第三章
第三章
『目を逸らせば逸らすほど困難が深まるなんて重々知っている。けど、僕は今この瞬間の苦しみから逃れたいんだ!』
-トヌシェ改作 “紅の物語”より
マリプトゥ地区ケール通りには専門店が集まり、各々が属するギルドの看板を入口の脇に吊るしている。帝国臣民や商人が買い物をするだけでなく職人の交流の場にもなっており、この通りで立ち話をする人は暇を持て余した婦人たちよりも幅広い年代の男達の方が多い。閉鎖的だが、変わり者の面白いおじさんも多く、刺さる人には刺さる。だが鮮やか華やかに焦がれる男女はシルカルブトの市の方がいいと言うだろう。
セヘナイもこの通りの愛好家で、余り新鮮な反応を示さない様子に、チェルネツアは早くも焦りを感じていた。
「あ、あの。セヘナイさん、どこか行きたいお店ありますか? ほら、色々ありますよ」
あっち、こっちとオーバーにリアクションしても反応の薄いセヘナイと、無理してるという自覚に、心の疲労が蓄積していく。
「ほ、ほら。新しい紙が欲しいって言ってましたよね。あそこに紙屋さんがありますよ」
「ゾルタール紙店だね。あそこはいい紙を作るけど、私が欲しいのはもう少し雑に使える紙なんだよね」
「そ、そうなんですねー」
セヘナイは違和感が無いように普段のテンションまで押し上げているのだが、チェルネツアの方がそれをそうだと感じ取れない。頭の中があたふたして、特に手応えもないまま、彼女が気になっていた生地の店まで来てしまった。
「ここか。ペルーナ三世にも生地を献上している指定献上品店なんだよ。チェルは目利きだね」
「あ、はい。ありがとうございます。でも、ここに入ったら私ばっかり」
しどろもどろなチェルネツアの言葉の節々に、セヘナイもやりにくさを感じていた。自分が素を見せるが故にどことなく元気が無くて、それを彼女なりに想っているのだと分かるからこそ、無下にできない煩わしさがある。
「いいから。見たいものを見ればいいよ」
チェルネツアは『いいから』の語感に引っ掛かるものを感じつつ、音になってない「ありがとうございます」を返して恐る恐る店に入った。
店内は二階までの吹き抜けで、天井まで届く棚に生地がぎっしりと詰められている。通路は人一人が辛うじて通れる幅しかなく、あまりの品物の多さにチェルネツアは目を回した。シア語の札か棚のそこかしこから垂れ下がっているが、読み書きができないチェルネツアには意味がなく、札を手に取ってグヌヌと唸るしかできる事はない。困り果てる様子に、セヘナイが背後から札を覗き込む。
「それはイリッタリネン・ウォード藍・なし・エデルネ。上の棚がインラーデリネン・ウォード藍・白抜き・ウグネス。探している物は?」
「うーん、ズボンなので淡い茶色とか深い赤茶とか。ここまで綺麗じゃなくてもいいんですけど、でも素敵」
反応が自然になったチェルネツアに、セヘナイはやりにくさを感じなくなり、彼女が求める物を一緒に探した。チェルネツアが藍や紅花色の生地に目移りする横で、棚の上から下まで片っ端から目を通す。
「あれは。インラーデジュート・デシアラ木皮赤茶・なし・ウグネス」
「基本ジュートは衣服に使いませんよ。リネンかラミ―が好きです」
「そー、なのか。じゃあ他だな」
それっぽい生地を見つける度にセヘナイはチェルネツアに教えて、その度に指摘を受けた。いつも教える側なだけに、チェルネツアから様々な知識を教えてもらう展開にかつてない新鮮さがあった。同時に頼りない梯子に登ってまで真剣に吟味する姿も目新しく、そう思ってチェルネツアを見守っている間は地下遺跡で浴びせられた言葉の数々を考えずにいられた。
目的も忘れて夢中になっていたチェルネツアは石像のように座る白髪白髭ぼうぼうのお爺さんに声をかけ、選んだ生地を彼女の望む長さに切ってもらった。そして小さなカウンターまで抱えていく。
「全部でいくらですか?」
あまりにも素敵な生地が多く、そこから構想する衣服の想像が楽しくて選びきれず、予定の数倍も選んでしまった。ドキドキして答えを待ち、お爺さんの口から出た「1,016,400ペルーナ」の額に耳を疑う。覚悟は決めていたし、それなりは用意してきた。だが想定の四倍の値段に血の気が引く。彼女が学堂で二年間お手伝いをして貯めた貯金額の半分に匹敵した。ついでにペルーナ通貨は1ペルーナも持っていない。顔面蒼白のチェルネツアを見かねて、セヘナイも財布を出す。
「北方通貨で支払えるかな?」
店主はセヘナイを睨むと、気怠そうに算盤をカウンターの下から出す。
「若造、最近はペルーナを使えと皇帝陛下から勅令が出ている事を知らないのか?」
「申し訳ございません。シルカルブトから来たばかりで勉強不足なもので」
「ふん。含有率比だけ値引きしてやる。だが口外するな。うちは献上店として誇りと恩がある」
帝国が普及に努めているペルーナ通貨だが、リレッツェネの発行する北方通貨の方が貴金属の含有率が高く社会的信用があり、普及範囲も国を跨ぐ事からギルドや銀行間の取引では根強い人気がある。
結局支払い額4,329フィートレは全てセヘナイが持った。店を出た直後から、チェルネツアのペコペコと頭を下げる謝罪は止まらない。セヘナイは道行く職人や婦人から向けられる冷たい視線に冷や汗をかきながら、一度落ち着くように促した。
