第二章

第二章       

『同じシア民族の土地でありながら、諸侯の領土はさながら異国の様でもある』

-エテタール著 “サーテシラ諸国漫遊”より 


 ピレンの逃走劇から四日。さらに約160㎞も街道を突っ走り、雪被るカルセン山脈を遠方に見据えるヘウセン草原に差し掛かった。雲を切り裂いてしまうのではないかと思うほどに鋭い山々は平地に雪解けの水を分け与え、透明感のある涼しい風が花々を揺らす。この光景を見れば東西はシルカルブトからパルミラス、南北はトゥルーヌ河からバウカ峡谷までの地域を古シルカの言葉で「インテ・ラク・ラーデ(新たなる豊かな土地)」と呼ぶのも納得がいく。

ヘウセン草原の中心に、湖に浮かぶ城塞都市、教皇府がある。統一戦争以来ユスフ教会が自治独立を主張し、ユスフの教典を法として帝国と異なる理屈で政治を行っている。

湖畔にある府前町の一つに走鳥を預け、府内へは連絡船で入る事になる。府内はユスフ正教騎士団の厳重な警備下にあり、リレッツェネも帝国も好き勝手はできず、帝国本軍やネルボウは入る事すら許されない。張り巡らされた水路には船が往来し、商店や教会が水路沿いに並ぶ。

二人はボートを借りて、暖色系でカラフルな木組みの家々の間を通り、西区画の宿イーエ・ロポットに向かう。そこは以前セヘナイが教皇府に永らく滞在していた時に好んで使っていた宿だった。教皇府の中ではクオリティーの低い部類に入る宿なのだが、情報屋連中を筆頭に変わり者が集まるために秘匿性が高い。

二段ベッドの狭い二人部屋の窓からは、教皇府の中心に位置するエデシデラ大聖堂が一望できた。十二の巨大な塔は太陽の光を反射し輝くように白く、屋根の数々は夕焼け空のモザイク画。チェルネツアは思わず窓から顔を出して、景色に見入った。

「汚い宿で不安でしたけど、景色はとても綺麗ですね」

「大聖堂のステンドグラスも壮観で一見の価値があるよ。明日いってみる?」

「いえ、大丈夫です。だって私達はサリクセンですよ。あそこはユスフの権威の象徴です。遠目から眺めるのが一番いいんです。お互いに」

「サリクスもユスフも崇める神は同じ、だろ?」

 チェルネツアからの返事はなく、彼女はただただ教皇府を眺める。あの感動を知らないのはもったいないとセヘナイは思うのだが、本人が望まないなら仕方ないと、それ以上無理に誘わなかった。

 セヘナイは一度ベッドに腰掛けて、明日どうするか考えた。過去必死に探し当てた地下遺跡への入り口。入るだけなら簡単だが、奥へ行くには色々と準備が必要だった。だが部屋には二段ベッド以外に碌な家具は無く、明日の準備をするには手狭である。

「この部屋は狭い。私は一回の酒場で明日の準備をするけど、チェルはどうする?」

「あの息をするだけで酔いそうな息苦しさ苦手です。だから私はここにいますね」

「分かった。でも一階にはご飯食べに降りてくるんだよ。マスケットは部屋に置いてね」

セヘナイは目立つところに15フィートレと部屋の鍵を置き、最低限の荷物だけを持って一階に降りた。

イーエ・ロポットの酒場を訪れる客は、大抵黙々と酒を飲むかヒソヒソ話をしているかのどちらか。高級店でもないのに、若い男女がどんちゃん騒ぎしない点が素晴らしい。時折発生する乱闘あるいは銃撃戦さえなければ静かで集中するには格好の場所だと、セヘナイは思っている。

店内の隅に積まれた椅子からぐらつかない物を探し、それをカウンター席の間に割り込ませて座った。ビールを一杯注文し、片手で青い手帳を広げる。そこには彼が過去設計してきた有力な魔法陣の数々が描き込まれている。明日地下遺跡へ潜るにあたって使い物になりそうな魔法を吟味するのだが、大抵が数年前に設計しただけに能力不足のように感じられた。

「作り直すか……」

 気合を入れて、セヘナイはペンを持つ。セヘナイは魔法を行使する才能を天から与えられなかったが、学ぶ才能は与えられた。独学で魔法の知識を得て、実証試験をしなくとも発動する魔法陣を設計できる程度には学んだ。紙の上で躊躇なくペンを走らせ、チェルネツアのタトゥーに似た細密な幾何学模様を描き上げていく。

「あんちゃん、そいつはラクラミ式の魔法陣か」

 隣で酒を飲んでいた男がセヘナイへ話しかけた。男は三十手前ぐらいで、鍛えられた筋肉は服の上からも分かる程。髭は濃いが、不快感が無い。

「シア人の癖にシルカ式でなくてラクラミ式を使うのは大抵イキりだが、あんちゃんは違うようだな。常識的な範囲でのラクラミ式最上位、五位魔法、いま描き上げてるそれの規模は五位を越えてるな」

 男は悪趣味にも手帳を覗き込み、顎髭を擦る。セヘナイはその酔っ払い特有のずけずけ踏み入ってくるのが嫌だったが、同時に魔法陣の意味をそこそこ理解できる程度には優秀な人なのだと理解できた。

「あんた何もんだ? そんじゃそこらの魔術師じゃないな」

男は堂々とリュサンディオ・イルハサールと名乗り、しがない商売をするシルカ系シア人貴族の三男と自称した。

「越位魔法なんて何に使うんだ? 攻城戦でも使わねえ?」

「大魔術を探してるって言ったら信じるか?」

 セヘナイは小馬鹿にするような口調で返した。イルハサールといい男が良くも悪くもプライドが高く、不快に感じて煙たがってくれればと期待したのだ。だがイルハサールは感嘆し、体の向きをセヘナイに向ける。

「名は?」

「アタ・セヘナイだ」

「ケム人か。シルカ人だと思ったぜ。けどよ、何でセヘナイなんだ? 女の名前じゃないか」

「名乗る名前くらい自分で決める。ケチつけるなよ」

 余計に面白がって椅子を近づけるイルハサールに、セヘナイは失敗したと後悔し、自分の予想の甘さを呪った。

「さてさて、アタさんよ。ビールを奢るからちょっと聞かせてくれよ。大魔術は何を追っているんだ? 『エデシデラの捌き』か『黒き力』か」

 イルハサールは皮の硬そうな手でカウンターを叩いてテンダーを呼び、酒と料理をアホ程注文した。そんなイルハサールをセヘナイは肘で押し返す。

「おいおいおい、馴れ馴れしいな。お前もどうせ冷やかしだろ。邪魔するなよ。第一『黒き力』が一体何か知ってるのか?」

「太陽と月、四千年前にサーテシラとアグリアを支配した大帝国であり、サーテシラ以北に誕生した歴史上初めての統一国家。天文に長け、黒き力と言われる魔法で180余の部族を従えた。だが言及する文献も少なく、詳細な記載はフォルティナ文書しかないが故に存在が不確かな太古の国。だろ?」

