第一章

第一章       

『エデシデラ様は仰った。いかなる罪人でさえも、許しを請う者は我が愛の恵みを受けようと』

-ヨヘル代筆 “創造旧期篇 22巻 アーマン記”より 


 シルカルブトを飛び出して丸一日、約100kmの距離を走り抜けキーニ川河畔の町エデルネへ辿り着く。水運の拠点として栄え、川幅900mあるキーニ川を渡河する人々の拠点でもある。

 統一戦争前はシルカルブトに次ぐイリッタ水軍の拠点だったが、今はシア・インラーデ帝国の旗が立ち、シルカルブトのイリッタ残存勢力を警戒する帝国軍第二群隊の主力が駐屯する。

 二人は真夜中に安い宿を取り、走鳥を馬留に繋げてから各々の個室に入った。真っ暗な部屋で、セヘナイは真っ先に薄汚れたベッドへ手持ちの荷物を放り投げ、曇ったガラスの窓を開けた。宙に舞った埃が吸われるように外へ出ていく。このままベッドに腰掛けたら動けなくなるような気がしがした彼は革のトランクを開け、スタンド付きの鏡とタトゥー道具箱を引きずり出し、チェルネツアの部屋に向かった。扉を二度ノックすると、髪を下ろしたチェルネツアが扉を開ける。

「早いですね」

 部屋の中に通してもらい、セヘナイはチェルネツアをベッドに座らせると、窓際に鏡を立てて月明かりを反射させ彼女に当てた。

「今日中にやっといた方がいいだろうから」

 セヘナイが隣に座ると、肌のひり付く感覚が一層強くなる。彼女の腕を持って、北門を突破する際にナイフで切った場所を反射光で照らした。服の上から包帯がきつく巻いてある。それをゆっくり解いて、袖を捲った。腕全体に隙間なく入れられた幾何学模様のタトゥー、彼女の体に直接刻まれた魔法陣が現れる。その魔法陣の一部を裂くように新しい傷跡があって、周りには似たような古傷が幾つも残っている。傷だらけの腕をじろじろ観察されてチェルネツアはむず痒くなり、ちょっと手を引いてしまった。すると魔法陣の欠損部が明かりから外れる。

「コラ、動かさない」

 セヘナイはちょっと強引に反射された月明かりの中へ新鮮な傷跡を引き戻す。チェルネツアは気恥ずかしさを微笑みで誤魔化しつつ「あまり近づくと寿命削れちゃいますよ」と呟いた。

「今更何とも。君の才能のお陰で傷の直りは早いな。これならもう針を刺せる。腕の位置そこで保って」

 セヘナイが針を準備するまでの間、薄暗い部屋の中で器具同士がぶつかるカチャカチャという音だけが響く。

「私のこれは呪いですよ」

「そうやって自分を蔑むチェルは嫌いだ」

 再びセヘナイの視線と集中が傷跡に集まる。タトゥーの切れ目へ針を刺し、墨を入れて魔法陣を埋め直す。その度に顔をしかめるチェルネツアの荒れる呼気、力む瞬間のベットの軋み、布の擦れ合い。些細な音がセヘナイの良心に訴えかける。

「力を封じる方法、魔法陣を体に刻む他になかったのか、今でも考える」

 彼女の腕から胸、背中、腹、そして足にかけて全身に入れられたタトゥー。それは人智を越えた生命力の化身であり、過剰な力の流入により周囲全ての生命を腐らせ殺す半神半人としての彼女を封印する魔法陣。膨大な力を無意味に浪費させる魔法を常時発動させる事で、チェルネツアは普通の人として生きられるようになった。

「他に思い付きました?」

「まったく。これが最適解」

 魔法の知識はあるが魔力が無い凡人のセヘナイ。力はあるが制御する術を知らないチェルネツア。魔法陣から解放された半神半人の彼女とセヘナイが触れ合う事で初めて魔法が行使できる。

