黄河さなかの鼻水をかませてください

りるか

人生で一度も

2年B組の教室の窓際に、綺麗な黒い髪の毛をたなびかせながら、

黄河さなかは今日も校庭を眺めている。

彼女の周りにはまるで一輪しか花が咲いていない砂漠の様に、

誰も寄り付かない。

隣の席の俺も、物理的には一番近くの距離にいて、

手を伸ばせば触れることだってできるのに、

話したことすらもない。


さて、突然だが、実は彼女は人生で一度も鼻をかんだことがないそうだ。

何とも恐ろしく、どうでもいい情報だろう。

寧ろこの情報を持っていることに対して、

若干の気持ち悪さも覚え、今頃顔をしかめているかもしれない。

しかし、これは別に俺がストーカーをしたり、

彼女から無理やりに聞き出した情報ではない。

何故俺がこんなピンポイントな情報を知っているのか。

それは、何を隠そう彼女が自ら公表してきたからである。


遡ること新学期当日。

この日は、新しいクラスで周りが一段と大きな盛り上がりを見せるときだ。


「おっ、今年も同じクラスじゃん!よろしく!」

「ねえお昼一緒に食べよ~!」

「てか担任誰かな?緩い先生がいいな~。」


1年生の頃とは違い、2年生になると部活や共通の友人の繋がり等で、

既にいくつかのグループが出来上がっている。

運動部や軽音部のカースト上位組は、

既に男女で合体しクラス内でも一層の盛り上がりを見せていた。

対照的に、大人しい奴らは固まることはなく、

個人個人でスマホをいじったりぼーっと外を眺めたりしている。

肝心な俺はというと、1年の頃仲が良かったメンツとは離れ離れになってしまったが、

バスケ部の同級生2人が同じクラスだったために、ホッと胸をなでおろしていた所だ。

席に座り教科書を机の中に入れていると、

その2人がニヤニヤしながら近づいてくるのが見えた。


「おっす。」

「おぉ。同じクラスに話せる奴がいて安心だわ。よろしくな。」

「よろしく~。部活の連絡取りやすいから良かったよ。」

「前はクラスに俺しかバスケ部いないから、

至急の時はわざわざ伝えに来てくれてたもんな。」

「そーそ。まぁ改めてよろしくな。」


運動部のノリで軽く拳を合わせて笑い合う。

この2人、渚と礼緒は幼馴染同士である。

渚は俗にいうモテ男に分類される。

茶色に少し癖のある髪の毛。キリっとした目つき。

長身×運動神経抜群×整った顔。

一緒に街に遊びに行った時には、モデルのスカウトにもあっていた。

これだけであればパーフェクトヒューマンだが、

残念なことに素直に言いすぎるところがたまに瑕だ。

(一部の女子にはそこも真っすぐで良い所だと言っていたので

もう俺から言うことは何もない。)