場所を変えようと、セヘナイは昔粋がって通った小さな喫茶店にチェルネツアを連れて行く。コーヒーを二杯頼み、別売りのミルクと砂糖を多めに入れた方を今にも泣きそうなチェルネツアの前に置いた。
「良い匂いだろ」
鼻を啜りながら無言で頷くチェルネツア。
「買い物をする時は計画的に。分かった?」
「はい。私が払いますから、いくらだったか教えてください」
「お金の話はいったん後で。でも値札が無いのはひどいよね。一見さんに優しくないな」
「……私が慰めてもらってばっかり。こんなはずじゃなかったのに」
買ったばかりの生地を抱えながら、肩身の狭い思いに声を震わせる。そんな可哀想で見ていられない彼女に、セヘナイは持ち上げていたカップを皿の上に戻す。
「私は珍しい物が見れて楽しかった。服作りを趣味にしているのは知ってたけど、あんなに真剣だったんだと知れてよかったよ」
「でも……。今日は元気のないセへナイさんを」
「チェルは普段のチェルでいいから。私に何があっても、変わらないでいて欲しいな」
セヘナイは寛大で大人ぶる面の裏で、自分で自分の機嫌を取れてなかった事に反省した。
チェルネツアの気持ちが落ち着いて、改めて生地の支払い方法を話し合う。後で北方銀行組合に行き、お金を下ろして返済すると二人で取り決めた。お金の事は定まったから、とセヘナイは暗い話題を一度打ち切り、チェルネツアの服作りに切り換えた。思い付くままに質問し、知らない事があれば「初めて知った」「すごいね」などと相槌を打てば、彼女の雰囲気も徐々に明るくなっていく。チェルネツアも自分が話しやすいと感じる程、セへナイの表情が解れている気がして、普段どおりがいいってこういう事なのかと納得するのだった。
二人が囲むテーブルの隅に銀のトレイが置かれる。トレイを掴む色白の細い手を遡ると、見ず知らずの凛々しい女性に行き着く。長い銀髪、色白の肌、青い瞳。真っ赤な唇と目元の黒子が色っぽく、チェルネツアも息をのむ美人。顔立ちでインテ・ラク・ラーデより北側の人だとわかる。セヘナイは直感でアグリア人かなと感じた。
「相席いいかしら? 他が空いてなくて」
チェルネツアが狭い店内を見回したが、その女性の言うように空席は無く、他のテーブルでも相席はごく自然のようだった。
「どうぞ」
女性は空いたイスに背筋よく腰掛ける。トレイに乗せていたのはヤーシュケという牛肉のパプリカ煮込みと、紅茶だった。コーヒーもワインより格段に高価な嗜好品だが、紅茶は飲む琥珀と呼ばれる程貴重な交易品で、大商人か貴族王族しか知らない権威の味。セヘナイも知識はあれど飲んだ経験はない。第三者が入る事でチェルネツアは萎縮して、一切口を開かなくなった。
「ロレ・オナシツアよ。貴方達も異邦人よね。どこから来たのかしら?」
冷たい印象のオナシツアだったが、フレンドリーに話しかけられチェルネツアは驚く。セヘナイは北方シア人なのだと納得した。初対面の相手に対して淡白で笑顔を見せないインテ・ラク・ラーデのシア人やシルカ人と違い、北方シア人は酒場や飲食店で隣の人へ気さくに話しかける文化がある。
「シルカルブトから来ました。ウルカハシアジルへ行く為に山越えの準備をしているのです」
「あら、私もウルカハシアジルに戻るところよ。故郷に帰れて嬉しいような、けれどインテ・ラク・ラーデから出なくないような、複雑な心境なの」
「けれど、地も血も想えば逆らえませんか」
「フフ、私ったら。けどあなたも良くないわ。それをね、嫌な感じ、って受け取る人もいるの。あのなよなよとした随筆を女の心と思い込むなら、蝶もトンボも鳥の内ね」
「これは失礼しました」
オナシツアはカップの持ち手をつまみ、紅茶を飲む際も音を立てない。カップでセヘナイとオナシツアがお互いに顔を見えなくなった瞬間、セヘナイが眉をひそめ、その些細な変化に気が付いたチェルネツアは首を傾げた。
「貴方達、名前は?」
「私はバスオス・アタといいます。この子はクルーシツア。ロレには遠く及びもしない身分です。こうしてお話させて頂いているだけでも畏れ多い」
「ウルカハシアジル王家が無くなった今、貴族を示すロレに価値はないわ。貴方も考え方を改めないと、歳以上に古くなっていくわ」
「オナシツア女史は知的で寛大です」
「どうもありがとう」
何気ない会話の間、ヤーシュケを飲むオナシツアの所作とスプーンの持ち方にセヘナイは注意を向ける。オナシツアは初めにスプーンを手癖で持ち、スッと指を滑らせてウルカハシアジル王家で作法とされる持ち方に変えた。
「クルーシツアさんも気を遣わなくていいのよ。先ほどから一言も喋ってないわ」
「わ、私ですよね。はい。がんばります」
「貴方変わってるのね。いいわ、素直な女の子は好きよ。気が楽だもの」
「好きですか? ありがとうございます」
ほんのり顔を赤くするチェルネツアに、オナシツアはクスクスと口元を隠して笑い、セヘナイは目を細める。
「クーシ、そんな言葉で喜ぶんじゃない」
「喜んじゃダメなんですか? 好意を示してくれる相手には好意で返す様にって、いつも」
「だからダメなんだ」
「好意が無い訳じゃないのよ。でも気を悪くさせたならごめんなさい。けど、バスオスさんも彼女の事になると知的な一面が剥がれ落ちるのね」