 半神半人の力、持て余す者は彼女自身も含めて『呪い』と呼び、制御する術を知る者は『才能』と呼んだ。

 月の移動に合わせて鏡の向きと角度を何度も調整しつつ、腕の魔法陣を復元し、終わった頃には皮膚のひり付きは完全になくなる。

「あー、目がショボショボする」

 セヘナイは針を箱にしまうと仰向けにベッドに倒れ、そのまま目をつぶる。チェルネツアは真っ先に捲られた袖を伸ばし、それから鏡を倒し、明りが無くなった部屋の中でセヘナイの隣に寝転がる。

「私はまだ寝てないぞ。目を瞑って休んでるだけだ。直ぐに自分の部屋に戻る」

 そういうセヘナイの声は疲労で間延びし、今にも眠りに落ちてゆく人のそれだった。

「明日からどうしますか? 大魔術はどうやって探しますか?」

 語り掛けるチェルネツアはタトゥーを入れ直したばかりの腕をさすり、まだしばらくの間は痛みで眠れそうにない。

「まずは……、教皇府に行って、地下遺跡に……」

 彼女が聞いたこともない場所の名を弱々しく言い、何をするか聞かせる前にスー、スーと寝息が立つ。地下遺跡、それはどんな場所なのだろうか、期待と不安感を抱えながら目を瞑る。チェルネツアにとってここから先の土地、人、時間は全て未知の暗闇。こっそりセヘナイの手を握っても、不安を払い寝付けるまでには長い長い時間がかかった。


 翌日、目を覚ましたチェルネツアの隣にセヘナイはいない。それどころか彼女は姿勢よくベッドに寝かされ、ペチャンコの毛布を掛けられていた。タトゥーの道具箱も鏡も部屋になく、日差しは高い位置から部屋に射す。彼女は慌ててコンパスを握り窓を開け、身を乗り出す。太陽の方角から既に正午直前であると理解し、慌てて着替え、荷物を抱えて一階へ駆け下りた。


 セヘナイは太陽が昇ると同時に起きていた。朝から町へ一人で繰り出し市場を散策。新鮮な食材をいくらか買いそろえ、港を下見。ネルボウの動向を探った。それから渡河船を一日貸切る契約を結ぶ。宿へ戻れば洗濯、走鳥の世話、台所を使わせてもらい、野菜を容器としひき肉を詰め薪オーブンで焼くイリッタの家庭料理、ゲムエスタを鼻歌交じりに二人分作った。その最中、こじんまりしたラウンジへチェルネツアが騒々しく現れる。

「船便まで余裕があるから、顔と髪を洗ってきたら? ついでに洗濯も」

 寝癖を隠しきれていない彼女は黙って頷いき、洗濯ものを抱えて外に出た。

食事ができたらラウンジ隅のテーブルを借りて配膳し、手持ちのワインを一本開けてコップに注ぐ。料理には手を付けず、チェルネツアが戻るまで先に一杯始めていた。

「料理作れたんですね」

「一人旅で飯も作れなかったら悲惨だろ。学堂はお手伝いさんがいたから作らなかっただけ」

 チェルネツアは席に着くなり両手を組んで目をつぶる。対面の席でそれを見たセヘナイは驚き、飲みかけのワインをのどに詰まらせて咳き込み、彼女へ布巾を渡すと、チェルネツアがセヘナイ側に回って零れたワインを拭こうとしたところへ、セヘナイが耳元で囁く。

「ここは旧イリッタ領だがユスフ教に改宗されてる。軽率な真似は止めるんだ」

チェルネツアは自分が無自覚にサリクセンの祈りをしていたと気が付き、体が震える程心臓がバクバクして全身から変な汗が出た。まずラウンジの奥で呑気にあくびをする宿の主人を見て、それからセヘナイに視線を向ける。彼はただの飲兵衛に戻っていた。ぎこちなく席に座ると、セヘナイが彼女のコップの半分までワインを注ぐ。

「さあ食べよう。こんなウキウキする日は久々なんだ」

「ワインだなんて贅沢ですね」

 なんてことの無い家庭食事を今までで一番楽しそうに食べるセヘナイが目の前にいた。二階から降りた時にも、彼の鼻歌を初めて聞いた。彼女もナイフで食べやすいサイズに切って、食べた。少し味が濃いけど、普通に美味しいと思った。

