一話

 あれから何時間経っただろうか。徐々に疲労を感じ始めた私は、ぼちぼち撮影を切り上げることにした。満足のいく写真も、沢山撮れた事だし。


 桟橋に備え付けられている梯子を登り、海を後にする。この桟橋は島の外という判定になっているのか、真夏の暑い気候のままだ。南の空、高い場所で眩く光る太陽が、ジリジリと私の肌を焦がしていた。


 バスタオルを手に取り、海水で濡れた身体を優しく拭き上げる。すっかり日に焼けて火照った肌を労るように……。

 褐色に焼けてしまっている、私の肌。まぁ、無理もない。こうして毎日、海へ潜っては写真撮影を続けているのだから。そして別段、この日に焼けた肌が嫌いなわけではない。寧ろ大好きな海と一体になれているようで、気に入っている。


「まーた海に潜っていたのか、カイリ」


 桟橋の隅の方から、私を呼ぶ声が聞こえた。見ると、半袖のアロハ服を着た男性が、身を乗り出すように海面を覗き込んでいた。パーマを当てた茶髪の頭に、黒光りする渋いサングラスを乗せている。


「……お兄ちゃん、島に帰ってたんだ」


 自分から声を掛けておきながら、兄はこちらを向くこと無く、ただ海面をジッと見つめていた。


「あぁ、環境調査だ。もう毎年恒例になっちゃったな」


 そう答える彼の手には、海水温度計が握られていた。そこに示された数値を確認すると、手早くノートに記録する。


 私の兄――トウマお兄ちゃんは、日本では有名な大学の環境科学研究科、その大学院生だ。二十四歳にして修士課程を終え、さらに一年経った現在は博士号取得に向けて、日夜勉学と研究に勤しんでいる……らしい。


「『スノードーム現象』か。小洒落た名前をつけられたもんだが、まさにピッタリだよな。島から一歩外へ出た途端に、気候が真冬から真夏へガラッと変わる。ったく、自律神経が乱されるったらありゃしない」


 そう話す兄の足元には、桟橋へ来るまでに着ていたであろう厚手のコートが置かれていた。


 この島――トコナツは、一年におよそ一ヶ月の間、島全体が雪に覆われ、大地が凍土と化す。気温が急激に低下する真冬のような季節が、定期的に訪れる。しかし不思議な事に、一歩島の外へ踏み出すと、そこには真夏の海が広がっているのだ。数多の科学者達がこの謎を解明する為に尽力したが、未だかつて何も成果が得られておらず、もはやお蔵入りとなりつつある。

 このような、周囲の海から切り離された島の状態を、科学者達はある玩具に見立てた。そう、それが『スノードーム現象』なのだ。


 そんな非現実的な現象は、私が生まれた年から始まり、もうかれこれ十七年間繰り返しているそうだ。


「こんなのは自然現象を通り越して、怪奇現象だ。オレ達科学者の出る幕じゃない。都市伝説の研究家やオカルトマニアにでも頼んどけば良いんだよ。それなのに毎年毎年、この島の連中はオレを呼びやがって……」


 気怠そうな口調で長々と語り続ける。一丁前に自分の事を『科学者』だなんて、我が兄は随分と偉そうになったものだ。そう思い、彼をジッと睨みつけた。


「……ねぇ、着替えたいんだけど。早く終わらせて、どっか行ってくれない?」


「なんだよ。折角久しぶりに会えたってのに、連れない妹だなぁ」


 兄はやっとこちらを向いた。そして私の姿を一瞥すると、呆れたような口振りで話す。


「……お前なぁ、いい加減スクール水着で海へ潜るの止めろよ。危ないって、お兄ちゃんいつも言ってるだろ?」


 今の私の格好――学校指定の授業用水着にいちゃもんを付けてきた。


「だって、マリンスーツは着るの手間だし……。水着の方が、軽くて泳ぎやすいんだもん」


 それに……折角買って貰った水着を、一度も着用せずお蔵入りさせる訳には行かない。何せ……高校を一ヶ月で中退してしまった私には、もう海で泳ぐときぐらいしか着る機会が無いのだから。


