第七章

第七章

『闘争は時として伝説の母となる』

-プラカッシュ・スクロワーナン・クーナンタ著 

“プラカッシュ伝説記 第二篇 戦争と地母神のバンジロトワ” より


セヘナイ一行を乗せた船はリザーツァから遡上し、ソポシュノという漁村に到着する。そこも解放軍が占領する村で、セヘナイの到着を兵士たちは首を長くして待っていた。解放軍が手配した商人との契約はここで終わり、船を降りると彼らは逃げるように出港し河を下った。

セヘナイは村外れのリンゴ畑に案内される。そこには青空の下簡易的なテーブルがあり、カトヴァアル総帥はそこで待ち構えていた。周囲には解放軍のテントが幾つもあり、あの砦にあった司令部がそのまま移設してきたような雰囲気だった。このリンゴ畑の持ち主は迷惑に違いない。

セヘナイとカトヴァアルは向き合って座り、セヘナイの斜め後ろはチェルネツアが、カトヴァアルの斜め後ろにはリナアルがそれぞれ立った。

「ソポシュノには四日前に解放軍2500が入った。より上流へ行く為の船は調達中だ」

「そうですか。手際がよろしいですね」

「我々には時間がない。さて、アクアグロットを見せてもらおうか」

 カトヴァアルの要求にチェルネツアは布に包まれたアクアグロットをテーブルに置く。布がはだけ、赤黒く光る石が顔を出す。それにカトヴァアルは感嘆し、手に取ろうとした。だがその前にセヘナイはアクアグロットをスッと自分の方に引き寄せ、チェルネツアに持たせる。

「その前に、アクアグロットの管理は私がする。そして本件が終わったら再度封印する。これを承知してください。でなければこの場で破壊します」

 セヘナイが事前に作成していた誓約書をテーブルの上に置くと、それをカトヴァアルは握りつぶす。グシャグシャと音をたてて小さくなる紙と同様に、セヘナイの心臓もキュンと縮こまった。

「アタ・セへナイよ。何を警戒している?」

「警戒するでしょう。これの帰属をめぐってアグリアとの間で何度も戦争が起きてる。だから北方シア人にもアグリア人にも渡したくない」

「我々は被害者だ。アグセン・リウウィの解放と歴史的正当性を口実にアグリア人の軍隊は過去千年で五十八回も河を渡ってきた。それがあれば我々が北方シアを領有する正当性を示し、戦争を抑止できる」

「そして太陽と月や前テーナ・サーラ王朝シアの例を出し、旧領回復を目的にアグリアへ攻め入る口実も得る。二十四回も前例もある歴史的事実です」

 カトヴァアルは爪で机を叩く。

「我々にはその意思は無い」

「アーニュンゲ総帥にはその意図は無いかもしれません。しかし、後継者がその限りではない。聡明な閣下には理解できるはずです」

「よしんばアクアグロットを再封印したとして、それは問題の先送りだ。北方シア人とアグリア人の闘争は終わらない」

「ですが結論が出てしまえば双方歩み寄る努力をしなくなってしまう」

 爪を叩く早さも、音も大きくなる。空気は明らかに悪くなっていき、解放軍の人々も総帥から視線を逸らす。セヘナイも怖気づきそうになるが、ここで負けたらすべて終わりだと必死に言い聞かせた。

「あれだけ虐げられた我々の方から謙り、妥協せねばならぬと言うつもりか?」

「アグリア人も妥協する必要はあります。私が言いたいのは、まず北方シア人はアグリア人を理解し対話をする姿勢を見せる必要があるという事です」

 突如カトヴァアルがテーブルをひっくり返し、剣を抜いた。椅子ごと後ろに倒れたセヘナイの上にテーブルが被さり身動き出来なくなる。チェルネツアが咄嗟に中腰になってマスケットを手に取ったのをリナアルが見て、彼が咄嗟にカトヴァアルとセヘナイの間に割り込んだ。リナアルは怒りを隠さないカトヴァアルに腰が引けて一瞬息が止まった。

「総帥閣下、剣を収めてください! 彼の話は聞くに値します」

「人命を奪い、略奪を繰り返し、あげく戦争で疲弊した隙に交易の術と富まで奪ったアグリア人を理解しろと。シア人ですらない他人が杜撰な理想論を」

「お怒りは御もっともですが、もし我々が歴史を早とちりしてしまえば閣下の名誉を穢してしまいます。私達解放軍の兵は、それだけはしたくないのです」

リナアルが庇っている間にチェルネツアはテーブルをどかし、セヘナイを助け出した。

総統は不安がる部下を見回し、渋々剣を鞘に納めた。息が上がったリナアルはテーブルを元に戻した。

「リナアル、助かった。ありがとう」

「セヘナイ様の為だけではありません。ですが簡単に死んでほしくないのです」

「約束はできないけど、善処するよ」

 カトヴァアルは壊れた椅子を蹴ってどかし、テーブルに両手を突く。セヘナイは唾をのみ、リナアルは一歩引く。

「思うように話してみよ」

「では、歴史の話をしましょう。ここ四千年の歴史を」

「すまないが、俺も話に入れてもらいたいな」

 割り込む声にチェルネツアとセヘナイは真っ先に反応を示した。キルッタターレ旅団の部下を連れ、解放軍の兵士を掻き分けて現れるキイガール。カトヴァアルは眼球だけを動かしキイガールを見上げた。

「キイガアル遠征軍軍団長、これは解放軍の存続にかかわる問題だ。帝国の攪乱に協力してくれた事には感謝するが、それ以上は口を挟むな」

「それは解放軍の都合でしょう。リレッツェネの頭脳はセヘナイを回収したがっている」

 キイガールは体格の差でリナアルとチェルネツアを押しのけ、セヘナイの首根っこを掴み持ち上げる。カトヴァアルが右手を上げると解放軍の兵士は武器を持ち、ネルボウと睨み合う。

セヘナイはバタバタ手足を動かして抵抗したが、払い除ける事は叶わず諦めた。

「満足したか戦友?」

 セヘナイには背中越しにキイガールの冷静な声が聞こえる。怒って当然だろう。見下して当然だろう。だがセヘナイは目と鼻の先にある大魔術は諦めきれない。利害を話し合うより、友人として語り掛けた方が自分の言葉を聞いてもらえるだろうと思った。

「……脱走の夜から私はキイガールの気持ちを裏切って、悪かったと思わない時は無かった。ずっと謝りたいとも思ってた。許してほしい」

 セヘナイを掴み上げる腕を引き剥がそうとしていたチェルネツアは目を丸くして、咄嗟に両手を放してキイガールから離れた。静寂の中でリナアルが「失礼」とキイガールの手首とセヘナイの肩を掴んで引き剥がすと、簡単に二人は離れる。自由になったセヘナイ、だが振り返らない。逃げもしない。

「いいってことよ。共に統一戦争を戦って、俺の故郷を戦火から救ってくれた恩比べれば、なに、些細な事よ。それに俺も反省している。親しさに胡座をかいて、気配りに欠けていた」

 そんな反応が返ってくるとは予想外で、セヘナイも言葉選びに戸惑う。

「私が悪者でいいんだよ。キイガールは悪くない」

「いや、俺達が友人なら良いも悪いもないだろ」

 セヘナイが振り返ると、キイガールは顔を袖で拭っていた。

「でも分かって欲しいんだ。キイガールにとってシルカルブトが何より大事なように、私にとっては大魔術を追う夢が同じくらい大切だったんだ。簡単に諦められない」

「分かった。それは分かるようにする。けどよ、シルカルブトに連れ戻すのは俺の任務だ」

 セヘナイは俯き何度も小さく頷いた。だがカトヴァアルはリレッツェネの意図に、キイガールを突き飛ばす。

「お取込み中申し訳ないが、強引に連れ去ると言うのなら我々も手荒な真似をする準備がある」

 圧倒的な対格差でキイガールと張り合うカトヴァアル。緊張が高まるこの場へ解放軍の兵士が一人飛び込んで来た。威勢を大きく崩して二回転がるが、フラフラしながらも起き上がりカトヴァアルの前で跪く。顔を大きく火傷し、脇腹から血を流していた。

