第五章

第五章       

『知と技をいかに極めど、時の不可逆性を覆す術は存在せず。実に悔しい』

-アイル・ワル・カネル著 魔道の極限 時の魔術について


 セヘナイ、チェルネツア、リナアルはコシシュノ砦から二日の距離にある解放軍占領下の小さな漁村レジュに送られた。極西海に面した長閑な村だが、ウルカハシアジルから南に36㎞と帝国と解放軍の前線から遠くなく、駐屯する十数名の兵士がいて戦いの緊張感は拭えない。

漁船だけが並ぶ質素な桟橋に外洋航行可能な帆船は不自然で、夜でも漁民の目を引く。リレッツェネに属する商人に金を渡し、その承認が所有する貨客船に乗ってシア・インラーデ帝国から出国する事になったのだ。

出港準備を呑気に進める船を目の前にセヘナイは落ち着きが無く、誰の目にも早く出港して欲しいのだと分かった。リナアルからすれば、好き好んでアグリア人に囲まれたがる気持ちが理解できなかった。不思議な人だと眺めていると、協力者がリナアルに三つ折りにされた紙を渡す。

「総帥からです」

「総帥? 直々に?」

「はい。緊急の連絡だと、先程届きました」

 普通なら有り得ない、ただならぬ状況にリナアルは恐る恐る紙を開く。コシシュノ砦に近い村で解放軍の外相担当が誘拐拷問され、そのまま殺された旨が書かれていた。その外相担当はリレッツェネの担当者であり、セヘナイの密航計画にも一枚噛んでいたのだ。犯行もプロの犯行であり、帝国の関与はほぼ確実だろうとも書かれていた。

「どうしました?」

 セヘナイはリナアルが読む紙を覗き、顔をしかめる。浮かれる気持ちに水が差され、ツィツェーレの手際の良さに恐怖すら感じた。

「今すぐ出港しましょう。もう近くにいるかもしれない」

 リナアルが考え動くよりも早くセヘナイは船に駆け寄り、帆船の所有者と話を始めた。

「セヘナイ様は決断が早いですね。流石はイリッタの英雄」

 感心しているリナアルにチェルネツアが近づき、同じようにセヘナイを眺める。

「あんなに積極的なの、そうそうないですよ。何か特別な楽しみが待ってる時だけです」

「楽しみ? アグリアに何があると?」

 リナアルの質問に、チェルネツアは言葉を詰まらせる。頭の片隅で片付けておくならまだしも、言葉にするとなれば憚られた。自分の負けを認めるようで、悔しくてたまらない。

なかなか返事が無くリナアルは横目でチェルネツアを見て、彼女はそれに顔を背けた。

「チェレネーツァ嬢が言いにくいのなら言わずともよいかと」

「いいえ。なんだか、一人で抱えているのも辛い気持ちなんです」

 チェルネツアは大きく息を吸い、目を瞑った。イルハサールともソフィナーツァとも違う、セヘナイの関心の薄そうな相手だからこそ打ち明けられそうな気がする。そう決めたんだと自分を説き伏せる。

「……好きな人がいるとか」

 こう言ったら笑われるかと全身が力んだが、リナアルの反応は想像以上に鈍かった。

「ん? えー、こういう言い方が適切かは分かりませんが、お二人は恋人同士なのだと」

「よく言われます。でも違うと思います。私の一方的な片思い、ですかね。すっごく嫌ですけど」

「特別な感情が無い相手と苦楽を共にする程、

「愛はあると思います。でも一番じゃないから……。私は女でも恋の対象でもなくて、いつまでも拾われた女の子なんです。情けとか、可哀想とか、そういう不快な気持ちも絶対どこかにあるんです」

 チェルネツアが拾われたのだと知ったリナアルは、何となくセヘナイの気持ちを察した気分になった。家柄の良し悪しも判断できない女の人だとすると、どんなに素敵でも恋人にしようとは思えない。リナアルも元は騎士階級家の男であり、周囲の目や家の事が常に頭の片隅にある。知識人であるセヘナイを上流階級の家の人だと仮定すれば、チェルネツアは身分不相応だと考えるかもしれないと思った。