礼緒はそんな渚の歯止め役。

渚とは対照的に、くりっとした大きな瞳に色素の薄い髪。

165cmとバスケ部にしては小柄だが、

あどけない笑顔や誰に対しても柔和な対応は男女関係なく好かれている。

1年の頃、最初に声をかけてくれたのは礼緒だったし、

クラスが違うことで仲間外れにならないようにと色々と気を使ってくれた。

優しくて頼りになるいい奴だ。


そんな2人が同じクラスであることに、改めて感謝する。

それから目の前で繰り広げられている、

「この後の始業式だるいな」とか、

「ついに俺たちも先輩になるんだな」とか、そういう会話を聞きつつも、

俺は脳内では少し違うことを考えていた。

この考えは、どちらかというと、いや、かなり最低な考えかも知れない。


『これで新学期早々、ボッチになってカースト下位に属する心配はないだろう。』


なんて、あまりにも身勝手な内容なのだから。


学生生活において大切なこと。それは平穏に暮らすことだ。

何もカースト上の上になる必要はない。

中の中から中の上くらいにいればいいのだ。

高校生活なんて人生でたったの3年しかない。

その貴重な時間を、悲しかったり、嫌な思い出で消費したくはない。

これは、誰しもが思うことだろう。

だから俺も、そうやって今まで無難にやり過ごしてきた。

この学校という狭い社会、もとい牢獄の中で、

今まで虐める側にも虐められる側にもならなかった。

それが自分の過ごし方が間違えではないということを何よりも顕著に物語っている。


だけど、それは同時に「無難すぎる生活」を示してもいた。

来年にはもう3年生になる。

もしもちょっとした冒険をするのだとしたら、きっと2年生という今しかないのだろう。

幼稚園の頃みたいに無邪気に人を傷つけて、自分が楽しければよかったあの頃。

その気持ちも楽しみ方も、もう思い出すことが出来ない。

この1年で俺が何か変わることが出来なければ、

きっと社会人になっても、家庭を持っても、自分はずっと無難で平坦な道を進んでいく。

そんな気がしてしょうがなかった。


教室を見渡せば、早速どこの輪にも入れずずっとスマホをいじっている奴や、

カップル同士クラスが同じでいちゃついている奴。

そして、誰にもこびず一匹狼の美少女。

明確に表れているこのカーストというピラミッドが、

数年後にはどうなっているのだろう。

その時俺は、やっぱりずっと真ん中にいるのだろうか。


「本当に、これからどうなってくんだろうな。」


変わりたい気持ちと、変わりたくない気持ち。

どちらかを手に入れていると、どちらかが青く見えてしまう。

ないものねだり。あぁ、人生は何て面倒くさい。


そう一言呟いて、将来への不安を馬鹿にするように小さく鼻で笑った。


そして、何事もなく終えた始業式の次の日。

俺はHRでとある紙を目の前にちょっとうんざりしている。

何故なら、高校生、しかも2年生にもなって、

自己紹介カードなるものを書かなければいけなかったのだ。

何でも俺らの副担任が新人教師だったため、

彼女が早くクラスや教育の場に慣れるためにもこんなものを用意したらしい。

「教育の場に慣れるかどうかなんて本人次第だし、これ関係なくね?」とも思ったが、

反論する程嫌な訳でもなく、反論した所でどうにかなる訳でもない。

相変わらず無難な選択ばかりをしているなと気付いてはいても、

知らなかったフリをしながら蓋をした。


「先生はこれを見て皆さんのことを少しでも早く覚えるように頑張るので、

真面目に書いてね~!」


皴もなく日焼けもしていない綺麗なスーツを着た姿は、

初々しさと眩しさを兼ね備えている。

とはいえ、こちらも高校生の思春期真っ盛りだ。


「先生は書かないの~?」

「これ真面目に書いたら成績上げてくれる?」


など、早速クラスのおもちゃのいいターゲットになるのは、まぁ言うまでもない。

上手いかわしかたがまだ分からない様子で作り笑顔をしていると、

それを隅の方で見守っていた担任が一度目を光らせる。

この担任は別名『陰険クソ爺』と言われている程、厄介で恐ろしいことで有名である。

そんな奴に目をつけられては面倒だと、今までキャッキャ声を上げて馬鹿にしていた連中も、

怒られた子犬の様に少しだけ静まり返る。

この一瞬だけでも、このクラスが大体どういうクラスなのか良く見て取れる。


時計の針が15分を刻んだとき、後ろからカードを回収する様に指示が出た。

一番前の席の人が隣の人に渡しあい、それを先生が一つの束にまとめると、

「昼休みまでには全て教室前の廊下に張り出す」とのことだった。

小学校の習字みたいだなとも思ったが、

折角なので昼休みになったら3人で見に行くことにした。


昼休みが始まると、せき止めていたダムが決壊したかのように、

一斉に騒がしくなる。

俺たちも昼飯を食べ終えた後、廊下へと繰り出した。

どうやら他のクラスまでもが見学に来ているため、

ここまで騒がしくなっている様だ。

「え~何か恥ずかし~」と口元を抑えて大げさなリアクションを見せる女子たちを横目に、

自分は別に見られて困るような内容も書いていないので、

何食わぬ顔で廊下に張り出されたその紙を一枚一枚見る。

先生頑張ってみんなのこと覚えますアピールのためのカードだと思っていたが、

その意図がちょっとだけ理解できた。

それくらい、このカードは「性格の塊」だったからだ。

まず文字1つでも読み取れる要素が多すぎる。

自信なさそうに小さく端っこに書いている奴は、

クラスでもあまり目立たない奴。

逆に、でかでかと馬鹿っぽく枠すらもはみ出す文字は、

クラスで空気が読めないと言われている奴。

可愛いけど社会人になったら大変だろうなという文字は、

ギャルでカースト上位の奴だった。


なるほど。確かに1分間スピーチとか下手な自己紹介をさせるよりは、

よっぽど効率的な方法だ。


中でも「自分の長所」を書くところは、かなり性格が出る。


「身長が180cmある所」や「ぱっちり二重なところ」など外面的なことを書く奴もいれば、

「料理が得意なこと」や「物を覚えるのが早い」など内面的なことを書く奴もいる。

中には、「SNSのフォロワーが〇万人いる!!」や

「人を笑わせるのに命かけてること笑」など

斜め上の回答もあった。

なるほど。恐ろしい程に何とも分かりやすい。

かくいう俺はというと、特にこれといって自慢できることもなかったので、

適当に「徹夜しても元気な所」と書いた。

長所かと言われると微妙ではある。

だが、別に誰かに反感をかうような内容でもなく、

突っ込まれる程面白い内容でもないのでこれで良しとした。


段々見ていくうちに目が滑りがちになっていったので、

少し目線を外して周りを見渡すと、とある紙の前で人だかりができていた。

ひそひそと小声で話していたり、

くすくすと笑い声が漏れている辺り、

ここに集まっている理由はあまり良い内容ではないのだろう。


「なぁ、あそこ何で集まってるんだ?」

「知らね。」

「そんな面白いことかかれてるのかな?」


2人に問いかけると、同様に視線の先を合わせて首をかしげる。

多分、ここで礼緒が言っている面白いと、

こいつらが見ている面白いは、別の意味をさしているのだと思う。


気になって近くに寄っていくと、

もう一通り笑い終えたのであろう一味がその空気を残したままスッと去っていった。

どうせ悪目立ちでもしたい奴がふざけたことを書いて滑ったのだろうと予想しながら、

小さく息を吐く。


そして、やっとご対面したその紙の名前には、全く予想だにしていなかった人物の名前がある。

『黄河さなか』。

隣の席の、一匹狼美少女の名前だ。


綺麗な字で丁寧に書かれているそれのどこに笑われるような要素があったのか。

本人からも、ウケを狙いに行っている雰囲気は今の所感じられない。


しかし、一つ一つ回答を見ていくと、とある回答を思わず2度見…いや、3度見した。


『長所:鼻をかんだことがない。こと』


「えっ。」

思わず声が漏れる。

隣の2人も目を大きくさせて驚いていた。


これはウケを狙ったのか?

それとも、真面目に答えているのか?

本人への勝手な先入観では、真面目に答えている方に天秤が傾いている。

今の所誰かと楽しそうに話している様子も見かけたことはないし、

1年生の頃は別のクラスだったが、目立った噂も聞かなかった。

とはいえ、このクラスになってまだ日にちもそう経っていない。

もしかしたら本当は陽気な性格なのかもしれないし、

何ならちょっと遅れた高校デビューなんていうことも考えられる。

ベールで包まれまくっている彼女が更にもう1枚ベールで包まれて、

もう本当の姿が全く見えなくなっていた。


「これ、マジなのか?」

「うーん、どうだろうね。でも本当だったらすごいよね!

風邪とかもひいたことないのかな?」

「だとしたら、人生で風邪一回も引いたことないことの方が長所な気もするけど…。」

「いや、てか普通に考えてありえねーだろ?