「まぁ、別に良いけどよ。もう十七歳にもなるんだ。一人で海へ潜ってないで、そろそろ良い男でも見つけたらどうなんだ?」


「な、何でお兄ちゃんに、そんな――!?」


 取り乱す私の声を遮るように、兄のスマートフォンがけたたましく鳴り始めた。


「あーもしもし、マキちゃん。あぁ、今終わったところ。うん、すぐ行くよ。本土のお土産、沢山あるから。じゃ!」


 通話を切るや否や、鼻歌を歌いながらコートを身に纏う。


「さてと。お兄ちゃんは忙しいから、そろそろ行くわ。カイリも風邪を引かないよう、暖かくして帰れよ」


 そう言いながら、頭に乗せていたサングラスを掛ける。それだけで、身近な存在である筈の兄が、少しだけ大人びて見えた。彼は軽い足取りで桟橋から立ち去り、雪に覆われた世界へと姿を消してしまった。


「……ふんだ、このリア充め!」


 兄の後ろ姿に向けて、べーっと舌を出す。どんな青春を送ろうが、そんなの私の勝手だ。そう思ってはいるが、あらゆる面で人生を謳歌している兄に言われると、どことなく悔しい。


 一人ポツンと取り残された私は、手早く着替えを済ませ、この場を後にしたのだった。




 自宅へ戻り、ササッとシャワーを済ませた後、撮影した写真を手早くパソコンに送信する。中でも飛びきり気に入った写真は、プリントアウトして部屋に飾るのだ。その為私の部屋は、壁一面が写真達によって埋め尽くされていた。色とりどりの珊瑚礁に、お魚さん、そして鮮やかな海藻など……。多すぎて、もはやいつ撮ったのか覚えていない写真もある。しかし、そのどれもが私にとって、かけがえのない宝物だった。

 私の夢は、水中カメラマンになる事。この海の美しさを、世界中の人々に知って貰いたい。その為には、人の心を動かす写真を、沢山撮らなければならない。海の中という不安定な場所の中で、煽られないようにバランスを取り、呼吸を堪えながら、幻想的な一瞬をカメラに収めるという技術が必要だ。今はその修行中なのだと、勝手にそう思っている。


「……ふぅ」


 ある程度作業を終え、椅子の背もたれに寄りかかる。そして思い出したかのように、机の引き出しを開けた。中に入っているのは、去年ビリビリに破いてしまった思い出の写真達だ。海の写真では無い、中学時代の私と幼馴染み達が写る、思い出の写真。その切れ端を一枚手に取る。そこでは今と同じく褐色に日焼けした過去の私が、白い歯を見せてのんきに笑っていた。





 一年前……。


 中学を卒業した私達は、それぞれ島の外――つまり本土にある別々の高校へ進学する事となった。何せこの島には、中学校までしか無いから。

 共に過ごしてきた仲間達との別れを惜しみつつ、そして高校生活への期待と不安を抱きながら、私はこの島を後にした。……筈だったのだが、ものの一ヶ月で、この島に舞い戻ってきた。


 耐えられなかったのだ。慣れない寮生活、着いて行けない授業。そして何より、本土の同級生達と、どうしても馴染むことができなかった。育ってきた環境が違えば、価値観や考え方も大きく異なる。周りの生徒達に、どう思われているのだろうか? 嫌われてはいないだろうか? そんなことを考える内、遂には学校へ行くのが怖くなった。故郷の懐かしき日々を思い出しては、夜な夜な枕を濡らす毎日が続いた。……今思えば、完全に『ホームシック』だったのだろう。


 こうして高校を中退し、逃げるように島へと戻った。そんな私を、両親は一切咎めること無く、温かく迎えてくれた。それが本当に救いだった。同時に、淡い期待を抱いていた。もしかしたら私と同じように、高校を中退して島に帰ってくる仲間がいるのでは無いか、と。


 しかし、それはただの虚妄に過ぎなかった。私以外、誰一人として高校生活をリタイアする者はいなかったのだ。そんな仲間達も、年に二回くらいは島に帰省する。その日を心待ちにして日々を過ごした。


 そして訪れた、仲間達との再開の日。ウキウキしながら、その時を迎えた。しかし、そんな私を待っていたのは、すっかり都会に染まってしまった仲間達の姿だった。衝撃的で、つい言葉を失ったのを覚えている。皆お洒落な服で着飾り、綺麗な装飾品を身に付け、中にはうっすらとお化粧をしている者もいた。