階級や血をアグリア人並みに気にする北方シア人には、インテ・ラク・ラーデの比較的開放で自由な人の繋がりは理解し難い。

 セヘナイがリナアルとチェルネツアを振り返り、手を振る。

「出港を急ぐ。二人も手伝ってくれ!」

「はーい。今行きます!」

 チェルネツアは明るく手を振り返し、先までの陰気さなど微塵も感じさせない。セヘナイの元へ駆け寄る彼女の健気さにリナアルは切なくなり、叶わない恋を哀れんだ。


 船は風を待って、夜明け前にレジュを出港した。真っ青な海も二時間航海すれば濁り始めて、明け方シェエリク河の河口に差し掛かる。南岸のウルカハシアジルを横目に、船は河の流れに逆らってフラニップス山地を目指した。その麓、広大な山の斜面に港町リザーツァはあるのだ。

アグリア王国で一番豊かな街とセヘナイから聞かされていたチェルネツアだが、その期待は船を降りる前から打ち破られる。シルカルブト郊外の町と大して変わらないリザーツァの風景に、街じゃないでしょ、と内心ツッコミを入れた。

「これでもアグリアで一番豊かな街なんですよね」

「そうだよ。アグリアの王都ホアイビンより。まあ、山の湧き水は柔らかいから、ウルカハシアジルより生活しやすいよ」

 チェルネツアのガッカリもセヘナイにも痛い程理解できた。だがリナアルには十分な大都市で、悔しいが流石はリザーツァと一人勝手に嫉妬心を煽っていた。

 坂道ばかりのリザーツァで最も標高が高いラーナ地区。その中でもさらに高地の一角にセヘナイの旧友、デーキニッズの家がある。

屋敷が立ち並ぶ通りの中でも、一回り大きな三階建の立派な屋敷。ツタに半分が覆われ、日焼けしたレンガが古めかしい。だが過去四回も大地震に耐え抜いたそうで、縁起が良いとデーキニッズがもらい受けたのだ。

ラーナ地区が上流層の住む地区である事はリザーツァの常識で、サーテシラ出身のチェルネツアやリナアルにもひしひしと伝わる。

「セヘナイ様がお尋ねになる方は華族だったのですか?」

デーキニッズの屋敷を見上げリナアルはセヘナイの横のつながりに感心する。

「ラーナ地区領主の三男坊だからな。そこそこ」

 リナアルの真っ直ぐな羨望に、セヘナイは多少の優越感から気取って玄関ドアをノックする。身軽な足音がドアに近づき、「どなたですか? この時間に約束は無いはずです」と気の強そうな女性の声がすると同時にドアが開く。その聞き慣れた声はセヘナイの気持ちをこれでもかと浮かれさせ、直後冷静な思考の部分が疑問符を浮かべさせる。何故カディシアーナがデーキニッズの家にいるのかと。

 半開きのドアから顔を出すカデシエーナは、セヘナイを見て目を輝かせた。だがセヘナイが期待したほど喜びもしなければ、薬指にはめられた指輪を隠そうともしなかった。そうか私がこの町に帰ってこれなかった四年の間にカデシエーナはデーキニッズと結婚したのか。察するセヘナイの意識が遠のく。

「あら、生きてたのね。デーニスも喜ぶ!」

 何とか立っていられたセヘナイの頬に、カデシエーナは頬を重ね合わせ、唇を軽くすぼめて「チュ」と音を立てた。そしてリナアルやチェルネツアには握手をしながら流暢なシア語で「カデシエーナ・コス・ヴラドゥイウ、21歳です。初めまして」と丁寧なあいさつをする。デーキニッズ・ローレ・ヴラドゥイウと同じ、ヴラドゥイウのファミリーネームを躊躇なく名乗るカデシエーナにセヘナイの心はまた深い傷が刻まれる。セヘナイの類を見ない反応に、チェルネツアはこの目の前の女性がセヘナイの一番の女性なのだと確信した。セヘナイ並みに背が低くて、人形のような可愛いらしい雰囲気の人。ツィツェーレのような女性が好きなのだと思っていたチェルネツアにとって、カデシエーナは意外の塊だった。

「スヴァ・リナアル。19です」

 リナアルはチェルネツアの緊張から、昨晩の漁村での会話を思い出した。コスを名乗ったカデシエーナは職人階級で、セヘナイが階級を気にするにはまだ差がありすぎると疑問に思う。