黄河さんってこういうの書く人だったんだな。何かウケる。」

「もー。渚のそういうの辞めたほうがいいと思うよ。

いつか大変なことになっても知らないからね。」

「お前は俺の両親かよ。」

「良心ではあるよ。」


よっ、うまい!何てちょっとおちゃらけて、

少し重くなりかけていた空気を軽くする。

礼緒の言う通り、渚には少し無遠慮な所がある。

良く言えば正直。悪く言えば失礼。

思ったことを何でも言ってしまうのだ。

だって、多分ほとんどの人がこれを見た時に思ったことだろう。

『ありえない。』

だけど、それをこうもはっきり言葉に表す人はそうそういない。

つまり渚とは、そういう奴なのだ。

何はともあれこの自己紹介をきっかけに、黄河なぎさのイメージが、

「少しとっつきにくい美女」から、「変わり者の美女」になった出来事である。


それからというもの、特に俺の身の回りに変わったことは何も起きない。

平凡で、あまりにも何事もない日常を送っている。

しかし、彼女の周りにはあの一件以来、尚更近くに誰も寄らないようになった。

隣の席なので観察がてらちょくちょく様子を見ているが、

蚊が目の前をうろつこうと、肩に蝶々が止まろうと、

何も動じることはなさそうな程、微動だにしない。


あのカードをもっと無難に書けていたのなら、

もしかしたら彼女の周りには今頃違う景色が見えていたのかも知れない。

だけど、彼女はそれをしなかった。

自ら選んだことなのか、たまたまそうなったのか。

その真意は分からないが、あの時から俺の好奇心は何故かずっと彼女に向いている。

彼女と仲良くなれたら、俺の中の人生が少しだけ平凡からずれる気がする。

なんとなく。本当に何となくだけど、

彼女が自分の人生に何らかの化学反応を起こしてくれる予感がした。


そして、そんなことを思っていたのも束の間。

案外彼女とは早く接点を持つ出来事が発生した。

それは、英語の授業の時だ。

この教師は、授業へ入る前に小テストを行う。

小テストの中身は前回の復習で10問くらいの簡単なものであり、

終わった後は隣の席の人と交換して丸付けをすることになっている。

最初「はい、じゃあ隣の人と交換して~」と言われた時は一瞬かなり動揺し、

ちゃんと交換してくれるだろうかと疑問に思いチラっと隣を見た。

所がその不安は杞憂に終わり、彼女は長い髪の毛を耳にかけながら、

細くて白い指でこちらにテストを渡して来る。

少し驚きながらも、表情には出さないように交換すると、

返ってきたときにはしっかりと丸を付けてくれた上に、

綺麗な文字で訂正もしてくれていた。

言葉を交わした訳ではないが、

返された紙と隣で何食わぬ顔で満点のテストを仕舞う彼女を見て、

意外な一面を知ったような気持ちになった。


あれからそんな些細なやり取りのみで繋がっている関係だったが、

この日も無事に「10/10」と書いたテストを返却し、

いざ授業が始まろうとした瞬間、突然校内放送が入った。


『先生のお呼び出しをします。英語担当、竹中先生。

英語担当、竹中先生。お電話が入っております。至急職員室へ来てください。』


その放送が聞こえた瞬間、一斉に先生の方へと顔が向けられる。

当の本人は、少しばつの悪そうな顔をした後に、

「ってことで、先生急いで行かなきゃいけないから帰ってくるまでは自習~。」と言って

足早に去っていった。


こうなるともうこの空間は俺たちのものである。

目線を外せば、椅子をカクンカクンさせながら後ろの友人と話し出す奴や、

スマホをいじってゲームをする奴。

色々な音が混じり合い、

教室はクレッシェンドされていくまとまりのない音楽団の様になっていた。


少なからず俺も真面目な性格ではないため誰かと話したい所ではあるが、

渚も礼緒も話せる距離にはいないし、

近くの奴は既に自分の世界に没頭していて話しかけられる雰囲気ではない。


普段ならここでスマホでもいじっている所だが、

ふと一つの考えが頭をよぎった。

これは彼女と話すチャンスではないか?