「……オナシツア女史も、嫌な感じ、ですよ」
オナシツアは右の口角だけを吊り上げる。
「これでお相子」
チェルネツアには何がお互い様なのか理解できていなかったが、不敵な笑みを浮かべ合うセヘナイとオナシツアに同調して愛想笑いをしてみせた。
それからオナシツアのカップが空になるまで三十分ほど三人はテーブルを囲み、ヤーシュケが半分残っているにもかかわらずオナシツアは別れを告げて店を去った。
ドッと疲れたセヘナイは机に突っ伏し動かなくなり、チェルネツアがつむじを人差し指で突っつく。
「セヘナイさんって、ああゆう女の人好きなんですか? なんだかいつもより良く喋ってました。私も綺麗な人だなと思いましたけど」
「いいや。ああゆう好戦的な人相手だと引くに引けなくてね。あと、つむじ触るの止めて。背が縮む」
ピタッと人差し指は止まり、代わりに空のカップを両手で包む。
「それよりも、あの女アグリア人なのに北方シア人と偽ってる。地位を偽って私に接触してくるなんて怪しいね。警戒しとかないと」
「え?」
良く矯正されたシア語を話し、北方サーテシラの文化にもよく精通した女だった。だがウルカハシアジルといった地名や名前の発音にアグリアの影響が微かに残る。加えてスプーンを持つ指の配置を筆頭に、教養としている文学や所作もアグリア文化の影響を感じさせた。
「ネルボウのスパイか何かかな?」
「……それで嘘の情報ばっかり」
「合わせてくれて助かったよ。けど疲れた~」
どこに行っても気が抜けないなと、セヘナイは改めてリレッツェネの恐ろしさを再確認し、今後の旅に強い不安を覚える。ただの個人二人には組織と呼ばれる敵はあまりにも強大で、例え魔法生物でも打ち倒すチェルネツアが傍にいても倒せる見込みは存在しない。今日の気遣いの件もあるし、チェルネツアが安心して実力を発揮できるようにするには不安を見せられないと、中々机から顔を上げられないセヘナイだった。
翌朝、まだ暗くてまだ街も動き出していない時間のラウンジでチェルネツアは一人ソファーで頭を抱える。昨日はいい感じにまとまったと、スッキリして宿まで帰ってきたが、ベッドに潜ってよくよく考えてみれば何も解決していなかった。セヘナイが地下遺跡を出てから落ち込んでいる理由も、それが解消したかも分かっていない。そのせいで寝付けず、こうしてラウンジまで降りてきてしまったのだ。
イルハサールが宿に戻ってきた時もチェルネツアはラウンジにいた。イルハサールは真向いのソファーにドスンと座り、それにチェルネツアはチラッと顔を上げて、また頭を抱える。
「なんですか? セへナイさんなら部屋にいて、多分明日の朝まで降りてきませんよ」
「セヘナイへの用は明日でいい。俺は心配して欲しいって叫んでるお嬢さんを気に掛けてんだ」
「叫んでません」
「いいや、叫んでるね。構って欲しがる子供みたいだ」
子供という単語にチェルネツアの耳は過敏に反応する。
「交易省事務所の審査が厳しくてさ。馬車の積み荷まで全部見せろって言われてよ。最悪だろ。折角いい宿取ったのによ、俺は冷たい仮眠室で一晩だ」
イルハサールはカバンから紙の束を出し、その内の一枚を机の中央に置いた。
「ほら通行証だよ。昔はこの紙切れ一枚に苦労させられなかったんだが、北方サーテシラで解放軍とかゆう反乱軍が暴れてからは貴重品になりやがった」
「……どうせ私は子供ですよ。だから何も分かんないし、やる事成す事中途半端なんです。イルハサールも通行証の価値も分からないって高を括って、で色々言ってるんでしょう。分かんない人に分かんないだろって言って、その通りだったら楽しいですか?」
チェルネツアの強い当たりにもイルハサールは動じない。
「子供は子供なりに頑張らないと、大人になれねだろ。時間が人を大人にするわけじゃねえんだからよ」
目の前で落ち込むチェルネツアへ、彼なりにここ数日彼女を見て思っていた事を声にした。するとイルハサールの無意識的な思考が、チェルネツアと奴との共通点を結びつけた。
「ガハハハ。お前ら、似た者同士だな」
「私が、誰と似てるんですか?」
「セへナイよ。あいつは子供というより、大人になる事を放棄しやがってる。面白いよな」
チェルネツアが頭を上げて呆気にとられたアホっぽい顔を見せると、イルハサールは前のめりになる。
「お嬢さんが自分を子供っぽいと反省するなら、頑張れ。セヘナイも大魔術の発掘を頑張ってる。俺も頑張る事がある。俺たち三人、今が嫌だから全員頑張ってる」
「私、セへナイさんを慰めようとしたけど、独りよがりで」
「それに気付けたお嬢さんは、今日から良い女ってわけだ」
「でも、独りよがりにならない方法が分からない」
「聞け。とにかく聞け。分かんない事はとにかく聞け。勉強と一緒だ。簡単だろ」
「私勉強苦手です」
「苦手だからって諦めるか? 世の中勉強も出来ねえ馬鹿ばっかだから、人の気持ちも理解できず、する気も無く、喧嘩やらイジメやらを繰り返す。迫害だってする、虐殺だってする、戦争だってできるようになる」
階段の方からドスドスと音がして、大きな荷物を抱えた宿泊客が降りてくる。ラウンジの奥からもコンシェルジェやベルボーイが現れて、朝の空気が動き出す。イルハサールは背もたれにドスッと寄り掛かって、リレッツェネや交易省から渡された小さな文字の書類に目を通す。