「……そうだ、伝説の中の伝説、物語の中の物語。世間はそう言う」

 さっきから目論見が全て外れてばかりでガックリするセヘナイだが、イルハサールの思いもよらない博学さに関心する。

「イルハサールさんは大魔術が実在すると思うか?」

「あるね。間違いない。魔物が証拠だろうよ」

 胡散臭い男、見向きもされない学生、それら以外で大魔術の存在に確信を抱いている人間にセヘナイは初めて遭遇した。それも自分と同じ根拠をもってして確信しているとなれば、余計に前例がない。

「強力な魔力を浴びた者の慣れ果てが魔物と言われてるだろ。でも大昔に魔物を生み出す実験をした黒魔術師がいてな。五位どころか越位魔法の六位を人に照射したが、人は魔物にならずに死んだ」

「アズハムドゥの『蠢く屍に会いたくて』だろ。魔物について語る最重要文献の一つなんだが、残忍な内容の割にひょうきんな文体で何を読まされてるか分からなくなる」

 アズハムドゥの著書がラクラミ語からシア語に翻訳された事はなく、南のオスロクレツ帝国では時々知る人はいるが、インテ・ラク・ラーデでは無名である。セヘナイはイルハサールの前で初めて微笑んだ。

「分かるぜ。倫理観がおかしくなる。けどよ、詰まる所、魔物は五位どころか六位でも生み出せなかった。だが魔物は存在する。何故だ?」

「七位か八位相当の魔法、大魔術が存在するから」

イルハサールが注文した二杯のビールが届き、その一つがセヘナイに差し出された。セヘナイはそれを受け取ると、イルハサールはガハハハハと大口を開けて笑う。

「分かってんな。よし、俺とアタの出会いに乾杯だ」

「セヘナイって呼んでくれ。そっちの名前の方が好きなんだ」

「おうよ。じゃあセへナイさんだな」

 酒場の全員に聞こえる声で、ほろ酔いの二人は気持ちよさそうに乾杯した。魔法、歴史、言語、政治、話題がコロコロと変わる度、会話の熱はどんどん上昇していった。酒を飲むペースも加速して、カウンターが空の皿とグラスで埋められ腕の置き場すら無くなる。だがそんな事は二人の眼中になく、時間も金にも糸目をつけずこの瞬間を楽しんだ。


夜になり一階の酒場に降りたチェルネツアは、カウンターにセヘナイの姿を見た。一目散に隣へ行こうとした矢先、彼が知らない男と酒を飲み交わしている事に気が付いた。今までになく大声で、楽しそうで、盛り上がるセヘナイに、チェルネツアの心にモヤモヤとした暗い霧がかかる。

「あ、あの、セへナイさん」

勇気を出して声をかけると、水を差したように二人の盛り上がりが引いていき、普段の落ち着いたセヘナイの顔が彼女へ向けられた。それがまたチェルネツアに響く。

「降りて来たんだね。もうそんな時間なのか」

 セヘナイは立ちあがりカウンターからテーブルへ移ると、隣の席を引いく。

「さあさあ座って。ここはユニスニ・パドゥが美味しいんだ。お勧めだよ」

促されるままにチェルネツアは座ると。イルハサールも食べかけの料理と飲みかけの酒を抱えてセヘナイと向かい合う席に座った。

「イルハサール、紹介しよう。チェルネツアだ。血の繋がりは無いが、妹みたいな人なんだ」

「古風だが品が良い名前だな。貴族の娘を紹介されてる気分になるな」

「あ、ありがとうございます。品が良いだなんて」

 名前を褒められ素直に嬉しくなってしまうチェルネツアだったが、居心地が良かったのはそこまでだった。セヘナイとイスタールの話が再び盛り上がると、チェルネツアは一切会話に入れず、隣でご飯を食べるだけしかできない。シルカルブトとは違った辛口でチーズの多用される料理は美味しかったが、それで心が満たされなかった。時折セヘナイが話を振ってくれたが、それらも長続きせず、苦しくて寂しくて気を抜けば泣いてしまいそうな会食が夜通し続いた。


次の日の昼過ぎ、軽い二日酔いのセヘナイがマスケットを担いだチェルネツアと共に酒場へ降りると、カウンターには既にイルハサールの姿があった。彼もセヘナイを見つけるなり、グラスを掲げる。

「イルハサール、あんた暇人だな」

「面白いもん見たけりゃ明日も来いって言ってたからよ。それに、俺は高等遊民だぜ」

「貴族のボンボンはこれだから。羨ましいな、まったく」

 素面のセヘナイがイルハサールと話す様子は、街中に溢れている若い男達のノリとそう変わらない。それがチェルネツアにとっては驚きで、衝撃だった。キイガールに対しても、ゲターイ学長が相手でもセヘナイはどこかローテンションで、それが彼の性質なのだと信じて疑わなかった。その落ち着きと思慮深さが他とは違う点で、彼を特別にしているとも考えていた。端的に言えば、セヘナイを良く知っているという彼女の自信にくさびが打ち込まれ、不安の影がヒビから溢れようとしていたのだ。

 イルハサールはカウンターの上で財布をひっくり返し、バラバラと硬貨を落とす。昨日の浪費のせいで彼の財布は寂しく、並べられたグラスと皿の量と比較して心配になる枚数しか落ちてこなくて、その不安は散らばる硬貨を回収するイルハサールの表情にも表れていた。

「んで、セへナイさんよ、面白い物ってなんだ?」

セヘナイは持ち金を数えるイルハサールの隣に座る。

「地下遺跡はしってるか?」

その場所の名にイルハサールは耳を疑う。折角数えた持ち金の合計も吹っ飛んでしまった。

「地下遺跡って言ったか? エデシデラ大聖堂の地下にあるっていう、あの……」

「惜しいな。大聖堂の地下にあるのは地下迷宮神殿。地下遺跡はそれを含む教皇府地下にある遺跡の総称だよ」

「じゃあ、地下迷宮神殿にも行けるのか?!」

 イルハサールの予想以上の食いつきに押されるセヘナイだが、それを押し返す勢いで知ってる知識を長々話してしまう。その様子はチェルネツアに、また不快な感情を抱かせる。小難しい事を際限なく話してしまうのはセヘナイの悪癖であり、大抵は煙たがるのだが、彼女だけは内容が理解できずとも楽しそうに話すセヘナイを見ているのが好きだったので、彼が満足するまで聞いていられた。セヘナイも他に最後まで聞いてくれる人がいなかったので、よくチェルネツアに大発見と称して話しかけていた。だが、今はそれがチェルネツアにとっての赤の他人に向けられている。

