて、上昇した海水温度が低下するタイミングがあるんだ」
「それって、もしかして――」
私は呟き、後ろを振り返る。そこには、今もなお降り積もる雪によって、真っ白に染まる私の故郷があった。
「そう、『スノードーム現象』だ。この謎現象が見られ始めて十七年間、世界的に見ても、海水温度の上昇は頭打ちになっている」
「でも、私は小さい頃から海で泳いているけど、『スノードーム現象』の前後で温度の変化なんて全く感じなかったよ?」
「そりゃあ海水温度の変化なんて、小数点以下の世界だからなぁ。オレたち人間が気づかなくて当然だ。だが、他の生き物たちは違う。特に海で生活する、繊細な生き物達はな。例えば――」
兄は日光に照らされる海を指差しながら、説明を続ける。
「カイリ。お前の大好きな珊瑚礁は、海水温度がたったの二度上昇するだけで失われる危険性がある。だが今は、温度の上昇が抑えられているお陰で、珊瑚礁は現在の姿を保てているんだ」
「……えっ!?」
じゃあもし『スノードーム現象』が無かったら、この美しい海は、今頃――。
「まぁ、海水温度上昇の影響は他にもあってだな。海面水位上昇が――、それから――で、いったん変化すると――して、海流が変われば――さらに植物プランクトンが――。だから、二酸化炭素が――なんだ」
その後もつらつらと、兄は
「す、すごい! そんなことまで知っているんですね!」
片やユキは、興味津々な様子で最後まで聞いていた。その澄んだ瞳を輝かせながら……。
「だろう? だからほら! もっとお兄様を敬いたまえ、我が妹よ」
得意げにそう言うと、兄は私の頭をワシャワシャと撫でてきた。
「やめて! 触らないでよ!」
パシッと、頭に乗せられた手を叩く。私を子供扱いする、兄のこういう所が嫌いだ。
「おー怖い怖い。……まぁ、こんな妹だけどさ、宜しく頼むよ、ユキちゃん」
そんな捨て台詞を残し、兄はこの場から去って行った。
「お兄さん、凄い人なんだね! 物知りで、説明上手で――」
「も、もういいよ、お兄ちゃんのことは。それよりほら、海だよ、海」
話を遮るようにユキの手を引き、水面が見える位置まで移動する。
「わぁ〜、凄い! 近くだと、また少し違う色に見えるんだね! キラキラしていて、鏡みたい!」
飛び付くように、海を覗き込むユキ。
「この水面の向こう側に、カイリの写真に写っていた世界が広がっているのか〜! 凄いなぁ……!」
ユキの左眼と、日の光を浴びた海。どちらも同じ、エメラルドグリーンの色を帯び、まるで共鳴するかのように輝いている。
「……ねぇ、お兄さんの話だと、『スノードーム現象』の時期は、海水温度が下がるんだよね?」
「そうらしいね。でも――」
そんなに大きくは下がらないよ。そう伝えようとしたが、時すでに遅し。
「そーれ!!」
無邪気な掛け声と共に、ユキは海へと飛び込んでしまった。服を脱ぐこともなく、そのままの格好で――。
バシャンと音を立て、白い水飛沫が立ち上る。
「ユキ!?」
三十度のぬるま湯でさえ、熱いと泣き言を言っていた。灼熱の太陽で熱された海……どうなってしまうのだろうか!?
