第四章

第四章

『理想を求め、命を燃やし、それら全ては夢の真似事』

歌人:エシエーツア・アンネクローネ 

-“サリクセン歌集第一巻”より (編者不明)


かつてシタア・ノトラツ王国が支配し、紅色の街ウルカハシアジルを王都としていた北方サーテシラ。だが統一戦争で王家が断絶して以来、一辺境の肌寒くて寂しい地域でしかないと噂されている。

ウルカハシアジルまではメシューニ川沿いの街道を北北西へ進む。インテ・ラク・ラーデでは代わる代わる現れる豊かな景色が旅路を楽しいものにしてくれた。だが北方サーテシラでは痩せた畑ばかりが目立ち、森には画一的な針葉樹が立ち並ぶ。進んでも、進んでも、代わり映えの無い景色が続き、本当に進んでいるのか疑心暗鬼に陥る場面も少なくない。

 約250㎞の旅の果てにメシューニ川とシェエリク河の合流点へ到達すると、セへナイ一行はさらにうんざりさせられる。明るい灰色に濁るシェエリク河はアグリア王国との国境で、その水は硬くて苦みがあり、お世辞にも美味しいとは言えない。服が傷むので洗濯にも使えず、髪を洗えばフケが止まらない。

チェルネツアは昨晩シェエリク河の水を使って体を洗ったのだが、朝起きると髪の毛はボサボサになり収拾がつかず、肌は乾燥した。一晩での変わりようにショックを隠せず、手鏡を持ったまま馬車に揺られ途方に暮れる。

「チェルもひどいね」

 セヘナイもくせ毛が悪化し、まとまりが悪くなっていた。

「ガハハハ、シェエリクの洗礼を受けるとウルカハシアジルに来たって実感が湧くな」

 バッサリと髪を短くしたイルハサールはどこか他人ごとで、チェルネツアはイラっとする。

「もう! こんな場所に人って住めるんですか? 街があるなんて信じられない」

 苛立ちの捌け口に困り果てるチェルネツアにセヘナイは我慢できずクスクス笑うと、彼女に本気のデコピンをされる。バチンといい音が鳴った。

「セへナイさんも笑わない! イルハサールさんもこっち見ない!」

 額を手で押さえるセヘナイにそっぽを向けて、やけになってブラシをかけるチェルネツア。

「うう、結構痛かった。酷いじゃないか」

 二人の間で交わされる平凡なやり取り。事件も無い牧歌的な毎日に、刺激を求めて仲間に加わったイルハサールも、それはそれで居心地の良さを感じていた。


紅色の城塞と称えられた都市ウルカハシアジルは風に乗る潮の匂いと共に現れる。

シンボルだった紅蓮の城は瓦礫の山でしかなく、跡地には帝国軍の砦が建つ。城壁は四割が崩壊し、壁の付近はスラム化し物乞いであふれていた。中心部ですら点々と空き家と半壊の廃墟があり、風が吹けば砂埃が舞う。武装した帝国軍が我が物顔で闊歩し、町の人は彼らを見つけると怯えるか逃げるか。

「荒廃した町ですね」

 眉をひそめるチェルネツア。イルハサールは彼女へ「戦争に負けた町はこんなもんだ。パルミラスも似たようなものだぞ」と教える。

「でもシルカルブトは」

「イリッタは戦争には大敗せずに講和したからな。主権の剥奪だけで済んだ。負けた他二国よりかは随分ましだろうよ。祭りを祝える程度には」

全てが陰気臭い街に不安を募らせるセヘナイ。散歩をした通りも、子供たちが遊ぶ横で本を読んだ広場も、夕食に使う玉ねぎを吟味した店も、面影が残るだけの残骸。だがラハ・ソクタアルの館は昔と変わらず、そこでようやく胸をなでおろす事ができた。

赤いレンガ造りのソクタアル館は横に長い二階建ての館で、いかにもウルカハシアジルの豪邸といった格式高さがある。だがひび割れたガラス窓と、木の板で塞がれた窓枠もあり、赤レンガの壁には銃撃の跡もある。セヘナイとチェルネツアは荷台から降りて、適当な柱に走鳥を括りつけた。動きの鈍い走鳥にチェルネツアは寄り添って背中を撫でる。

「みんな元気ないですね」

「走鳥は寒い場所が苦手だから。ここで売って、別の動物を買った方がいいかもしれない。寂しいけどね」

「そうですね」

 イルハサールも馬車を降りると、両手を腰に当ててソクタアル館を右端から左端までざっと見る。

「ここ大商人ラハ・ソクタールがやってる趣味の館だろ」

「ああ。ウルカハシアジル王家に纏わる品について聞くならソクタアル爺さんが一番だ」

 セヘナイは正面入り口の大きな扉のハンドルを握ると、扉は普通に開いた。

「空いてるな。入ろう」

セヘナイを先頭に、三人は館に入った。

外見とは違い、赤い絨毯が敷かれるエントランスホールは掃除が行き届き、昔のまま綺麗に保たれている。その一番奥のカウンターの向こう、眼鏡をかける小さな老人が座って本を読んでいた。老人は扉の開く音に本を閉じて顔を上げると、セヘナイを見て目を丸くし、眼鏡を取って目を擦り、口をパクパクさせた。

「セヘナイ君、生きていたのか!」

「ソクタアル爺さんも、まだまだ健康そうで何よりだよ」

 二人は抱き合うと、ソクタアルはセヘナイの右頬にキスをし、セヘナイもソクタアルの右頬にキスを返す。それに思わずチェルネツアは「え?」と声が漏れた。ソクタアルはイルハサールとも同じように挨拶し、チェルネツアの前に来る。生涯で一度もキスをした事が無いチェルネツアは急な事態にあたふたするが、ソクタアルは「慣れぬなら握手で構わんぞ」と微笑みかけ、握手を交わした。

 セヘナイは改めてエントランスホールを眺める。

「エントランスに何もない台座が目立ちますが」

「売った。貴重な美術品だったんじゃが。商いもズタボロ、リレッツェネの援助で食いつないどる。遺品整理できたと思えばええのかの」

 目を細めて笑うソクタアル。

「シェエリク河沿いの商売拠点もウルカハシアジルからリザーツァに移ったからな」

 イルハサールの言葉にソクタアルは力なく頷いた。

 展示室への扉がコンコンと鳴り、花柄の陶器を抱えた赤髪の女性が背中で扉を押しながらエントランスホールへ入ってきた。

「ソクタアルさん、これも売ってしまうの?」

 その姿と声にセヘナイは「ソフィナーツァ?」といち早く反応し。女性も陶器をカウンターに置いき、セヘナイを抱きしめる。

「アタ・セへナイ? 生きてたのね」

 ソフィナーツァは右頬、左頬、右頬の順にキスをして、セヘナイは手の甲にキスを返す。その間チェルネツアは目を真ん丸にして瞬きなくソフィナーツァを凝視し、その顔にイルハサールは恐怖を感じた。