「騎士様なのですね。この家ではシア語は私しか分かりません。何かご所望とあらば、私に言いつけてください。そちらの女性は?」

「チェルネツアです。……えっと、歳って言った方がいいんですか?」

「チェルネツアさんはインテ・ラク・ラーデの方ね。田舎の閉鎖的な風習だけど、アグリアに居るのなら従った方が賢明よ。敬意の方向性が分かりやすいでしょ」

「18です」

「よろしく。にしてもチェルネツアって名前驚いた。セヘナイとどういう関係?」

 カデシエーナは元気のないセヘナイへ平然と問いかける。

「事情があって、私が保護したんだ。名前も無くて、私が名付けた」

「なるほどね。こんな雅で気品のある名前、セナ以外で知ってる人いないと思ったわ」

 カデシエーナはチェルネツアに改めて「よろしくね」と言うと、三人を屋敷の中へ案内した。

 セヘナイにとって住み慣れた懐かしい家も、カデシエーナがいると全てが異質に感じた。

「カーシャはデーニスと結婚したのか。おめでとう」

「ありがとう。デーニスにもその事を言ってあげて。お願い」

 肯定の言葉も、最後に付けられた「お願い」もセヘナイの頭で反響する。デーキニッズだけの頃は飾りっ気のない廊下だったが、今はカデシエーナの趣味が反映された飾りで洒落ている。悔しさをぶつけたい相手は次から次に頭に浮かぶ。デーキニッズ、イリッタ、帝国、統一戦争、そして四年もカデシエーナを放置した自分。

 彼女は廊下の突き当たる扉を開け、暖炉の前の椅子で考え事をする男がいる。

「カーシャ、今日は父さんの手伝いはお休みのはず」

「デーニス、セナが帰って来たわ!」

使用人もいない静かな部屋で、その言葉はデーキニッズの耳に届く。恐る恐る立ち上がってセヘナイへ向くデーキニッズは無精ひげを生やしていて、やや動揺していた。

「こうゆう事があるから、休日でも髭を剃りなさいって言ったでしょ」

 カデシエーナの耳の痛い言葉にも反応が薄いデーキニッズ、セヘナイの方から頬を重ねて「チュ」と鳴らす。

「デーキニッズ、カーシャとの結婚おめでとう」

「あ、ああ。ありがとう。いや、セナ、生きてたんだな。お前が北方サーテシラに一度戻った直後に戦争が始まったから、その」

「ばつが悪そうにするなよ。カーシャの寂しさを埋めてくれて感謝してる」

 カデシエーナは微笑むと、アグリア語の分からないリナアルとチェルネツアに屋敷の案内を始めた。残されたセヘナイとデーキニッズ。デーキニッズは「何か飲むか?」と窓際に飾られた酒瓶の一つを手に取る。

「いい。それより、探している物があるから知恵と蔵書を貸してほしくて」

「そうか。何を探してるんだ」

「アクアグロット」

「……アクアグロット」

 デーキニッズはようやくセヘナイの顔を真っ直ぐ見た。驚きと胸の高鳴りが顔に現れ、居心地の悪そうな態度が吹っ飛んでいた。それにセヘナイも呆れたように笑う。

「俺達、変わらないな」

「……変わったものもあったよ」

 突然の再会という同じ状況にもかかわらず、まだ距離感の掴めないデーキニッズはセヘナイの態度に年代物の劣等感が刺激される。

「昔から二人ともカーシャが好きだったんだ。恨みっこなしだよ」

「けど、戦争前に付き合っていたのはセナだった」

「全ては神のみ心のまま。サリクスの神々は私よりデーニスの方が相応しいと思ったんだよ。だから胸を張れって。あんな素敵な女性、他にいない」

 セヘナイは自分の言葉に胸が痛くなって、目頭が熱くなってくる。だが必死に抑え込んだ。ここで泣いたら全てが無駄になる。デーキニッズは避けるようにセヘナイの隣を通り廊下に出ると、「行こう」と小声で短く言った。