間もなくして、ゆっくりと水面へ浮かび上がるユキ。しかし想像以上に熱かったのか、海底を向いたまま動かなくなっていた。
「ユキ!!」
私も服を着たまま、慌てて海へ飛び込む。そして気絶したままぷかぷかと浮かぶユキを、決死の思いで救出した。
「いや〜、参ったよ。まさか海がこんなに熱いなんてね。助けてくれてありがとう、カイリ!」
桟橋へと引き揚げられたユキは、幸いにもすぐ目を覚ました。真っ白な肌は、熱によってほんのりと赤みを帯びている。しかしそれ以外、特に目立った外傷は無いようで安心した。
「バカ。どうしてそう、考えなしに行動するのよ?」
ユキのおでこを優しく小突く。全く彼女の言動ときたら、天真爛漫という言葉がぴったりだ。心身共に振り回される、私の身にもなって欲しい。
「えへへ、ごめんごめん。海があまりにも綺麗で、吸い込まれちゃった。それに――」
ユキは目を伏せ、悲しげな表情で呟く。
「カイリが好きな景色を、私もこの眼で見たかったんだけどなぁ。でもこの身体じゃ駄目か~」
ユキ……。
「ちょっと、待ってて」
そう伝え、物陰に隠れて水着へ着替える。そしてリュックサックの中から、水中カメラとデジタルメガネを取り出し、それらの無線接続を開始した。
「カイリ?」
頭にハテナを浮かべながら、私の行動を見つめるユキ。その視線を感じながら、機器の設定を完了させた。
「ユキ、このメガネを掛けて」
ユキにデジタルメガネを渡す。彼女は少し戸惑う様子を見せながらも、言われるがままに装着した。
「あれ~。真っ暗で、何も見えないよ?」
キョロキョロと辺りを見渡すユキ。その姿に可愛らしさを見出しつつ、彼女に向けてこう言った。
「それを着けている限り、あなたの視界は私のものだから」
「えっ……?」
いまいち状況を把握できていないユキを尻目に、海へと飛び込む。そして海底へと潜り、いつものように撮影を開始した。
今日は写真ではなく、動画だ。キラキラと輝く宝石箱の様な珊瑚礁を、ゆっくりと撮影して回る。このカメラに映った映像は、そのままユキが装着したデジタルメガネに映し出されるのだ。色とりどりのお魚さん達が、期待に応えるかのように顔を出してくれていた。
あぁ、ユキは今、どんな顔でこの映像を見ているのだろうか。この美しい光景を、彼女と共有したい。その一心で、私は泳ぎ続けた。
撮影を終え、桟橋へ戻った私を待っていたのは、デジタルメガネを装着したままの状態で、頬に一雫の涙を浮かべるユキの姿だった。
「ユキ……?」
近づきながら、彼女の名前を呼ぶ。泣いている……?
私に気づいたユキは、ゆっくりとデジタルメガネを外す。露わになったその瞳は、涙で潤んでいた。
ふらふらと、こちらへ歩み寄るユキ。そのまま抱きつくように、私の胸に顔を埋めてきた。ユキの優しい香りと、大好きな潮の香り。その二つが入り混じり、私の身体に染み渡っていく。
「凄い……。海の中の世界って、こんなに綺麗だったんだね。カイリ、見せてくれて、ほんっとうにありがとう!」
私の顔を見上げ、涙ぐみながら満遍の笑みを浮かべるユキ。……驚いた。まさか涙が溢れるほど感動してくれるとは、思ってもいなかったから。
無意識のうちに、ユキを優しく抱き返していた。細いな、ユキの身体は……。白くて、ひんやりしていて、そして柔らかい。
「ユキがこの島に居る限り、毎日でも見せてあげるよ。何十回でも、何百回でも、私は海へ潜るから」
それくらいは、お安い御用だ。何故なら――。
「――私の将来の夢は、人を感動させる写真や映像を撮る、水中カメラマンになることだからさ」
自分が撮影した写真や映像を、ここまで喜んでくれる人が居る。これほど幸せなことは無い。
ユキはゆっくりと私から離れると、今度は桟橋の隅へと歩み寄る。そして再び水面を覗きながら言った。
「ありがとう。……でもやっぱり、いつかは私も泳げるようになりたいな」
そう呟いた後、不意に自身の両手を空へと突き上げ、何かを決心した様子で宣言する。
「うん、決めた! 私の将来の夢は、海の中を撮影するカイリの横で、一緒に泳ぐこと!」
「ふふっ。その為には、温かい水に慣れる練習をしないとね」
そう告げると、ユキは両手で頭を抱えた。
「そうなんだよ〜! それが一番の難関だ〜!」
どうしよう、と暫く悩むユキだったが、私の顔を見るなり、閃いたように言った。
「……ねぇ、カイリと一緒にお風呂へ入れるようになったら、きっともう大丈夫だよね?」
大きな瞳を細め、小悪魔のような笑みを浮かべるユキ。分かっている。この表情の時、ユキは私をからかっている。
段々、彼女のことが分かるようになってきた。その筈なのに……。
それでも、何故か身体がポカポカと暖かくなる。恥ずかしくなり、また顔を背けてしまうのだった。
……はぁ、ユキには敵わないなぁ。
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