「この街変わったでしょ。がっかりした?」

幸薄い笑みを浮かべるソフィナーツァは、統一戦争前と比べて随分と老けてしまっていた。

「多少は。でもソクタアル爺さんも、ソフィナーツァも生き残って安心した」

「なら良かった。で、ウルカハシアジルには何の用事できたの?」

「ソクタアル爺さんに話を聞きに。アクアグロットについて聞きたいんだ」

 ソクタアルはホッホッホと笑うと展示室へ扉を開ける。

「老人に小難しい話をさせると長いぞ」

「そのつもりです」

 親しそうに雑談をしながらセヘナイとソフィナーツァが展示室に入ると、ソクタアルはイルハサールとチェルネツアにも目を合わせる。

「インテ・ラク・ラーデからご苦労でしたな。大したもてなしも出来ぬが、せめて我が収集品を見て、目の肥やしとしてはくれぬか? 美術館ごっこを嗜む老人も喜ぶ」

イルハサールも「では鑑賞させていただこう」と言ってズカズカと展示室に入るが、チェルネツアだけは入りにくそうにエントランスホールでまごついた。

「どうかしたのか?」

「……ソフイナーツアさんって、セへナイさんのお友達なんですか?」

「南のお方が無理して北方訛りを使わずともよい。ソヒナツアはの、セヘナイが以前この街に滞在していた頃世話をしておった旧友の娘なのだ。仲の良い姉と弟のようだとよく言われておった」

「そうなんですね……。ありがとうございます」

 控えめに頭を下げると足早に展示室に入るチェルネツア。その背中にほくそ笑むソクタアルは扉を閉めて、二重に鍵をかけた。


 吹き抜けの展示室には北方サーテシラの多種多様な民芸品が並べられ、巨大な竜の全身骨格も展示してあった。シャンデリアの下でソクタアルは一人掛けのソファーに座り、その前にセヘナイが立つ。隣にはソフィナーツァが並んで、チェルネツアは一歩引いた所にいた。イルハサールは展示品を一つ一つ丁寧に鑑賞しながらも聞き耳だけは立てる。

「さて、アクアグロットだったかの」

「はい」

「あれは、ウルカハシアジル王家の秘宝とされているが、王家が持っていた事は一度もない」

 アクアグロットを期待してここまで来たセヘナイには寝耳に水だったが、それはそれで納得してしまった。

「つまり、北方サーテシラの支配を正当化するために、嘘でも持っている事が肝心だったと言う事ですね」

「これはアグリアと北方サーテシラの複雑な関係にもつながる話なのだがの」

 数千年の長い歴史の中で、アグリアと北方サーテシラの支配者は何度も変わってきた。統一国家ができ、分裂し、また統一国家ができ、また分裂する。アグリア人とシア人の血も文化も交ざり合い、混沌を極めた。その中で最古の秘宝としてアクアグロットは神話と歴史の境界も覚束ない頃から存在し、クルジュニオラの正当な統治者の証としてあり続けた。

「それをある時アグリア王朝が奪っていった」

 目を瞑りながら腕を組んで話を聞いていたセヘナイは、何度か指を鳴らして「テーナサラ帝国ですね」と答える。ソクタアルは頷き、ソフィナーツァは「流石ね」と小声で褒めた。

「インテ・ラク・ラーデではそう言われておるが、我々北方シア人は後テーナ・サーラ王朝アグリアと呼んでおる。そしてアクアグロットはアグリアへ下り、消息を絶った」

「つまりアグリア王国にあると」

「噂によればの、後テーナ・サーラ王朝アグリアの拡大に最も貢献した王と共に埋葬されたとか」

「オレール大帝か、カンタン帝王か。噂を検証する必要があるけど、二人とも霊廟の山に眠ってる」

 セヘナイは体をクルッと回して、チェルネツアとイルハサールを視界の中に入れた。その際にチェルネツアは同時に振り返ったソフィナーツァと目が合い、咄嗟に逸らしてしまう。

「シェエリク河を渡ってアグリアへ行こう。霊廟の山はそう遠くない」

「いけなくはねえが、国境越えとなれば時間がかかるぞ。通行証を貰うよりも複雑で手間な手続きが必要だ」

「それくらい待つよ。合法的に入った方が後腐れない」

「人使い荒いぜ。よし、善は急げだ! リレッツェネの支部に行ってくる」

 ソクタアルはおもむろに席を立つと、ソフィナーツァに寄り添われながら扉の方へ向う。イルハサールも足並みをそろえ、収集品の感想を耳当たりよく大げさにつらつらと喋る。それを聴いて嬉しそうにコクッコクッと頷くソクタアルに、ソフィナーツァもセヘナイも微笑ましく思った。

 イルハサールが出て行った後、しまった扉にソクタアルが再び鍵をかける。

「やれやれ。アクアグロットを掘り出しに行くのだな」

「はい」

「歴史好きの好奇心には困ったものよ」

 ソクタアルはソファーに戻らず、無言で展示室の中を順繰りと見て回った。丸まった小さな背中をソフィナーツァが見守る。セヘナイは何となく隣を歩こうと思い、ソクタアルと並んで、同じように見て回た。どこに何が飾られているか全て覚えているセヘナイにとって新鮮さは無いのだが、ソクタアルの人生そのものと言えるコレクションを収集した本人とじっくり味わうこの瞬間に価値があった。距離感の近い三人を、チェルネツアは一歩引いてついて行くしかできなかった。

 ソクタアルは特定の展示物の前で止まり、三分ほど無言で見つめると、隣にピッタリ立つセヘナイに話しかける。

「これは常夜の森の遺跡へ調査隊を出した際に、セヘナイ君が発見した石板だ。覚えておるか?」

「はい。大発見だと思って数人で一晩かけて解読したら、ただの商人同士の契約書でガッカリしましたね」

 返事が返ってくると、ソクタアルはコクッコクッと頷いて、他の展示物に向かう。

こういった二人だけのやり取りが何度か繰り返され、展示室を一周し扉の前に戻った。ソクタアルは一つ目の鍵穴に鍵を刺し、ガチャッと回す。

「アクアグロット。本当にセヘナイ君が発見し、君の研究に役立つとなれば嬉しいの」

「ありがとうございます」

 鍵が解かれ、重い扉をソフィナーツァが開ける。

「けれど、一度掘り出したのなら、また封印してもらえぬだろうか。アクアグロットの出自、太陽と月の成り立ちはアグリア平原と北方サーテシラの正統な統治者に関わる恐ろしい物。我が研究の成果も、信用できる者以外には秘密にしてきたのじゃ。アグリア人と北方シア人の間にこれ以上争い種を持ち込みたくないのだよ」

「約束します」

 語気の籠ったセへナイの答えに、ソクタアルは目を細め、ホッホッホと笑ってみせた。

 エントランスホールへ戻った所で、ソフィナーツァは「お互い積もる話もあるでしょう。少しお話ししましょう」とセヘナイを家に招待した。セヘナイも疲れ切った様子が気掛かりで、近況を聞きたいと思っていたので快く誘いに乗った。

 夕食の時間までには戻ってくるから待ってて、とチェルネツアを残して二人はソクタアル館を出た。

ソフィナーツァの実家は典型的な中流商人階級の家。昔は手入れが行き届いていた広い庭も、雑草が一面に生えてレンガを敷き詰めた小道しか記憶と一致しない。表札だけが新しい玄関ポーチから入ると、セへナイは一番に天井の蜘蛛の巣に驚いた。掃除も家全体に行き届いている様子はなく、普段の生活で使っているダイニングやキッチンは比較的綺麗だが、使っていない部屋は埃が積もっている。数年前の温かみがある家を想像していただけに、顔には出さなかったが衝撃は大きかった。