 彼女たちは、それぞれ学園生活のお土産話に花を咲かせる。当然私は、聞き手に回ることしか出来なかった。勉学、部活、友達、そして恋愛……。輝かしい程に青春を謳歌する仲間達の姿が、私にはとても眩しく思えた。

 勝手に期待して、勝手に裏切られた気分となった私。つい感情的になり、あのように大切な思い出の写真をビリビリに破ってしまったのだ。今では凄く、凄く後悔している。


 あの日以来、何処か罪悪感を感じるようになり、仲間達を避けるようになった。最初の内は、向こうから帰省の連絡が送られていたが、徐々にそれも見られなくなった。こうして、大切な仲間達と疎遠になってしまったのである。





「はぁ……」


 過去を思い出し、大きくため息をつく。そのままゆっくりと、窓の外へと視線を移す。日は既に傾き始め、燃えるような夕日が、白く染まった町に暖かなオレンジ色を付け足していた。幻想的だな……なんて思いつつ、うっとりと眺めていると、ある異変に気づいた。


「なに……あれ!?」


 窓の奥に見える小さな裏山。その中腹あたりに向けて、空から青白い光が舞い降りているのだ。その神秘的な光景に興味を惹かれた私は、気付くとカメラを片手に部屋を飛び出していた。


「おぉ、カイリ~。お前の大好きなお兄ちゃんが帰ったぞ~。折角だ、昔みたいに、一緒にゲームでもして遊んでやろうか?」


 家の玄関では、帰宅したばかりの兄が立ち塞がっていた。そして私を抱き寄せようと、大きな両腕を広げている。顔が赤い。恐らくマキって女と、お酒でも飲んだのだろう。


「お兄ちゃん、邪魔! どいて!」


 兄を力強く押し退けると、立ったまま靴を履き、玄関の扉を開ける。


「仕方ないなぁ、これだから思春期は……いや、それとも反抗期か? 可愛いなぁ~全く」


 そんな気持ちの悪い台詞を無視して、凍えるような屋外へと踏み出したのだった。




「うぅ~、寒い……」

 

 降り積もった雪をサクサク踏みしめながら、なだらかな山道を歩き続ける。勢いよく飛び出したことを、今になって少し後悔していた。私の格好は、部屋着にコートを一枚羽織っただけ。もう少し暖かい服装で来るべきだったな。手袋とかマフラーとか、防寒具はいくらでもあったのに……。


 しかし、後戻りはできない。今この瞬間にも、例の青白い光はゆっくりと高度を下げているのだから。場所が分からなくなる前に、辿り着かないと。


 家を出発してから数十分ほど歩き、ついに青白い光の真下へと到着した。弾む息を抑えつつ、ゆっくりと辺りを見渡す。もうすっかり日が暮れてしまい、周囲は暗闇に包まれている。申し訳程度に設置された街灯のみが、辺りを淡く照らしていた。

 そして少し開けたこの場所には、今はもう使われていない小さなお社がある。誰が何のために建てたのか、それを知るものは誰もいない。今は参拝する物も居らず、子供達の遊び場として使われているくらいだ。かくいう私も、小学生の頃はここで仲間達とよく遊んだものだ。


 なんてことを考えているうちに、青白い光は刻一刻と私の元へ迫っていた。近づくにつれ、その正体は人の形をした『何か』だと言うことが分かった。神秘的な輝きに見とれ、折角持って来たカメラを構えることすら忘れてしまっていた。

 やがてゆっくりと舞い降りた物体を、お姫様抱っこをするように受け止める。少し重たいが、抱えきれないほどでは無い。抱き抱えたまま、その姿をまじまじと観察した。


 空から降ってきた物、それは少女の形をした『氷像』だった。目を閉じ、微笑みながら両手を組んでいる。まるで何かを祈るように……。

 クリスタルのように凍結した身体からは、今も尚、青白い光が発せられている。少しひんやりしているが、それが妙に心地よく感じた。


「何なの、これ……!?」


 呟いた瞬間、氷像からより一層強い光が発せられ、辺りを白く包んだ。目を閉じていても眩しく感じるほど、強烈な光だ。


 暫くして光が収まり、ゆっくりと目を開ける。すると驚くことに、先程まで抱えていた氷像が、銀髪を携えた華奢な少女の姿へと変化していた。凍結していた身体が、透き通る色白の肌へと変わっていく。そう、私とは正反対の、まるで降り積もる雪のように白い肌へと……。