「勉強が苦手ってなら、まずは物語でも読んでみろよ。紅の物語がいいんじゃねえか。いい奴も悪い奴も、男も女も、正義も沢山出て来る。アグリア人が書いた割にはいい物語だ」
「私シア語も読めないんです。ましてや異国の言葉なんて」
「だったら読み聞かせてもらえ。外国語どころか、外国の古代言語まで読める野郎がすぐそこにいるんだぜ」
噂をすれば、セヘナイも宿泊客の列に交じって上の階から降りて来た。
「チェルと、イルハサールか。珍しい組み合わせだね」
「世間話をな。それより、通行証だ」
イルハサールが紙の束から抜き取り、チェルネツアの隣に座ったセヘナイに渡す。
「こんなに早く。助かったよ」
「だろ。朝食の直後に帝都を出て、昼過ぎにはイーゼーローン城で通行証の確認を受ける。そこで一泊してよ、明日余裕を持ってバウカ峡谷の主路を抜けようと思う。明後日には去りがたきインテ・ラク・ラーデを去り、北方サーテシラだ」
「明後日の話もいいが、今日の事も話したい。昨日ネルボウの諜報員らしき人物の接触を受けた。気付くのに遅れて今後の予定を教えてしまったんだ。ここからイーゼーローン城までの間に襲撃を受けるかもしれない」
イルハサールは突然書類の山を机に叩きつけて、セヘナイとチェルネツアは心臓がキュッとして背筋が伸びる。数秒のイルハサールは真顔で間を見つめ、それから大口を開けて弾けたように笑う。腹を抱え、涙を流し、何がそんなにおかしいのかと思う程。
「あいつら商務基礎金の減額手続きは気怠そうにやるくせに、議長殴られた腹いせにしては妙に張り切るじゃねえか」
一通り笑いつくすと、強く引き締まった顔つきになる。それにセヘナイの顔つきも勇ましくなってゆく。人によっては悪巧みを企む男の子のようだと言うかもしれないが、チェルネツアにしてみれば第一次キーニ川会戦の夜を彷彿とさせる、懐かしい横顔。
「私も驚きだよ。だから出発前に魔除けを買いそろえたい」
「善は急げ。朝食の提供が始まる前に集めちまおう」
イルハサールはバッと立ち上がり、右左と体をひねる。セヘナイも手際よく外出の準備を整え、二人して足早に宿をでていく。読み聞かせの事を話題に出す機会をずっと見計らっていたチェルネツアは出遅れて、慌てて二人の背中を追った。
シルカルブトからは遠くに霞む山々でしかなかったカルセン山脈。けれど帝都を出発しバウカ峡谷へ向かう人々へは猛々しい壁となってそびえたつ。鋸の歯のような尾根、層状の岩の山肌、白い衣のような雲。南方サーテシラの守護神、インテ・ラク・ラーデを守る長城、と呼び敬い慕った古代の人々へ、走鳥に乗って山々を見上げるセヘナイは思いを馳せた。
先頭で馬車を操るイルハサールが前方を指差す。
「イーゼーローン城が見えてきた。あと少しでバウカ峡谷だ」
帝都を出てから休憩も昼食も取らず、臨戦態勢を保っていたセヘナイやチェルネツアには気が抜ける報告だった。キイガールなら帝国の監視が無い帝都とイーゼーローン城の間で確保しようとしてくると、セヘナイは確信に近い予想を立てていた。だから昨晩は地図からキイガールが襲撃をかけてきそうな地形の場所を全て炙り出した。だが全てのポイントでネルボウの姿は無かった。何もないままイーゼーローン城へ着けるに越したことはないのだが、ならば昨日のオナシツアと名乗った女性は何者だったのか。ネルボウの気配が一切ない事が、セヘナイに得体のしれない気味悪さを与える。
「考えすぎだったのかな……」
オナシツアとのやり取りを初めから終わりまで振り返っていると、「あ、あの! セへナイさん」とチェルネツアに声をかけられ思考が断絶した。
「ん? どうした?」
「えっと、紅の物語を、その、読み聞かせしてくれませんか?」
チェルネツアから紅の物語や読み聞かせといった単語が出て来るとは思わず、キョトンと鳩のような顔をしてしまった。そんなセヘナイの反応に、彼女が胸の押し込めていた恥ずかしい気持ちがあふれ出る。
「いいえ。十八にもなって自分で読めって思いますよね。はい。何でもないです」
「いや。いや! 珍しい事は重なるんだなって思っただけだよ。文字が読めない人の方が圧倒的に多いんだから、読み聞かせなんて恥ずかしい事じゃない」
「そうなんですね……」
「うん。紅の物語は全文覚えてるから、今夜からでも始めようか。誰のがいい?」
「誰の? 沢山あるんですか?」
チェルネツアがチラッとイルハサールに視線を向けて、セヘナイはイルハサールの入れ知恵だったかと納得した。アグリア王国では知らない人はいない物語でも、インテ・ラク・ラーデでは無名に等しい。
「そうだね、私はトヌシュの改作が好きだけど、初めてなら一番新しいボロニフの改作がいいね。気に入ったら、より古くて、より正しい紅の物語に触れたらいい。それか別の作品を知るのもいいね。シルカラーデ戦役物語は短いけど、詩を読んでるような心地よさがあっていいよ。逆に壮大な物語がいいならバンジロトワ遠征記が一番だ」
初めてチェルネツアが文学に興味を持ってくれたことが嬉しくて、頭の中が読み聞かせの事と薦めたい物語の事で一杯になる。だからイルハサールが馬車を街道の隅に寄せて止めた事に気が付くのが少し送れた。