「総帥閣下へ至急ご報告が! 帝国軍の大軍が侵略軍占領地と解放地の境界を越え、ここソポシュノへ向けて進撃中であります!」

 ネルボウも解放軍も陣営を問わずざわつくが、カトヴァアルが咳払いをすると静まり返る。リナアルが報告する兵士に寄り添い、その場で応急処置を施し始めた。チェルネツアもそれを手伝う。

「よく本隊まで情報を届けてくれた。まだ話せるのなら、分かる限りのことを述べよ」

「はあ。昨夜ワルシャスク方面とレグスプ方面の二正面から敵軍は越境、合流後、六時間前にピニツェの村を襲撃。総数は6000から20000の間と推定。指揮官はリュサンディオ・イルハサールとクワンシュ・マリハローシュの二名とのこと。またバウカ峡谷方向から親衛隊の実力部隊が北上中との不確かな報告もあります」

 指揮官の名前にセヘナイは迷惑な宿命を感じた。帝国はアクアグロットを欲し、解放軍は遡上手段を欲し、両者目的の物を得るために戦いが起こる。大魔術を求める全ての者がソポシュノに集まり、決着をつける時が来た。セヘナイが大魔術を勝ち取り保護する為にも、これから起こる会戦を生き残らなければならない。決戦を決意する。

決意を固めたのはカトヴァアルも同じであった。見た目の老い具合からは想像できない俊敏さでテーブルの上に登り動揺する兵士全員を見下ろす。

「ピニツェはここから35㎞の村だ。敵軍は明日にもここソポシュノへ到達する。ここは内陸側解放地で唯一の港がある村だ。死守しなければならない。同胞を片っ端からかき集めよ。手の空いた者は村を囲う壕を掘れ。戦に備えよ」

 怒号に近い号令に、連絡兵は慌てて馬に乗り、他はシャベルを探し抱えて走る。カトヴァアルの関心はキイガールへも向けられる。

「リレッツェネはセヘナイの持つ情報が帝国へ渡らなければ満足するのだろう」

「まさか、ネルボウも帝国と戦えと?」

「軍団長には、その程度の意思決定権があるだろう」

「だが、大魔術などと不確実な物の為に」

 キイガールは頭を悩ませる。確かにセヘナイ追跡任務の全権はあった。目的を果たす過程は任されている。だがネルボウと帝国本軍の衝突は彼の権限に収まり得るか際どい。リレッツェネと帝国は表向き通商連携を強化しているものの、裏では交易路の覇権を争いバチバチに敵対している。だが対立は裏の世界だから許されるのであり、それを表面化させる事はリスクになる。リレッツェネがそれを望むとは思えない。ましてや利益が出る公算もない博打の為に。

 口を固く閉じ答えを詰まらせるキイガール。既に意を決したセヘナイはテーブルを片手で強く叩きカトヴァアルの関心を引く。

「総帥。私にも兵隊をください。第一次キーニ川会戦の再現をしてみせます」

「……よかろう。」

両者が睨み合う眼光の強さは互角だった。セヘナイの眦はシルカルブトの北門を破った時と同じで、こうなれば頑として譲らないとキイガールは知っていた。純粋に親友の力になりたい気持ちもある。解放軍を勝たせなければセヘナイは捕まり、リレッツェネの目的は果たせない。今誘拐するか、殺すか、それはキイガールの良心が許さない。いつの間にか気持ちは戦う事を前提とし、頭脳は帝国リレッツェネ間の問題の矮小化に使われていた。

「戦友、俺は何をすればいい?」

 婉曲な協力の意思表明にセヘナイはキイガールを見る。キイガールにも迷いは無い。

「今すぐソポシュノを脱出してネルボウの艦隊を招集して欲しい。そしてシェエリクを上って、ここまで戻ってきてくれ」

「艦隊? 貨物コルベット一隻の方が早く準備できるが」

「いや、艦隊があった方がいいと思うな」

 キイガールは爪を噛むと、紙とペンを要求した。

「総帥、ネルボウから艦隊を買ってもらう。一括払いだ。軍旗も提供すること。リレッツェネが協力する条件だ」

 カトヴァアルは鼻で笑い、テーブルから降り手を打ち鳴らす。紙、ペン、金塊が用意されるとキイガールは深く息を吸い、算盤を片手に契約書を作り始めた。そしてセヘナイを呼ぶ。

「なんだ?」

「この件までだ。付き合うのは一件が解決するまでだぞ」

「ああ……。分かってるよ」

 淡々と算盤で計算するキイガール。セヘナイは物悲しくなる。キイガールは自分の職務に忠実だから、これでもかなり譲歩してくれたんだ。そう言い聞かせ、残り少ない旅を楽しもうと心に決めた。


 キイガールがソポシュノを発って六時間後の夜、総帥専用のテントにセヘナイとチェルネツアは招かれる。カトヴァアルは休みなく働いていたが、疲れている様子はない。リナアルは隅に立ち、チェルネツアはカトヴァアルと視線を合わずセヘナイから離れない。

椅子に深く腰掛けるカトヴァアルは足を組み、ひじ掛けに頬杖を突く。

「さて、中断された歴史の話をしてもらおうか。インテ・ラク・ラーデ一と言われたシルカルブトの学堂、その学士の高説がいかなるものが聞かせてもらおう」

 カトヴァアルは疑いを隠そうとせず、研究発表を聴くゲターイ学長に似た威圧感があった。セヘナイはチェルネツアと手を繋いで目配せし、チェルネツアはアクアグロットを掲げ揚げる。

霊廟で見た象形文字の踊りをテントの中で再現すると、それはセヘナイが言葉を尽くすよりも深くカトヴァアルへ感銘を与えた。一度心を動かされれば、セヘナイの解説は乾いた土に水をかけた時のように浸透していく。太陽と月の起源と民族の歴史に、始めはただただ驚き、次第に冷静になって、最後はただ目を瞑った。

「つまり、北方サーテシラがクルジュニオラと呼ばれていた頃、エジシン人が初の国を興し、アクアグロットを作ったと」

「はい。もっともアクアグロットが真実を記憶しているのなら、の条件付きですが」

 セヘナイの迷いない解答に、唸るカトヴァアル。気配を消していたリナアルはカトヴァアルの次の行動に一番期待していた。この事実を聞いて総帥がどう決断するのか、それで解放軍の指針も自分の戦う意義も定まり安心できるからだ。

「その事実は私が預かる。しばらく眠らせ、それから考えよう。結論が出るまではアクアグロットを再封印するがよかろう」

 カトヴァアルはセヘナイの意思を尊重する体裁を繕うが、手に負えない物を遠くへ追いやりたい意図は誰の目にも明らかだった。それがリナアルには納得いかない。現状のままでは解放軍の存在意義に対する自分の動揺を鎮められないと分かっているからだ。

「総帥閣下、お待ちを! これは逸早く公表し、我々の戦う意義を考え直すべきです」

「却下だ」

「何故です?」

「ただでさえ劣勢の我々を奮い立たせる反帝国と民族的正当性の哲学が揺らげば、解放軍の内部崩壊は必至だ。加えて我々の総兵力の三割は給料と食料目当てに志願したエジシン人。彼らに自主独立意識が芽生えれば解放軍は立ち行かない」

「そんな……」

 リナアルの悲しむ顔は痛々しく、セヘナイは見ていられない。チェルネツアもリナアルを心配するが、どうしていいか戸惑って何もできずにいた。相手がセヘナイなら迷わず寄り添うのだが、リナアルとなれば距離感も含め全てが測りかねた。

 テントの外が騒がしくなり、居心地の悪さに逃げ場を求めたセヘナイは隙間から外を覗く。ソポシュノ南東の丘の上に灯りがあった。それも一つ二つではなく、丘の輪郭が分かる程度。望遠鏡の倍率を最大にして覗くと、焚火に照らされる帝国本軍の旗が確認できた。

「帝国軍だ」

 セヘナイの呟きに、カトヴァアルはテントを飛び出す。一つ、また一つと点火される灯りに、敵が続々と到着ている様子が分かる。寝間着のまま表に出て来た将官とセヘナイをカトヴァアルは捕まえると「対策会議だと」言ってリンゴ園へ連行した。