ランプを持ったデーキニッズに続いて地下倉庫へ降りたセヘナイ。ここには書庫があるのだが、扉があるべき場所にはただの無垢な壁だった。

「改築したのか?」

「いや。隠し扉にした」

デーニスが左手薬指にはめた指輪を壁に当てると、壁に紙虫に犯された書物のような穴が開いていき、奥に見知った書庫が現れる。

「カーシャが仕事の合間に半年かけて編んでくれた結界だよ」

「……すごいけど。どうして?」

「最近はアグリアでもユスフ教が説かれるようになって。念の為」

 書庫の壁三面には背の高い本棚があり、傷まないように余裕を持たせて書物が並べられている。デーキニッズは収集家として几帳面で、保存するための努力は惜しまない。本以外にも、古地図や宣言書、契約書などの歴史的資料もある。

「アクアグロットをどうやって探すんだ?」

「霊廟の山、オレール大帝かカンタン帝王の霊廟に副葬されてると、信頼してるウルカハシアジルの学者がね」

「どっちの霊廟も見つかってない」

「だから、ここで目途を立てて探しに行くんだよ。知識を頼りにね」

 セヘナイはフラニップス山地の古地図を開いて、ランプの灯りに透かす。前の所有者が入れた折り目から裂けていきそうな旧アグリア語の地図だが、今の地図には記載されない無い古の場所を記す。戦火に消えた町、神の住む場所、そして旧王家の墓所も。リザーツァから北東にある円錐形の山、その傍らに『霊廟の山』の名があった。


 二人は地下倉庫をありったけの魔照灯で照らし、適当な材木でテーブルを組み立てて、その上に地図や本を広げた。セヘナイは組み立てたばかりのテーブルに体重を乗せ、真っ二つに折れないか確認しする。

「初めて作ったテーブルは本三十冊で折れて大変だった。ケガもして散々だった」

黙々ともう一つのテーブルを組み立てるデーキニッズは目も合わせず、「だな」と短く答える。

「魔照灯も五年前に買ったものか。暗いからって松明幾つも焚いたら、呼吸ができなくなって死にかけたな」

「ああ」

 セヘナイは頭を掻いて、一度一人になろうと「トイレに行ってくる」と言って一階に上がった。

 セヘナイがいなくなり、デーキニッズは作業を止めて一息つく。彼にとってセヘナイは対等な話ができる唯一の親友である事は疑いない。歴史という観点でセヘナイと話し合う時間は他にない面白さと興奮がある。ただセヘナイと違う所だ、とデーキニッズが思っていたのは、居心地の良さだった。

 ギシギシ階段が軋み、セヘナイが戻って来たのかと力むデーキニッズ。だが降りてきたのはカデシエーナ。階段を真ん中まで降り、屈んで天井から顔を出す。

「デーニス。ちょっとお出かけしてくるから」

「ああ。気を付けて」

「そのまま仕事して帰るから、今夜も遅くなる」

「そうか」

 覇気のないデーキニッズにカデシエーナはため息をつき、階段を駆け下りると抱き着いて唇にキスをする。

「無くしたくないのなら、セヘナイばかりに気を遣わせない。デーニスも頑張る。しっかり気を強く持って。いい?」

「あ、ああ……」

 カデシエーナはデーキニッズに微笑みかけると、一階に戻っていった。

上の階からカデシエーナとセヘナイのシア語の会話が漏れ聞こえて、玄関ドアが開く音がする。直後セヘナイが地下に戻ってきた。

「カデシエーナがチェルを連れて遊びに行くらしいんだ。何を企んでるんだか」

「チェルって、あの背が高い女の子か?」

「そう」

 セヘナイはテーブル上の地図へ関心を戻す。デーキニッズの心は再び二人きりになってやりにくさを感じた。けれどカデシエーナの言葉を思い返せば、この躊躇も振り払う気力が湧く。意を決してセヘナイの隣に立ち、同じように地図を見下ろす。デーキニッズとの距離感が急に昔に戻り、セヘナイは思わず「おお」と言ってしまう。そんな反射的な反応をデーキニッズは気にも留める様子はなく、ホッとした。やっと安心して共通の趣味を話せる、そう思えた。