イルハサールは自分たちのかなり後ろに続く商人隊を見つけ、道を譲るために馬車を止めたのだった。リレッツェネの規定では規模の大きな商人隊に交通の優先権がある。
「セへナイさんよ。後ろから来てるから、道を譲るぞ」
チェルネツアに向かって絶え間なく話し続けていたセヘナイだったが、チラッと振り返る。
「イーゼーローンまであと少しだ。このままでいいんじゃないかな?」
「100人はいる。あの規模の商人隊は大金が絡んではずだ。問題になれば厄介だ。商法裁判所に告訴でもされてみろ。俺は示談金払わないからな」
「分かった。イルハサールに任せるよ」
セヘナイとチェルネツアも走鳥を降りて街道の隅に寄せ足を止めた。セヘナイが物語について話を再開させようとしたが、その前に後ろの商人隊を見ていたチェルネツアがボソッと呟く。
「お肉屋さんに卸すのかな?」
その意味のなさそうな言葉をセヘナイは聞き流したが、イルハサールは気になった。
「何をだ?」
「いえ、なんか馬とか走鳥の数がやたら多いなって思って」
「あの距離でよく見えるな。……馬と走鳥? そいつは奇妙だ」
イルハサールが奇妙だと言い、セヘナイもようやく商人隊へ関心を向ける。チェルネツアが目を細めて遠くの商人隊を観察すると、先導するネルボウの大男に目が止まった。どうも見覚えがある気がしたのだ。
「キイガールさん!?」
ポッと口に出してしまい、両手で口を塞ぐ。その名前にセヘナイの反応は速かった。
「どれ、指差して?」
「あれですよ」
セヘナイはチェルネツアの肩に掴まり、左目を手で覆い隠して彼女の脇の下から右目だけを出して、人差し指の示す場所を追う。男の顔はセヘナイの視力では判別できなかったが、体つきといい動きといい、何となくだがキイガールに思えた。
ほぼ同時に商人隊の方も動き出した。こちらを指差す者や、手で日差しを遮り凝視してくる者、リレー方式で何かをヒソヒソと伝達もしている。
あの商人隊はネルボウの艤装だとセヘナイは確信する。
「馬車を出せ! 急げ!」
セヘナイは打合せ通り馬車に飛び乗ってイルハサールと御者を交代し急発進させ、イルハサールとチェルネツアが荷台に上がる。チェルネツアが口笛を吹くと走鳥もちゃんと付いてくる。イルハサールは今朝買ったばかりのサキシロの堅果が入った木箱を開け、握りやすいサイズの物を選び取った。チェルネツアもマスケットに弾を込め、木箱の上に重ねた布の上に銃身を置いて固定する。
こちらが一目散に逃げだして確信したのか、商人隊の人達は次から次へと武器を手に取り、馬や走鳥に飛び乗った。約60騎のネルボウは二分で隊列を整えると、一斉に両翼を広げて距離を詰めてくる。中央、右翼、左翼それぞれの魔術科兵が協力し強力な広域対魔法障壁を展開させ、その内側ギリギリにマスケットや長槍を構えた兵士が並走する。
「そりゃ、魔法は封じてくるよね」
展開速度は流石キイガール直属の精鋭部隊とセヘナイは手際を褒めつつ、明らかに偶発的な遭遇戦という戦略的な手際の悪さが気になった。
「相手はキルッタターレの魔術化小隊だ。まずは右翼側から叩いてくれ」
「キルッタターレ? そいつは商業協定の軍縮条項で解散させられたはずだ」
サリクスにおける賞罰の神の名を冠したネルボウ最精鋭の旅団。表向きには統一戦争終結後に帝国の厳重な監視下で解散されたはずであり、イルハサールの疑問も当然だった。
「リレッツェネがそんな素直だったことあったか?」
ここまでくると、イルハサールはもう呆れて物も言えない。
「よし、お嬢さん。打合せ通りこの実を投げ揚げるから、敵の真上で打ち抜いてくれ」
銃口を右翼側へ向けるチェルネツアに、イルハサールは疑いながらも山なりに木の実を投げ上げる。マスケットの弾は真っ直ぐ飛ばないし、射程も弓より短い。セヘナイの知識は信じられても、このウジウジした女の子の実力までは信じられなかった。
チェルネツアが引き金を引いた直後、耳がおかしくなりそうな爆音が鳴り、マスケットの銃身は反動で大きく跳ね上がる。そしてネルボウ右翼の真上でサキシロの実が炸裂し、橙色の粉塵がまき散らされた。そのモヤの中を通過した走鳥は次々と眠るように倒れ、右翼の半分が脱落する。自分の目を疑ったイルハサールだが、弾が当たった事は紛れもない事実だった。
「バカな……」
「やったなチェル。そらみろってんだ!」
セヘナイは両手を挙げて喜びを表現した。サキシロの堅果の中には粉塵が大量に貯められ、それには竜を麻痺、気絶させる効果がある。竜狩りの際によく使われるが、それが鳥にも有効だとはアグリア王国の一部地域を除いてあまり知られていない。
チェルネツアの再装填を待って、イルハサールも次を投げ上げる。瞬く間に右翼は瓦解し、左翼も魔術科兵が脱落し対魔法障壁が維持できなくなった。走鳥に乗る兵士は追撃を諦め後退し、残ったのはキイガール含め馬に乗る十騎余り。
比較平和的な戦いはそこまでだった。イルハサールもマスケットを持ち、ネルボウ銃兵と銃撃戦になる。だがチェルネツア百発百中の腕にネルボウは不利を悟り、銃兵はマスケットを投げ捨てて短剣を抜き、再装填にかかる15秒の間に間合いを詰めて接近戦になった。チェルネツアはマスケットで長槍騎兵と殴り合い、イルハサールは馬車に飛び移ってきた兵士と戦う。