「ん……んん……」


 腕の中で、少女がゆっくりと目を開ける。彼女の瞳は、右側は深いグランブルー、そして左側は暖かなエメラルドグリーンの色をしていた。まるで私の大好きな海のように、美しく輝いている。その吸い込まれてしまいそうな程に綺麗な瞳を、ジッと見つめ続ける。そうしているうち、何故か胸の中が熱く高鳴るのを感じた。


「……私の身体を溶かしてくれたのは、君?」


「えっ!?」


 喋った!? 今の、この子の声!? 何て柔らかい声なのだろう。耳当たりの良い、ずっと聞いていたくなるような声だ。


「あ、もう下ろして貰って大丈夫だよ」


 言われるがまま、少女をゆっくりと地上へ下ろした。彼女は自身の足で立ち上がると、気持ち良さそうに大きな伸びをする。身長は、私より少しだけ低いみたいだ。美しく整った顔立ちをしているが、その表情には何処か幼さが残っている。恐らく私と同い年くらいだろうか。そんな彼女の立ち振る舞いは、おとぎ話に出てくるお姫様のような雰囲気を醸し出しており、どこか非現実的な存在感を演出していた。

 ……そうだ。もしかしたらこれは、夢なのかも知れない。なんて思いつつ、目の前の少女を見つめることしかできなかった。


「ここが『地上』かぁ~。やっと来ることが出来たよ。うん、やっぱり良い所だね!」


 明るい表情で、少女は辺りをキョロキョロと見渡している。未だに夢と現実の判別が着かない私を余所に、彼女の腹の虫がくぅ~、と音を立てた。


「あちゃー、お腹空いちゃったな~。ねぇ君、ちょっと悪いんだけど。その~、何か食べられる物、持ってない?」


 恥ずかしそうに頭を撫でながら尋ねる。食べ物、食べ物……あ、そういえば。


「はい、これ……」


 コートのポケットから一口サイズのチョコレートを取り出し、彼女に渡した。入れたまま忘れ去られていたお菓子が、まさかこんな所で役に立つなんて……。


「わぁ、ありがとう! じゃ、いただきまーす!」


 受け取るや否や、白くて小さな両手を器用に使って包みを剥がし、チョコレートを口に入れた。


「んん~、美味しい! 甘くて、濃厚で、口の中でとろけていく……。こんなに美味しい物が食べられるなんて、地上は最高だね!」


 そんな台詞を口にしつつ、満面の笑みを浮かべる少女。チョコレート一つで、随分と大げさな物だ。しかし、そんな立ち振る舞いのお陰で緊張が解けたのか、ようやく自分から話しかける事ができた。


「ねぇ、あなたは一体、誰なの……?」


「あぁ、ごめんごめん。いきなり空から降ってきたから、びっくりしちゃったよね」


 口に含んでいたチョコレートを飲み込むと、大きな瞳で私を真っ直ぐ見つめ、自己紹介を始めた。


「私の名前はユキ。ちょっと事情があって、今家出中なんだよね」


 えへへ……と苦笑いしながら、ユキはペロッと舌を出す。そんなあどけない態度を見せた直後、今度はすがるように両手を合わせてきた。


「だから、ねぇお願い。少しの間だけ、君の家に住まわせて貰っても良いかな? 絶対に迷惑はかけないからさ」


 今、私の前にいるのは、空から舞い降りてきた少女。明らかに現実離れした、得体の知れない存在だ。そんな彼女を家に招き入れるのは、普通に考えれば躊躇する所だろう。


 しかし、気づけば私は首を縦に振っていた。


「やったぁ、ありがとう! ……ええと、君のお名前は?」


「……カイリ、だよ」


「そっか! ……えへへ、カイリ大好き! これから宜しくね!」


 そう言って、私に抱きついてきた。突然の行動に抵抗できず、私は唯々動揺することしかできない。


「ちょ、ちょっと……!」


 ユキの身体は、やはり何処かひんやりとしていて心地良かった。そしてフワリと、優しい香りが私の嗅覚を撫でる。その刺激に反応したのか、身体がポカポカと火照っていくのを感じた。氷点下の寒さを忘れるほど、熱く締め付けられるような気持ち……紛れもなく、これは私にとって、今まで一度も感じたことの無い新しい感情だった。

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