 会計もせずにカウンターで話す二人に、チェルネツアはマスケットに寄り掛かって唇を尖らせながら周囲を見回す。するとお店の前に五匹の走鳥が止まった。お店の前を塞ぐように一列になって走鳥を止める五人の屈強な若者たちに「迷惑な人達」と呟くと、直後二人が魔法を唱え、対魔法障壁を展開し店の入り口を封じた。

「セへナイさん! ネルボウです!」

 チェルネツアが慌ててセヘナイの首根っこを掴みカウンターの陰に隠れると、直後銃声が轟いた。窓ガラスを破砕して店内にまき散らす。その破片と共にイルハサールがカウンターを飛び越えて、背中からチェルネツアの隣に落下する。

「いった! あっぶな! なんだあいつら!」

 背中をさすりながら、店内に飾ってあった銃を手に取るイルハサール。チェルネツアはマスケットに弾を装填して床に置き、手鏡だけをカウンターの陰から出した。歪んだ鏡面には逃げ惑う客と、小型の銃へ弾を装填する男たちが映る。

「セへナイさん、魔法障壁も張られてます。裏口から逃げましょう」

「だめだ。店正面の連中は陽動、本隊は店の裏に待機してる。ここは潔く正教騎士団が来るまで耐えよう。私は裏口を見張るから、チェルはあいつらが店内に入ってこないよう牽制していてくれ」

 セヘナイは内ポケットから魔法石を数個取り出し、裏口が見える位置まで匍匐前進する。チェルネツアは命令に元気よく「はい!」と答えて、マスケットを手に取り反撃する。二人が良い連携を見せる隣で、イルハサールは意外にも冷静だった。

「おいおい、セへナイさんさ。あいつらネルボウなのか? 何したんだよ?」

「イリッタの元老院議長をワインボトルで殴った」

 答えによっては理性的にも逃げる気でいたイルハサールだったが、予想外の答えにそんな理性も吹っ飛んだ。銃弾が頭上を飛び交っているにもかかわらず、腹を抱え馬鹿みたいな声量で笑い転げる。

「面白い冗談だ。気に入ったぜ」

 イルハサールの呼吸が落ち着くと、彼は迷いなくマスケットを構え店の外にいるネルボウに向けて発砲した。思いもよらぬ加勢にチェルネツアもセヘナイも彼の頭を疑う。

「馬鹿なのか? 相手はネルボウだぞ。弱小とはいえ商人が歯向かっていい相手じゃない」

「いいじゃねえか。こっちの方がおもしれえや」

 余りにも馬鹿々々しい理由にセヘナイは呆れ、裏口の監視に戻った。

激しくなる正面の銃撃戦とは逆に静かだった裏口だが、ついに動く。裏口の小窓に人影が浮かび、次の瞬間鍵が掛けられた扉は蹴り破られた。庶民に擬態したネルボウ数名が小型の銃を構えている。セヘナイはそこで魔法石を裏口へ投げ、路地裏で閃光の魔法を炸裂させた。目を瞑っていても一時的に視力を奪われる強烈な光に、裏口の外から男達のうめき声がした。

純白の騎士服に身を包んだ正教騎士団が駆け付けたのはその頃だった。騎士団からも躊躇の無い銃撃を受けたネルボウ達は、一体の死体を回収して撤退していった。

 正教騎士団の白馬に乗った六騎がネルボウを追いかけ、馬を降りた銃兵六名が襲撃現場に残った。正教騎士は現場を見て回り、一人老練な騎士がセヘナイのもとへやってくる。騎士は汚れた二人の身なりに、真っ白なハンカチを差し出した。

「これで顔を拭くとよい。府内で賊から襲撃を受けるなど、散々でしたな。金銭など奪われておりませんか?」

 セヘナイはハンカチを受け取り、「はい」と答た。続けて事情を何も知らない被害者を演じきって「彼らはいったい?」と怯えた声色を混ぜ聞き返す。

「恐らくパルミラ人かサリクセンでしょうな。ここ一年は富裕層を狙って府内でも強盗殺人を働くようになりまして。特にパルミラ人は兵隊崩れが多く、統率が取れて厄介で」

「その様な過酷な環境で府内の治安を守っておられる騎士様には頭が上がりませんね」

「これもエデシデラ様の天命に従ったまで。そちらこそ、我々の到着までよくぞ自衛なされた」

 セヘナイはチラッと最大の功労者であるチェルネツアを見る。彼女は通りのど真ん中で四つん這いになり、自分が撃った弾丸の捜索と回収に必死だった。そこへイルハサールが彼の荷物を回収し戻ってくる。

「お二方は今後の予定などありますかな?」

「これから舟に乗ろうとしていました」

「では、船着き場まで二名ほど銃兵をお供させて頂けないだろうか。大層に見られる護衛はお嫌いかもしれませぬが、未練がましく追ってくるやもしれぬ」

 騎士の親切にセヘナイは快く応じ、ほんの少しの間だがネルボウへの魔除けが同行してくれることになった。護衛をそろえる為に一度騎士が離れ、そこでセヘナイにはイルハサールに聞きたいことがあった。

「ネルボウの襲撃は私を狙ったものだ。何故手を出した? メリットが無いだろう?」

「んー? あー。まあ、セへナイさんを助けてやろうって気分になっただけだ。ネルボウには積年の恨みもあるしよ。訳アリ同士、仲良くしようじゃないか」

「曲がりなりにもリレッツェネのお世話になっている人間の発言とは思えないよ」

 割と本気で引くセヘナイの反応に、イルハサールの大胆な笑いが炸裂する。

「いいって事よ。俺の気前の良さが信じられないってのなら、そうだな、これから一日面白い物を見せてくれる対価とでもしておこう」

「信じてないかはともかく、期待は裏切らないよ」

 先程の騎士が二人の銃兵を集め話しかける様子に、そろそろだろうと、セヘナイはチェルネツアを呼び戻す。彼女は集めた弾丸を弾倉へしまうと、セヘナイとイルサハールの間にわざわざ割り込んだ。背負うマスケットに付けられた銃剣がイルハサールの頭の上に来て、彼が二歩引き下がる足の動きまで横目で確認する。そしてセヘナイから「チェル、怪我はないかい?」と心配の言葉を受け取ると、表情を緩めて正面に立った。