「水が良い? ビールが良い?」

「ビ、ゴホッ。ビールかな」

「助かるわ。最近シェエリクの濁りが酷くて水が余計に高いのよ。ビールの十五倍よ! いい商売よね」

 ソフィナーツァは自分が使っている椅子にセヘナイを座らせて、テーブルの上を拭いてグラスを出す。さらにほかの椅子も拭く。

「今はラハ・ソヒナツアと名乗っているのか?」

「北方訛りは嫌われてるのね。南言葉を強要されるの。どうして?」

「表札」

「ああ。あれね」

 ソフィナーツァはビールをグラスに並々注ぎ、乾杯する。

「ここには一人なのか?」

「夫は統一戦争の時兵役に出たまま行方不明。息子も戦後の混乱してた時期に流行り病でコロッと亡くなってね」

「……そうか」

「安心して、リレッツェネが仕事をくれるから一人で生きるには十分なお金があるわ。ラハはリレッツェネが守ってくれるお陰で統一戦争前と変わらない生活がでるからいいの。でもロレにスヴァにリスィ、他階級の生活は酷いものよ。容赦ない重税と差別に苦しんでる。ウルカハシアジル解放軍なんて懐古主義に傾倒する気持ちも分からなくはないわ」

 窓の外に目を向けるソフィナーツァに、セヘナイも同じ窓の外を見る。さびれた街の奥に一部が崩壊した城壁がある。

「復興させようにもね、駐留するシア帝国軍と解放軍の小競り合いですぐ壊れるから」

「解放軍の事、面白く思ってないんだ」

「面白くないというか、その日を生きるのに必死で小難しい事を考える余裕がないのよ。ウルカハシアジルが戦禍にあってからアグリアとシア・インラーデ帝国の交易拠点はリザーツァに移っちゃったし。向こうはここ数年で五倍は儲けたでしょうけど、ウルカハシアジルはね。街を直す為の石材を買うお金も、人を雇うお金もないわ」

「苦労したんだね」

「人並みに。いっそ侵略者どもがほざくユスフに改宗しようかしら。サリクスの神様は私に優しくないみたい」

さっきから暗い話ばかりと、ソフィナーツァは顔の陰りを振り払って手を打ち鳴らし、気丈夫な自分に引き戻す。

「しけた話は良くないわ。楽しい話をしましょう。そうそう、この前質に出せる物を探してたらね、懐かしい物見つけたのよ。見に行かない?」

 ソフィナーツァはグラスを空にしてテーブルに置くと、上の階を指差した。

 二人は玄関正面の階段で二階に上がり、ソフィナーツァの父親が使っていた書斎に向かった。物は随分と少なくなってはいたが、家具の配置は昔のままでセヘナイはホッとした。

ソフィナーツァは窓を開けて、スカスカの本棚から木箱を手に取る。

「これこれ。私と貴方の文通」

 箱の中には黄ばんだ文通が山の用に入っていた。

「こんなもの残ってたんだ。懐かしいね」

 セヘナイも手に取り、机の上に並べていく。ソフィナーツァがセヘナイに宛てた文通には、セヘナイの字で文法や単語を訂正した跡が幾つもある。セヘナイがソフィナーツァに宛てた物には長い文章と、訂正箇所の解説が最後に続いた。

「思い出程度の価値しかないだけに、だからこそ残せたから嬉しいわ」

「ハハハ、私ってこんなに態度の大きな先生だったかな?」

「ウルカハシアジルに居候してた間の、この手紙のやり取りで読み書きを教えてくれて。本当に感謝してるの」

 読むと十年前にウルカハシアジルで過ごした一年間がありありと思い出される。些細な日常、喧嘩の後の仲直り、取り留めもない買い物のお願い。

「私ビックリしたのよ。父さんが連れて来た五歳も年下の男の子が、平然と本を読んでるのを見て。友達の中でも文字の読み書きができたのはごく一部の男の子だったから、尊敬してた」

「それでシア語を教えてってお願いしてきたのか」

「まあね。文字が読めるって普通じゃなくてカッコいいじゃない。でも読み書きができるお陰で私には仕事があって、生きに十分なお金を貰えてる。あの時の友達も、今は路頭に迷ってる人が殆どで、だからこそ心から感謝してるの」

「ソフィナーツァの好奇心の賜物だよ。後は私をここに導いた神様の恵みかな」

「本当に。やっぱりサリクスの神様たちも捨てた物じゃないのかしら」

 今だけは十年前に戻ったように、互いの不幸も忘れて素直に笑い合えた。

ソフィナーツァとセヘナイの思い出話は絶え間なく、いくらでも続いた。西日が差し込み、書斎が橙色一色になるまで。だが真横から差し込む太陽の眩しさに、セヘナイは帰宅のタイミングを考え始める。今日の別れが近い事は二人とも空気感で何となく分かっていた。

「ねえ。最後に相談があるの。聞いてもらえる?」

窓枠に腰掛けるソフィナーツァの赤い髪が、吹き抜ける風を受けなびく。極力笑顔を崩さない彼女がどこか情けない表情になる時は、彼女にとって深刻な悩みがある時。

「なんだい?」

「……私、今の職場でよく会うリザーツァの商人の方から求婚されてるの。誠実で、生活にも困ってなくて、とてもいい人。もう三十よって言ったら、笑顔を絶やさない貴方が好きなんだって。向こうも三十八で、十二年前に奥さんを出産で亡くしてて、お互い丁度いいかなって」

「うん。それで」

「でも、リザーツァに行ったら捨てないといけない。三十年過ごしたこの家とこの街を。悲しい思い出も随分と増えたけど、でもね……」

 セヘナイは机に広げた文通を全て箱にしまうと、本棚に戻した。

「……こんな言い方良くないかもしれないけど。この家には思い出はあるけど、未来は無いと思う。この街にもね。リザーツァに行った方がずっと幸福だよ。だから私は幸福になる選択をして欲しいな」

 ソフィナーツァは咄嗟にセヘナイの背中へ抱きついた。誰にも相談できずにいたけれど、誰かに言って欲しかった言葉をくれたから。

「ありがとう。セヘナイも、幸せになってね」

「心配性だな。私は自分が幸福になる選択しかしてないから、安心してくれ」


チェルネツアとの約束通り、セヘナイは日が落ちる前にソクタアル館へ戻って来た。

ハンドルを掴んだ所で、背後から十数人の足音がした。セヘナイが何気なく振り向くと、マスケットで武装した帝国軍の兵士が約二十人、ソクタアル館の入り口に迫っていた。目が合うなり走って向かってくる彼らにギョッとしたセヘナイは急いで扉を開けるが、逃げるよりも体当たりされる方が早かった。

軽いセヘナイは扉ごと弾き飛ばされ、絨毯の上に落下する。さらに覆いかぶさろうとして来る帝国兵。セヘナイは咄嗟に青と赤の二冊の手帳を折り曲げ投げ捨てる。体の上に兵士が馬乗りになり、両手を背中に回され縛られる感覚があった。二冊の手帳は折れた場所から火を噴き、一瞬で灰になったが、兵士は気にも留めなかった。

何か知らんが拘束されてると理解した所へ、展示室の扉が開きチェルネツアがピョコッと顔をのぞかせた。

「チェル! ソクタアルさんを抱えて逃げろ!」

 チェルネツアが動き出す前に、セへナイは懸命に叫んだ。逃げろと言われ、無謀にも飛び込もうとしたチェルネツアも躊躇する。

「でも!」

「でもじゃない! 君にしか頼めない事なんだ!」

 帝国兵にセヘナイは口を押えられた。噛みついて抵抗するが、直ぐに他の手が口を覆う。

セヘナイを助けるには手後れの状況でもチェルネツアは葛藤した。お願いに従うか、従わないか。なんとかしてセヘナイに触れられれば魔法で何とかなるとも考えたし、でも触れる事すらできない出来ない可能性も高いと考えた。数秒の間に、かつてない程チェルネツアは頭を回転させた。だがセヘナイが帝国兵の群れに埋もれる直前、彼に力の籠った鋭い目つきで首を横に振られる。