隣の方にチラっと目線を配ると、

彼女はぼーっと窓の外を眺めている。

端的に言えば、俺は彼女と話をしてみたいのだ。

他の授業なら自習になった所でこうは思わないが、

先ほど俺は彼女と丸付けの交換をしていた。

好きな子と話すのに必死になって話題を探す初心な小学生の様なやり方ではあるが、

これを逃したらいつまた星が巡ってくるか分からない。

自己紹介カードに書いていたあの真意も気になるが、

まずは不自然になりすぎないレベルで話をすることから始めたい。

いつもなら好機の目に晒されるような場面かも知れないが、

テスト用紙でもちらつかせていれば、周りの奴らも

「さっきのテストで聞きたいことでもあるんだろうな」位にしか思わないだろう。


今なら大丈夫。むしろ、今しかない。

自分の平坦すぎる道に、ちょっとだけ遊び心を持たせたいなんて、

あまりにも自分勝手すぎる理由。

そんな理由で近づいてしまうのも申し訳ないが、

このままずっとこの道が続くのも心がどうしようにもなくざわついて仕方ないのだ。

少しだけ呼吸を整えて、テスト用紙を少しわざとらしくパタつかせ、

彼女の方へと振り向く。


「あのさ、さっきのテストのこと、で、ちょっと聞いてもいい?」

「…。」


一生懸命振り絞りすぎてちょっとだけ詰まった声に、彼女はうんともすんとも言わず、

ゆっくりとこちらへ首を向けた。

これはOKということか?よく感情が汲み取れないが、

取りあえずは会話を続ける。


「俺、いっつもここ間違えちゃうんだよね。

『liar』って。『liear』とか余計なの書いちゃう。」


先ほど直してもらった所を指で刺して、

ちょっとヘラヘラしながらあえて馬鹿そうな雰囲気を醸し出す。

自分が下手に出ることで、取っつきやすさを演出するためだ。

しかし、彼女は相も変わらず一言も話さない。

何なら瞬きすらしていない。

感情のないマネキンと話しているような気分になり、

ひゅっと喉がなったのを感じた瞬間、彼女の視線にまともに答えられなくなった。

しかし、ここで会話を終わらせたら、次はもういつ話せるか分からない。

拳を少し強く握って、もう一度彼女の方を向く。


「あ、あのさ。黄河さんって、毎回満点だけど、

何か覚えるコツとかあるの?」

「コツも何も、毎回テストは前回の新しい単語から出てるじゃない。

それを覚えたらいいだけよ。」


会話をしてくれたと一瞬笑顔を見せたのが恥ずかしい程、

バッサリと解決された。

仰る通り過ぎて今度はこちらの口も思わず開いたままフリーズする。

確かに前回の授業で習った新しい単語をそのまま覚えていれば間違えることもない。

彼女は由来とか語呂合わせとかそういう紐づけで覚えるよりも、

暗記した方が早いタイプなのだろう。

それならコツもなにもない。

ずっと貯めてきた勇気が秒で終了してしまった。


そうして再び沈黙が流れる。

彼女の中では、ただの隣の席の人から、

ウザ絡みしてくる隣の席の人に格下げしてしまったことだろう。

先ほど華麗に決まったボディーブロー級の回答の傷をまだ抱えながらも、

ここまできたらもうやけくそだ。

一度電信柱にぶつかった車を、再度アクセル全開で踏み、

真っすぐとぶつかっていく。


「えーっと、あのさ。」

「なに。」

「自己紹介カードに書いてあったあれ…」

「鼻をかんだことがないこと?」

「そう、それ。あれって本当なの?」

「本当よ。そんなしょうもない嘘を書いてどうするの。

もしも嘘を書くのなら実は魔法を使えるとか、

手から石油を出せるとかもっと大胆なことを書いてるわ。」

「そ、そうだよね。」


後半の例えはいまいちよく分からなかったが、

眉毛一つ動かすことなくそう答えるので思わずこちらがぎこちない笑顔を見せることになった。

こんな例えがパッと思いつく位なのだから、彼女は案外お茶目な所があるのだろう。

本当の彼女の姿をもっと見てみたいところだが、

何層にも纏われたオーラを引きはがしていくのはなかなか骨が折れそうだ。

聞きたいことも聞けたしこのまま会話を終わらせるべきか考えていると、

予想だにせず彼女の口が動いた。


「悪魔の証明ね。」

「えっ?悪魔の証明?」

「やっていないことを証明するのは、ほぼ不可能に近いということよ。

私が鼻をかんだことがない、嘘じゃないですと何度言った所で、

生まれてからずっと監視カメラを回していたり、何かそれを裏付ける証拠でもない限り、

証明のしようがないってこと。」

「なるほど。」


聞いたことがなかった言葉に対して、スムーズに説明をしてくれる。

そのことに腕組みをして感心しながら見つめていると、

ここに来てやっと彼女の目線が俺を捉える。

その瞳は、決して熱を灯すことはなく、その冷たさで一瞬にして心臓を氷漬けた。


「とどのつまりあなたは、私が嘘をついていると言いたいのでしょう。」

「えっ!?」

「あぁ。正確には、どちらでもいいのね。

私が実は嘘でしたといっても、『なーんだやっぱりか』って笑い流せる。

本当だと言っても、『やっぱりこの人はちょっとおかしい』って、

自分の考えに自信が持てる。違うの?」


言い返す間もない位に饒舌なその様は、驚くほどに的確で残酷。

ダーツで言えばスリー・イン・ザ・ブラック。

ボウリングで言えばターキーだ。


「別にそういう意味じゃない」と否定しても怪しまれる。

というか、否定した方が惨めになる気がする。

「あはは、バレたか!」と肯定したところで、

それもそれで軽蔑される。

まぁ、この様子から見るにもうされていはいるだろうが。

完全に詰んだ状況である。

ここで関係を終わらせないためにはどうすればいいのか。

このままでは、『ただの隣の席の人』から、『ウザ絡みしてくる隣の席の人』に

下がっただけではなく、

『人のことを試すような性格の悪い隣の席の人』へと更に格下げしてしまう。

何とか返さないと咄嗟に口を開きかけるが、その口が言葉を発することはなかった。


「別にどっちでもいいわ。あなたに興味もないし。」


ふいっと顔を背けながらさらついた髪の毛だけを宙にまとわせ、

またもや沈黙が流れ出す。

最悪だ。自分が思っていたよりも最悪の状況になってしまったことに冷や汗が流れる。

最初はちょっとした好奇心だったが、

今となっては何故か這いつくばるように必死になっている。


俺への興味がないことは分かった。

だけど、ここで引いたらこのまま興味は0どころかマイナスのまま。

自分の人生のために利用しようとしていることはわかる。

自分はどうしようにもなくエゴイスト。

思い出せ。子どもの頃の遊び心。


周りの音がノイズの様に耳元で大きくなっていく。

彼女の方を向いたら、たまたま目が合った。

その瞬間、全てが一瞬だけ自分の中で消え去った。


「こんな流れから最悪だろうけどさ。」

「なに。」

「俺と、友だちになってくれませんか?」


つまらない日常からの第一歩。

だけど、踏切板を思いっきり踏んづけて飛んだ位の、

大きな一歩。

祈るような思いで、彼女の綺麗な瞳を見つめる。


「どう、かな?」

「え、嫌よ。」


即答。

玉砕。

世界が一瞬で真っ白にも真っ黒にもなった。

思いっきり張本人なのに、彼女はまるで赤の他人の様な物言いで続ける。


「そもそも、男女に友人関係なんて成り立たないと思ってるもの。

成り立つのは恋愛関係か身体の関係だけよ。」


仮にも周りにも人がいるというのにサラッととんでもないことを言っている気がするが、

本人は相も変わらず顔色を一つも変えない。

それに俺も負けじと食らいつく。


「じゃあ、俺がその第一号になるっていうのは無理?」

「身体の?」

「友人の!!」

「だから、そんなもの成立しないのよ。」

「なら聞くけど、今俺のこと好き?」

「好きではないわ。無よ。」

「無…。ま、まぁそうだよね。

それならさ、少なからず恋愛関係の選択肢は消える訳だろ?」

「えぇ、そうね。」

「そんで、お互いに望んでいる訳じゃないから、

身体の関係にもならないじゃん?」

「まぁ。」


彼女は若干面倒くさそうだが、一応受け答えはしてくれている。

嫌いだと言われなかったことに、少しだけ胸をなでおろした。

周りの声が段々と小さくなっていることに気付き時計を見ると、

結構時間が経過している。

先生もいつ戻ってくるか分からない。

ここは一気に畳みかけなければ終わってしまう。