取り残されたチェルネツアはどうしようかと考えて、取り合えずテントから顔を出して南東の丘を見た。リナアルはその脇を通って外に出て、その場で立ち尽くし星空を見上げる。

「間違ってる。真実を隠すなんて。正しくない」

 悲壮感漂うリナアル。チェルネツアはこの場で見守るだけの人になりたくなかった。積極的に何かできないか、頑張って、頑張って考えた。こんな時セへナイならどう声をかけてくれるかなとか、カデシエーナさんなら、ゲターイさんなら、他にも色々。

「リナアルさん、真実とか正しさがいい結果を生むとは限らないかもしれません」

 リナアルがピクッと反応すると、チェルネツアは「ちょっと散歩、しませんか?」と言って人がいない方へ歩き始めた。

 チェルネツアが前で、少し後ろにリナアルが続く。シェエリク河の岸辺は暗くて、ピシャッピシャッと水が打ち付ける音がする。

「真実だけがいい結果を生むとは限らない、というのは?」

「ほら、人って皆秘密がある、ありますよね。でも秘密を強引に暴こうとする人がいたら、少し嫌な気持ちになりませんか?」

「私は嫌な人間ですか」

「ち、違います! えっと、えーと、その、ん-、私にも秘密はあるんです。仲のいい人にも言ってない秘密があるんです」

 リナアルはチェルネツアの言いたい事が読み取れず、それに気を遣う気力もなかった。沈黙が気まずくて、必死に言葉を探すチェルネツア。

「だから、私は秘密があるけど曖昧な方が皆と仲良くできるかなって思ってるんです。でもリナアルさんは相手をちゃんと理解して、理解したいのかなって。それで嫌われてもいいから親友がいて欲しい、みたいな」

「……そういった節はあります」

「きっと総帥さんは皆と仲良くなる方がいいって考えてるだけです。人それぞれ考え方は違いますし、きっと総帥さんなりに正しいと思ってるんですよ」

「総帥閣下は尊敬に値する方ですが、善意だけで動いてるとも思えないですけど」

「私も昔は世の中怖い人だけだって考えてました。でも、商人を守る隊長さんも、帝国のスパイさんも、差別を受けたアグリア人の人も、奪われた居場所を取り返したい人も、大魔術を見たい人も、皆さん優しい面が絶対あって、そこが分かれば怖いばかりじゃないなって」

「優しい事はいい事ですけど、結局誰が一番正しいんです?」

 語気の強い問いかけに、チェルネツアは怖いと感じて護身用のナイフの柄に手を伸ばす。けれど震える呼吸を整えて、柄から手を離した。

「ごめんなさい、頭悪くて分からないんです。リナアルさんは誰が一番正しいと思いますか?」

 自分が放った質問が自分に返され、そこでリナアルは立ち止まる。相手に答えを求めるばかりで、よく考えてみれば、自分かカトヴァアルどちらが正しいかすら分かっていなかった。

リナアルはその場に座り込み、考えた。考えて、考えて、起こされる。そこにはもうチェルネツアの姿は無く、起こしてくれたのはセヘナイの護衛につく前に部下だった兵士達だった。 


 昼食の後、セヘナイはカトヴァアルと護衛に交じってソポシュノと帝国軍の陣取る丘との中間に広がる草原にいた。早朝に帝国本軍の使者がやって来て、会談の機会が設けられたのだ。

 障害物もない草原のど真ん中で、敵と味方が互いに十歩の距離を保って向き合う。敵方にイルハサールがいるのは当然として、朝に到着したばかりの親衛隊の隊長ツィツェーレの姿もあった。大魔術を追う四勢力が糾合し、この会戦で半分が脱落する。

 セヘナイにとって遺恨がある相手との落ち着いた再会だが、彼らの顔を見ても時に何も思わなかった。怒りが湧くなり、悔しくなるなり、心の揺らぎがあるのだろうかと漠然と考えていただけに、何とも感じないとは予想外だった。

一時間限りの休戦。風で草が擦れ合う音と鳥の鳴き声以外の音が無い草原。陽光を浴びた草原は青々として、空には真っ白な雲が悠々と浮かぶ。

イルハサールが咳払いをして会談を始めようとした直後、ツィツェーレが一歩踏み出し穏やかな笑みを解放軍の面々に見せつける。

「反乱軍の総帥さん、貴軍の情報戦能力には恐れ入りました。お陰で我々は一週間ほど時間を無駄にし、はらわたの煮えくり返る思いです」

「我々も同様だ。貴官を出し抜く為に少なからぬ数の優秀な兵士を失った。遺憾の限りだ」

「至上の誉め言葉として受け取らせていただきますわ。ですが反乱軍のノウハウだけで、あれ程の情報管理と欺瞞作戦は実行不能でしょう。誰の知恵を借りましたか? 最有力はリレッツェネですが、イリッタ自治領やアグリア王国の可能性も?」 

イルハサールは憤りツィツェーレの肩を掴んで引き下がらせると、彼女はイルハサールを睨んで舌打ちをする。

「雑談も程々にしてもらう。会談の趣旨は停戦か交戦かの是非を問う、ただ一点にある。帝国本軍は反乱軍対しアクアグロット、或いはアクアグロットとアタ・セへナイの譲与を要求する。これが承知されない場合、我々は一切の譲歩なく戦端を開く」

「我々親衛隊もアクアグロット、或いはアクアグロットとアタ・セへナイの放棄を要求します。ですが対価として反乱軍と帝国本軍との間に三年間の休戦協定を結びます」

 ツィツェーレは五歩前に出て、一枚の紙を掲げた。

「シア・インラーデ帝国皇帝ペルーナ三世が直々に記した勅令文書。ここに私と総帥閣下が署名すれば、一月以内には大ウグネス内に公布され、執行されるでしょう」

 親衛隊以外、皆が驚き疑う。イルハサールが真っ先に駆け寄り、ツィツェーレから文書を奪い取る。次に駆け付けたセヘナイもイルハサールから奪い取って目を通した。本物だった。形式も、国章も、捺印も、皇帝直筆の署名まで何もかも本物だった。「本物です」と言葉を添えてカトヴァアルに手渡すと、「ふん」と息を漏らしてじっくりと初めから読み込む。

「これは大魔術を探し実用化する為の準備期間です。甘い誘惑に負けてはいけません」

セヘナイが耳打ちすると、カトヴァアルは頷いて勅令文書を真っ二つに破き捨てた。じっくりと、紙が裂ける音を聞かせるように。

二つになってしまった勅令をツィツェーレは顔色替えず拾い上げると、親衛隊の陣地へと戻っていく。カトヴァアルもソポシュノへ戻り、イルハサールとセヘナイだけが残った。セヘナイとしてはこのまま背中を見せて帰るのは違う気がした。だが何を言っていいか分からない。イルハサールも帰るそぶりは見せず、流れる雲を目で追っていた。

「大魔術を探し出すためにここまでするバカが私以外にいたなんて、喜ぶべきか嘆くべきか、どっちなんだろうね」

 セヘナイは目を細める。

「随分と余裕だな」

「余裕じゃないよ。余裕があったら、こんな場所で内戦になんて加担してない。人の世界のイザコザなんか全部捨てて、シェエリクを上って常夜の森の核心に行きたい」

「お前が帝国に産まれてたら、こんな不毛な経験をせずに大魔術を探せただろうな」

「何一つうまくいかないね……」

「全ては神の御心のままだ」

 イルハサールは振り返って控えめに手を振ると、帝国軍陣地に帰っていく。遠くなってゆくその背中をセヘナイはしばらく眺めていた。騙されていて悲しかった事、でも大魔術を信じてくれて嬉しかった事、そんな言葉を言えれば良かったのか。やっぱり言葉にするのは違う。煮え切らない感情は落としどころが見つからず、けれど大魔術を悪用しようとする敵と思い込めば十分に戦える気がした。