セヘナイも魔法石で抵抗していたが、そこへキイガールが詰め寄った。誕生祭以来の再会に、互いに戦闘とは違う重苦しい緊張がふつふつと湧き上がる。
「戦友、話をしよう。今からでも戻る気はないか?」
「キイガールは戻って欲しいのか?」
「リレッツェネはお前が帝国に寝返り、内情や極秘情報を漏らすのではないかと危惧してる。暗殺も視野に入れてる。今なら俺が守れる。戦友、シルカルブトに帰って来い」
キイガールはいたって真剣だった。今すぐに抵抗を止めてくれればセへナイを守る気だった。だが善意とは関係なく、理解の無い言葉がセヘナイの逆鱗に触れる。
「お前もリレッツェネも大馬鹿者だ! もっとマシな暗殺理由を用意しやがれってんだよ分からず屋」
「分からず屋は戦友の方だ」
「いんや、違うね。全部が全部、一から十まで、なんもかも私ってものを分かってない!」
聞いた事も無く予想も出来なかった程の声量に、キイガールは言葉を飲み込んだ。ネルボウの真意にセヘナイは呆れ、キイガールと向かい合うにも嫌気がさす。セヘナイは胸ポケットからとっておきの魔法石を抜き取り、振り被る。
「待て! まだ話は終わってない」
魔法石はキイガールの乗る馬の足元に投げられた。魔法石は砕け、閃光と共に爆風を吐き散らす。キイガールは馬から振り落とされ、ついでにチェルネツアと戦っていた騎兵もバランスを崩し馬ごと転んだ。
残ったネルボウは戦いを止めて離れたものの、しばらくの間は一定の距離を保って追跡を止めなかった。それもイルハサールが魔法で牽制すると、十分な魔術科兵が残っていなかった彼らは追跡を諦め、味方の救助に街道を帝都の方へ戻っていくのだった。
バウカ峡谷の南側入り口を完全に塞ぐ難攻不落の大要塞イーザーローン。三人は城内の仮眠室で休憩と治療をして、足早にイーゼーローンを出発する。先程の交戦で全員大なり小なり怪我をしたが、キイガールの部隊にはまだ余力があった。走鳥達が麻痺してるとは言え、一日あれば回復し、また追跡してくる。今度追いつかれればより絶望的な戦いになるのは確実で、程度の差はあれど、そういった恐怖が共有されていた。
南北のサーテシラを結ぶ主路は切り立った崖や険しい斜面に挟まれた急流の脇に造られた幅5m程の道でしかない。だが南北を繋ぐ十七の道の中で一番安全で、五番目に高低差が小さく、馬車が通れる点が主路と呼ばれる由縁だ。
先頭を歩くセヘナイは右腕のパックリ開いた長い切り傷を撫でながら、主路沿いに存在する砦や要塞の遺跡群をボーと眺めていた。どう声をかけようか悩んでるチェルネツアを見かねたイルハサールは彼女に手綱を任せて、その陰気な背中に声をかける。
「ネルボウからなんか言われてたみたいだな」
「まーね」
セヘナイが空元気を絞り出して答えると、イルハサールは肩を組み、握っていた小さな紙袋を押し付ける。
「まあ、なんだ。元気出せよ」
セヘナイが紙袋を開けると、二個のイチジクが入っていた。
「北方サーテシラには無い味だ。食べ納めだぜ」
イルハサールがイチジクを一つ取り、二つに割って皮を剥き、片割れをセヘナイに渡す。
山から吹き下ろす風が冷たい。夜が来るまでに分水嶺を越えられないかと淡い願望を持っていたが、雲行きは怪しい。セヘナイはイチジクを丸呑みにし、汁でべたつく指先を舐めた。
「私的には、友人は大切にしたいんだけどね」
「友人ね。俺から言わせてもらえれば、友ってやつは時が経って振り返れば案外少ないもんだ」
二つ目のイチジクもイルハサールが取り上げ、丁寧に皮を剥き、食べてしまう。結局自分が食べたかっただけじゃないかとセヘナイは思ったが、無粋なツッコミはしなかった。
「イルハサールには親友はいるか?」
「仕事仲間はそこそこいるが、親友はいねえな。寂しいもんよ。もしいるんだったら、大切にしろよ」
暗い雲が高度を落とし、先程まで見えていた山々の頂きが雲中へ隠れる。風は強く冷たくなり、それに乗って雲が川のように流れる。
「これは雨が降るかもな。雨が降ったらこの季節でも冷えて死ぬ。あそこでやり過ごそう」
イルハサールが示したのは切り立った崖に佇む遺跡。二階層ある石造りの砦だが、山側が崩壊していた。
帝国軍の要塞が十七全ての道沿いに存在するバウカ峡谷だが、その数十倍の遺跡が残っている場所でもある。数千年の間に建てられた要塞と、戦争の度に築かれた野戦築城の跡は数知れず、管理者の帝国軍ですら全体の一割も把握できていない。
それを知るセヘナイとしては何千年前に造られたかもわからない廃墟に避難、というのは気が進まない。だが天気の様子と日の高さから察するに、そう贅沢は言っていられなさそうだった。
山の夜は早く、星すら無い完全な闇の中、砦から漏れる焚火の灯りだけがポツンと浮かぶ。形と色が分かるのは砦の内側と崩れた一角だけ。周囲の岩肌や崖下の主路は輪郭がおぼろげに捉えられるだけで、歩けば二十秒もかからない範囲がこの世の全てのよう。
セヘナイは毛布に包まり、崩落した壁の残骸に座っていた。北から風が吹く度につま先は酷く冷えて、薄い革の靴の上から何度も何度も手のひらで擦る。魔物や亡霊が襲って来る妄想にも支配されて、夜の山は彼の想像より苦痛を伴うものだった。