 リナアルが退屈しのぎに地下保管庫に降りると、先程まで空気の悪かった二人は緊張感無く自然に話していた。

殆どかアグリア語での会話に置き去りにされていたリナアルだったが、チェルネツアの話から何となく男女関係の不和を感じていた。それを踏まえた第三者としては、セヘナイとデーキニッズの間にある程度の決着はついたのだろうと予想できて安心する。他人の色恋沙汰に巻き込まれ、自分まで険悪な雰囲気の中に放り込まれるのは避けたかったのだ。

 リナアルが机を覗き込むと、大きなフラニップス山地の地図に沢山の黄色いピンが打たれ、綺麗な円錐形の山の麓には赤いピンが幾つか立てられていた。

「セヘナイ様は何をしているのですか?」

「このあたりの山に古代の王の霊廟があるはずなんだ。その場所を推測してる」

 セヘナイは赤いピンが立てられている地域を丸く指でなぞった。

セヘナイとデーキニッズはコンパスや定規を使い一つ、また一つと赤いピンを立て、その数は次第に十を越えた。多くなれば多くなる程考えがまとまらず、候補を絞るどころでは無くなっていった。デーキニッズは「全部見て回るか」と言ったが、帝国も探している今そんな偶然に頼るような事をセヘナイはしたくなかった。最低でも優先順位を付けたい。黙り込むセヘナイに、リナアルは素朴な疑問を投げかける。

「この赤いピンはどうやって立てたのですか?」

「古文書の内容を地図に当てはめて推測した。こっちの古地図で地名を調べて、それを王立製図局が作ったフラニップス山地図に落とし込む。でもどれもこれも記載が曖昧だから、可能性ばかりが広がるんだ」

「霊廟がお墓なら、地下に造りますよね」

「時代や国にもよるけど、奥アグリアで興った後テーナ・サーラ王朝アグリアは山岳を神と崇める風習があったから、山に帰るという意味で山中に墓は造ったね。うん、リナアルの言ってる事は今回の場合においては正しいかな」

 セヘナイが長々と答えると、リナアルは赤いピンの幾つかが集まる地域を指差す。

「この辺りは原魔石の鉱脈があるでしょう。硬すぎて掘れないのでは?」

 リナアルの疑問に、セヘナイは硬直する。原魔石、鉱脈、硬すぎて掘れない、文章の数秒の内に何度も頭の中で反復させ頭に刻み込んだ。その入力の直後、出力結果が怒涛の勢いで溢れ出す。

「……アッ、わ! わ。そうだ。そうだよ! そうだ! デーニス、鉱脈分布図を出せ!」

 興奮で飛び跳ね回るセヘナイの前に、慌てて鉱脈分布図を探し出してきたデーキニッズが広げてみせる。

「確かに原魔石は硬すぎる。でも霊廟を守る結界を張るなら、力の源になる原魔石の切り出し場から近い方がいい」

 リナアルを置き去りにして、テーブルに叩きつけた鉱脈分布図と山地図を、肩を並べて比較するセヘナイとデーキニッズ。

「なら、鉱脈に隣接して」

「そして掘削しやすい軟岩が分布する」

 一秒ごとにセヘナイは首をカクカク動かし二つの地図を見て、コンパスを握ると地図の一点に突き刺した。元々そこにあった赤いピンは弾け飛んで、コンパスの長い針はテーブルの薄い板を貫く。

「ここだー! 心の友よー」

 デーキニッズにセヘナイは抱きつき、それからリナアルとも肩を組んで跳ね回る。デーキニッズも理解が追い付かないままに流れるように定まった霊廟の推定位置だが、思考が追い付くと同じく吠えるような声を出して喜んだ。

「アクアグロットが、大発見かもしれない」

「そうだ。そうだ。大発見だ!」 

 振り切れたテンションの二人。その熱気にあてられ、逆に冷静になっていくリナアルだった。だが、この空気感は嫌いじゃなく、一緒にいて嫌な感じはしなかった。

 興奮は冷めきらないが、普通に会話できるようになるまで落ち着いた事、セヘナイはリナアルに山行の準備をお願いした。明日にでも出発すると言わんばかりのセヘナイをリナアルはあれやこれや手を尽くして説得し、出発は明後日と無理のないスケジュールに設定される。