 解放軍の将兵と協力的な村人によって構築が進む土塁と壕を越えて村に戻ったセヘナイへ、チェルネツアが真っ先に駆け付けた。

「昨日の夜から探してましたよ。どこに行ってたんですか?」

「作戦会議が長引いて。私は三分の一、1500を貰って右翼下流側を守る事になった」

「それは……、喜んでいいやつですか?」

「さあね。でも決着が付くまで傍観してるよりかは百倍マシだよ」

セヘナイは村で一番高い三階建ての民家を訪れ、屋根に登った。

屋根の上では観測所が建設されてる最中で、リナアルがその指揮を執っていた。いつも通りに仕事をこなすリナアルに、セヘナイもチェルネツアもひとまずは安心する。

「リナアル、君の砲兵隊は私の指揮下に入った。よろしくね」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 リナアルは短く答え、建設作業に戻る。多少素っ気なく感じるセヘナイだったが、深入りはしなかった。

南の丘には稜線に沿って帝国軍が布陣し、西と東へ陣地を伸ばす様子が見て取れた。向こうで作業する人の動きまで区別がつく。

「向こうも野戦築城で忙しそうだね。直ぐにでも戦列を組んで降りて来るかと思ったけど、両翼に陣地を広げて包囲か。意外に慎重だな」

 セヘナイは望遠鏡を覗き、帝国軍の野戦陣地を観察する。

「帝国軍は10000前後だろうって。味方の倍です。怖いです。怖くないですか?」

「怖いよ。でも怖気づいたら勝てる戦いも勝てないからね」

 セヘナイが帝国軍陣地の詳細を地図に起している間、チェルネツアは仕事が無くただ景色を眺めていた。小さい時に屋根に登る気持ちよさを知ってたら、一日中屋根の上にいたんだろうな。そんな仮想の幼少時代に憧れた。そうやって景色を楽しんでいると、シェエリク河の下流の方に帆船を見つける。人差し指を立てて風の向きを確認すると、内陸の方へ吹いていた。

「セへナイさん、船です。五隻いますよ。キイガールさんの船じゃないですか?」

「ここから帝国の占領地までで二日かかるんだ。こんな早く来ないよ」

 興味すら示さないセヘナイにチェルネツアは口を尖らせて、両手で顔を挟んで望遠鏡を覗かせたまま河の下流の方へ頭を回転させる。

「ほら。大きい船ですよ。見間違いじゃありません」

「帝国の海軍じゃないか。やっぱり水路も封鎖しに来たか」

 野生動物を見つけたかのようなセヘナイの呑気な呟きに、観測所を設営する兵士は一斉に下流を見る。リナアルは測距儀を肩に担ぎ、艦隊を捉えた。

「距離、推定20㎞。フリゲートクラスの戦闘艦です」

「フリゲートってすごいんですか?」

「中型の外洋戦闘艦だけど、近くで見ると立派な船だよ。まあこの場合水上の補給線も封じないと包囲は完成しないもんね。キイガールが戻ってくるまで食料足りるんだろうか?」

 セヘナイもチェルネツアも他人事として艦隊の出現を受け取ったが、リナアルは声を荒げて命令を幾つも飛ばした。さも艦隊との戦いに備えようとしているようで緊迫する空気をセヘナイは不思議に思い、リナアルを捕まえる。

「えっと、何かするの?」

 セヘナイの緊張感の無い質問に、リナアルは眉をひそめる。

「岸辺から必要な物を避難させるんですよ! 砲撃を受けてもいいように」

 艦隊からの砲撃を受けるという前提にセヘナイは困惑した。この場合心配すべきはネルボウの水上戦力だけで帝国艦隊の封鎖線を突破できるのか否かであり、艦砲射撃の有無ではないはずだからだ。

「うーん、なんだろう、私達にはそこそこ野戦砲もあるし、彼らは水路さえ封鎖すれば役割は果たせるんだから、沿岸砲陣地に突っ込んでくる馬鹿はしないだろ」

 沿岸砲陣地と艦隊が戦った場合、艦隊側が圧倒的に不利である事は世界の常識で、ソポシュノを直接攻撃してくるとは思えなかった。けれどリナアルは首を横に振る。

「私達には艦載の魔力砲に耐えれる強度の対魔法障壁を展開する術がないのです。そのせいで沿岸部の戦いでは海軍の艦砲射撃により何度も負けを経験してきました」

 大前提が整っていなかったのだと、セヘナイは解放軍の緊迫を納得した。その程度の魔術師いなければ戦いにならないので正規軍なら意地でもそろえる。けれど解放軍にはその余裕がなく、舐められているのだ。それならっと、一つ作戦がひらめく。

「対魔法障壁なら私に任せてくれ。だからリナアルは急いで沿岸砲陣地を構築して、一泡吹かせてやろう。沢山のボートも準備できるかな?」

 これが他の上官ならリナアルは全力で反対した。けれど霊廟の山で巨大な結界を解体したセヘナイの姿が浮かび、もしかしたらと頭の片隅で考えが浮かぶ。

「もし失敗したら一個砲兵隊が壊滅しますが、そのリスクは」

「確かに失敗したら一個砲兵隊が壊滅するけど、なら黙って村が燃やされるのを見てる?」

棘のある言い方にリナアルは口を閉じて、数秒迷ってから配下の野戦砲を全て河岸に集めるよう指示を出した。

二時間後、帝国艦隊は堂々とした単純陣でソポシュノへ接近する。その艦列を土塁で守られているだけの沿岸砲陣地から覗くリナアル、セヘナイ、チェルネツア。他の兵士は全員が青ざめて、迫る艦隊に息を呑み、魔力砲に怯えて震えた。観測所には話を聞きつけたカトヴァアルがいて、戦いの趨勢を見守っていた。

艦隊との距離が1500mになるとチェルネツアはしゃがみ、地面に彫られた巨大な魔法陣に触れた。さらにセヘナイが彼女の背中に手を置いて「コレジン・ヘッセル・ヘス(領域魔法四位一種)」と唱えれる。魔法陣は起動し紫色の淡い光を発する。セヘナイがチェルネツアから手を放しても魔法陣は機能し続けた。

先頭の40門級フリゲートから紫色の光が打ち上げられる。昼間の青い空を背景にしても存在感のある光は大きく放物線を描き、自分達の頭上に降りてくる。もう当たると誰もが思った瞬間、それは透明なドームに衝突し閃光となって打ち消された。対魔法障壁が機能したのだと誰もが理解した瞬間、歓声があがった。青ざめていた顔にも血の気が戻る。チェルネツアは得意気な気持ちになって、喜びを隠しきれないリナアルは意気揚々と砲戦用意の号令を発する。セヘナイはこの瞬間勝ちを確信した。

帝国艦隊は五隻揃ってがむしゃらに魔力砲を撃つが、対魔法障壁はびくともしない。そして艦隊は無防備にも野戦砲の射程内へ入る。リナアルの号令で十五門の砲が一斉に放たれ、フリゲートを直撃した。鉄球は硬い木材を粉砕し、船体に穴を開け、太いマストを根元から折る。艦隊も大砲を乾舷から出すが、沿岸砲陣地を真横にとらえるまでの間一方的に撃たれ続けた。ようやく沿岸砲陣地を射界に納めても、発車した砲弾は土塁に吸われ土煙を巻き上げるだけ。

一方的な戦闘に艦隊は慌てて帆を畳み反転逃走を試みるが、遡上に役立った内陸に吹く風が今度は邪魔をして戻れない。川の流れも緩やかなので、下流にも流れていかない。沿岸砲陣地の正面で渋滞を起こすフリゲート、その一隻が爆発を起こし河底に着底する。砲兵だけっではなく、物陰に待機している銃兵も沸き立った。

艦隊は最終手段で乾舷からオールを出し、人力で漕いで離脱を計った。けれど海と違い500m程度の川幅では思うように身動きも取れず、二隻が立て続けに座礁、逃げ切れたのは二隻だけだった。