 チェルネツアは「ごめんなさい!」と悲鳴のような声で叫んでから扉を閉め、直前まで昔話を聞かせてくれていたソクタアルを抱きかかえて裏口から飛び出した。溢れ出る大粒の涙がとめどなくチェルネツアの頬を伝った。

 セヘナイを取り押さえた帝国兵はチェルネツアに一切の関心を示さず、縛り上げると起き上がらせて胡座を組ませた。そして取り囲む兵士を割って、太って目付きの悪い男が現れた。階級は中級将で、かなりの高級将官。セヘナイはとんだ立場の人間が出て来たもんだと冷笑すると、マスケットで殴られる。

「お前がアタ・セへナイだな」

「まずは中級将閣下から名乗ってはいかがでしょうか? 礼節の程度も測られますよ」

 さらにマスケットで殴ろうとした兵士を中級将は制し、その兵士からマスケットを受け取り、中級将直々にセヘナイを殴った。味も臭いも血で溢れ、上下左右も良く分からなくなる。

「マリハローシュ中級将。第一群隊の作戦計画に無い行動は慎んでいただきたい!」

 中級将を静かに怒鳴る声に、セヘナイの混沌とした意識は収束して視界も感覚も復活する。

「イルハサール低級将。我々第四群隊は大魔術を早急に必要としているのだよ」

「イルハサール?」

 マリハローシュと呼ばれた将軍の横に立った男は、確かにイルハサールだった。セヘナイを申し訳なさそうに見下ろし、マリハローシュへ強気に出る。

「第一群隊の作戦を台無しにするつもりでおられるか?」

「上方のエリートは二等シア人共の鎮圧がいかに切迫しているかを理解していないようだ。連れてけ」

 イルハサールの裏切りを上手く呑み込めていないセヘナイの両脇を兵士が抱え、連行していく。紅蓮の城の跡地に建てられた第四群隊司令部へ。


 拘束されてから長い時間をセヘナイは地下牢で過ごし、幾度となく拷問され帝国本軍への協力を迫られた。だが断固として断り続け、その度に拷問の列度は増した。

牢屋で過ごす時間は暴力が無いだけ平和で、その間に拾う事が出来た情報から自分の状況を整理する。どうも帝国本軍は解放軍の鎮圧のために大魔術を欲し、その為に自分は監禁されたのだと。でイルハサールは帝国軍の高級将校という地位を隠し、自分達に接近していた事も理解できた。

 だが疲労と空腹で段々と思考する余力も無くなり、ただ茫然と走り回るネズミの群れを目で追う時間が増えていく。これが大魔術を求めた私への神の裁きかと、このまま死んでいきそうな自分を肯定してしまう考えもあった。だがこのまま何も成し遂げず死んだら、ゲターイ、ソクタアル、ソフィナーツァ、その他数名の大事な人を深く悲しませてしまうなと。特にチェルネツアはどうなってしまうか、生きていてくれるのか心配になるなと。この期に及んで人の事ばかり脳裏を過り、自分で考えていた以上に親しい人が心に占める割合が大きかったのだと気が付かされ、自嘲するセヘナイだった。

 昼か夜か、捕まってから何日が経ったかも分からなくなった頃。牢屋の扉を帝国兵が開け、強引にセヘナイを歩かせ、どこかへ移動させる。また拷問が始まるのだと、セヘナイは吐く物などとっくに無くても嗚咽を繰り返した。

だが今回ばかりは様子が違った。机を椅子だけがある部屋に連れて来させられ、椅子に座らせられる。天井近くの小さな穴から差し込む日の光に感動して涙を流していると、扉がゆっくり開き、人が入ってくる。

「イルハサールだよな……」

 名前を確認するセヘナイの声はいつにも増して低く、地を這う根の国の竜の吐息だった。

「ようやく会えた」

「チェルはどうした?」

「言えん」

 イルハサールは机を挟んだ向かいに座り、セヘナイの目にクリョシャと呼ばれる赤い根菜の色味を使った酸っぱいスープとパンを置く。その匂いだけで意識が飛びそうになるセヘナイは、脇目もふらず食らいついた。

「アタ・セへナイは第四群隊の管理下から第一群隊の管理下に移る。ひとまず拷問の日々は終わる。安心しろ。はあ、俺に怒っているだろ」

「頭の中で何百回殺したか分からないが、お前にキレても無意味だと悟った。それより答え合わせをして欲しいな。残虐に殺してやらない対価だ。シルカルブトを出た時から付けていたのか?」

「教皇府で別の作戦を遂行中に偶然遭遇した。それ以上は何も言えん」

 与えられた食べ物を食らいつくしたセヘナイは口の周りの汚れを拭うと、背もたれに寄り掛かる。

「セヘナイよ、我々は今回の旅でかなり学ばせてもらった。特にリレッツェネとネルボウが皇帝陛下との契約をどれ程反故にしているか、学べた事は何よりだ。感謝している」

「で発見した大魔術で、リレッツェネもイリッタ自治領も、敵対する勢力は片っ端から脅して帝国の統治を盤石にするんだな。それをお前は正しいと思っているのか? 大魔術は古代学問の到達点であって、武器じゃない」

「大魔術は武器だろう。古代の文献はそう説明してる」

「武器にならない学問なんてない。言語学も、数学も、社会哲学も、自然哲学も、神学も。使用者が歴史上の運命を決めるんだ。イルハサール、大魔術を武器にするのは正しいか?」

「俺はイルハサールという個人である前に帝国本軍の将校。皇帝陛下の手であり、足ででもある。全ては神と皇帝陛下の御心のままだ」

 セヘナイは天井を見上げる。

「まあ、何と言おうが大魔術は渡さない。帝国が手にするぐらいなら、死んで知識を守る」

 この時、自分のやるべきは大魔術の保護ではないか、という考えが思い浮かぶ。大魔術に名誉ある歴史を残すために、自分は何かできるのではないか。自分の人生に夢と一生の楽しみをくれた大魔術への感謝の返し方ではないかと。

イルハサールの顔つきがスッと冷たくなり、帝国軍人としての彼が表に出る。

「さて本題だ。第一群隊はもう少し穏便に大魔術を探したいと考えてる。だがお前の協力度合いによって変わるものもある。扱いの差だ。どれだけ抵抗しようと、最後には我々は大魔術を発見する」

 イルハサールが淡々と文言を述べていると、セヘナイは突然狂ったように笑う。悪魔に取りつかれたような不気味さに連行してきた兵士は青ざめるが、イルハサールは口を閉じて顔色を変えない。

「あー、そうゆうことか。なんだか自分が分かった気分だよ。自己理解が深まるって楽しいな。そう思わないか?」

 脅威を求める自分に怯えるくらいなら。自分で脅威にならない方法を編み出そう。全てが繋がる爽快感に、愉快でたまらないセヘナイ。だが笑い声も徐々に勢いを失い、ため息に変わる。