心の中の法螺貝を大音量で鳴らしながら自分で鼓舞する。


「だからさ、今は何者でもない俺だけど、

もしかしたら、無から友だちになれるかも知れないじゃん。」

「根拠は?」

「少なからず幼稚園とか小学校低学年の頃とかは、

友人関係だった人も多かったと思うよ。」

「ごめんなさい。私昔からそういう相手いなかったから分からないわ。」

「なら、分からないから、友情関係は成立しないと決めつけてるだけだよ。」

「とんでも理論ね。言ってることがめちゃくちゃだわ。

はぁ。もう面倒くさいし、勝手にすればいいじゃない。」


粘り勝ち。彼女ももうお手上げといった風に、

俺に聞こえる位のぎりぎりの大きさのため息をついた。

法螺貝で奮起していた俺の軍も兜を放り投げて歓声を上げている。


『鼻をかんだことがない。』

そんなたった一言で、この瞬間、

少なからず俺のつまらない人生がパステルカラーに染まり始めた。

彼女が勝手にすれば良いと言っているのだから、

このままでもう一歩だけ踏み込みたい。

どうせ断られるのが関の山だろうなと思いつつも、

スマホを取り出して笑顔で問いかけた。


「あのさ、良かったらRINE交換しない?」

「いいわよ。」


今回も即答で無理と答えられると思っていたので、

予想外の回答にこちらの方が金魚の様に口を開く。


「マジ?」

「何を驚いているの?意味が分からないわ。あなたが言い出したことよ。

そんな態度をとって、とても失礼だと思わない?」

「ご、ごめん!ちょっとびっくりしちゃって。

あの、はい。ぜひとも交換してください。」


手に持っていたスマホが汗で滲みだしていたが、

悟られないように涼しい顔でRINEの画面を開いていく。

しかし、「先生がいないとはいえ、授業中にスマホはいじりたくない」と

平然とつっぱねられたため、元気に光っていたスマホも本来の暗さを取り戻してしまった。

これは休み時間にもう一度話しかけてこいということか、

それとも放課後まで待てと言うことか言葉の意図を探っていると、

何やらルーズリーフを取り出しは何かをサラサラと書き始めた。

何をしているのかよく分からず、ただじっと見つめていると、

びりっと小気味よい音を響かせその欠片をこちらへと渡して来る。


「IDよ。」


突然渡されたクリスマスプレゼントの様な反応で

ゆっくりとその紙を受け取る。

そこにはいつも通りの綺麗で繊細な字でIDが書いてあった。

気を抜けばにやけているのがばれてしまいそうだ。


いつの間にか、周りの目など気にならない自分がいる。

もしかしたらこのやりとりだって、クラスの誰かに見られていたかもしれない。

それでも良い。彼女と距離が少しでも縮まったことが、何よりも嬉しかった。

そして、丁度よいタイミングで、先生が少し辟易としながら戻ってくる。


それからの英語の授業はなかなか頭に入らず、

机の中で貰ったメモを何度も見直していた。


こんなにも早く学校が終われと思ったのは生まれて初めてではないかというほど、

その日は残りの授業が長く感じた。

待望の放課後、俺は小走りになりながら家へと帰った。


部屋に入りシャツがしわしわになることも気にせず、

ばふっとベッドに横になりながらポケットから紙を出す。


「そういえば、アイコンって何にしてんだろう。」


密かに気になっていた彼女のアイコン。

アニメや芸能人の顔をアイコンにしているのは全く想像が出来ないし、

動物やお花というのもちょっと違う気もする。

ベッドとは対照的に綺麗にしまい込んでいた紙を見つめながら、

一文字一文字丁寧に打ち込んでいく。

すると、『黄河さなか』という検索結果が出た。

ニックネームやローマ字表記にする人も多い中、

フルネームで登録するのも何とも彼女らしい。

そして気になっていた答え合わせは、まさかの初期アイコン。

しかし何故だか妙にしっくりきた。


登録の申請をしながら、最初に送るメッセージを考える。

変な駆け引きやつまらない冗談は彼女にきかないということを

今日だけで嫌と言う程理解していた為、

無難に最低限のメッセージだけを送った。


『井原 十里です!今日はありがとうございました!

よろしくお願いします!』


文章の後に、女子受けしそうなモルモットの『よろしく』という

スタンプを一緒に送る。

送ってからはいつ返信が来るか分からず、

いつもの3倍くらいスマホを気にしていた。

しかしふと、「そもそもすぐに返信をするタイプでもなさそうだな」と思い、

一度飲み物を取りに下へと降りようとした所、

ブブーっとスマホが鳴った。

その一瞬で心臓が跳ね上がり、急いでスマホを開く。

するとそこには、

『黄河さなかです。宜しくお願いします。』という絵文字も顔文字もスタンプもない

業務連絡の様な内容が書かれていた。

期待を裏切らないながらもあまりに予想通り過ぎてちょっと笑ってしまった。


それから、明日の課題のことや、テスト範囲のことを聞いたりといった、

何気ない話題をいくつか投げかけてみる者の、

Botが相手なのではないかと思う程、業務的な回答しか得られない。

返信を貰っているだけでも喜ぶべきだろうが、現状に満足すると

人間と言うのはどうにも欲が強くなっていっていけない。

この興奮と嬉しさで色づいた感情に名前を付けるのは、

もう少し先延ばし手にしておこう。


明日からの日常が、今までよりもちょっとだけ楽しみになった。


それから数日経過したが、特に進展らしい進展はない。

RINEも、彼女からくることはなく、いつも自分からしていた。

お近づきになるというミッションはクリアしたが、

勢い任せだったのでここから先の展開はそこまで考えていなかったのである。

さてどうしたものかと口を尖らせながら少し考えていると、

礼緒が顔を突然顔を覗き込んできた。


「難しい顔してどうしたの?何かあった?」

「えっ!?あぁ、いや。何でもないよ。あれ、渚は?」

「今日はお弁当忘れたから、学食で他の友だちと食べるって。」

「そうだったんだ。」


いつもなら渚と礼緒の席の近くで食べているのだが、

今日は渚がいないために礼緒からこちらへ来てくれたのだろう。

彼には笑顔で返しつつチラっと隣を見ると、

今日も変わらず涼しい顔をした彼女が一人で弁当を広げている。

すると、彼が机をくっつけようとクルっとした時、

礼緒が彼女の方を見て一瞬目を輝かせた。


「わぁ!黄河さんのお弁当、彩もすごく綺麗でおいしそうだね!」


屈託のない満面の笑みでそう話しかける。

その様子に、彼女は一瞬目を大きくして驚いて見せ、

俺も全く同じ表情を浮かべてしまった。

俺が彼女に話しかけるのにどれだけ周りの目を気にして、

どれだけの勇気が必要だったことかと嫉妬にも近い感情を覚えたが、

そんなのは礼緒の知ったことではない。

彼がそう声をあげても、

周りが大して驚きもしないのは彼が彼たる所以だろう。

各所から視線を受けて、本人もそれに気が付いたのか、

手をぱたつかせて必死に弁解する。


「あっ、ごめんね!?自分のお弁当勝手に覗かれるのとか嫌だよね。

俺、自分でお弁当作ってるんだけど、気を抜くといつも茶色くなっちゃってさ。

だから黄河さんのお弁当が目に入った時に素直に感動しちゃったんだ。」


少しだけ目を伏し目がちに話す所を見ると、

やはり下心などは一切なかったのだろう。

今まであまり気にしたことがなかったが、

今日の礼緒の弁当は、生姜焼きに煮物とおかかのご飯で確かに茶色が目立つものだった。

それでも、自分で作っているだけ毎日すごいなと感心している。


とはいえ、いくら礼緒相手でも、

彼女的には急に声をかけられて不快に思ったかもしれない。

「これくらいネットで調べれば誰でも出来るでしょ」とか、

結構冷たく返されるのではないかとひやひやしてその行く末を見守った。

最悪、俺が間に入ってその場をアシストしなければならないと、

一瞬拳に力が入る。

しかし、その予想は大きく外れることとなった。


「あなたのお弁当も、栄養面を考えていることは何となくわかるわ。

彩を気にするなら、生姜焼きにピーマンや人参を入れると少しは華やかになるわよ。

後は空いたスペースにブロッコリーやトマトを入れたりね。」


思ったよりも饒舌で、思ったよりもちゃんとしたアドバイスに、

口をあんぐりと開け一瞬呆気にとられた。

これが俺に対して「無理」「嫌」と即答してきた人と同一人物なのか?