「昨晩、地下遺跡に行くと来たのですが聞いたのですが」

「ああ、大魔術を探すにあたって、一番情報が眠ってそうな場所なんだ」

「どういった場所なんですか?」

「噂によると魔物が住み着いてて、入ったら二度と出られないらしいよ~」

「フフフ、私子供じゃないですよ。そんなんじゃビビったりません」

 それにセヘナイはとぼけて、チェルネツアが「え、本当なんですか?」とクスクス笑いながら聞き返したが、はぐらかされる。それから話題はコロコロ変わった。この後の予定とか、料理はどこで覚えたかとか、朝は何をしていたかとか、鼻歌の事とか、彼女には聞きたいことが沢山あったのだ。


 貸切った渡河船は昼過ぎにエデルネを出港、目的地は約8㎞上流の村ピレン。一面の畑に挟まれた穏やかな川を船頭達がオールを漕いで遡上する。ピレンから下ってくる船は人と荷物を一杯に載せ、舵取りだけでノロノロとエデルネに向かう。チェルネツアは船首に座り、キーニ川沿いの牧歌的な景色に見入っていると、走鳥を落ち着かせてセヘナイが隣に来る。

「セへナイさん、ここらへんって」

セヘナイは船から腕を伸ばし小さなお椀で川の水をすくい、飲んでから「第一次キーニ川会戦の主戦場だね」と答えた。それから船尾の方角、エデルネより下流を指差して「あっちが第二次キーニ川会戦の主戦場」とも言う。

「統一戦争の事、チェルも覚えていたんだ」

「あんな経験、忘れられないですよ。とくに世間を知ったばかりの私には」

両岸のなだらかな丘には野戦築城の跡が連なる。何度も水上戦を繰り広げたイリッタ、シア・インラーデ帝国、両軍の軍船の朽ちた残骸があちらこちらの水面から顔を出す。

統一戦争中期、イリッタ義勇軍が編成されたものの、イリッタ市民軍には非正規兵の集まりに回す指揮官の余裕が無かった。そこに北方から帰って来たばかりのセヘナイが充てられたのだ。兵学の知識も貯めていたという理由もあるが、ゲターイ学長による推薦が最大の理由だった。

 彼は兵学書と現実の齟齬に苦しみながらも周囲の支えと士気の高さに助けられ、第一次キーニ川会戦では夜中に渡河し、連戦無敗だった帝国軍を相手に奇襲を仕掛けて大勝利。八か月後の第二次キーニ川会戦では撤退時に殿を務め、帝国軍の追撃部隊を撃退。この二つの戦い結果は終戦交渉にてイリッタの自治獲得に少なくない影響を及ぼした。

 この二つの戦いのせいで私はイリッタの英雄に祭り上げられた、セヘナイはそう考えながら四年前の戦場へ物思いにふける。

「イリッタの為ならと思ったのにな」

どこか物悲しい横顔をチェルネツアが覗き込む。

「統一戦争の時のセへナイさん、格好良かったです。最近はお酒飲んでばっかりですけど」

「これからは自然と酒量は減るさ。格好いいセヘナイの復活だよ」

「本当ですか?」

 チェルネツアがクスクスと笑うのにつられてセヘナイもぎこちなく笑った。

 ピレンの村が目の前に迫ると、その手前の砂州に隠れるネルボウの快速軍船が三隻見えてきた。軍船の前を通る船を一隻一隻止め、検問をする。これにはセヘナイも頭を掻いて「キイガール、やるな」と呟いた。チェルネツアも船を見てこっそりと腕を切る。