 リナアルが必要な物を書き出す横で、刺さったコンパスをニヤニヤ眺めるセヘナイ。

「ついにあと一歩か~」

「だな。だから俺もついて行く」

 同じくコンパスを見下ろすデーキニッズからサラッと出た言葉に、セヘナイは彼を見る。

「いいのか? 華族の中での仕事もあるだろうし、なにより山霊祭が近くて忙しいはずだろ」

「気にするな、だから一緒に行かせて欲しい」

 そう言い切るデーキニッズに、セヘナイは拒否する理由も無い。危険というのもあるが、始めの気まずい空気もあるし、カデシエーナの件もある。もう一緒に行こうと言い出さない気がしてた。だから、むしろ嬉しく思った。

「いいよ。いこう。冒険だ」

「よし、冒険だ」

 昔のようにセヘナイが受け入れた事が、デーキニッズを安心させる。このお願いが通らなければ、結局昔に戻れない気がしていたから。そう考えるのは身の程をわきまえていないかもしれないが、デーキニッズも親友としてのセヘナイを捨てられない。七年前のように、地位や人種など関係なく受け入れてくれるセヘナイが健在で良かった、心からそう思えた。


 カデシエーナはチェルネツアを町外れの工房に招く。

工房の中は香草の透き通る匂いで満ちて、壁に沿って並ぶガラスキャビネットには石に小瓶に鳥の羽に、その他見ただけでは分からない物まで色々とあった。

 年季の入った椅子にチェルネツアは座ると、カデシエーナは作業机にグラスや顔料皿を幾つも並べる。

「ここね。デーニスもセナも入れた事ないの。私の聖域。チェレはお酒強い? 甘いものは好き?」

「両方好きです」

 チェルネツアは、すごい馴れ馴れしいな、と思いながら、落ち着かなくて周りを見渡す。作業机には白紙の紙と印刷されたような文章が手書きされた紙が別々に積まれ、インク瓶や顔料皿が隙間なく敷き詰められていた移動可能な台が四つあった。なんかすごい人なのかなあと、それだけですごく負けた気分になる。

 カデシエーナはとっておきのシードルやミード、ウォッカを並べて「どれがいい?」と聞く。するとチェルネツアは瓶とカデシエーナを交互に見つめるので、一本一本説明した。それから蜂蜜、ジャム、ピクルスを顔料皿に取り分ける。

「好きに食べて」

 カデシエーナは蜂蜜を指ですくって舐めると、「んー」と嬉しそうな声を漏らす。それから椅子に座ってウォッカをグラスに注ぐ。

「ジャムは全部インテ・ラク・ラーデからの輸入品。これだけで私の年収が吹き飛ぶの。男連中には内緒ね」

 チェルネツアはカデシエーナのウインクにドキッとして視線を逸らす。

「どうして今日あった人に優しくしてくれるんですか?」

「んー、人に優しくするのに理由が必要?」

 一つ一つの言葉に迷いが無く、その度に気後れさせられる。困り果てたあげく、話をそらすために「この工房は何をする場所なんですか?」と聞いた。するとカデシエーナは目を輝かせ、作業机の下から一冊の重厚な革装本を取り出す。

「興味ある? ここでね、装飾写本を作るの」

 真鍮の閉じ具を開けると、真っ先に色鮮やかで装飾的な頭文字に縁取りが目釘付けになる。遠近感のある挿絵と、信じられない程綺麗な文字で物語が語られる。ページを捲る度に花みたいな良い匂いが漂い、心が安らぐ。

「これ、カデシエーナさんが作ったんですか?」

「そう。活版が南から伝わっても、芸術品としての写本は残ってる」

「じゃあ、この部屋の物も」

「あっちから香料、防腐剤、顔料、オイル、金箔真鍮、金工具、革。奥に別の小屋が合って、本書き以外はそっちで作業する」

 口を開けて素直に感動を示すチェルネツアに、カデシエーナはついつい楽しくなって語ってしまう。

「千年後にも残る上質な紙を使って、千年後にも残るインクを調合して、千年解けない魔法と技法で保護して、千年色あせない金箔と顔料で彩る。私の作品は千年後でも人々の美学の中で色褪せない。素敵でしょ?」