心なしか彼に対する視線も少し優し気な気がする。

確かに礼緒は老若男女問わず好かれやすい系統にあるが、

彼女までもその対象内に入っているとは、何とも恐ろしい男だ。

あるいは、もしかして礼緒のこと好きだったりするのか?


モヤモヤとうずうずが混ざり合い口をへの字にしている俺をよそに、

彼はぱぁっと顔を輝かせる。


「そっか!俺いつも空いたスペースにはお米を突っ込んだり、

生姜焼きも玉ねぎが真っ茶色になるまで炒めちゃうから余計にそう見えるんだね。

アドバイスありがとう!早速明日から実践してみるよ!」

「大したことではないわ。」


彼女のその表情は、どこか顔を赤らめているように見えた。

礼緒に下心はない。

誰に対しても平等にこういう奴だから、

彼女だけに好意を抱いているというのは考えにくい。

だけど、彼女のこの反応を、俺は今まで見たことはなかった。

その表情を見た時、俺の中の何かがどうしようにもなく胸を締め付けた。

「そっか、ピーマンとかブロッコリーを入れるといいのか」と嬉しそうに

独り言を呟く彼を、勝手に敗北感を感じている自分が情けない。


その後の時間は、彼のお弁当と同じ匂いがした。


モヤモヤと一緒に帰宅し、力なくベットに倒れ込む。

今日のあのシーンが、何度拭っても水垢の様に完全に綺麗にならない。

礼緒がいい奴なのは知っているし、その優しさに救われてきたのも事実だ。

それなのに、「いっそのこと悪い奴だったら良かったのにな」何てあまりにも

自分本位なことばかりを考えてしまう。


力の抜けた手でスマホを開くと、RINEに通知が入っていた。

どうせ何かの広告か渚あたりが課題見せてとかそんな用事だろうと

だるそうに指を移動すると、そこには思わず「あり得ない」と独り言を

呟いてしまうような人物の名前があった。


『黄河さなか 1』


今まで俺から送らないとやり取りがないどころか、

送ったところでBotの様な返信しかなかった彼女から連絡が来るなんて

脳味噌のどこを探したところで1mmも可能性は見つからなかった。

嬉しさ半分、恐怖半分で、目を薄く開けながらそのメッセージを開く。


『こんばんは。少し相談しても良いかしら。』


相変わらず何の表情も感じられない上に、

全く見当もつかない内容に思わず表情も強張る。


もしかして礼緒に対しての恋愛相談とか?

それが今思いつく限りで一番可能性を感じられる内容だった。


もう既読が付いてしまっているので、

あまり長い事返信しないのも不自然に思われることだろう。

いつもなら絵文字やスタンプを使う所だが、

ちょっとした対抗心というか、プライドが邪魔をして、

『いいよ!』というシンプルなもので返信をする。

『!』を付けたのは、今の俺が出来る精いっぱいの良心だ。


スマホをずっと握りしめ、

ドキマギしながら返信を待つ。

ブブーっという振動と共に数字が付いたのを確認し、

すぐに既読になったら気持ち悪いかなと思い

長押しして未読のまま内容だけ先に確認する。


『ありがとう。

今日お昼の時間、吾妻くんにお弁当を褒められてた時』


残念ながらここまでしか読めなかった。

吾妻というのは礼緒の苗字である。

これは本当に恋愛の相談なのではないか?

早く開いてしまいたい気持ちをギュッと押し込め、

10分経った頃に続きを急いで確認した。


『―お礼を言い忘れてしまったのだけど、

私から話しかけても迷惑じゃないかしら?』


その続きを読んで、今までずっと緊迫していた空気がふっと緩んだ。

どうやら恋愛の相談ではなかったようだ。

そのことに安堵しつつも、俺に対してはあれだけ辛辣な反応だったのに、

彼に対しては現時点では好意的なご様子。

何とも面白くないなと思いつつも、こちらとしても相手が悪い。


『礼緒なら迷惑何て思わないと思うよ。』


八つ当たりをしている様で格好悪いが、

今度は『!』をつけることもなく、

今までで一番そっけない返信をした。

これに対して、何かを察して『何か怒ってる?』と返すほど

繊細な女の子ではなかった様だし、

怒っていた所で関係はないだろう。

その事実すらも今はただ虚しく俺にのしかかる。

そしてただ淡々と、『そう。有難う。』と返ってきた。


ちょっとだけ胸がちくりとした。

あぁそっか。今まで先延ばしにしていたこの感情の名前が、

隠れられない位にまで大きくなってしまっていた。


次の日、移動教室の際に隙を見て彼女が礼緒の元へと駆け寄り

何やら話しかけている姿が見えた。

恐らく昨日のことだろう。

嬉しそうに笑う礼緒と、

いつもの如く真顔を張り付けながらぺこりと頭を下げる彼女を、

何故だか直視することが出来ない。

隣では渚が少し不思議そうに「何の話だろうな?」と問いかけてきたので、

「さぁな。」と精いっぱいのしらを切った。

少し小首をかしげてこちらを見る渚を見て見ぬフリをしていると、

礼緒が小走りでかけて来る。


「ごめん、お待たせ!」

「いいよ。行こう。」

「うん!」

「なぁ礼緒。さっき何の話してたんだよ。

お前らそんな仲良かったっけ?」


すると礼緒は一ミリも悪びれる様子もなく…というか、

実際に悪いことはしていないので当たり前だが、

昨日の経緯と、先ほどの会話を事細かに説明しだす。

その楽しそうな表情に、ちょっとだけ嫌気がさして

見たくなかった自分の性格の悪さを再認識した。


「でね、昨日お礼を言いそびれちゃったから、

褒めてくれてありだとうってご丁寧に言いに来てくれたんだよ!」

「ふーん。意外だったわ。そういうことするタイプなんだな。」

「優しい子だよね。黄河さんとはずっとお話してみたいなとは思ってたんだけど、

実際にお話ししてみたらすごく話しやすかったよ!」


毎回思うが、こいつが話している黄河とは俺の知っている黄河と同一人物だろうか?