「セへナイさん。あれ」

「最新鋭の魔動船だ。陸路より水路の方が速いよな、そりゃ」

 魔法の力を推進力とし対魔法防御結界を張る事ができる軍船。同規模の帆船より遅いが安定した航行性能がある。魔術師を相手にするなら最適の軍船だ。

セヘナイが軍船に気が付いたと同時に、ネルボウ側も二人を見つけ魔動船を動かす。渡河船と並走し、甲板から見知ったネルボウが顔を出す。

「アタ・セへナイ。シルカルブトへ帰ってもらう」

「拒否する」

「キイガール軍司令より、学士は学士らしく学堂に籠ってろ、だそうだ」

「はー、あいつ言いそう。でもイリッタの英雄に対してちょっと当たり強くない?」

「軍人でもない癖に武人がるな。癪に障る」

「アハハハ、よく言われる」

 魔道船から渡河船に板が掛けられ、ネルボウ六名が強引に乗船する。困惑する船頭達を突き飛ばして、先頭の兵士がセヘナイの襟元を掴んだ。それを払い除けようとチェルネツアが兵士の腕を触った途端、彼女は強烈な平手打ちを受けて倒れる。

「近寄るな、気味が悪い。『セヘナイの魔力庫』は魔力庫らしく動き回るな」

 『セヘナイの魔力庫』とは英雄の素性を知る人間の間で言われるチェルネツアの蔑称。半神半人で気味悪い、純粋なシア人でもシルカ人との混血でもない、女である、全身にタトゥーが刻まれた傷物、蔑まれる理由は幾らでもあった。

 この呼び名をされる度、チェルネツアは人間扱いされ難い現実を再認識させられ深く傷つく。ヒリヒリと痛む頬を撫でながら舌で血を感じ、理性で制御できない涙を抑えようと必死だった。周囲の視線がとてつもなく怖い、幼い頃の忘れがたく辛い感覚がぶり返し、立ち上がれない。そこに背中をさする手の温もりを感じた。

「おい、この女性にはチェルネツアという名前がある。人はちゃんと名前で呼べよ」

「ふん、少なくとも人ではないだろう」

「馬鹿はすぐ他人を差別する。でないと自尊心を保てないからだ」

「今俺を侮辱したか」

「もちろん。悪いが、たった今私は虫の居所が悪くなった。やり返さないと気が済まない。ミッシュ・クオラ・ラル(不形魔法二位二種)」

 チェルネツアの頬から流れ落ちた涙が甲板に落ちると、そこから火が吹き出し、ネルボウへ向かって燃え広がる。瞬く間に大きくなる炎に、船頭達もたじろいだ。セヘナイは彼らへ金貨の入った袋を投げ渡し、「これで新しい船を買ってくれ」と叫んでからチェルネツアを抱き上げる。

「君を知らない人間の言葉なんか気にするな。私がチェルの素敵な所を幾つも知っているのだから。まだ戦える?」

 セヘナイが耳元で囁くと、チェルネツアは涙をぬぐいながら頷いた。

「良かった。ピレンの村に意識を向けて。コレジ・トゲル・ラル(静止魔法四位二種)」

 冷気が水面を追おうと、川はガチガチに凍り、村まで氷の道ができる。セヘナイが燃える船の乾舷を飛び越えて凍った水面に着地し、村まで走った。口笛を吹くと走鳥達も炎上する船を捨てて追って来る。

上陸したご主人に追いついてキョロキョロする走鳥。その中心でセヘナイはチェルネツアをそっと地面に降ろす。それから内ポケットから帝国軍の紋様が刻まれた魔法石を取り出し、地面に叩きつけて割る。砕けた石は一瞬輝き、赤い光の玉を空に打ち上げる。それを確認してから、崩れ落ちるチェルネツアの背中を再び擦った。

「歩けそうか」

「私弱くなりました。人と扱われない事には慣れてたはずなのに、弱くなりました。こんなに心に響いて、悲しくなるなんて」

「君が弱いんじゃない。幸せになったんだ。心の傷が癒えたから、言葉の暴力で傷付くようになったんだ。傷付いたまま何も感じないよりよっぽどいい」

 チェルネツアは泣き止むどころか、声を上げて泣き始めてしまう。どうしても我慢できなかったのだ。悲しさも、嬉しさも、温もりも、こんな場面で自分の感情すらコントロールできない情けなさも。