 カデシエーナの語気の強さに、チェルネツアは圧倒され、眩しいとも感じる。

「さてと。私の事ばかりじゃつまらない。ねえ聞かせて。チェレのこと」

「な、何が知りたいですか?」

「んー、リナアルと一緒にマスケット持ってたけど、撃てるの?」

「はい。怖いですか?」

「無差別に人を殺めては欲しくないけど、絶対ダメと断言できる程世の中は甘くない。必要だと思う。それに男に負けず劣らず張り合ってるの女として誇らしい。私の仕事はお遊びって理解の無い男から野次られる事が多いから」

 誇らしいと言われて、照れるチェルネツア。けれど目の前でカデシエーナが寂し気な表情をしてウォッカを一気に飲むと、どうにかしたいと強く思わされた。話して元気にさせてくれる人にそんな顔して欲しくない。

「遊びなんかじゃないですよ。こんな本作れるなんて、素敵です」

「ありがとね。スカートじゃなくてパンツを履いてるのも、戦う為でしょ?」

「そうです」

 カデシエーナは言葉を濁すチェルネツアを分からない振りをする。

「んー、セナのこと好き?」

 さらっと核心を突かれて、チェルネツアの顔が真っ赤になる。カデシエーナはチラチラと目を合わせては逸らすチェルネツアから何か言うのを待った。

「……好きです」

「やっぱり。私に怖い顔するし、セヘナイの事じっと見てるし、そうだと思った。嬉しい」

 嬉しいという単語が出て来るとは思わなくて、チェルネツアはキョトンとして首を傾げる。

「嬉しいでしょ? 私が愛せない分、こんな可愛い人がセナを愛してくれるんだよ」

 カデシエーナは席を立って、入口の方に回って工房の扉を開ける。

「ジョエル・パスカル暦のリザーツァだと十一月だけど。テーナサラ暦だと九月よね。収穫祭はインテ・ラク・ラーデで一番大切なお祭りでしょ? 何か贈り物を用意しよっか」

 カデシエーナはチェルネツアの手を引いて、リザーツァの街へ連れ出した。


 一日で仲良くなったチェルネツアを屋敷まで送ったカデシエーナは工房に戻り、仕事の続きをする。絵描きに熱中した彼女は眠気を感じてようやく筆を置き、屋敷に帰ったのは深夜だった。

 使用人も帰宅して物静かな玄関は疲労で霞んで見える。仮眠に使っている客室で寝て、明日デーキニッズが起きる前に体洗って着替えて。そう思いながら上に行く階段に足をかける。だが少し気になって、地下倉庫へ降りる事にした。

 薄暗い地下で魔法の明りを打ち上げると、予想通り倉庫にセヘナイがいた。それまで小さなランプの灯りだけを頼りに本を読み漁っていたセヘナイは、突然現れた光源の奥にカデシエーナを見つけ、流れるように振り子時計を見る。

「もう空が白んでくるじゃないか。失敗した」

 夜に帰って来た彼女と鉢合わせるという事は、夜更かしの過ぎを示す。階段を降りきるカデシエーナは倉庫を見回して、ため息をついた。

「またデーニスと一緒に散らかして。今度はこの雑なテーブル片付けてからいなくなってよね」

「分かってるよ」

 五年前はここから二人だけで朝まで二日に一度は談笑したが、今はそんな雰囲気に無い。

「こんな時間まで熱心に。何してたの?」

 カデシエーナは染みついた癖で階段脇の木の柱に寄り掛かる。

「霊廟の山について調べてた。結界の様式とか、構造とか、掴んでる情報が多い程早く終わるから」

「ふーん」

 セヘナイは本を閉じて、テーブルの上に置く。テーブルは少しグラついて、ランプの灯が揺れる。

「そんな事より、カーシャに頼みたいことがある」

「なに?」

「製本を頼みたい。ここにある歴史的書物を、名のある順に。送り先は遥か南の都市シルカルブトの学堂まで」

カデシエーナはゆったりと書庫に入り、幾つかの本の背表紙を撫でる。その様子を目で追うセヘナイ。

「写本じゃなくて製本ね。いいよ。でも時間がかかる、お金も、私の誇りに合うだけの」

「シルカルブトの学堂の蔵書が焼かれたんだ。私の旅も大切だけど、学生が学問を追求する役に立つ何かがしたいんだよ。恩人の退屈を和らげる何かも送りたいし」

「ペルーナはお断り。コフレでもいいけど、フィートレなら持ってるでしょ。んー、200万フィートレってところかな」

 まだ一度もしっかり話していないのに、冷静な態度で事実だけを押し付けて来る強気で強引な態度が、今日のセヘナイは可愛く思えない。理性では分かっていても、自然消滅は納得できず、別れるには儀式を欲していた。その心の内のせめぎ合いが、カデシエーナには優柔不断に見える。