「はい。弾丸も粗方回収出来ましたし、これで自作する手間がかなり省けましたよ」

「お疲れ様。チェルのお陰で今回も二人無事で済んだ。ありがとね」

 照れるチェルネツアだったが、イルハサールから向けられる視線が怖くて無視する為の度胸が底を尽きかけていた。

「な、なんですか! 変ですか?」

「いや。後装式のマスケット初めてみるからよ」

 失礼な態度に対する憤慨ではなく、女が銃を持ってる事への嫌悪感でもなく、銃への興味だと分かり、チェルネツアはホッとする。

「そうです。ライフリングもあるから照準も信頼できますし。セへナイさんが私の為に考えてくれた特注品なんですよ」

 心なしか語気が強いが、イルハサールは気にも留めず「イケてるな」と返した。そして船着き場までの付き添ってくれる騎士二人が挨拶にやって来ると、関心はそっちへ移る。だがチェルネツアは「イケてる」という親しい間柄の人同士が使っていそうな単語を初めて言われたことが頭を巡り、相手はイルハサールだと言い聞かせても、嬉しい気持ちはどこかにあった。そして嬉しく思ってる自分を振り払おうと頭を左右に振る。一連の分かりやすいチェルネツアの行動にセヘナイはクスッと笑った。

「チェル、これから舟に乗るから、降りたら魔法を使う準備をしていて欲しい。ネルボウなんか眼中にない。本番はこれからだよ」

「……え? あ、はい。分かりました。頑張りますね」

 チェルネツアにはセヘナイの言う本番の意味がぼんやりとしか理解できていない。地下遺跡とかいう場所に行くために、魔法が必要なんだろうという程度の認識。今まではそれで納得していたのだが、イルハサールの余裕のある憎たらしい顔が脳裏に浮かぶ。もし自分があの男並みに理解があれば、ワクワクしたり、でも少し怖かったり、セヘナイから読み取れる感情を共感できるようになるのだろうかと。


 イルハサールを含めた三人は北区画の小汚い船着き場で船から降りた。大聖堂の影になり薄暗くて湿っぽくて、少し下水臭い。他三つの区画とは違い、貧相な家も目立った。人々の身なりは汚らしく、目付きはやたらと鋭い。チェルネツアは雰囲気の変わりように強張って、いつでも魔法が使えるようセヘナイの傍から離れなかった。

「あの。だんだんと街のガラが悪くなってきましたけど、ここであってますか?」

「ああ。ほら、あまりキョロキョロしない。絡まれるよ」

「……教皇府にこんな場所があるなんて」

 やめろと言われても警戒心から挙動不審が止められないチェルネツア。数歩先を歩くイルハサールはそんな彼女に「ここはサリクセンが住む区画なんだ」と教えた。

統一戦争の前、教皇府の人口の半分だったサリクセン。だが戦争後ユスフ教へ改宗しなかった者は殺されない代わりに、安価な労働力として北区画へ押し込められた。みすぼらしい同胞達の苦しい今が説明されれば、チェルネツアの表情も愁いを帯びていく。

「サリクセンばっかり……」

そう遠くない場所から沢山の銃声が一斉に轟いた。銃声は一度で治まらず、断続的に何度も何度も空を響いてくる。だが住民たちには驚く様子も無く、平然と日常を続けていた。イルハサールも銃声のする方へほんの少し関心を向けるだけ。

「サリクセン有志義勇軍と正教騎士団の小競り合いだ。すぐ終わる」

「統一戦争は終わって平和になったのに、どいつもこいつも戦いばかり。やだやだ」

 同じくセヘナイも銃声がやってくる空を見上げ、やるせなさを顔にする。それから「チェルもそう思うだろ?」と同意を求めたが、彼女は反応に困って愛想笑いを浮かべるのだった。

 戦禍から逃げるようにして、たどり着いたのは気配がない廃教会。黒焦げたレンガの壁だけが残り、内側には炭化した柱や屋根板が散乱する。炭化した木材を踏むと、音なく潰れて、黒い粉が中を舞う。

「五年前に来た時は、小さいけどステンドグラスの綺麗なユスフの教会だったんだけど。数千年の歴史があったのに、残念だなあ」

 セヘナイは地面にめり込んだステンドグラスの破片を拾い、少しばかり眺めて捨てる。イルハサールがそれを再び拾い上げ、左右を見渡した。

「本当に地下遺跡への入り口があるのか? 信じがたいな」

「あるよ、足元にね」

 セヘナイはチェルネツアと手を握り、腰まで伸びる草を踏み固めながら廃教会の奥へ進んだ。祭壇だったものの前には腰より上が無くなったエデシデラ像が立ち、足元に上半身が転がる。お腹から首にかけて人の血で『迫害する者へ天誅を。サリクセン有志義勇軍』と書かれていた。セヘナイはそれを読んで腹が立ったが、文字が読めないチェルネツアは不気味で忌避すべき物と感じる。

「チェル、どれでもいいから床の石材に触ってくれるかい?」

 青い手帳を手にするセヘナイに言われるがまま、チェルネツアは屈んで繋いでない方の手で少しだけ露出する石畳に触れる。一歩引いた場所に立つイルハサールは、彼の知識では計れない二人の行動に考える事を止めて漠然と眺めていた。

砂煙が石材の間からバッと立ち上り、地中深くからガラガラと唸るような音が響く。音は徐々に地表へ近づき、それが直下まで着た瞬間に石畳が陥没した。穴の底から吹き上がる砂煙に二人の姿が飲み込まれる。余りに一瞬の出来事に驚き立ち尽くすイルハサールだったが、二人が咳き込む声が聞こえて心配を返せと言いたくなった。

インテ・ラク・ラーデの清らかな夏の風が砂煙を流した後には、地下へ続く階段が現れていた。セヘナイはイルハサールを振り返り得意気な顔を見せつけ、チェルネツアと共に階段を降りる。

 

 階段の先は天井が高く幅の広い通路で、四面全てが淡く光を放つ石で覆われている。太陽の光は一切届かないにも拘らず、困らない程度に明るく、全周囲から照らされ影ができない。これらの石は原魔岩と呼ばれる貴重な石で、精製すると魔法石になる。恐る恐る階段を降りて来たイルハサールは、真っ先に原魔石の量へ目が奪われた。口を開け、狼狽える。

「古代の人間はバカなのか、この数の原魔岩をどうやって。国を買っても有り余るだけの金になるぞ」

「アハハハハハハ、これを造った時代に掘り尽くしたんだろうさ」

 セヘナイはワルツを踊るようにクルクル回り、跳ねるように歩き回る。階段を下って地下通路へ入る事に成功しただけだが、古文書通りの構造と、古地図通りの通路に湧き上がる興奮を抑えられなかったのだ。

「なあ、チェル、すごいだろ。こんな場所世界に二つとない」

 チェルネツアに向かって両手を広げてアピールした途端、彼女に手で口を塞がれる。状況が読み込めず振り払おうと暴れるセヘナイだったが、彼女が鋭く一点を見つめている事に気が付き、悪寒がした。地下遺跡に入った興奮も冷めきり、冷静にチェルネツアが睨む先を確認する。通路の向かう先に人の影があった。まるで黄昏時のように引き延ばされた人の影が。だが本体は無い。影だけ。チェルネツアが口から手をどけると、二人はそっと手を繋ぐ。