「満足したか?」

「ああ、した。大満足」

 セヘナイは顎を引き上目でイルハサールを睨む。

 ガバッとイルハサール背後の扉が開き、数人の兵士を連れた女が割り込む。長い銀髪、色白の肌、青い瞳。真っ赤な唇と目元の黒子が色っぽい。帝都の喫茶店でセヘナイが一度会った女だった。

「ツィツェーレ低級将! どうしてここに!」

「イルハサール、残念ね。今この瞬間から黒き力探索の任は皇帝親衛隊が受け持つわ」

「馬鹿な!」

 ツィツェーレはイルハサールに勅命状を見せびらかし、それを奪い取ったイルハサールが怒りに身を震わせながら目を通す。

「気は済んだ?」

 ツィツェーレが指を鳴らすと、彼女が従えた兵士はイルハサールとセヘナイを連行してきた兵士を摘まみ出し、扉を閉めた。扉を貫通してイルハサールの暴れる声が響くが、遠ざかっていき、ついには完全に消える。ツィツェーレは騒動で倒れたイスを起こすと、セヘナイの正面に座って足を組む。

「初めまして、ではないわ。覚えているかしら?」

「お綺麗だったもので」

「あら、痛々しい見た目の割には元気そうね。私はツィツェーレ・ロレ・エジレーヌツア。親衛隊第三隊の隊長よ。よろしく」


 螺旋階段を下り地下牢に連れ戻されるセヘナイを、手摺に寄り掛かって見下ろすツィツェーレ。入れ違いにダシダシ足音を立てて上ってくるイルハサール。遠巻きからも分かる脅迫的な怒りに、嫌気がさして階段から離れる。

「おい。いつから親衛隊は奴に気が付いていやがった? いるのは分かってるぞ」

 まだ姿すら見えないにもかかわらず、隣で騒がれていると錯覚する声量。

「人を責め立てるより、貴方達本軍の杜撰さを嘆いたらどうです? 泳がせておけば勝手に探してくれていたでしょうに」

「マリハローシュ中級将が捉える判断をなさったのだ。それよりも、いつから親衛隊は察知していたんだ」

 イルハサールは階段を上がりきった時、ツィツェーレは壁に寄り掛かって足尾組んでいた。目も合わせようともせず、人一倍気怠さを体現する。

「本軍が漁夫の利を狙ってチョロチョロ教皇府を這いずり回ってたのは知ってる。でも副指令リュサンディオ・イルハサールが単独で動けば何か新しい事が起きたのだと察するでしょ」

「それでセヘナイを見つけたわけだ。面白くない」

 正面に立ち塞がるイルハサールの暑苦しさにツィツェーレは眉をひそめて舌打つ。帝都でもイルハサールとは立場上よく鉢合わせたが、彼女は苦手だった。根っからの武人基質な将軍から厚い人望があり、からめ手好きな文官相手に正々堂々と物を言い張る。それで全てを上々にこなす手腕。統一戦争でもパルミラス戦役と二回のキーニ川会戦で武功も上げ、次期第一群隊司令官の座は硬いと噂されるほど。苦手というより、嫌いだった。

「頭の固い教皇府の連中から大魔術『エデシデラの裁き』を盗み出すのは親衛隊の役目よ。各地に散らばる帝国反乱勢力を鎮圧する手段に大魔術を欲したのは皇帝陛下で、その命は親衛隊に下されたのであって本軍じゃない。お分かり?」

「帝国議会も大魔術は欲しているが、教皇府との関係を損ねない方法による取得が大前提と法で定めたはずだ。君主に先立って法秩序がある、それはこの帝国の国体だ」

 イルハサールは目の前の色っぽい女が苦手だった。大ウグネス宮殿に籠る文官共の複雑怪奇で煩わしい人間関係を捌き、シア人でもシルカ人でも男でもないにもかかわらず美貌と知性で男社会を掻き分け地位を築いたツィツェーレという女が。加えて軍務にも秀で、いくつもの反乱や暴動を未遂に終わらせる実力は、目立たないが折紙つきだった。皇帝陛下や高官と寝たのではと噂する武官や文官は数え切れないが、その真偽はともかく、したたかな姿勢が嫌いだった。

「その法が是とする範囲で親衛隊は動いてる。非難される筋合いはないわ。それに黒き力の探索も親衛隊が担うと大ウグネスで決定された。残念ね?」

「また議会を脅迫したか?」

「言ったでしょ。私も法は順守してると」

「大魔術程の力は議会で管理すべきだ」

「あんなチンタラやってる議会に? 不可能よ。歌って踊って、機を逃すわ。さて、負け惜しみは以上かしら?」

 イルハサールの額には血管が浮き出て、歯ぎしりをする。だが衝動を我慢し、身を震わせながら立ち去ろうとした。その背中を見送るツィツェーレにちょっとした悪戯心が湧く。

「貴方、セヘナイと旅をしている間随分と楽しそうだったじゃない。あんなに笑ったり喜んだりする所初めて見たわ。大ウグネスの武将たちが知ったらさぞ寂しがるでしょうね」

「話せばわかる。単純でいい」

「そうかしら? 私は生意気で面倒な男だと思ったけど」

 イルハサールは鼻で笑うと、ツィツェーレの前から姿を消す。一瞬見せた勝ち誇ったような表情にイラっとするが、理性で感情を絞め殺して平然を装った。

「まあいいわ。問題はそっちじゃないのよ」

 既に彼女の元には様々な情報が集まり、明日の脅威を浮き彫りにする。ウルカハシアジルから南へ15㎞、極西海側解放軍占領地との境界が騒がしい。解放軍が近く動き出すと、第四群隊司令部で彼女だけが確信を持っていた。


 ウルカハシアジルの外では、セヘナイ救出作戦が秘密裏に進行していた。

ソクタアルの人づてと知恵を借り解放軍と接触したチェルネツアは、彼らに全てを打ち開け協力を求めたのだ。だが一度目の接触では、そんな妄想話にならない、と一言のもとに否定される。必死の訴えも真剣に受け止められず、チェルネツアはただただ無力感に打ちひしがれるばかりだった。

しかし以後一週間の間に解放軍の内部でも事情が変わっていった。帝国軍内のスパイから、帝国本軍のイルハサールや親衛隊のツィツェーレといった南方サーテシラのエリート軍人がウルカハシアジルを訪れ、アタ・セヘナイという学者を拘束したと報告を受ける。続報では大魔術の名前も入るようになった。

半信半疑だった解放軍も帝国軍の新しい動きに段々と真剣になり、さらに協力関係にあるイリッタ自治領からの報告も加わり、帝国軍は大魔術を探していると確信するようになっていった。

 二度目の接触は解放軍から行われ、スヴァ・リナアルという騎士階級の真面目な青年がチェルネツアと面会する。リナアルはセヘナイを救出すると約束し、その代わりセヘナイが解放軍に協力し大魔術を探すよう求めた。それはセヘナイの想いと違うのではと悩みに悩んだチェルネツアだったが、他に手段も無く、リナアルの提案を受け入れたのだ。

 以後チェルネツアとソクタアルには解放軍の護衛がつき、ひとまず安心できる状況にはなる。だが、リナアルは救出作戦の進捗や方法を一切教えず、チェルネツアは不安が募るばかりだった。


リナアルの接触からさらに一週間、一日中第四群隊司令部を遠くから眺める事がチェルネツアの日課になっていた。女性の護衛に付き添われ、廃墟や、城壁、広場、毎日場所を替え、近づく事も出来ないセヘナイの生存を神に祈り続けた。