セヘナイはリナアルに砲撃止めの合図を出させて土塁をよじ登り、下流を見る。もう遠くまで逃げたフリゲート二隻は錨を下ろし、再突入する素振りすらも見せない。

「水路を封鎖されてるのは変わりないか」

 全滅させないと意味がないくらいに考えていたセヘナイだったが、思わぬ白星に両手を挙げて喜ぶ砲兵を眺めていると上首尾かなと思えなくもなかった。

「セへナイさん、もう手を放していいですか?」

魔法陣に触れっぱなしのチェルネツアに「いいよ」と言うと、彼女は立ち上がって大きく背伸びをする。魔法陣は光りを失い、目には見えないが対魔法障壁も恐らく消滅した。

「リナアル、君の砲兵隊を元の場所に戻してもらえないかな。これだけ河で暴れたら、砲兵のいない間を狙って陸地の方から攻撃があるかもしれない」

「分かりました。お任せください」

元気を取り戻したどころか、すっかり上機嫌なリナアル。野戦砲を馬に繋ぎ、馬車の荷台に砲弾を載せ、南の帝国軍と対峙する野戦陣地に戻っていく。

 セヘナイは次の段階として待機させていた歩兵400名に手を振った。八人一組でボートを背負った銃兵達が一斉に疾走し、ボートを河に浮かべると乗り込んだ。

「諸君、あの座礁したフリゲートから大砲、弾薬、食料、木材、軍資金、頂ける物は全部頂いて、船は二度と使えないように破壊するんだ」

 セヘナイが檄を飛ばせば、歩兵たちは勢いづいて、オールを漕いで座礁したフリゲートに肉薄する。半ば廃墟と化した座礁船に残った海兵が銃や大砲で抵抗するが、それもボートの群れを退けるには至らず、解放軍の歩兵が次々に船へ乗り込み白兵戦になる。

 一隻のフリゲートからは火の手が上がり、色んな物を抱えた歩兵が慌ててボートに戻る様子が見て取れた。

「あのボート大砲二門も積んで転覆しないか? 錨なんて拾ってどうするんだか。あー、仲間同士で金塊の奪い合いなんてするんじゃないよ。回収するんだから」

 土塁の上で歩兵達の一挙手一投足にツッコミを入れるセヘナイに、チェルネツアは「危ないですからそこ降りませんか?」と叫んだ。

 河岸でお祭り騒ぎの兵士や村人のせいでセヘナイはチェルネツアの声が聞き取れず、振り返って聞き耳を立てた。

直後耳元で大きな何かの飛翔音がして、セヘナイの世界は茶色一色になる。天地の感覚が無くなり、意識は途切れた。


 セヘナイが目を開くと、民家のベッドに寝かされていた。窓の外は真っ暗で、もう夜になっている。口の中が砂でジャリジャリして、泥の味が広がって気持ち悪い。体に力を入れて、節々の痛みに耐えながら上半身を起こす。体のあちこちに包帯がまかれ、特に左腕は添え木ごとグルグル巻きにされていた。関節を少し動かそうとしただけで激痛が走り「イタタタ」と勝手に声が出る。けれど痛みに慣れてくると動かせなくはない。

「これは砲撃か何かで土塁ごと吹き飛ばされたかな。骨折は折れてないみたいだ」

 ベッドの隣に並ぶ机には水の入ったコップと洗面器があり、それで口の中をゆすいだ。吐いた水はもう泥水で、これが口の中に入っていたのかと思うと余計気持ちが悪い。外はどんちゃん騒ぎで、まだフリゲート三隻を撃破したお祝いをしていた。酔って浮かれた所に夜襲を受けて壊滅、なんて落ちが付かないか気になる。でもリナアルなんかはそこらへん締めるべき所は引き締めているだろうから杞憂かな、と今考えたくない事は考えない事にした。

 隣の部屋から見知らぬ女性が入ってくる。長身かつスレンダーで、胸元が開いた服が色っぽく、程々の化粧と手入れの行き届いた髪が上品な大人の女性。端的に表現するなら美人だった。なんなら一目惚れに近い感覚がセヘナイに湧き上がる。高級感ある藍色のスカートに、地方貴族のお嬢さんではと予想した。

「私はアタ・セへナイと言いまして、イタタ。えー、両方名前なので、階級称はスヴァと考えて頂いて結構です」

「し、知ってますよ?」

 セヘナイの思考は停止する。口が半開きになり、眉をひそめ、目をパチクリさせて、もう一度目の前の女性を頭からつま先まで順々に確認した。

「チェル? 本当に?」

 にわかには信じられないが、確かにチェルネツアの声だった。チェルネツアはベッドに腰掛け、セヘナイの左腕を持ち上げ包帯を解き怪我の具合を見る。窓から射す傾斜した月の明かりはチェルネツアの手元に当たり、セヘナイの擦れて爛れた腕に陰影をつけた。チェルネツアは塗り薬を指先ですくい取り、腕全体に塗り広げる。

理性ではチェルネツアと分かっていても、肌と肌が触れ合う感触にセヘナイの心臓は強く脈打った。チェルネツアの手はこんなにも柔らかく滑らかだっただろうかと、記憶を辿るが思い出せない。

「セへナイさんが宙を舞ってた時は本当に心臓が止まるかと。でも安心しました」

「それは良かったけど、どうしたの?」

 セヘナイがタトゥーの見当たらない首元や二の腕に気を取られていると、チェルネツアは照れて斜め下を向く。

「思ったんです。私達って、実はいつ死に別れてもおかしくないんだって。だから魔法陣も隠して、着たい服を着たいように着て、一度は私の普通を知って、覚えていて欲しいなって。この格好、変でしたか?」

 不安で気が小さくなって縮こまる所はチェルネツアそのままだった。

「まったく変じゃない。綺麗だよ。本当に綺麗だよ。ビックリした」

 セヘナイが食い気味に答えるが、ちょっと必死な感じがでてダサかったと省みる。でも綺麗だと初めて言われて、チェルネツアの目も口もパッと開いた。

「嬉しいです! これ、セへナイさんから貰った日焼け止めなんですけど、違和感なく魔法陣が隠れて。使いもしないのに買い集めてたお化粧も、まさか役に立つなんて」

「その服は? スカートも半袖も持ってなかったよね?」

「帝都で買った生地で、こっそり作ってたんです。着れないけど、未練が拭えなくて。何だか普通ばっかりきにして、は、恥ずかしいですね」

 チェルネツアはベッドから跳ねるように立ち、手で顔を扇ぐ。

「セへナイさんは立って動けそうですか?」

「痛みに慣れれば。どうして?」

「あ、あの。感謝祭の贈り物は交換しましたけど、踊りはしてないなって」

 声が徐々に小さくなり、どもった喋り方になる。そして急に声の大きさと活舌が戻って「ダメですよね。怪我してるのに」と自己完結させた。セヘナイは思い出す。去年の感謝祭、エシエーツア像の下で踊る学生達と街の娘達を傍から眺めていて、「いいな」と呟いていたチェルネツアを。

 セヘナイも起き上がり、顔を歪めながら部屋の中を歩いた。初めはブリキの人形でも、段々と人に戻っていく。そして洗面器で顔を洗って泥汚れを落とし、寝癖を直してからチェルネツアの前に立つ。

「私がこんなにみすぼらしくて申し訳ない。来年はもっとちゃんとやろう」

 右手を脇の下を通して背中に当てて、左で手を組めば、チェルネツアは自然と背をそらす。

「国河の神よ、祖国の女神よ、汝の恵みに感謝を」

「感謝の心をしばしの間お楽しみになってください」

セヘナイからスッと足を踏み出せば、チェルネツアもステップを合わせた。セヘナイの顔は時折歪んだが、水を差さないように痛みを耐える。どちらがリードされているか分からないスローな踊りでも、お互いが相手の満足そうな表情をよく見れた特別な夜だった。

 

 夜になっても無残に燃える三隻のフリゲートは、それを丘の頂上から見下ろす帝国本軍の将官を腹立たせる。特にイルハサールは地団駄を踏み、今すぐにでもソポシュノに総攻撃を仕掛けるべきだと強く主張した。だか彼の熱意とは裏腹に、マリハローシュ中級将を筆頭に他の佐官尉官は冷ややかだった。