砦の奥からスッと何かが擦れる音がする。外にばかり警戒心を向けていたセへニアはビクッと小さく跳ね上がり、恐る恐る振り向いた。音の招待はチェルネツアの足音だったらしく、厚着をした彼女が壁を伝い外へ出てきた。
「もう交代の時間? 嬉しいね」
主路の隅に置いた荷馬車と避難させた動物たちの見張りが終わったのだと一息つくセヘナイだが、チェルネツアは首を横に振った。
「風音も響くし、床も冷えてて。眠れなかったので出て来ただけです」
「なんだ。ちょっと残念」
「ちょっとですか? がっかりしたって顔に書いてありますよ」
突風が吹き、二人は全員の毛が逆立った。チェルネツアはすかさず積んであった薪を焚火にくべ、その脇で腕を組んで肩をすくめる。そして一面に広がる暗闇に、さらに縮こまる。
「山って凄く寒いし、すっごく怖い場所ですね。あの世みたい」
「ね。怖い」
セヘナイが毛布を一枚チェルネツアに投げ渡し、彼女もそれに包まった。二人そろって目から上だけを毛布から出し、一面の暗闇に堪え、断続的な風に震えた。
「そうだ。私に読み聞かせしてください。そしたら気が紛れるかも」
「……いいね」
モゾモゾと毛布から口を出すセヘナイ。暗闇から目を逸らしたいチェルネツアは、その紫色の唇をじっと見つめた。
「テーナ・サーラ初代王朝の支配するクンルジューラにおいて、魔術師は根こそぎ狩り尽くされた。王朝打倒を目論む彼らが東方の森を拡大させ、クンルジューラへ脅威をもたらしたからだ。時は進み、はや二百年。時の神をもってしても人々の疑心を風化させる事は叶わず、依然として魔術師は迫害され続けた。しかし王国の第一王子フォルッティは一目で恋に落ちてしまう。鷹狩で訪れた森に隠れ潜んでいた魔女サロハミナに」
淡々と記憶した文章を音に変換していくセヘナイ。祭りの際に人々を魅了する語り部のような、生き生きと演技する才能は彼に無かった。聞くチェルネツアもまた反応は薄く、時折の風に体を震わせる程度。けれど感情は他人の人生の恋模様に揺れ動かされ、永遠に聞いていられる気がした。寒ささえなければ、この暗闇の中の幻のような場所で永遠と聞いていたかった。
ドシ、ドシ、と鈍い足音が砦の奥から近づく。イルハサールは声も大きければ足音も大きい。紅の物語はブツッと中断され、セヘナイは砦の奥に関心を向ける。
「イルハサールも後退の時間ではないだろ。どうした?」
壁にぽっかり空いた穴から右腕だけが現れ手招きし、引っ込む。不思議な行動に二人は顔を見合わせ、室内へ戻った。
毛布が二枚敷かれただけの室内には、途中で崩れている上への階段と、下の階へ続く階段がある。剣を握ったイルハサールは地下への階段の上で、階段の伸びる先の闇を睨んでいた。二人が戻ってきた事を確認すると、視線を地下から外さずチェルネツアにマスケットを渡す。
「弾を込めろ。下の階に何かいる」
ただならぬ空気感にチェルネツアは足音を立てず階段から少し離れ、セヘナイも内ポケットの魔法石を幾つか握りしめて階段にすり寄る。
「下に何がいるって?」
「寝返り打ってたらよ、耳が冷えた床にビタッとひっついた時、モゾモゾ話し声が響いてきたんだ。話し合ってるみたいな」
「山賊か? にしては行動が遅すぎる。私達がここに来て五時間以上は経ってる」
「俺が初めて魔物に会った時の話はしたか?」
「……そういう大切な話はもっと早くしても良かったんじゃないか?」
「七年前に遭遇した時は主路からそこそこ離れたからよ、問題無いと思うだろ?」
その時、下の暗闇から数人の話し声と蠢く気配がする。セヘナイは目を瞑り、自分の拍動にかき消されそうな下の声に耳を傾けた。
「古シルカ語に似てる。私は三千五百歳の穏やかなご老人が住処へ招待しに来たんだと信じる事にする」
イルハサールは引きつった笑いを浮かべ、チェルネツアに向けて松明を指差さした。彼女は意図を汲み取り、松明に火をつけてイルハサールに渡す。そして袖口から血が流れる腕をセヘナイに見せてから、セヘナイが青い手帳を待ってない方の手を握る。
「魔物って噂に聞いた事ありますけど、倒せるんですか?」
「心臓を壊すんだ。そうすれば塵になる」
イルハサールが地下に投げ入れた松明は下の階を良く照らした。落ちてきた松明に注目する数体の魔物の姿も。質素な鎧を着て、剣や斧、弓矢を持ち、体は薄汚れた骨格に壊死した肉を纏わせた元人間。眼孔はぽっかりと空き、骨だけの下顎をカタカタ開閉させてた。
躊躇なくチェルネツアの指先から放たれる青い光は下の階を火の海にし、地響きのようなうめき声が木霊した。三人そろって息を呑み轟轟と唸る炎を覗いていると、炎の塊から魔物が飛び出し、階段を駆け上がってきた。イルハサールは一体目を蹴り落とし、二体目の斧を剣で受け止めた。イルハサールと組みあう魔物の心臓をチェルネツアが銃剣で突き刺し、引き抜いてから登ってくる三体目を撃った。弾丸は魔物の剥き出しの心臓を爆散させる。塵となって消えていく魔物が残した盾をセヘナイが拾う。