「あるけど、その値段設定は優しくないなあ」

「そう? 格安よ。それにセナには借りを作らせないし、作らないって決めたの。もう私は貴方の恋人じゃないから」

 感情の話に持って行きたいセヘナイだが、カデシエーナは気持ちの言葉を抑えて逃げ切りたい。だから冷静を作って、理想の自分の言葉を声にしていく。

「仕事の話をしてるのに、デーニスの事は関係ないだろ?」

「どこが? 今の私達にとって、ここの線引きは一番大切じゃない?」

「怒ってる?」

 カデシエーナはクルッと振り返り、上目でセヘナイを睨む。

「もう! はい! 怒ってます! 怒ってるっていうか、人の五年を何だと思ってるの? 私もう21よ」

 カデシエーナは自分の鎖骨あたりを右手のひらで強く叩き、バンと音を立てる。

「シルカルブトから空の手紙ばかリよこして、返事を書いても帰ってこないし。疲れた、イライラした、頭にきた、……寂しかった」

「検閲されてたんだ。統一戦争で名をあげたばかりに、為政者が私をシルカルブトに閉じ込めようと」

 カデシエーナは首を横に振り、両手で顔を覆って背を丸める。

「そんなことありえ……、そうか。セナ頭いいし」

「五年間寂しかったけど、これも神の御心、運命なのかもしれない。私は一つの所に身を寄せるつもりは無いし、いつかそれでカーシャとは揉めると思ってた」

「私も。目をそらしてたけど。お互い我が強くて夢を捨てられそうにないし」

 セヘナイはカデシエーナに歩み寄り、カデシエーナは顔を上げる。

「別れよう」

 そう告げ終わる前にカデシエーナはセヘナイの鼻を摘まみ、ねじり上げる。

「痛い、痛い、なんで?」

「それ私から言うべき言葉。盗まないで。年上ぶられて頭にくる」

 カデシエーナが手を離すと、涙目のセヘナイは赤くなった鼻を擦る。

「年上なのは動かしようのない事実なんだけど」

「黙って。ん-、そうね。私が間違えてた。ちゃんとお別れをしましょう。五年遅いお別れを」

「そうだね。別れよう」

 カデシエーナは深いため息をつくと、表情が明るくなって愛嬌のある彼女に戻る。それにセヘナイはほっぺを膨らませる。

「なんか納得いかない。どっちが先でも良くない? まだヒリヒリするんだけど」

「良くない。全部セナが悪いから。分かってる?」

「あー、はいはい」

 カデシエーナは書庫を出て、一階への階段の手摺に手を置いた。魔法の明りがジリジリと弱くなって、ランプだけの薄暗い地下倉庫に戻っていく。お互い暗がりに溶け込んで、表情は見えない。

「デーニスはセナと比べていいとこばっかり。部屋の模様替えも手伝うし、生活も安定してるし、研究って言ってデートを何度もすっぽかさない。私を一人にもしない」

「ホントに、そうだね。製本のお金は明日渡す」

「分かった。大魔術、見つかるといいね。応援してる」

 セヘナイは書庫の入り口に寄り掛かる。

「ありがとう。デーニスには言ってないよね」

「余計な心配はさせたくないんでしょ。分かってる。じゃあ……、おやすみ」

「おやすみ」

 カデシエーナは階段を上がり、倉庫からいなくなる。残されたセヘナイはしばらく階段を見つめ、それから書庫に入った。物陰に隠れて、ずるずると座り込む。統一戦争が無ければ、シルカルブトに縛られなければ、今日一日限りは許してほしい悔しさに、何度も何度も床を叩いた。

 夜が明けるまでの短い間、二つのすすり泣く声が屋敷にはあった。だがそれもリザーツァの朝を告げる鐘が鳴ればピッタリと止み、新たな日常がやってくるのだった。

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