「あれ、なんだ?」

 普段から軒並み声の大きいイルハサールですら、ボソボソとセヘナイに声をかける。

「分からない。でも進もう。この時代の知恵はずっと奥、歴史の部屋にある」

 セヘナイが先頭に、三人はあまり音を立てないようにコソコソと歩き始めた。人影の立つ位置に近づくほど、影は小さなり、まるで三人が光源かのような挙動をする。そして通り過ぎると、影は動き出し三人の後を付いて歩く。チェルネツアは「キュウウウ」と喉の奥から声にならない悲鳴を上げ、両目を瞑り、空いている方の手を強く握りしめて破裂しそうな心臓を胸の上から押さえつける。イルハサールも両手を組んで床から目を離さない。

「おいおい、子供の昔話にあるみたいによ。心臓食われたりしないよな」

「もう! イルハサールさん、やめてくださいよ! いい大人なんですら」

「いい大人なのはお互い様だ」

「私まだ十八です。老けてるって言いたいんですか?」

 本気で怖がる二人の的を射ないやり取りが、緊張状態のセヘナイの笑いのツボを刺激し、笑ってはいけない空気感の中で吹き出さないよう必死にさせた。だが二人目の人の影が現れると、今度こそ誰も何も話さなくなった。

 地下通路は迷宮のように複雑に入り組み、深くなる程魔原石の明りは青みがかる。三人目の人の影が曲がり角の隅に立ち、もはや話題にも上げないのは共通認識だった。目をそらし、影の前を足早に通り過ぎようといた時、「ドコニ行クノダ?」と男の声がする。その声の主が三人目の影だと、考えるまでも無く理解できた。チェルネツアは「ギャアアア」と叫んで尻もちをつき、イルハサールは剣を抜いて振りかざす。「おいおい」とセヘナイがイルハサールを押し留め、三人目の影に向き合う。

「コノ先ハ魔物ノ巣窟ダ。ドコニ行クノダ?」

「歴史の部屋に行きたい」

「ナラバコチラニ来ルトイイ」

 三人目の影は来た道を戻り出す。一人目二人目の人影も三人目に従い、後に続いてセヘナイに向けて手招きする。普通に喋ったが、セヘナイは会話が成立するとは思ってもいなかった。

 誰も人影について行かずに、なんならそのまま消えて欲しいぐらいの気持ちで見ていると、曲がり角の手前で人影が止まり振り返る。自分達を待っている事は火を見るよりも明らか。

「ついて行くか」

 セヘナイはチェルネツアに肩を貸す。さらっとついて行こうとするセヘナイにイルハサールは正気を疑う。

「おい。冗談だろ。不審者にはついて行くなと教わんなかったのか?」

「そ、そうですよ。もし侵入者を誘い込む罠だったら」

 チェルネツアも耳元でキンキン騒ぐが、セヘナイは人影に向かって歩き出す。

「遠回りだけど向こうからでも歴史の部屋に行けるし、地下遺跡には魔物が潜んでいるとフォルティナ文書でも言われてるし。まあ、三人いれば強行突破できるかなって?」

「そ、それもそうですね」

 引きつった顔で納得するチェルネツアだが、イルハサールは何をどう強行突破する腹積もりなのか聞きたかった。けれど迷いのないセヘナイに一人置いて行かれる訳にもいかず、イルハサールも渋々人型に続いた。

 遺跡のさらに深くに進み、魔原石の青い光が濃くなる程、人の影の元となる人の姿が現れるようになった。青白く半透明な彼らは一様に穏やかな表情で、身に纏う服装からも高位の聖職者だと分かる。巡礼者の列に入っているような不思議な感覚だった。

 十四人目の影も加わった頃、歴史の部屋を前にして広い空間に出た。魔法陣が刻まれた石の門が道を塞ぐ。青い聖職者達は門の前に並び、セヘナイ達に向き合う。

「数千年来ノ来訪者ヨ、歴史ノ部屋ヲ求メル理由ハナンゾ」

 薄々嫌な予感がしていたイルハサールは、セヘナイが適当を言って上手く誤魔化す事を願っていた。しかしセヘナイは馬鹿正直に「黒き力を探しに来ました」と言い、頭を抱える。チェルネツアはイルハサールの、やらかしたと言わんばかりの反応に首を傾げたが、聖職者達の雰囲気が一気に悪くなり何となく察した。

「黒キ力ハ世ヘ災イヲモタラス。喜バシクナイ」

「過去、太陽と月が覇を唱える武器として使った歴史は確かにあります。ですが国家の功罪と、魔術的研究の集大成としての大魔術は別問題でしょう」

「ソノ主張モ最モダ。ダガ世ニ帰レバ同ジ結末ヲ招ク。眠ラセテオクベキダロウ」

「いいえ。偉大な業績を残した者は、正しい評価を後世から受けるべきです」

「通常ナラ、ソウトモ言エル。ダガ個ノ名誉ハ大衆ノ幸福ニ先立ツモノデハナイ」

 セヘナイが何と言おうが、聖職者達は一歩も譲らない。それどころか気迫で押されて苛立った。苛立つのは上手くいかずに腹立っているのか、散々された積極を繰り返され落ち込んでいるからか、セヘナイ本人ですら迷う。もし今更落ち込んでいるのだとしたら余計に腹が立つ、と激しい感情はどんどん自分へ向けられた。言われている事は全て理解していたし、その上で探したいと決意した、そう信じてセヘナイはここまで来ていたから余計に。

「来訪者ヨ。無意味ナ言イ争イハ止メヨウ」

「無意味かどうかは私が決める」

「正直ニ話セ。御託ハ我々ヘ通用シナイ」

 心を見透かされているような言葉に、セヘナイは言いよどむ。今までつらつらと述べてきた理由は確かに建前だった。けれど、本心を言ったら誰も説得できないと知っている。ましてや目の前に並ぶ聖職者達は言わずもがな。

「……大魔術を見てみたいから。歴史に名が残る凄い魔法を陣だけでもいいから見てみたい」

 セヘナイの口から出てきた子供のような理由に、チェルネツアは「ええ……」と思わず声が漏れる。チェルネツアは大魔術を世間がどう思っているか初めて知ったし、セヘナイの本音も初めて知った。自分の知らないセヘナイばかりで、そこに動揺を感じる。

「来訪者ノ思イハ、シカト受ケ止メタ。ダガ通セナイ。出口マデ案内シヨウ」

 聖職者は門の前からやって来た方向へ移動を始め、チェルネツアとイルハサールも歯向かえないと思い仕方なく続いて門から遠ざかる。だがセヘナイは両手を強く握り、決して門から離れようとはしなかった。