「イルハサール低級将、海軍の失態に腹を立てる気持ちは分かるが、報復に攻撃を仕掛ける許可は出せん」

 マリハローシュの上から目線は前線でも変わらず、彼の部下もそれを良しとしている。これだから南方のエリートは、エリートどもは現場を分かっていない、などと囁き声が飛び交い、イルサハールは完全に部外者だった。

「先ほどの水上戦で河を封鎖する艦隊は半分以下になった。あれを解放軍が突破すれば、奴らは遡上し大魔術を手にしてしまうだろう。その前に我々で攻撃を仕掛け、アクアグロットを手にしなければ」

「なに、解放軍は艦隊を持っていないよ。水路も陸路も封鎖されてる。こちらから攻撃せずとも包囲さえ崩さなければ食料が尽き、いずれ降伏する。これは戦わずとも勝てる戦いなのだ。どこに無用な血を流す必要がある?」

「海賊などを雇うかもしれない。セヘナイに時間を与えれば、それだけ手を打たれる」

 さらに詰め寄るが、マリハローシュは一向に聞く耳を持たない。それどころか諦めないイルハサールを疎ましく思う。

「イルハサール低級将、君は全く分かっていないな。勝てる戦いで兵を無駄に損耗しては今後の治安維持作戦に支障が出る。我々の本分はそっちで、無駄に死なせる兵はない」

「これは大ウグネスが支持する作戦だ」

「忘れるな。ここに布陣しているのは全て第四群隊の部隊で、その意思決定権は私にある。皇帝陛下の趣味に付き合いたいなら結構。ただしインテ・ラク・ラーデから第一群隊の兵を呼び、それで攻撃するんだ。話は以上」

 マリハローシュはイルハサールを払い除け、大きなあくびをして彼の個人テントに入る。非常事態以外は起こすなと訓令が出ているので、イルハサールに出来る事はもう無い。

佐官や将官の視線に居心地が悪くなったイルハサールは本営を飛び出した。丘の稜線を歩き、時々切り株や石に八つ当たりをする。ソポシュノのお祭り騒ぎは帝国軍の野戦陣地まで聞こえ、苛立つ心を逆撫でる。

親衛隊も3000人を布陣させているが、一向に動かない。ツィツェーレも戦況がいかに不安定か理解しているはず。にも拘らず、常に間違えないあの女が動かない事を選択している。

「何故だ。俺が間違っているのか? ここを逃したらもう後がないんだぞ」

 イルハサールは右の拳で木を殴り、それから力が抜けてグッタリと切り株に座る。真っ赤に腫れた右手を擦った。

「世の中こんなに話が通じない野郎ばかりだったか?」

 深い疲れを感じる。だが諦めたわけではない。重い腰を上げてイルハサールは自分のテントに戻ると、ワルシャスクの極西海艦隊へ増援の要請を求める。対局に影響があるかはともかく、彼ができる範囲では努力を惜しまなかった。


それから五日間。両軍の間に一切の戦闘なく、睨み合いは継続する。


 キイガールはワルシャスクのリレッツェネ支部に着くと、ネルボウの艦隊に招集をかけた。キイガールも貨物船と虚偽申告して運用している武装コルベットに乗り込んでリザーツァに向かう。

 リザーツァのネルボウ諜報部隊アグリア支部を訪れたキイガールは、解放軍が海賊を雇った偽の書類を作成してもらう。小金稼ぎをする不良集団に偽造書類を握らせ、そいつらをアグリアに潜入する帝国の諜報員へ第三者経由で密告し捕えさせる。こうして解放軍が艦隊を持っていても辻褄が合う虚偽事実を作り出して、リレッツェネにとっての後顧の憂いを無くした。

 二日間でリザーツァに集まった武装コルベットは六隻。夜中に一隻ずつ出港し、上流の大きな滝つぼで再合流する。風向きが海方向から内陸方向へ変わる明朝を待ち、艦隊はソポシュノへ出撃した。

 陸路では四日かかる道のりも、風を捉えた艦隊は六時間で駆け抜ける。ソポシュノに近づく前に総員へ昼食を取らせ、キイガールはあらゆる事態に備えて甲板から離れなかった。進路にはソポシュノから見えた丘と同じ丘が見えてくるようになり、七日前には無かった帝国本軍の野戦陣地も確認できる。

「前方、帝国の艦隊あり」

 マストの上から警戒監視の海兵が叫ぶ。

「河の両岸に停泊。40門級フリゲート二隻、26門級コルベット二隻の計四隻」

 リレッツェネは帝国艦隊の出撃を一切察知していなかったが、セヘナイが警戒していたのはこれかとキイガールはようやく納得した。

「指定商人旗は降ろすなよ。大砲も対魔法障壁もまだ隠すんだ」

 キイガールの命令に艦長は海兵を戦闘配置につかせる。僚艦にもその命令は旗信号で伝えられ、艦隊はひっそりと牙を研ぐ。

甲板の高さからも帝国艦隊が見えてくる。敵のフリゲートの艦首から旗信号が送られ、内容は艦長からキイガールに伝えられた。

「この先反乱軍との交戦域の為封鎖中。直ちに反転せよ。でなければ利敵行為と見なして攻撃を行う。だそうだ」

 キイガールはマストに掲げられている指定商人旗を見上げる。

「帝国海軍はあの旗の意味が分からないのか。返信しろ。常世の森開拓の任をリレッツェネより受けた船団なり。許可証、青の267を参照されよ。加えて商業協定第二十四条に基づき、指定商人への臨検の過程を経ていない武力行使は協定違反。恐喝で商法裁判所に訴える事も辞さない」

 キイガールの隣で通信手は返信の内容を聞いた傍から旗信号に変換する。それを受け取った帝国艦隊は沈黙した。

 更なる返答は遅れに遅れ、その間に艦隊間の距離は半分以下に縮まる。返答の内容は「常世の森開拓は青の266が該当する。番号を再確認せよ」と許可証の詳細を確認するものだった。帝国艦隊の指揮官は突如現れた船団が解放軍の物かリレッツェネの物かを天秤にかけ、可能性的に後者を選んだのだ。リレッツェネだった場合の、報復を恐れたと言っても過言ではない。だがそんな茶番劇、艦隊同士の距離が十分に縮まった今、もうキイガールは興味ない。

「全艦、解放軍の軍旗を掲げるんだ。大砲も対魔法障壁も展開。すれ違いざまに一斉攻撃だ」

 六隻の貨物コルベットは帝国艦隊の目と鼻の先で一斉に解放軍の軍旗を掲げ、武装を表に出す。突然の敵襲に帝国艦隊はパニック状態になり、指揮系統が混乱した甲板上で海兵達は右往左往する他ない。中には戦いを諦め川に飛び込み岸へと泳ぐ者もいた。右手を真っ直ぐ上げたキイガールからも、彼らの死の恐怖にひきつった彼らの顔がよく見える。

 そしてキイガールの乗るコルベットと帝国のフリゲートが横並びになった瞬間、キイガールは右手を振り下ろす。

「砲撃開始!」

 奇襲は完璧にきまった。一斉に放たれた砲弾はありとあらゆる設備を破壊し、瞬く間に軍艦としての機能を奪ってゆく。後続する僚艦も続々と戦闘に加わり、反撃の余地を与えない。抵抗しようと奮闘し大破着底した艦もいれば、戦う前から乗組員が全員川に飛び込み捨てられる艦もいて三者三様だったが、十五分程の戦闘で帝国艦隊は文字通り全滅する。キイガールは泳いで逃げる敵兵には目もくれず、艦隊をソポシュノへ急がせた。


 帝国艦隊が全滅する様子を観測所から見ていたセヘナイ。遂に必要な物がすべてそろった。それが真っ先に浮かんだ心の声。実感は湧かなかったが、このまま数日も経てば追っていたものにたどり着くのだと考えれば、やっぱりよく分からない。

 けれど懸念もある。こうなった場合帝国軍の指揮官ならどうするが、セヘナイがその立場なら今すぐにでも攻撃を仕掛ける。シェエリク河の制海権が解放軍の物になった以上、帝国軍が勝つには船で逃げられる前にソポシュノを攻略してアクアグロットを奪うしかない。