 祈りを捧げた帰り道、人の多い闇市を通ってウルカハシアジル内の秘密拠点へ向かう。付いて離れない護衛の人は気を遣ってか事あるごとに話を振り、チェルネツアを励ました。その気さくさに彼女も心配で埋め尽くされず、打ち解けていった。北方訛りにも慣れて、聞き分けられるようになる。

「チェレネーツァさんはラズベリー食べます? いいのありますよ」

「これの事ですか?」

「はい。立派ですよ」

「……小さくないですか」

露店の影からフードを被った背の低い人が飛び出し、チェルネツアにぶつかる。

「あっ、ごめんなさい」

 チェルネツアがぶつかた相手を見下ろすと、フードの奥に艶やかな銀髪が目に入た。この人どこかで、と思った瞬間、護衛の人の「ウッ」とうめき声がする。振り返ると護衛の女の人の姿は無く、暗い路地で男に馬乗りされ、口を抑えられたままナイフを刺されていた。

「チェルネツアさん、お久しぶりね」

「お前、帝都の!」

「セヘナイの事、気にならない? 場所を変えてお話ししましょう」

フードの奥からチラつく真っ赤な唇は、右の口角だけが吊り上がっていた。

 ツィツェーレはチェルネツアを高級喫茶店の個室に連れ込む。利用客は大抵リレッツェネか帝国関係者で、北方訛りを話す人は一人もいない。

 二人のテーブルには二杯の紅茶と円形のケーキが置かれる。ソクタアル館で見たような丸っこくて青い、可愛い食器が並ぶ。

「紅茶は初めて? いいものよ。名ばかりのロレも、インテ・ラク・ラーデに上って味と香りを体験して、初めて本物になった気がした」

 上品に紅茶を嗜むツィツェーレ。カップを置き、口元を緩ませる。

「幼子の頃の憧れは尽きないわ」

「セへナイさんは無事なんですか?」

 緊張で硬直するチェルネツアを他所にケーキを切り、二枚の皿に取り分ける。

「無事よ。それより、早く飲まないと冷めるわよ」

「貴方、何者なんですか?」

「皇帝親衛隊第三隊隊長ツィツェーレ・ロレ・エジレーヌツア。大魔術発掘計画の第一人者」

 チェルネツアが目の前に置かれたケーキに手を付けるか考えている間に、ツィツェーレのケーキは半分無くなった。

「帝国軍なんですね」

「本軍と一緒にしないでね。親衛隊は皇帝の勅命のみで動く政治遂行機関。多様な手段で政治的目標を達成する為に行動するの。分かって頂けたかしら?」

 難しい単語の羅列を理解するのに頭が持って行かれ、舐められないように視線を逸らさない事しかできないチェルネツア。その必死さにツィツェーレは口元を隠しクスクスと笑う。

「さて。今度は貴方が自己紹介する番」

「……チェルネツア」

「足りないわ。もっとあるでしょ」

「紹介する事なんで他に……」

 ツィツェーレはチェルネツアの腕をガバッと掴むと、袖を肩までまくった。魔法陣が露になり、チェルネツアの顔が真っ赤になる。「やめて、やめて」とパニックになってタトゥーを隠そうと必死になる彼女に、ツィツェーレは咄嗟に手を放した。チェルネツアはすかさず袖を下ろし、見られた腕を服の上からさする。

「……最低」

 俯いて涙を浮かべるチェルネツアに、強権的な態度のツィツェーレは鳴りを潜めてゆく。

「ごめんなさい。武器を隠されていると思ったのよ」

 腕にあった魔法陣の意味を触れて理解したツィツェーレは、初めて半人半神の彼女に刻まれた屈辱の証なのだと分かった。するとおもむろに首元からボタンを次々と外し、胸元を大きく開ける。ツィツェーレの鎖骨の下5cm程の場所、痛々しく爛れた皮膚の上にバツ印の焼印が押されていた。驚きにチェルネツアの涙も悲しみも血の気と共に引いていく。

「これ、何か知ってる?」

 チェルネツアは首を横に振る。ツィツェーレはボタンを締め直し、焼印を隠した。

「精通や初潮を迎えたアグセン・リウウィにはこの焼印をすると、ウルカハシアジル王家の統治していたシタア・ノツトラ王国では法律で決まっていたのよ。シア人と血を混ぜない為にね」

「アグセン・リウウィ?」

「残されたアグリア人という意味よ。北方サーテシラで一番貧相な土地バルカニェ地方に住むアグリア人を指すの」

 どうして北方サーテシラにアグリア人がいるのか、受け取るだけで精一杯のチェルネツアにツィツェーレは続ける。

「北方シア人はインテ・ラク・ラーデのシア人から差別され続けたと高らかに主張するけど、アグセン・リウウィは二百年の間同じかそれ以上に北方シア人から差別された。ろくに作物が育たない土地に押し込められ、飢え死ぬ事を望まれていたのよ」

ツィツェーレの育った家は貴族でありながら貧しく、権力も無く、シア人に頭を下げる事でしか明日の食事や今日の暖房を用意する方法が無かった。彼女の姉は北方シア人の騎士階級に誘拐されて三日三晩性的な暴力を受け後に殺されたが、司法はその罪ですら無視した。

「普通に生きれたらどんなに良かったか。アグリア人である自分を何度も呪ったわ」

 ツィツェーレは空になったカップの中でティースプーンを回す。敵とは言え、チェルネツアも共感できる感情の数々に、他人事とは思えない。

「わ、私も普通の人みたいに、差別も受けないで、そうやって生きてみたかったです。素足を見られても怖くなくて、可愛いスカートを来てみたかったです」

「そうね。でも統一戦争で全てが良い方に変わったわ。シタア・ノトラツ王国殲滅に協力したら、ペルーナ三世はアグセン・リウウィに名誉シア人の地位を授けていただき。リレッツェネの協力でバルカニェ地方にも街道が通って、肥料も農法も伝わった故郷は見違えるほど豊かになった」

 どこか儚げな表情と声のツィツェーレに激しい感情が混ざり始める。雲行きが怪しくなっていく会話の流れに、チェルネツアの心はざわつく。

「統一戦争が起きて良かった。心からそう思える。だからこそ統一戦争前の旧秩序を奪還しようとする輩は許さないの。その為に大魔術が必要。セヘナイが必要」

 ツィツェーレはチェルネツアを見据え、テーブルに両肘を立て口元で手を組む。

「貴方はどうしたい? 何故セヘナイが必要?」

「何故って……」

 必要な理由など考えた事も無かったチェルネツア。無い理由は言葉にできるはずも無く、口ごもる。

「もし今から貴方が解放軍について知っている事を全て打ち明け、セヘナイを協力するように説得してくれるなら今すぐ会わせてあげる。離れることなく一緒にいられる。保証する。お互い、損の無い取引だと思うけど?」

 確かに損は無かった。チェルネツアに害をなす条件も無い。ツィツェーレも敵対していなければ自分を分かってくれるいい人だし、アグセン・リウウィの事は他人事ではない。けれどセへナイさんがどう思うか、不確定、なんなら見捨てられそうな不安感がうんと言わせない。