「いやだ。私は強引にでも通る」

 そう言った途端、聖職者達も歩みを止め全員が光の粒子となった。その粒子は空中で凝縮し巨大な光の渦となる。中心には紫色の球体が現れ、それは瞼を開きギョギョと三人を見る。

「デハ我々ヲ倒シテ先ヘ進ガヨイ」

 立ち竦む三人へ渦の怪物は、キラキラと輝く光の粒子を束ねて雨のように放った。咄嗟にイルハサールは魔法を唱えて対魔法障壁でそれを防ぎ、チェルネツアはヒラヒラと身を捻りかわす。

「セへナイさんよ! これどうするんだ?」

「戦う。負けてたまるか」

「意地になるのは嫌いじゃねえが、勝てるのか? 威力はともかく、魔法の強度じゃ向こうに勝てねえ」

 魔法には魔力量と強度があり、単純に言えば魔力量は威力で強度は貫通力。魔力量は魔法の使い手の才能に依存するが、強度は魔法を重ねて放った人数や魔法陣の数に比例する。どんなに才能がある魔術師でも一人では強度もたかが知れていて、対魔法障壁を打ち破る事は困難。だが目の前の怪物は十四人分の魔法強度があり、決して脆弱ではないイルハサールの障壁もヒビが入り砕けようとしていた。

 ここにきて戦意を失わないイルハサールが、セヘナイは意外だった。

「対魔法障壁は何度も張り直すんだ」

 チェルネツアも二人の戦う姿勢を見て、隙があるとマスケットに弾込めし、中心の目のような物を撃った。けれど弾丸は渦の怪物をすり抜け、反対側の壁にめり込む。イルハサールも「フルス・フルス(燃えよ・燃えよ)」や「プルオシュ・プルオシュ(震えよ・震えよ)」といったシルカ式の魔法で攻撃するが、渦の怪物は魔法を吸収し、大きくなる。

 そういった特徴に、セヘナイは袖を捲った。

「イルハサール、相手は魔法生命体だ」

 そう言うとセヘナイは内ポケットから取り出した魔法石で対魔法障壁を纏い、渦の怪物めがけて突進した。突然の自殺行為にイルハサールもチェルネツアも目を疑い、イルハサールはこいつ死んだなと確信する。だがセヘナイは障壁が砕かれる前にスライディングして渦の怪物の真下に入り、光の渦の中に右手を突っ込んだ。

「ミッシュ・クオラ・ラル(不形魔法二位二種)」

 すると渦の魔物の粒子が炎に変わり、急激に小さくなっていった。体を構成する魔力が消費され、体の大きさが維持できなくなったのだ。納得したイルハサールも障壁を纏い、セヘナイから距離を取った渦の魔物に体当たりする。

「フルス・フルス・フルス(燃えよ・燃えよ・燃えよ)」

 再び渦の怪物は大きく燃え上がり、炎と同時に消滅した。

 静かになった空洞で、イルハサールはスライディングをしたまま寝転がっていたセヘナイを引き起こす。

「対処法を知ると、簡単だったな」

「まあね」

 神妙な面持ちのセヘナイが門の方を見ると、門は既に開かれていた。

 歴史の部屋も広い円形の部屋で、漆喰が塗られた壁と天井にはびっしりと壁画が描かれていた。壁画は色彩の豊かさと絵の精巧さから、本物の神、人、動物、山河、天の国と根の国がそこに存在している様で、部屋の空間以上の広大な広がりを錯覚する。

 歴史の部屋に入るなりチェルネツアは口を手で覆い、立ち竦んで絵に見惚れた。シルカルブトの学堂にも、サリクスの教会にも立派な壁画は幾つもあったが、度を越して綺麗だった。イルハサールも言葉を失い、頭を抱える。

「キレイ……」

「紫の顔料がふんだんに、青も、この部屋にある絵だけで国が買えるぞ」

 部屋の中心で立ち竦む二人を他所に、セヘナイは壁画を順々に見ていき、目的の物を探した。それは意外にも早く見つかる。太陽を枝で抱え、月を根で掴む、星の葉を生やす巨大樹のシンボル。

「ソレガ太陽ト月ノページダ」

 セヘナイの横に先程の聖職者が現れた。同じように壁画を眺め、手をかざすように促す。その通りにセヘナイが壁画に触れると、女の人の声が部屋の中に響く。

「太陽と月はクルジュニオラの平原を基盤に栄華を築いた太古の國。今は忘れ去られし、偉大な魔道の源なり。倉にて術を編み上げ、刻み、世を制し覇を唱える力を記録した。かの国の都は白き河の上にあり、ピラミッドの底に倉はある。アクアグロットは倉の鍵」

 セヘナイは一度壁から手を離し、自分の手のひらと壁画を何度も見返し、もう一度壁に触れた。するともう一度同じ文章が、こんどは男の人の声で読まれた。

「エデシデラ様ガ語ッタ歴史ノ全テガコノ書ニ記録サレテイル。正シイ歴史ガ」

「何故教えた?」

「歴史ノ部屋ハ万人ノモノ。人ハ選バレルベキデハナイ。ソレガ、エデシデラ様ノ預言。我々ガ己ヲ主張シテヨイノハ門ノ外マデ」

 先程までの敵対心を感じさせない聖職者にセヘナイは後ろめたくなる。まるで黒き力を探す自分が悪戯好きの子供で、彼らは優しく咎める大人。あるいは悪者と村人。それでも知識欲は抑えられず、黒き力、アクアグロット、知りたい物の絵を次々に触れた。

「黒き力は行きと帰りの魔法ね。アクアグロットがテーナサラ帝国に渡ったのなら、ウルカハシアジル王家が持ってたかもしれないな」

 セヘナイは壁から離れ、考える。聖職者もそれに続いた。

「クルジュニオラの平原は北方サーテシラの昔の名だけど、どこにもピラミットなんて存在しない。常世の森の西方拡大で飲み込まれたか。昔のアグリア語圏ではシェエリク河を白い河と呼ぶから、シェエリク河を上った常夜の森の中に魔道の倉はあると」

 聖職者はセヘナイの正面に回り込む。

「アトハ来訪者ノ清キ心ニ期待スルバカリダ」

 そう言うと、再び光の粒子となって消え去る。影だけが残り、歴史の部屋から歩き去っていった。新しい事実と、目指すべき場所が見えても釈然としないセヘナイ。けれどここに留まっていても仕方ない。

 壁に触れて声で遊ぶチェルネツアとイルハサールを呼び戻すと、セヘナイは「地上へ戻ろう」と言って足早に歴史の部屋の外に出た。


 三人が地上へ戻ると、地下遺跡の入り口は自然と固く閉ざされた。セヘナイが名残惜しそうに地面を見つめていると、その肩にイルハサールが寄り掛かる。そこそこの重量が肩に乗っかり、セヘナイはよろけた。