 固唾を飲んで帝国軍の陣地を望遠鏡で観察していると、チェルネツアが上がってきた。

「さっき大砲の音が沢山してましたけど」

「キイガールが来た。これで船に乗れる」

「それじゃあ、おめでとうございます。ここまで頑張りましたね!」

 チェルネツアはパチパチ手を叩くが、あまり楽しそうじゃないセヘナイに、叩くペースも段々と遅くなる。

「いつもならウサギみたいに跳ね回るのに。何かありましたか?」

「何かありましたというか、多分これから起こる。アクアグロットを諦めて、潔く撤退して欲しいんだけど」

 甘い期待をセヘナイは口にするが、現実はそう上手くはいかない。帝国軍の陣地からゾロゾロと数千人の人が出て、丘の中腹辺りで帯状に集まりだした。セヘナイもチェルネツアも息が詰まる。

「あれって……」

「チェルもマスケットを持って右翼陣地に来て。帝国軍の攻撃前進が始まる」

 チェルネツアは丘から目を離さず、ゆっくりと梯子を降りる。徐々に組まれる戦列にセヘナイは何度も深呼吸をした。警報の鐘の音に、兵士達はマスケットを抱えて野戦陣地へ急ぐ。

村の外を流れる小川に沿って構築された野戦陣地。兵士達は胸まで隠れる塹壕に入り、厚く盛られた土塁に上半身を伏せて敵を狙う。土塁の先に小さくて緩やかな谷があり、谷の底を流れる小川と土塁の間には切り倒した木を並べ、野バラの茎が何重にも張られている。右翼陣地だけでも横幅700mあり一週間で造った割には重厚な野戦陣地だった。

横幅2㎞程の横に長い帯状の戦列を組んだ帝国軍11000。魔術科兵が八か所で広げる広い布には魔法陣が描かれ、対魔法障壁が戦列全体を覆う。『勝利を我が手に』の勇ましい行進曲の演奏が始まると、歩兵はドラムの刻むリズムに合わせ歩き、戦列はゆっくりと丘を下る。

 セヘナイは会戦が始まる前のこの時間が大嫌いだった。交戦が始まるまでの数十分、恐怖の中でただただ待つ事が何よりの苦痛だった。永遠にも近い時間を感じ、気持ちが悪くなる。昼食を吐き戻す兵士が続出し、塹壕はゲロ臭くなった。セヘナイの隣でマスケットの点検をするチェルネツアも手先が震えて作業が覚束ない。ある若い銃兵は失禁し、過呼吸になった彼が落ち着くまでセヘナイは抱きかかえて背中を擦った。

 四十分かけて戦列は解放軍の陣地から500mまで接近する。厚い人の壁が一歩また一歩目と迫った。リナアル指揮下の砲兵隊が砲撃を開始。放たれた鉄球は水切りの要領で地面を跳ねて転がり、その経路上にいた歩兵をなぎ倒す。それでも戦列はドラムの音に合わせて攻撃前進を止めない。

 チェルネツアはブツブツと神へ無事を祈る。するとセヘナイの方からチェルネツアの手を握った。滅多にない事に彼女は横を向くと、セヘナイは望遠鏡を片手で持ち敵戦列から視線を逸らさない。チェルネツアは繋がれた手を見つめて、唾を呑んでから指を絡めると、少し遅れてセヘナイも同じように指を絡めた。

「敵は焦ってる。きっと冷静で慎重な攻撃はしてこない。この陣地に真正面から突っ込んでくれるなら十分勝てるよ」

「セへナイさんがそう考えてるなら、そう考える事にします」

「……もう少し手を繋いでていいかな?」

「ほんの、あとちょっとだけですよ。戦いが始まりますから」

 野戦陣地と敵戦列の距離は100mを切り、セヘナイはドラムを肩に担ぐと連打する。ドラムの音は連鎖して右翼陣地の隅まで届き、銃兵は土塁に伏せてマスケットを構える。

「次のドラムで一斉射撃。敵の白目と黒目の区別がつくまでは絶対に撃つな!」

 セヘナイは声を張ったが、それもどこまで届いてるかは分からない。左翼陣地、中央陣地の方からは既に銃声が鳴っていて、戦いが始まったのだと分かる。

 敵味方がおおよそ20mの距離で向き合うと、帝国軍のドラムは鳴り止み前進が止まる。セヘナイがドラムをこれでもかと連打すると、野戦陣地に籠る解放軍は一斉に発砲した。敵最前列の兵士がバタバタと倒れると、後ろから新しい銃兵が前に出て穴を埋める。次の攻撃の為に装填を急ぐと、その間に「装填、構え」など声が敵から聞こえ、「放て」の号令で敵も一斉に発砲する。敵の弾丸は殆ど土塁に埋もれるか頭上を通過するが、不幸な兵士には死を与えた。

 解放軍と帝国軍の間で交互に銃撃が起こり、互いの兵力をすり潰す。だが相対的に損耗を多く重ねる帝国軍は魔法でも攻撃してくるが、人が一人で唱える魔法の強度程度なら解放軍の対魔法障壁でも十分に弾いた。

 痺れを切らした帝国軍は銃兵に銃剣を装着させ、突撃を仕掛ける。小川を越えた帝国兵は木の枝に阻まれ、野バラの棘に引っ掛かり、身動きが取れなくなった所を解放軍に狙撃された。幸運にも土塁まで肉薄してきた敵は長槍で突き刺すか、魔法で薙ぎ払う。擲弾が投げ込まれ陣地の一部が崩壊し突破される危機も迎えたが、セヘナイは逐次予備戦力を投入し事なきを得た。

突撃が始まってから一時間、帝国軍は野戦陣地を突破する目途が立たないまま仲間の死体で小川を埋め尽くす。

セヘナイは前線を一端下級指揮官に任せ、かき集めた魔術科兵十五人とチェルネツアを連れて一度後方に下がった。敵味方が近すぎて砲撃を中止しさせていたリナアルだったが、そこへセヘナイが現れたので駆け寄った。

「セヘナイ様、どうしましたか?」

「反撃に出る。君達は全員マスケットで武装してくれ」

「私達は砲兵ですよ。戦えなくは無いですが」

 リナアルはチェルネツアにも訴えかけたが、彼女も頷き、止める人はいないのだと悟る。

「もう既存の歩兵は全員前線に出ていて、目の前の戦闘に必死なんだ。もう部隊単位で命令を実行できるのは君達しかいない」

 リナアルは渋い顔をして小刻みに頷き、部下を招集しマスケットを装備するように指示した。

「ここからの作戦は?」

「チェルの魔法で自分から土塁を吹き飛ばす。出来た道から突撃、一気に帝国軍の対魔法障壁の内側へ入って魔法で攻撃する。奴らの指揮と士気を叩き、潰走させる」

「私達を守る野戦陣地を私達で破壊すると? リスクが高すぎます」

「正攻法にてあいまみえ、奇策によって勝ちを得る。アボルスという名将の言葉だ。帝国軍は誰も私達から突っ込んでくるとは思ってない」

「突撃しても大丈夫なほど敵は削れていますか? 突撃して、帝国軍が負ける公算は?」

「わからない。戦場は分からないことだらけだ。私の勘は勝機を今だと言っているが、本当に勝てるかは神様だけが知っている」

「つまり、賭けってことですよね」

 声にならない声で唸るリナアル。そこへ「俺は賛成だよ」と語り掛ける男の声。そこにはキルッタターレ旅団員100余名を連れたキイガール。セヘナイは安堵の表情で両手を広げ、キイガールと抱き合う。

「水上戦見事だった。艦隊が港に着いたんだな」

「いや、俺達だけが先に船を降りたんだ。艦隊はまだ停泊作業中だよ」

 キイガールはチェルネツアとも握手をして、リナアルを見下ろす。リナアルとしては成功するとは思えなかったが、だからと言って彼にはこの戦況をどうこうする策は思いつかない。でも帝国の艦隊はセヘナイの考えで壊滅した……。