「貴方がお願いすれば、セヘナイはきっとどんなお願いも聞いてくれるわ」

「……そんなことないです」

「あるわ。女の勘がそう言ってるの」

 バババババっと外で銃声が響いた。男女の悲鳴と、一歩遅れて個室へ浸透する砂煙と火薬の臭い。親衛隊の兵士が扉を壊し、入ってくる。

「隊長、解放軍の伏兵が十名ほど。劣勢です。逃げねば」

 ツィツェーレは舌打ちをすると銃声とは反対側の方に手を伸ばし「デシーエ・デシーエ・デシーエ(震えよ、震えよ、震えよ)」と唱える。耳がおかしくなりそうな程の衝撃波が放たれ、建物の裏まで貫通する大穴を開けた。

「チェルネツアさん。また会いましょう。それまでに考えておいてね」

 そう言うと、部下を引き連れツィツェーレは逃走していった。呆然とするチェルネツアの元に、リナアルが駆け付ける。敵がいない事を確認してから、チェルネツアを立ち上がらせる。

「大丈夫でしたか? 規定の帰還時刻を過ぎたので探しに来ました」

「あっ、はい。大丈夫です」

「では逃げますよ。チェレネーツァ嬢も走って」

 街中に潜む協力者の情報をもとにチェルネツアを奪還した解放軍。地の利のある彼らは帝国軍治安部隊の追跡をいとも簡単に撒き、拠点へ無事帰還した。

 

 マリハローシュ中級将からイルハサール、さらにツィツェーレに管理者が移り、以来セヘナイは一睡もできていなかった。自発的に協力すると言うまで寝る事は許可しないとツィツェーレが宣言して以来、親衛隊の兵士が眠りかける度に揺すり起し、一切暴力の無い苦痛が継続させられた。さらに半日に一回「帝国軍に協力する」と1000回読まされ、半日後には紙に1000回書かされた。

 もう頭痛と眠気で何が何だか分からないが、尋問部屋の穴から見える空のおかげで五日凌いだ事だけは知っていた。でもどうしようもなく、気が狂う程、一晩の睡眠が欲しかった。


 外からぼんやりと砲声がする。一回、二回、もっともっと。銃声も絶え間なく。籠ったボンボンという音が子守歌の様で、どんどん眠くなる。

 突然爆音がして目を覚ますと、知らない男に担がれていた。

「チェレネーツァ嬢、この人でしょうか?」

「はい、そうです! 生きてて良かった」

 チェルネツア? そう声に出そうとした。だが一定のリズムの心地よい振動に、セへナイの瞼は鉛の塊のように重くなっていく。

 振動のパターンが変わり起きたのは真っ暗な通路の中。数十人の人間が一列になって走っている。脈絡の無い夢なのか、はたまた死後の世界か。セヘナイは自分が起きているのか確信が持てないまま、事の成り行きに身を任せた。


 深夜、ウルカハシアジルの城壁に解放軍2000が急接近する。突然の砲撃と想定外の襲撃に一時は混乱した帝国軍だったが、城壁に駆け付けたイルハサールが陣頭指揮を執り、たった500の銃兵で第一撃を撃退した。その後はマリハローシュ中級将の指揮で立て直された帝国軍が続々と戦場に到着し、襲撃から二時間で12000まで数を増やす。解放軍も六倍の帝国軍には成す術が無く、夜に紛れて撤退した。

 流石は第二次キーニ川会戦の英雄ともてはやされたイルハサールは、内心この上ない上機嫌で第四群隊司令部へ帰投する。だが司令部内に入ったイルハサールは、ズタボロに破壊されたエントランスホールに言葉を失う。

三階まで吹き抜けにさせられ、上の階だったはずの石材や木材が積もった小山の頂上で、ツィツェーレは座り頬杖をつく。

「おい、何事だ! この頭の悪い状況は!」

「うるさいわね。セヘナイが解放軍に誘拐されたの。これでチェルネツアちゃんとの交渉もご破算になってしまったわ」

「チェルネツア? 何のことだ? 解放軍は城壁の外だぞ」

「ここが紅蓮の城だった頃の地下通路を使って数十人が潜入してきたのよ。」

 初めのインパクトに当惑したイルハサールも、状況を飲み込んで頭が回ってくると不自然な点が幾つか思い浮かぶ。

「おい、マリハローシュ中級将は親衛隊にも前線へ出るよう要求したはずだ。何故ここに居る?」

「一つ、我々は皇帝陛下以外の命を受け取らない。二つ、解放軍のセヘナイ救出作戦が近々行われることを我々は知っていた。三つ、その計画の概要も把握していた」

「重要な情報を知っておきながら黙っていたのか!」

「ええ。帝国本軍が大魔術を狙った作戦を実行していた事、黙っていたようにね」

 ツィツェーレは立ち上がり、瓦礫の山を滑り降りる。彼女の通った後、ガラガラと瓦礫が崩れ、幾つか床を転がった。

「さて、次はどうしようかしら。貴方はどうする?」

「俺は軍司令部の命を受けた。明日にもアグリアへ行く」

 黒き力とは関係が無さそうな今後の予定に、ツィツェーレは抑えきれずこれでもかと高笑いが止まらない。

「本軍も本来の役割をようやく思い出せたみたいね。そうよ、貴方達は失地回復の事だけ考えていればいいの」

イルハサールは怪訝そうに眉をひそめる。

「まあ、そんな所だ」

 イルハサールは将兵を呼びつけ、次の任務の準備に司令部の外へ向かった。

ツィツェーレから見えなくなったところで、イルハサールの押さえつけていた優越感が口元から溢れ出る。アクアグロットと霊廟の山の関係をツィツェーレは知らない。次は確実に親衛隊を出し抜ける、そう確信したからだった。

 高笑いが止まらなかったツィツェーレも、イルハサールがエントランスホールからいなくなるとスッと真顔になった。普段ならイルサハールが反撃の余地なく煽られれば機嫌が悪くなって、直ぐにでもその場を立ち去る。だが今回は一言とは言え返答する心の余裕があった。

「何か隠してるわね。本当に分かりやすい」

 何についての情報かは不明だが、イルハサールが余裕を持て余すほどの重大な情報がまだ存在する。直感の域は出ないが、彼女には絶対の自信があった。ツィツェーレは控えていた部下と共に螺旋階段を三階まで上る。

「解放軍の捕虜は何人生き残ってる?」

「先ほどまで八名でしたが、今は五名ほど」

「そう。本軍には悟られてないわね。さっさと口を割らせて、さっさと木箱に詰めて捨てましょう。次に繋がる情報を渡すわけにはいかないわ」

 彼女は適当な木の棒を拾いナイフで尖らせる。

「そう言えば、貴方もう四日も休み取ってないでしょう。半日あげるから休みなさい」

「このような重要な局面で休むわけにはいきません」

部下は捕虜が詰められた部屋の扉を開ける。ツィツェーレはドアノブを持つ部下の手に右手を重ね、指を絡めてドアノブを奪い取る。

「必要な時には無理を頼むわ。その時の為に今日は休みを取りなさい」

部下の目を見つめながら扉を閉めた。

翌朝、親衛隊はウルカハシアジルから出発し、極西海側解放軍占領地の南へ向かう。それを城壁の上から見下ろしていたイルハサールはツィツェーレの行動を不気味には感じていた。だがアグリアへの関心に、その不気味さも薄まっていった。


 セヘナイは長い長い眠りから目が覚める。

焦点が合い、視界が明瞭になると、そこはテントの中。日中の様で、幕には往来する人の影が映っている。何故か知らないが、地獄の日々からは解放されたのだとセヘナイは理解した。  

テントの隅には帝都で買った生地、マスケット、コンパス、北方銀行組合の口座証明、セヘナイとチェルネツアの持ち物が積まれていた。随分と少なくなったが、全てが帝国軍に奪われずに済んだのかと思うと安心する。重要度の高い物は取られただろうが、旅を継続するに必要な物は粗方残っているのだろうと。