話しやすかった?あれで?

礼緒の感覚が狂っているのか、

はたまた彼女は俺にだけあたりが強いのか、

そのどちらもなのか。

しかし、思い返せば無から始まった俺と、

自分のお弁当を褒めてくれて誰にでも愛されるこいつとでは、

そもそものスタート地点が違っているのだろう。

モヤモヤした気持ちを振り払うように、いつもよりも少し早めに歩いていると、

突然少し後ろから声がした。


「あ、あとさ。ありがとうね、十里。」

「えっ、は?何が?」


これ以上彼の口から彼女のことを聞きたくないと若干意識をフェードアウトしていたので、

どんな流れでお礼を言われたのか分からず素っ頓狂な声をあげた。


「黄河さんから聞いたよ。俺にお礼を言っても問題ないか

十里に一回相談したって。」

「は!?いつの間に連絡先とか交換してたの!?」


会話の内容は鮮明に理解できた瞬間、

思わずバッと後ろを振り向き顔を隠した。


黄河さんが?俺の話を?


彼女からしたら特に深い意味はない会話なのだろう。

だけど、俺の話を第三者にしてくれたという事実が、

どうしようにもなく嬉しくて、

突然太陽が目の前に現れたかのように顔を真っ赤にした。

口元を手で多い、窓ガラスに映った自分の顔のほとぼりが少し冷めたのを確認した後、

何食わぬ顔で2人に顔を戻す。


「そんなこといちいち言わなくてもいいのに。丁寧な人だな。」

「きっと気を使ってくれたんだと思うよ。」

「なぁ!?無視すんなよ!いつ交換したんだよ!」

「別にいつだっていいだろー。」


たったこれだけのことで先ほどまでのもやもやがどこかに飛んで行ってしまうのが、

我ながらなんとも単純であほらしい。

今日は感情のジェットコースターがどうにも絶好調の様だ。

必死に何度も問いかけてくる渚に対して適当に受け流していると、

目的地の教室へとたどり着く。


ブツブツと自分の席へ座ろうとする渚を見送った後、

ボソッと礼緒が耳元で呟いた。


「十里が思ってるような関係にはならないから安心してね。」

「!?」

「その反応から見ると、当たった感じ?」

「な、なにが!?」

「俺もさっきの反応でもしかしてって思ったんだ。

気付くのが遅くなってごめん。」


礼緒は母親が息子の恋愛話を少し面白がるような、

はたまた、友達の新たな一面を見て嬉しがっているような、

そんな表情を浮かべながら自分の席へと歩いていく。


やはり、礼緒にはどうあがいても適わない。

彼がライバルではなくて、心から良かった。

こうやって他人に言われると、どうしようにもなく意識してしまう。


(あー。やっぱり俺あの人のこと好きなんだわ。)


その出来事がきっかけで、俺はより彼女のことを意識するようになった。

RINEではほぼ毎日他愛のない会話をしているが、

やはりそこから一歩が踏み出せない。


彼女は相変わらず教室ではずっと浮いている。

恐らく最近では『とりあえず連絡はしてるけど何がしたいかよくわからない隣の奴』という

位置づけだろう。

このじれったい場所から脱却する術はないか頭を悩ませていた。


そんなある日。

放課後、教室で暇つぶしをしていた時のことだ。

先輩たちの都合で部活の時間がいつもよりも30分くらい遅れて始まるとの連絡があったため、

それまで適当に3人で話していた。

教室にはもう一人、何部にも属していない彼女が静かに本を読んでいる。

前に聞いた話だと、家にいるより時よりも教室で読んでいる時の方が

中身が入ってくるらしく、自分の好きな時間までこうして本を読んでいるそうだ。

だからと言って特に話しかける訳でもなく、

3人で下らない話をだらだらとしていた。


すると、彼女がふと立ち上がり、帰り支度を始める。

もしかするとうるさくしすぎただろうかと思い、

礼緒もそれを感じ取ったのか、急いで彼女の所へ行き頭を下げる。


「ごめんね、黄河さん。俺たちうるさかったよね。

もう出ていくから、良かったらまだ本を読んでて。」


俺もそれに合わせて小さく頭を下げる。

しかし、両手を合わせて申し訳なさそうにしている礼緒の表情を、

何故か渚はあまり良しとして見ていなかった。


「別にみんなの教室じゃね。この時間まで残ってる奴何て普段もいるだろうし。」

「渚。確かに俺らがうるさくしすぎたって。」


小声でぼそりというのを聞き逃すことなく、

同じくらいの声量で答えるも、どうにも釈然としていない様子だった。

彼女もそんな彼の様子を汲み取ったのか、

礼緒に何か一言告げて手をまた動かし始める。

恐らく、『今日はこのまま帰る』的なことを言ったのだろう。

俺も一緒に行って止めるべきかとも悩んだが、

本当に彼女は今日は帰りたいのかもしれないし、

それならばかえって迷惑になってしまう。

少しだけ動いた右腕を、またひっこめた。


そして、彼女がガタガタと乾いた音を立てながら席を立つと、

一瞬だけ渚の方を鋭い目つきで捉えた。

それは、本人からしたらただ視線が合っただけなのかもしれないし、

何かを訴えていたのかもしれない。

真実は分からないが、渚はきっと敵対視されたと感じたのだろう。

少しだけ目を大きくした後、先ほどまでの小声から、

枷を外したかのように突然少し大きめな声でこう言い始めた。


「てかさ、鼻かんだことないとか嘘じゃないの?