チェルネツアは再装填の為に五歩引き下がる。その十数秒の間イルハサールが階段の一番上に立ちはだかり、細い階段を一列になって登る魔物を各個に剣と魔法で相手をした。一人では処理しきれない分をセヘナイが盾で体当たりして押し返し、下から飛んでくる矢や魔法を受け止めた。チェルネツアがまた前に出てくれば、セヘナイと協力し強力な魔法を放ち。銃撃して、また装填の為に後ろへ下がる。
これを繰り返し、着実に魔物の数を減らしていった。五分間に及んだ階段をめぐる攻防戦の後、残存した魔物は引き下がり戦いが止む。十五体程の魔物を一方的に倒し、チェルネツアは追撃に階段を下りようとした。だがイルハサールが押し留める。
「降りるな。下で待ち伏せしてる。姿を見せたら射られてお終いだ」
暗闇に戻った下の階からモゾモゾと聞こえるおぞましい話し声。チェルネツアが一段目に置いた足を恐る恐る引き上げた。
何を思ったのか、突然セヘナイが古代の言語で下の階へ向けて叫ぶと、魔物の声がピッタッと止む。
「どうしたんですか?」
「古シルカ語で、貴方達は何者か教えてください、って話しかけてみた」
チェルネツアもイルハサールもニヤニヤするセヘナイの呑気な行動に呆れた。床を挟んで殺意を向け合っているのに、気が抜けると。だが下の階から上の階への返答のような、魔物一人の大きな声が上がってきた。それを聞くなりセへニアはイルハサールの背中をバシバシ叩き、目をキラキラと輝かせる。
「なあ、なあ。黒き力に魂を売った兵共に名乗る名は無いってさ!」
一人で勝手に興奮してさらに語り掛けるセヘナイだったが、いくら待っても再びの回答は無かった。
双方が攻めあぐねる現状にイルハサールは痺れを切らし、返事を辛抱強く待つセヘナイの肩に手を置き、振り向いた所へ首を振る。
「明日もある。このままだと安心して眠れねえ」
「だが意思疎通しようと思えばできるんだ。これは大発見なんだ」
「でもあいつらにとって俺らは敵だ。耳を傾ける道理もなきゃ、答えてやる義理もねえ」
チェルネツアも頷く。セヘナイは唇を噛み引き下がると、チェルネツアが魔法石を躊躇なく下の階へ投げ入れた。下の階層を氷の刃が襲い、魔物の悲鳴が響く。チェルネツアとイルハサールが恐る恐る覗き込むが、暗くてよく分からない。
「まだ四つ持ってます。上がってこないなら、このまま一方的にやってしまいましょう」
「一発だけだ。まだ下があるかもしれない。一発入れたら、突入するぞ」
「了解です」
もう一発投げ落とすと、悲鳴の声量は小さくなっていた。その直後に二人が階段を駆け降りて、イルハサールが魔法の明りを打ち上げる。そこそこ広い部屋で、手や足、頭を失った魔物が三体転がっているだけだ。イルハサールが手際よく順々に止めを刺し、チェルネツアが魔法石を手のひらに置いて部屋の壁沿いに走り発光しない事を確認する。
「階段も通路も、魔法の痕跡も無いです。制圧できました」
イルハサールは安堵してチェルネツアに握り拳を突き出し、彼女は迷いながらも彼女の握り拳をコツンと突き合わせた。
「良い腕だ」
屈託の無い褒め言葉に、チェルネツアはむず痒くなって視線を逸らす。
落胆するセヘナイも階段を下り、一人で下の階を見て回った。壁は長い時間風雨にさらされ風化していたが、岩のひび割れにも見間違うような古代語が至る所に彫られていた。ナイフのような物を壁に突き立て彫ったのだろうと予想させる。
「もう嫌だ。八年も太陽と月の軍隊と……」
指でなぞり口にした、それは太古の戦争を戦った兵士たちのメッセージ。国に帰りたい。寒い。妻に会いたい。息子は私の顔を覚えているだろうか。右翼が黒き力を浴びた。次は我々かもしれない。怖い。紫の光が空に現れた。前兆だ。あれが沈めば黒き力が来る。助けてくれ。
セヘナイは時間を忘れて壁の文を読み解き、彼にしては珍しくすべてに目を通す前に立ち止まった。壁に寄り掛かり、天井を見上げる。上の階からは朝日の気配がして、イルハサールが朝食を準備する音が聞えた。
「もう朝が来たか」
あれ程望んだ日の光も、今の暗くて重い心には煩わしい。この地下の部屋の暗がりが、今の彼には心地よく感じた。黒き力を求める私は何者なのか、揺らぐ心を自覚する程、永遠の日陰である地下室に馴染んでゆく。
チェルネツアが日の光を求めて砦の外に出ると、そこは先程までの闇一面と同じ場所とは想像もできなかった。雲一つない真っ青な空に、周囲を取り囲む草木の無い針のような山々。冷たい空気が胸の奥まで入り、体を清めていく。
山々の隙間に青みがかった緑の森深い大地を見つけて「あれが、北方サーテシラですね」と声を漏らした。これから進む未知の土地。シルカルブトを出た夜は不安に感じた知らない場所も、それらすべてが拭えないとはいえ、ほんの少しは心が躍った。
背後には地平線まで続く黄緑の平野。彼女がこれまでの一生を過ごした南方サーテシラ。インテ・ラク・ラーデ。帝都、イーザーローン、常夜の森、教皇府も何とか見える。ここまでの冒険の全てが詰められた景色に、不思議な優越感があった。
「この景色、セへナイさんにも見て欲しいな」
眩しい世界にセヘナイを連れだして、一緒に気持ちを共有したい。そう思った彼女は砦の中に戻り、朝食だと呼びに行こうとしたイルハサールに変わってもらって地下室へ潜っていった。
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