「いいでしょう。信用すれば」

 もうどうにでもなれと、リナアルは色々と諦めてマスケットを手に取る。セヘナイはリナアルにも抱きついて、「ありがとう」と言って背中をポンポン叩く。

「さあ、作戦を始めよう」

 セヘナイはチェルネツアの手を取り、再び野戦陣地へ駆け戻った。

 塹壕に戻るとチェルネツアは土塁に手のひらを当て、セヘナイがリナアル、キイガールと目配せしてから「アグバス・フールム・ヘス(変化魔法五位一種)」と唱えた。チェルネツアの手のひらから衝撃波が放たれる。土塁を砕き、帝国兵や木を巻き込んで膨大な量の土を吹き飛ばした。それらは小川を埋める。

 セヘナイが「突撃」と叫べばキイガールとリナアルが歩兵200人と共に野戦陣地を飛び出て、事態を把握しきれない帝国軍へ襲い掛かった。その勢いに立ち向かう気力はもう帝国兵には無く、多くは狼狽え、少数が反撃し、数人は武器を捨てて逃げ出す。数人の逃走は数十人に逃げる言い訳を与え、動揺を波及させた。

 心が折れた相手では押し入るのも簡単で、セヘナイ、チェルネツア、魔術科兵は大した抵抗なく対魔法障壁の内側まで侵入できた。事前のセヘナイの指示で、魔術科兵達は各々が唱えられる最も目立つ魔法を唱えた。その魔法の殺傷能力に関係無く、派手な見た目と音は動揺する人を戦慄させる。

 魔術科兵の中心でセヘナイとチェルネツアはお互いを見合う。

「チェル、いくよ」

「はい!」

「グルンサ・ヘッセル・ラル(領域魔法六位二種)」

 チェルネツアの頭上に現れた第二の太陽、神々しい光の環。アイル・ワル・カネルの環の輝きは帝国軍に残った僅かな戦意に致命的な一撃を与えた。

 野戦陣地を攻め落とせず士気が低下していた瞬間を見計らったかのようなアイル・ワル・カネルの環の出現に、右翼側の帝国軍は陣形を崩し壊走する。それが呼び水となり帝国軍全体の全面潰走に発展するまで時間はかからなかった。帝国軍を覆っていた対魔法障壁が崩れると、解放軍の魔力砲が盛んに砲撃を始め、無傷だった帝国軍の対列にも深刻なダメージを与えていく。

 セヘナイは親衛隊の動向を気にしていたが、彼らは帝国本軍の救援に駆け付けるどころか整然と撤退を始めていた。帝国本軍も親衛隊も負けを認めたのだ。セヘナイは野戦陣地を振り返り手を振ると、陣地に残った兵士も次々と陣地を飛び出し追撃戦に参加する。背を向けて逃げる帝国軍を眺めるセヘナイのもとにリナアルが駆け寄る。

「まさか勝てるなんて」

「ね。こんなに呆気ないとは思わなかった」

「騎士でもないのにと内心思ってましたが、見直しました」

「本当に? 嬉しいな」

 素直な反応にリナアルはむず痒くなる。

大局的な敗北は決したとは言え帝国軍の抵抗もまだ収まっていなかった。逃げる帝国軍と追う解放軍、その巨大な流れの中で帝国の騎兵隊二百騎ほどが残敵掃討する解放軍へ襲い掛かり撤退を支援する。その様子はセヘナイとリナアルも確認して、リナアルは周囲の味方へ声を張り、方陣を組むように呼び掛けた。

 騎兵隊の接近にセヘナイとチェルネツアも方陣の中へ入ろうとしたが、チェルネツアは背後に強烈な殺意を感じ振り返る。一騎の騎兵が長槍を構えって突進してきていた。チェルネツアは咄嗟にセヘナイを蹴り飛ばし、マスケットで突撃してくる長槍を受け流した。そしてチェルネツアは馬に跨り長槍を構える男に注目する。イルハサールだった。

「セへナイさん、イルハサールです」

「なに?」

 セヘナイも顔を上げた。十数メートル先、そこには確かにイルハサールがいた。彼は顔に怒りを浮かべ、セヘナイを睨む。彼の背後では槍騎兵と方陣を組んだ銃兵が戦っている。

「我々はなぜ敗北した! どいつもこいつも自分の利益ばかりで、何故俺の心は掻きむしられ、やり場のない怒りを抱えなければならなのか!」

「知るかよ。神様にでも聞いてくれ」

「うおおおお」と雄叫びを上げながらイルハサールは単騎で突撃し、チェルネツアとセヘナイの間に割り込むと、着剣したマスケットよりリーチの長い槍を大振りしてチェルネツアを寄せ付けず、セヘナイには「フルス・フルス・フルス(燃えよ・燃えよ・燃えよ)」と魔法の火を放った。

イルハサールは徹底してセヘナイとチェルネツアを引き剥がし、槍捌きで圧倒した。チェルネツアも装填する隙が無く、高い所から振り下ろされる槍を防ぐ事しかできない。セヘナイも魔法石で対魔法障壁を展開させ魔法を防ぐが、それにも数に限界がある。

セヘナイとチェルネツアが目配せして、何とか一緒になろうとするが、機動力では馬に敵わずイルハサールを出し抜けない。

イルハサールは戦う内に疲労を隠せなくなっていったチェルネツアを集中狙いする事にした。長槍で右からも左からも振り回し、チェルネツアは受け止め、回避し、防戦一方。何とか銃剣が届く範囲まで接近しようとしたが、それをイルハサールは見逃さない。飛び込んだチェルネツアがマスケットを突き出し、イルハサールを刺突しようとした瞬間、長い柄が真横からチェルネツアの脇腹を直撃し吹き飛ばした。マスケットを落とし、落下したチェルネツアは脇腹を押され呼吸もままならない。

セヘナイもチェルネツアの異常な様子にゾッとして、イルハサールが馬上から槍で突き刺そうとした途端、考え無しに馬に向かって駆け出していた。馬の足元で魔法石を砕き衝撃波を発動させ、馬が驚き前足を上げて暴れる。それでイルハサールもバランスを崩しチェルネツアへ止めを刺す事はできなかった。セヘナイも自分が発生させた衝撃波で吹き飛ばされ、背中から地面に落下する。全身に痛みが走り、耳鳴りがして平衡感覚も曖昧になるが、転がるマスケットを掴み、苦しそうにもがくチェルネツアから弾を取って装填した。

暴れる馬を落ち着かせたイルハサールがセヘナイを再発見した時、銃口がイルハサールを向いていた。セヘナイが発砲すると、反動を受け止めきれず後ろに倒れる。弾丸は馬の首を撃ち抜き、頭が吹き飛んで、イルハサールも落馬した。

セヘナイは再びチェルネツアに這い寄って弾倉を確認したが、もう弾は一発も入っていなかった。とても白兵戦でイルハサールに勝てる自信はなく、冷や汗が吹き出すが、咄嗟に装填する真似をして20mは離れたイルハサールを狙う。

槍も失ったイルハサールの武器はもう魔法とナイフしかなく、セヘナイと睨み合う中で一瞬戦場の様子を見る。解放軍の方陣を前にして、騎兵隊は半数を失い負け始めていた。相手はセヘナイとは言え魔法の間合い入るまでに打ち抜かれる可能性は十分にあり、もう不利は覆らない。戦いを続けなければならないと考えるプライドと、もう戦っても意味はなく撤退するべきと迫る理性に板挟みにされた。

 セヘナイも、ブラフがいつ見破られるか考えれば気が気ではない。滝のように流れる汗。

イルハサールは睨み合ったまま口笛を吹き、駆け付けた騎兵の馬に乗り合わせると、背中を向けて逃げていった。他の騎兵もそれを見て逃げ出し、遅れてやってきた解放軍の騎兵に追いかけ回されるのだった。

 周囲から完全に帝国の脅威が無くなると、セヘナイはマスケットを置いてチェルネツアに駆け寄る。

「チェル、大丈夫か!」

 膝枕をしてチェルネツアの口元に手を当てると、呼吸も正常に戻っている。

「セへナイさんのお陰で、命は助かりました。ありがとうございます。多分骨も折れてないですし、平気ですよ」

チェルネツアがセヘナイの頬を撫でると、セヘナイの緊張が解けて顔がほころぶ。

「安心したよ。よし、行こうか。魔道の倉へ。長かったけど、ようやくだね」

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