「何度でも言うよ。チェルは素敵な人だ。私が知ってる、ゲターイさんもキイガールも知ってる。神様も君の全てを知って愛してる」

 セヘナイが引き続き擦っているとチェルネツアは膝を立て、立ち上がる意思を見せる。彼はそっと手を添えて、涙も引いてきた彼女が自立するまで見守った。

 ガサガサと草木を掻き分ける音がしてセヘナイが振り向くと、ネルボウがマスケットを抱えて追って来た。セヘナイはまだ足元が覚束ないチェルネツアを抱き寄せ、ネルボウと睨み合う。彼らは一定の距離を保ったまま左右に広がり半包囲する。

「ごめんなさい。私のせいで」

「どっちみちこうなったんだ」

 セヘナイは置かれた状況の割に冷静だった。旅の全てが無駄になり、シルカルブトへ返されるかもしれない局面だというのに。焦燥と無策に苦虫を噛み潰したような顔になったのはチェルネツアの方。

「……攻撃しましょう。私は統一戦争で罪という罪も、首級も重ねました。変わりませんよ。そして旅を続けましょう」

 チェルネツアの提案にセヘナイは言葉を詰まらせる。そこへネルボウの小隊長が現れた。

「アタ・セへナイ、大人しく連行されろ。半日もすればキイガール軍司令もエデルネにいらっしゃる」

「良かったな。歓迎会の準備でもしてろよ」

 ネルボウの魔術師が対魔法結界を張り、それとともに兵士がジリジリと距離を詰める。チェルネツアはより強気しがみ付いて、二人以外に聞こえない声で「呪文を唱えてください」とより強く催促する。

 陰から様子を見に集まっていた村人がざわつき始め、ネルボウも背後を気にする。村人を掻き分けて現れたのは騎乗した帝国軍の兵士数名。セヘナイに薄っすらと笑みが浮かんだ。帝国軍の隊長はこの状況を見るなりネルボウの小隊長に詰め寄る。

「友軍の救難信号を見て駆け付けたが。この騒ぎは何だ? ネルボウが武力行為を行うなど、聞いても無ければ申請も無いぞ」

 セヘナイが先ほど打ち上げた赤い火の玉は、統一戦争の時に鹵獲した帝国軍の魔法石。彼はネルボウがシア・インラーデ帝国領内で武力を用いる行動をする場合、どんな小さな事例でも帝国軍の治安部隊へ事前に告知しなければならず、例外が無い事を知っている。

「ただの取り立てだ。申請はしている。今にも許可証がエデルネの第二群隊司令部から届く」

「我が部隊へは届いていない。行動の自由はあるが、無申告の武力行為は商業協定第三条に違反する。直ちに武装解除し、作戦行動を完全に止めろ。許可証が届くまではピレンにいる全てのネルボウを我が部隊の監視下に置く!」

 帝国騎兵が割り込みネルボウの間で混乱と騒動が広がる最中、セヘナイはさり気なく本調子でないチェルネツアを走鳥に乗せて出発さた。その事に気が付き首をひねりながら様子を窺う帝国兵を尻目に、彼自身も走鳥に飛び乗ってこの場から逃走した。


 夕暮れて太陽が地平線に触れそうになる頃、二人は街道を東へそれる。サーテシラ東方にて地平線まで広がる常夜の森、その一端に隠れ家を求めたのだ。

 常世の森には城壁よりも高い木々が隙間なく生え、何の目印もなく入れば確実に道に迷ってしまう魔の森。しばらく森の境界に沿って走っていると馬が通れる幅の獣道を見つけ、完全に空が暗くなる前に様子を見つつ入る事にした。月明かりは生い茂る葉で遮られ、新月の夜のように暗くなる。闇に目が慣れてくると、木々の輪郭に紛れて石造りの壁や天井が崩れ落ちた建物らしいものが見えてきた。チェルネツアは彼女用に特注された後装填式マスケットに銃剣を装着し、構えながら周囲を見回る。がセへナイは無警戒に廃墟へ近寄り走鳥を降りた。