「なんだよ」

「セへナイさん、あんた大魔術探しに北方サーテシラに行くんだろ。俺もついて行っていいか? 俺なら帝国領内の関所を自由に行き来する伝手がある。馬車も持ってる。金も信用もある。損はない。だろ?」

 イルハサールは飲みに誘うかのような気軽さで申し出る。そんな気軽な旅ではないと散々知らされた直後だろうにと思うセヘナイだったが、彼なら同行してもつまらない旅にはならないだろうと確信はあった。

「どういう風の吹き回しだ?」

「あんたと一緒に行動していれば、この世の誰も見た事が無い面白い世界を覗ける気がしてよ」

「なら南の府前町にバスオスの偽名で預けてる走鳥四匹を迎えに行ってくれないか。ネルボウに張り込みされてるかもしれないから、どうしようか考えていたんだ」

 彼の為にも、セヘナイは少しでも渋る様子があれば断るつもりだった。そんな空気を感じてか、イルハサールは返事として指定商人証を渡す。指定商人証とはリレッツェネが発行する証明書で、これが無ければ北方銀行組合の利用、ネルボウの護衛、国境や関所の自由通行援助、商務基礎金というリレッツェネ独自の税金の減額、その他全ての恩恵を受けられない。再発行も難しく、指定商人にとっては命の次、資本や商品よりも大切な物とされている。

「南の府前町にバスオスだな。あそこはスリが多くてよ、不安だから預かっといてくれ」

 常軌を逸していると言われても避難できないイルハサールの行動。よっぽどのお人好しか、でなければ頭のきれる詐欺師だと、セヘナイは可笑しくてたまらない。

「あんたいかれてるよ」

「日の入りに東の府前町の九番地。教会前だ」

 イルハサールは待ち合わせ場所を告げると、口笛を吹きながら来た道を戻っていく。その背中を見送るセヘナイにチェルネツアはコソコソと近づいて、隣に立つ。

「この先も一緒にいるんですか?」

「彼はいい男だよ。知ってるだろ?」

 今からでもいいから「やっぱり二人で旅しよう」と言い出さないかと期待していた。でもイルハサールがいなくなった途端セヘナイから作ったような気丈さが消え、無表情になって一言も発さない。

「……まっ、いいですけど。で、次はどこに行くんですか?」

「うーん。そうだな……。当分はウルカハシアジルを目指して」

 セヘナイはチェルネツアの言葉には上の空で、何となく空を見上げていた。ノソノソと歩き出すその先に固定されてない石があり、チェルネツアはその石を踏んで滑って転ぶだろうなと予想する。案の定セヘナイはその石を踏んで足を取られるが、チェルネツアに受け止められて尻もちをつかずに済んだ。

「あ、おう。危なかった。ありがとう」

「もう! 危なっかしいですよ。シャキッとして! 前見て! 歩いて!」

 チェルネツアはセヘナイの顔を両手の平でバチンと挟み自分に向けさせて、腕を組んで大股で歩きだす。

「ちょっと、私はチェル程足が長くないんだから。速いって」

 無視を決め込むチェルネツアに引きずられる力ないセヘナイだった。


 東区画の連絡船乗り場に着いたセヘナイとチェルネツアは、券を買って港の隅で次の船の到着を岸壁に座って待った。桟橋には東の府前町へ連絡船が出航を直前に控えているのだが、人が一杯で次の便に乗るしかなかった。二人はただ待っているだけだったが、傍を通る港の人や同じように船を待つ客は悉く不審者を見るような視線を送る。

「何だか怪しまれてる気がするんですけど」

「臭うんだ。多分下水臭いんじゃないかな」

 チェルネツアは袖の臭いをかいでみた。自分が臭いかどうか分からない。けど自分が臭うのだと考えたら恥ずかしくなってくる。

「船を降りたら、公衆浴場に行きですね」

「タトゥー見られるけどいいの? どこか体を洗える川か湖、それか次の町まで待った方が」

「いいんです。別に赤の他人から奴隷か娼婦に間違われてもいいんです。それよりスッキリしましょう。ついでに湖で服を洗濯しません? お気に入りが臭いのは嫌です」

「いいね。洗濯もしよう。着替えはある?」

「イルハサールが取りに行った荷物の中にあります。盗まれなきゃいいですけど」

 敵意剥き出しのチェルネツアにセヘナイが苦笑いを浮かべていると、二人を人の影が覆った。振り返ると背の高い男二人組が立っていた。逆光で顔が見えずらい。

「お兄さん。北区画行ってきたな」

「サリクセンだって正教騎士団に付き出してもいいんだけどよ。そんな大事になりたくないだろ」

 チェルネツアはサリクセンだと言い当てられた事に動揺し、腕を掴まれたが怖くて振り払えなかった。だがセヘナイが男とチェルネツアの間に割り込んで引き離し、イルハサールから預かった指定商人証を男二人の目と鼻の先に突きつける。

「おい。人が買った女に傷をつけるなよ。高かったんだ。奴隷資産損壊罪でリレッツェネの商法裁判に訴えかけてもいいんだぞ」

 サリクセンでなくても北区画に用事がある人間は一定数いる。概ね褒められた用事ではない。だが、その方がゆすり相手に宗教絡みでやっかまれるよりマシだとセヘナイは考えた。男は目を細めて指定商人証を読み込むと舌打ちし、強引な詰め寄り方を止める。

「分かった分かった。落ち着け。だが臭いのせいで北区画帰りだと指摘されるのは面倒だろうが」

「匂い消しのハーブがある。それを買うってので手を打たないか。あまり人さまに見られたくない。あの小屋の裏で取引しよう」

 片方の男が掌に握られた枯草のような物を見せてから、小屋の裏へ行き。もう一人が追うように促す。穏便に済むのならとついて行こうとするチェルネツア。だがセヘナイは二度瞬きをして、チェルネツアの腕を掴み「失礼、急用を思い出した」と言い放って全力で桟橋へ走り出した。引っ張られるがまま理解の追い付かないチェルネツア。

「ちょっと待って! どうしたんですか?」

「あいつらネルボウだ!」

ネルボウの兵士教本には戦術、リレッツェネ商法、事務手続き等の解説の他、逃走中の債務者と遭遇した場合の対処法なども記されている。今のやり取りは巧妙にアレンジされているものの、路地裏に誘い込んで確保する手法の一つだった。リレッツェネ本部で退屈しのぎにパラパラ捲っていた事が役に立つとは、とセヘナイは自分に感心する。