 しばらくするとチェルネツアがテントに入って来た。目が合うなり、彼女は膝から崩れ落ちて水溜りができそうな程泣きじゃくる。

「やっと起きたんですね……。セへナイさんは四日間眠り続けてたんですよ。もう起きないのかと不安で不安で」

「四日も。そうか、チェルが助けてくれたんだね」

 実感はなかったが、恐らくそうなのだろうとセヘナイは考える。

 チェルネツアが泣き止む前に、もう一人別の男がテントに入って来た。男はリナアルと名乗り、地味だが落ち着きのある好青年だった。

 泣き疲れて深い眠りに付いたチェルネツアに毛布を被せた後、セヘナイはリナアルに連れられて外へ出る。そこは山の麓のそこそこ大きな砦だった。大小のテントが立ち並び、霧がかかって、肌寒く物寂しい。

 防壁に登ると、一面木々が少ない湿地だった。

「ここはコシシュノ砦です。ウルカハシアジル解放軍の本拠地ですよ」

「解放軍ね~」

 ここまでの流れがセヘナイは何となく予想できた。帝国軍に監禁、拷問され、解放軍に助け出され、今に至ると。

「何を引き換えに私は助けられた?」

「大魔術の知識です。詳しくは後程、総帥から」

 まあそうだよね。それがセヘナイの率直な感想。政治から逃れたくて旅に出たが、結局は逃げられないのかと、自分の運命を呪った。


 翌日、リナアルは一際大きいテントにセヘナイとチェルネツアを案内する。中には二十人が囲える大きな長机があり、地図やコンパスといった道具が散乱する。二人を待ち構えていたのは軍隊や内政の幹部らしき男が十五名。特に中央に居座る眼光の鋭い老人は他の追随を許さない存在感を放っていた。

 リナアルは敬礼し「只今アタ・セへナイを連れて参りました」と通りのいい声で宣言する。中央の老人が右手を上げると、リナアルは空いている椅子に腰かける。

「我はスヴァ・カトヴァアル・アーニュンゲ。総帥などという過分な地位を貰っている者だ。君の事はイリッタの諜報員から確認が取れている。第一次キーニ川会戦の英雄だそうだ」

 テントの中がざわつくが、カトヴァアルが二度机を叩くと静まり返る。

「はい。シルカルブトにいた頃はそう呼ばれていました」

「よろしい。君の救出作戦で236名の兵士、3門の野戦砲、8門の攻城砲を我々は失った。それなりの働きは要求する。よいな?」

「働きの具体的な内容をお教えいただけますか」

「帝国より早く大魔術を見つけ、我々に献上する。最低でも破壊する。単純明快であろう」

 有無を言わせないカトヴァアルの態度に、セヘナイは拒否権が無いのだと腹をくくる。だが気に入らない。帝国も、解放軍も、結局は同じだからだ。

「解放軍はその為に必要な労力は惜しまん。何が必要になる。言ってみよ」

「アグリアへ渡る手段が必要です。シェエリク河を遡上して常夜の森へ入る船も」

「兵隊の件は心得た。船についてはリレッツェネの交易船を借りればよい。奴らとは利害関係がある。一両日中には目途が立とう」

「私はリレッツェネから追われています。彼らが私を見つければ、シルカルブトへ連れ戻そうとするでしょう」

 カトヴァアルは爪で机を叩く。カツ、カツ、カツ、鳴る度に空気が重くなる。

「よろしい。リレッツェネを誤魔化す策を考えよう。目途が立てばリナアルより伝える。彼は優秀な君の護衛だ。君の使命が終わるまで付き合ってくれよう」

 カトヴァアルが二度手を打ち鳴らすと、リナアルがセヘナイとチェルネツアをテントの外へ連れ出した。

 高圧的なカトヴァアルとの面会の間に霧は濃くなり、数メートル先も見えない。リナアルはセヘナイとチェルネツアの前に回り込み敬礼をする。

「改めて、お二人の護衛を承ったスヴァ・リナアルです。よろしくお願いいたします」

「ああ、よろしく」

「よ、よろしくお願いします」

 リナアルは手を降ろすと、「こちらです」と言って石畳の小道に沿って歩き始める。

「霧の深い日に道から逸れたら迷子になります。気を付けて」

 淡々とこの砦で過ごすうえでの注意点を述べていく。そんな丁寧な説明を他所に、セヘナイは自分のこれからを考えた。イルハサールとツィツェーレ、この二人がいる以上、大魔術を誰よりも早く探し出す。これは解放軍と利害が一致している。問題はその目的。帝国本軍も親衛隊も治安維持の為、解放軍は十中八九帝国軍を殲滅する為。なら自分は何故大魔術を探すのか、自問自答する。好きだから、見つけてみたいから、それなら帝国軍に協力しても良かったはずだ。でも違うと思ったから、助けが来るなんて露とも考えていなかったあの牢獄の中で拷問に耐えた。

 目が覚めたテントに帰り着き、セヘナイは敷かれていた布に横になる。布はキリで湿っていて、水分が服に滲んでくる感覚があった。チェルネツアもセヘナイの方を向いて横になる。

「あの、こうするしか無くて。政に関わる事は嫌だろうから、やりたくはなかったんですけど」

 小さな声で話しかけたチェルネツア。セヘナイも彼女の方に横になる。

「いいって。これが最適解だよ。よくやってくれた。助かった。これ以上なく感謝してる」

 申し訳なさそうにするチェルネツアの頭を撫でる。

「でも、大魔術は誰にも渡さない。やっとわかった。私のやりたい事が」

「何をですか?」

「私は大魔術を保護したいんだ。歴史に埋もれて無くならないように。でも決して悪用されないように。だから帝国本軍も親衛隊も出し抜いて、解放軍も利用するだけ利用して、私が手に入れて保護する」

 今までになく力強い声に、チェルネツアはただ一回頷いた。

「手伝います。だから次から絶対に離れません。いいですよね」

 セヘナイはチェルネツアに向かって微笑むと、仰向けになる。

「今回帝国に拘束されて、チェルが離れていても頼りになる存在だって初めて分かった。とても嬉しかったよ」

「……それ褒めてます?」

「褒めてるよ。今のチェルをね。だから、これからは今まで以上にチェル頼りたい。どちらかに何かあったら、共倒れになるんじゃなくて、一度離れてもいいから助ける道を探る。そうしよう」

「……それって、どういう」

「私達ならどんな障害でも乗り越えられるって確信したんだ」

「エヘッ。……いいですよ。そうしましょう」

 チェルネツアの顔がほころぶ。それから人差し指だけを立てた左手をセヘナイの顔の上に伸ばした。「約束です」と言うと、セヘナイもモソモソッと手を伸ばし人差し指をチェルネツアの人差し指に重ね合わせる。そして絡ませ合った。

「そうだ。読み聞かせの続きをしてくださいよ」

「ああ、そう言えばまだ完結してなかったね。いいよそうしよう」

 指が解かれる。セヘナイは物語の続きを話し始めた。物語の結末が訪れるまで。チェルネツアが満足するまで。神様に施して頂いたと二人が思うような、久々の長い長い穏やかな時間を一杯に使って。けれどチェルネツアは全てを聞き終えて思った。面白くない訳ではなかったけど、読み聞かせはこれが最後でいいやと。

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