注目浴びたいから言ってる冗談だと思ってたわ。」

「おいっ!!!」


思わず大きな声が出る。

自分でも無意識なくらい、咄嗟に出た言葉だった。

彼女の方が怖くて振り向けないが、彼が止まる様子もない。


「お前らがいつの間に仲良くなったのか分からないけどさ。

俺はずっと言いたいことがありそうなのにそうやって目線とか

態度とかで訴えて来るの正直イライラしてた。

最初はただ自分のありたいように生きてる人なんだなって思ったけど、

本当は違った。ただ構ってほしいだけなんじゃないの。

あのカードに書かれたことが本当のことなんだとしても、結局あんたは」

「渚。黙りなよ。」


自分の口が動く前に、耳に声が届いてきた。

振り返ると、今まで見たこともないような形相の礼緒が立っている。

それは掴みかかって殴るような気迫でも、

怒鳴り散らして暴れるような恐ろしさでもなく、

ただただ怒りが空気で感じられるほど冷たいものだった。

いつもにこやかな表情からは、全く想像も出来ない。

その表情を見た瞬間、渚も凍ってしまったかのようにその場に固まった。

一歩、また一歩とこちらに近づいてくる彼は、

そこら辺の評価が高いホラーよりもよっぽど心臓に悪い。

礼緒の目の前で止まったかと思えば、そのまま渚の首根っこを掴んで教室から出ていこうとした。

去り際に、耳元で「ごめん、あとはよろしく。」とだけ残して。


この状況からどうしたら良いんだと心の中で頭を抱えながら、

教室には黄河と俺だけが地球に2人で取り残されたかのような

静かな空気が流れている。

何とかこの重い空気を早急に変えたいという気持ちと、

渚もあれで悪い奴じゃないというのを伝えるべく、

ちょっとわざとらしく大きな手ぶりで口を開く。


「あいつ、ちょっと思ったことをすぐに言っちゃうところあるんだ!

俺も最初の頃はなんだコイツって思うこともあったけど、

話してみたらただ伝え方が不器用なだけの悪い奴じゃないし、

この間も迷子の子どもをサービスカウンターに連れて行ったりしてさ!

だから、あんまり気にしな」


パァアン!!


耳元でシンバルでも鳴らされたかのような衝撃的な音が鼓膜を揺らす。

頬には、ひりひり、じりじりとした痛みが広がっていた。

きっと、今頃右頬は真っ赤になっていることだろう。


黄河さなかにぶっ叩かれた。


「えっ、えっ?」


意味が分からず狼狽する俺に、彼女は瞳一つ揺らすことなく淡々と告げる。


「私、照れ屋だから上手く伝えられなくて叩いてしまったの。

悪気はないわ。痛かったでしょうけど許してね。

そういわれたら、あなたは『うん、いいよ。』って答えられるの?」


一瞬、何を聞かれているのか分からなかった。


「悪い人じゃない?それはあなたの視点の話でしょ?

子どもを迷子センターにどうたら。

良い奴エピソードのつもりなんだろうけど、だから何?

逆に聞くけど、人のことを良く知りもしないで嘘つき扱いする奴の、

どこが良い奴なの?

今ここにある真実は、私がよく知りもしない相手に傷つけられたということ。

それだけなの。」

「ご、ごめん。」

「友だちのことを悪く言われて、かばおうとした気持ちは素晴らしいと

評されるものなのかも知れないわね。

世間一般的には。」


この世間一般的にはという最後の言葉には、

きっと「私は違うけどね。」という意味が込められているのだろう。


長い髪の毛を手でサッとなびかせて、

カバンを手に持ち今にも教室から出そうな雰囲気だ。


ここで、今俺がしなければいけないことは何だろう。

あいつをここへ引っ張りだして謝らせること?

違うだろ。

今彼女が一番怒っているのは、恐らく先ほどの俺の言動だ。

じゃあ俺が今ここで土下座をして誠心誠意謝る?

土下座が謝罪の最上級の方法だとしても、

何だかこの場では彼女の期限を取るための酷く薄っぺらい行動の様に思えてしまう。


このまま今日は帰って、明日改めて話すとか?

どれが正しいんだ?

何をしたら間違いなんだ?


ってかそもそも、『正しさ』ってなんだ?


俺はいつからこんなに正しさに魅了されていたんだろう。

いつから間違いに憑りつかれていたのだろう。


今俺が思っていることはなんだっけ。

引き留めるコト?謝ること?

好きだって告白すること?

違う。俺が今一番したいことは。


彼女が背中を向け教室のドアに手をかけた瞬間、

俺はその手を握る。


「ねえ。その鼻水をかませてくれない?」


正直ドン引きする位自分でも気持ち悪いセリフを言っている自覚はある。

だけど、彼女は泣いていた。

肩を小さく振るわせて、静かに泣いていた。

鼻を真っ赤にして、その大きな瞳からは涙がぽたぽたと零れ落ちている。


ところが、よく見ると彼女の鼻水は出ていなかった。

本当に鼻水が出ない体質らしい。


「あれ?」

「あなた、やっぱり信じてなかったわね。」

「あぁいや、咄嗟にこの言葉が出てきちゃったっていうか、

言葉の綾というか…言い訳だね。ごめん。」

「本当に信じられないわ。」

「だけど、悪魔の証明は消え去ったね。」

「えっ?」

「俺が証人になったから。」

「…本当に無茶苦茶だわ。」


そういうと少しだけ笑った。

2人で立ち尽くしているまま話すのも少し滑稽な気がしたので、

開きかけたドアを閉めて2人で椅子に腰かける。

すると、彼女はぽつりぽつりと話し始めた。


「彼の言葉は、半分図星なの。

私は自分から行動するのが怖くて、確かに誰かに話しかけて貰うのを待ってばかりだったわ。

どうやったら興味を持ってもらえるか。

どうやったら話しかけてくれるのか。

今まで陰キャだったからその加減も線引きも分からずに、辿り着いたのがあれだった。」

「だけど結果としては、更に浮く原因になってしまったってこと?」


そう問いかけると、ゆっくりと首を縦に動かす。

何て声をかけるにが正解か分からず、明かりの付いていない電灯を見上げた。

あぁ、またこうして正解を探してしまっている自分がいる。

その自分を心の中で抹消すると、声を形にするのは案外難しくなかった。


「でも、俺はあの言葉を見て少なくとも話してみたいって思った。

礼緒も。それにあんな形になったけど、渚も。

だから俺は、あの言葉を書く勇気を出してくれてありがとうって、思ってる。」

「それって、私のやっていることは間違ってなかったってこと?」

「少なくとも、俺にとったらね。」

「あなたは本当にどうしようにもない程変わり者ね。」


最初に話した頃と変わらない表情、

だけど、その表情の名前が今は少しだけ分かる。

自分に真っすぐでいようと思ったがゆえに迷ってしまった彼女。

そんな彼女が鼻をかむ姿を、いつか見ることが出来るのだろうか。


「あぁ。そうそう。

それなら、また一つ私の正しさが証明されてしまったわ。」

「え、何?」


そう伝えると、彼女はいつもの様に長い髪の毛を純白のカーテンの様に

綺麗になびかせて、こう微笑むのだった。


「やっぱり、男女間に友情は存在しないこと。

私の初恋泥棒さん。」


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黄河さなかの鼻水をかませてください りるか @rirurirunikki

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