「おい止まれ! 止まるんだ!」

 先程の男二人組は、怒号を浴びせながら追いかけてくる。魔法を唱え対魔術障壁まで展開させ、どう考えてもそこら辺のごろつきではない。

セヘナイは掴んだ腕を離し、「ついて来て!」と全力で走る。チェルネツアも意図を汲み、港に積まれた木箱や資材を散らかしながら逃げた。追う側も転がる木箱に片手をついて乗り越え、食らいついて離れない。

 二人が働く人を押しのけて桟橋へ差し掛かった時、連絡船は縄を解き今にも出港するところだった。

「このまま跳び乗る!」

「はい!」

 全力疾走のまま突き進むセヘナイだったが、いざ船が目の前になり踏み切らねばならないタイミングが差し迫って来ると、脳裏に様々なリスクが過る。水に落ちたらどうする、船の変な場所に打ち付けて大怪我したらどうする、ブレーキをかけたがる理性が邪魔をして躊躇を促した。だが最後の最後でセへナイは頭でも口でも「うあーー」と叫び、跳んだ。

 セヘナイは空中で「やばいやばいやばい!」と絶叫し、体の真正面から甲板に落ちて全身を強打、ピクリとも動かない。直後、見事に着地するチェルネツアだったが、心配する暇も無く弾が装填されていないマスケットを手に持った。追手の男二人も桟橋から船に飛び乗ろうとしてきたからだ。一人は飛距離が足りず水路へ落ちたが、もう一人は空中で短剣を抜き船尾に着地する。

 マスケットをこん棒のように扱ってチェルネツアは追手と船尾の狭い甲板で戦う。互いに決定打を打たせない拮抗した戦いだったが、単純な筋力の差でチェルネツアは徐々に押されていった。剣の重い一撃を受ける度腕に負荷がかかり、体力と筋力と集中力が浪費され呼吸もままならない。加えて炎の魔法による牽制を避ける度に疲弊が加速した。段々と腕力が感じ取れなくなり、ついにマスケットが手から離れ甲板を転がる。すかさず短剣を抜くが次の斬撃を受け止めきれず、短剣は弾き飛ばされ水路に落ちて沈んだ。

マスケットも拾いに行くには遠く、チェルネツアは痙攣する両手を挙げて膝をついた。

「手間かけさせやがって」

息が上がる追手がチェルネツアに手錠をかけようと両手を掴んだその時。鼻血を流すセヘナイが、大型のオールで追手の後頭部を全力でぶん殴った。追手はオールごと船から滑り落ち、手錠と短剣だけが甲板に残る。水面に浮かび上がってきた追手が泳いで連絡船を追いかけるが、船には追いつけそうになかった。

セヘナイは片手で鼻を抑え、甲板に転がる剣を拾う。刃にはネルボウの紋章、名前と所属も彫られていた。特別魔術化機動隊。ネルボウ遠征軍に属し、キイガール直属の最精鋭部隊。セヘナイが顔を上げると、戸惑う船員と乗客と目があった。船員に二人分の乗船券を手渡すと、彼は困惑しながらも受け取った。

ネルボウの脅威が無くなり緊張が解け、満身創痍の二人は崩れるように背中合わせで座った。チェルネツアはズボンの破けた箇所を観察し、どう直そうかと考える。

「これだけ暴れたら公衆浴場は断念だね。船を降りたら一目散に行方をくらまそう」

「はい。白兵戦はダメですね。苦手だから緊張して。私は銃撃戦が一番です」

「でも短剣も新しいの調達しないと」

「丁度いいタイミングですよ。刃こぼれが酷くて、ほぼ鈍器だったので」

周囲の視線も気にする余裕なく、事件の後の余韻と勝ち残った喜びに笑い合った。


 イルハサールとの約束の場所に日が十分に落ちてから二人が向かうと、彼が馬車と走鳥四匹と共に待っていた。指定商人証を返した拍子に、本当にネルボウが張り込んでいたと教えられたが、イルハサールはそれ以上踏み込んでこなかった。午後から雲が出てきた事もあり月明かりは無く、辺りの明りは府前町の灯りと、遠く常夜の森の夜光蟲だけ。府前町から少し道を進めば、三人の姿は瞬く間に闇夜へ紛れた。


 インテ・ラク・ラーデより北へ進むにはバウカ峡谷を通らなくてはならず、それには帝国が発行する通行証が必要だった。インテ・ラク・ラーデ側では帝都ウグネス、北方サーテシラ側ではティムショノクで審査と発行が行われる。

 帝都は歴史が500年しかない城市だが、インテ・ラク・ラーデで最も大きい外郭を持つ。全周が二重の城壁に囲われ、市街は教皇府と同じく木組みが露出した三角屋根の家々が並ぶのだが、木材は濃い灰色、漆喰は白、屋根板は黒で統一され厳かな印象となる。皇帝の住む大ウグネス宮殿を中心に増築増築で広がった街だけに煩雑で、道の幅はよく変わり、曲がりくねる。

 グラペル地区の立派な宿を取り、セヘナイとイルハサールは高級感のあるラウンジのテーブルに向かい合って座っていた。イルハサールはバウカ峡谷の通行に必要な書類を書き上げペンを置き、ラウンジ全体に聞こえる唸り声と共に背伸びをした。小難しい顔をして冊子を眺めるセヘナイが目に入る。

「大魔術の研究か?」

「いや、今は別の勉強。何が役に立つか分からないから」

「結構結構。俺はまずリレッツェネの支部によって、それから帝国の交易省事務所に行ってこなきゃならない。最低半日はかかる。その間留守番よろしくな」

 イルハサールは書類をカバンに詰めると、足早に宿を出ていった。イルハサールがいなくなった後、セヘナイは手に持っていた冊子を机の上に放り投げため息をつく。教皇府を離れてからの四日間、イルハサールのいない場所で元気のないセヘナイに、チェルネツアはどうにかしたいと思い続けていた。彼女はソソソッとイルハサールが座っていた場所に座り、タイミングを見計らった。

「あの、新しい服作りたいので、生地買いに行きません?」

 とにかく外の空気を吸って、お金を使えば少しは気が晴れる。そんな自分の法則に当てはめて、イルハサールではなく付き合いの長い私がどうにかしてあげるのだと勇んで提案してみたのだ。

「ここまで来る途中に幾つか可愛い生地のお店があって、気になってたんです!」

 セヘナイとしては、何もする気になれず、今日もただただ休んで心の疲労をどうにかしたいと考えていた。だがここ数日の彼女の気遣いを十分に拾い上げられなかった分、珍しく誘って来た事も加味して、買い物に付き合った方がいいのかなという気持ちにもなってきた。

「いいね。チェルの趣味に付き合うよ」

提案に乗ってくれた事に喜ぶチェルネツアとは対照的に、自分で言っておきながら面倒くささに憂鬱になるセヘナイだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る