「ただの遺跡だよ。本物を見るのは初めてだ」

「どうして深い森の中に遺跡が」

「千年以上前シア人の住む土地、サーテシラの平野はもっと広かった。けど森の西方拡大で飲み込まれたんだ。きっとこれもその一つ」

 セヘナイは石の壁を触ったり撫でたり、周囲を歩き回って好奇心のままに観察を始める。チェルネツアは暫く人の気配を警戒していたが、ついに走鳥を降りて、鳥たちが逃げないように周囲の木々へ縄でつなぐ。そして荷物を下ろしてやると、走鳥達は地面に横たわって寝始めてしまった。

「みんな疲れてたのね」

 チェルネツアも大きなあくびをして、フカフカな走鳥のお腹に寄り掛かった。徐々に瞼も重くなってくる。がセヘナイの悲鳴で飛び起きた。「チェル、チェル、来てくれ!」と声だけが遺跡の方から聞こえてくる。

 マスケットを握り、声を頼りに暗闇を進む。躓いて、ぶつかって、建物の間を幾つか通り抜けた先、月光が劇場のスポットライトのように差し込む場所にセヘナイは立っていた。その足元には白骨死体。セヘナイは地面に転がっている何かを拾うと観察する。チェルネツアが一歩踏み出すと、パキパキッと何か乾いた物が割れる音が足元からした。

「そこにも一人いる。私も踏んだから人の事言えないけど、余り踏まないであげて」

 チェルネツアはその言葉の意味が分かると身の毛がよだち、悪寒にしばらく立ち竦む。足を上げるにも、その場に留まるにも勇気がいて、心を消耗させたのだ。意を決して踏み込み、数歩小走りしてセヘナイの肩にしがみ付く。そんな彼女へセヘナイは黒い球を手渡す。

「ネルボウが正式採用してる規格の弾丸だ」

「ではネルボウの襲撃に」

チェルネツアが弾丸に注目していると、頭の上にぼんやりとした薄緑色の光の玉が現れた。ユラユラと降りて来るそれらは蛍の光のようだが特定の形を持たず、数十で森を下から照らす。「夜光蟲だ」とセヘナイが呟く。夜光蟲の明かりで二人はお互いの顔がよく見えた。遺跡の輪郭も、鬱蒼とした木々の影も。比較的新しい敷物、並べられた皿、腕が取れた人形、先程まで沢山の人間が生活していたような空気感さえも照らし出す。白骨死体は少なくとも十体以上あり、先程チェルネツアが踏んだ物は子供の死体に覆いかぶさる女物の服を着た大人の死体だった。

セヘナイは他にも周辺に転がるものに目を向ける。パルミティア王国旗、サリクス教の祭壇。死体が握る安っぽい銃は全てイリッタ元老院が反帝国組織にばら撒いている量産品。

「ここはパルミラ人が山賊行為の拠点として使っていた場所みたいだ。だから掃討作戦の対象になったんだろう」

チェルネツアはポシェットから小さな本を取り出すと、足元の死体の前で両手を組んで片膝をつく。

「祖国を追われた哀れな者達。あなた方の冥福を祈るとともに、墓所を間借りする我々をお許しください。サリクスの神々よ、この者達の魂を安らかな地へ導きください」

純心で冥福を祈るチェルネツア。だがセヘナイは罪悪感に躊躇する。元老院のパルミラ人勢力支援策にも、ネルボウの山賊掃討作戦にも知恵を貸してきた。知識として知っている悲劇の現場を自分の目で見た不快な感覚は、統一戦争で知った物とは別物だが、同等の重りとなって彼にのしかかった。こういう時キイガールなら祖国の為と割り切れるのだろう、とも考えた。だがゲターイなら迷わず祈れと言うと思い、チェルネツアに続いて死後の世界での幸福を祈った。

チェルネツアが一人一人に向けて祈っている間に夜光蟲の群れは地面擦れ擦れまで高度を落とし、白骨に群がる。セヘナイは拾った薄い木の板で群がった夜光蟲を扇ぐと、埃のように上の方へ舞い上がっていった。その様子をチェルネツアが不思議そうに見ていると「こいつら腐ってるなら木でも肉でも骨でも、何でも食うんだ」と答える。

