午後 おじさん
「『n――!」
「…………!?」
よかった、『――ね』の発声は踏みとどまった。
だけど、最悪だわ。
「こ、殺さないで……」
あれは、受付にいたおばさんね。彼女は、怯えて、立っているのもやっとな様子で、足を震わせている。もちろん、男の右手のピストルに怯えているわけでは、ない。
「やあやあ、
脂汗をかいた、禿げた額。だらしなく笑む口から漏れる、目を引く金歯。血走った目。そして、受付のおばさんを盾にして、彼女の首元に突き付けた、銀色のナイフ。
ダメだわ、完全にイっちゃってる。『お祭り』が引き金なのかもしれないけれど、もうすでに、『お祭り』のことなんか関係なく、頭のネジが飛んでいるわ。
「あなたは……たしか……」
どうしよう。どう逃げよう。
誰だかは、覚えている。いつか私に痴漢してきた、同じ電車に乗り合わせたおじさんだわ。捕まったはずだし、まだ塀から出てくるには、早すぎるはずだけれど。……いまは、そんなこと、どうでもいいわね。
「いつか、私に――」
怯えたフリで、時間を稼ぐのよ。……というか、フリでもないのだけれど。本当に足が、少し震えているのだけれど。
とにかく、ここから逃げる方法を、考えなきゃ。
エレベーターは、おじさんに塞がれている。男に殺してもらおうにも、あの状況じゃ――受付のおばさんを盾にされていては、うまく狙えないはずだし。ルール1から抜粋。『ぶち殺し』で殺せる相手は、照準にもっとも近い相手のみ。
他に逃げ道は……? あるには、ある。だけど、そこまで逃がしてくれるかどうか。『ぶち殺し』のビームは、人間以外の物質を透過する。たぶん。少なくとも照準は透過した。それにミランダちゃんも、もっとも近い人間を対象とすると言っていた。間に物質が挟まっても、『もっとも近い人間』には関与しない、気がする。
「私の、おしりを――」
そのときのことを思い出して、うまくしゃべれない。……フリをしておく。まだ少し、時間を稼げる? 正直、痴漢とかどうでもよすぎて覚えてないわ。ただ、正義感の強い乗客がおじさんを捕まえて、そのまま懲役刑になったらしいから、おじさんには恨まれているかもしれないと思って覚えているだけ。むしろ取り調べとかで私の貴重な時間が奪われて、迷惑だったくらいなのに。
「よぉく覚えてたねぇ。えらいねぇ。そう、おじさんはね、朱菜ちゃんのせいで捕まったんだよぉ。責任を、取ってもらおうか」
……いまからでも、私の身体を差し出せば、許してくれないかしら? いやでも、一回くらいならともかく、何度も呼び出されたら面倒だわ。私の時間は、あんなクズの時間よりよっぽど貴重なのに。そのうえ、変に関係を持つと、いずれ殺されるわ。ふたりきりでいる時間が長いと、そのぶん、殺しのチャンスを与えることになる。それにそもそも、あれだけイカれちゃったおじさんに、なにを懇願しても、聞きはしなさそうね。
「『ぶち――」
受付のおばさんの襟元を掴む、おじさんの右手。その人差し指が、私を捉えた。
「…………!」
動け! とにかく動け!
スポーツ全般は得意だけれど、でも、実戦は別。死の危険を感じたいまの私は、適切に動けない。頭は冷静なのに、身体は、恐怖に震えている。
撃たれたら、死ぬ。だから、見苦しくても、動け。とにかく、狙いをずらせ!
そう思うのに、足がすくんで、動けない――!
「『死――おい、おまえ! 動くな!」
…………? あれ、どうなったんだろう? ……あ、膝ついてるわ。というか、いつの間にか腰が抜けていたみたい。……ちょっとだけ、おしっこ漏れたかも。
「おい! 動くな! このババアがどうなってもいいのか!?」
「どちらかというと、死ぬのを見たいですね」
「はああぁ!?」
あの人……。そっか、彼に対して、少なくとも無関係な人間の人質なんて、無意味ね。むしろ餌だわ。
「それと、ひとつ言っておきます」
「おいこら! 本当に殺すぞ! こっちくんな!」
「だから、殺してくださいよ。待ってんだから」
おじさんと、受付のおばさん、その眼前にまで歩み寄って、男は言った。
「僕の大事な女の子を、おまえなんかに殺させはしない」
ちょっと、心臓が跳ねた。あれ、おかしいな。なにこの、おかしな高揚。
「……それで、殺さないんですか?」
「……あ、ああ? いや……」
「じゃあ、あなたが死んでください。『ぶち死――』――」
右手のピストルを、彼は、おじさんの禿げあがった額へ、突き付ける。
ピッ――。と、指先に針が刺さるような些細な音とともに――。
男の方が、倒れた。
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