不吉の兆候と怖れられる夜光蟲。だが彼らが群れて浮遊する様子は幻想的で、時には森が発光してるように見える程集まる。常夜の森を夜に遠くて高い所から見下ろした時、その光景を『地上の星空』と呼ぶ。加えて死体がこれだけありながら空気が淀んでないのは彼らのお陰でもあった。

 チェルネツアは夜光蟲の明かりを頼りに遺跡から離れ、走鳥達の元まで戻り夕食の準備をする。深めのお皿にエールビールを注いで、それに硬パンを浸す。ジャムと干し肉を準備すれば完了。遅れて戻って来たセヘナイにタトゥーの補修をしてもらってから食事にした。

 エールビールに浸し湿らせても硬すぎて噛み千切れないパン。セヘナイは金槌で叩き潰し、ボソッと「このパンで釘が打てそうだ」と笑いにしてからもう一度浸す。

 チェルネツアも金槌を借りてパンを叩き潰しながら、昼間のモヤモヤがぶり返す。街道を逃げていた時、涙が治まり悲しい気持ちも冷めてくると、胸の奥が何故かイライラしたのだ。

「セへナイさん、どうしてピレンの村でネルボウを魔法で攻撃しようとしなかったんですか」

 当たり散らすような口調に、パンを噛み千切ろうと四苦八苦していたセヘナイは二度瞬きをして口の中の物を飲み込む。

「あいつら、殺したいほど憎かった?」

「そんな気持ちじゃないです! ともかく次は躊躇しないで」

 彼女は自分がどうしてここまで腹立たしく思ってるか分からなかった。だが滲み出るガムシャラな苛立ちが抑えられない。

「結果死んでもいいでしょ。私がこの旅を止めたくないです。だけじゃなくて、戦える私が道を開くの。戦いの為に私が傍にいるんでしょ。それとも、セヘナイさんの大魔術を探す夢は二日目で諦められる程度なんですか? だったらガッカリですよ。あれだけ大口を叩いておいて、情けないと思わないんですか?」

 セヘナイはエールビールを一口飲むと、乱暴に言葉を叩きつけるチェルネツアの手を両手で包む。

「あの時の殺人も辞さない姿勢は贖罪なんだろ、不甲斐なさへの」

「殺人が、贖罪? どうして。馬鹿げてる!」

「神に対する罪を背負う事で、自分を罰したいだけなんだ! 罰してくれない私の代わりに!」

 怒った顔で怒鳴り返され、チェルネツアはスンと静かになった。そこへ表情が柔らかくなったセヘナイが改めて優しく語り掛ける。

「聞いて。私はチェルと一緒にいたかったから旅に連れてきたんだ。決して戦いの為じゃない。だから何が起きたってチェルのせいにはならない」

「……一緒にいるだけでいいんですか」

「ああ」 

 チェルネツアは視線を逸らし、顔を下ろした髪の向こうに隠す。

「不安です」

「徐々に不安は取り除いていこう。お互いに努力して。たださっきの暴言は見過ごせない。私の夢を悪く言われて傷付いた。次さっきみたいな事言ったら本気で怒るから」

シュンとした「……はい」という返事に、セヘナイは微笑んで頭を撫でる。

「過去の事は水に流して、これからを考えよう。まずは教皇府に行って、何かヒントを拾う。一緒にね。だから元気出して」

「がんばります……」

「無理しない程度に。チェルが私の味方をしてくれたように、私もチェルの味方だから」

 そっと二人の手が離れ、夕食は再開された。無言のまま終わったが、就寝の準備の最中チェルネツアは徐々に口を開くようになって、普段以上にユーモアを交えてセヘナイが返せば、始めは控えめに段々と普段通りに笑うようになった。眠りに付くまでの短い間に感情の嵐が止み、二人はそれぞれ別の理由で安堵する事ができたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る