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初めて鈴木と喋ったのは、中一の二学期の終わりのこと。数学のテストでひどい点を取ってしまった僕はがっくり落ち込んで、校舎内をふらふら徘徊、辿り着いた家庭科室から顔を出した鈴木に、室内に引っ張り込まれた。
「いらっしゃいませ凡人!」
鈴木はなにやら作業中だった。変な機械が変な線で繋がった先に変な椅子が置いてあって、座ってくれ!と言われたので、あ、うん、と座った。
鈴木の実験だか研究だかが学校内外において日々繰り広げられているらしいことは全校生徒の知るところだったけれど、どうやらそれに遭遇したようだった。そう言えば教室の後ろの黒板に「実験体募集!報酬は無重力遊泳!」と書かれていたなと思い出す。
鈴木はぺらぺら喋った。人間の思考のなんとか波形を収集してなんとか数値に変換したものを軽質量なんとかに還元する実験中とのこと。これによって人間心理、つまりは心を目で見て手で触れるようになるらしいとかなんとか。
全然わからないまま変なヘルメットをかぶせられる。とりあえずこれからサンプル採取のための実験体にされるということはわかった。
「鈴木くんて、すごいね」
すごい、なんて言われ慣れてるだろうけど、それくらいしか感想が浮かばなかったのでとりあえずそう伝えた。鈴木は、おう、俺はすごいぜ!天才だからな!と言ってニカッと笑った。硬い煎餅をばりっと齧った時みたいな歯切れのいい笑顔だったので悪い奴じゃなさそうだと思った。
数十秒待つと、変な機械の変な煙突みたいなところからもくもくと雲のようなものが浮かび上がってきた。それはぼんやりとしていてちょっと薄暗い色で、頼りなくて弾力とか全然ない感じの雲だった。そしてなぜか中央には大きな穴があいている。
「うお! お前、心に穴あいてるのか? こんなの初めて見たぞ。なんだこれ、なんでだ!?」
「いやぁ、僕に聞かれても……」
と、そこで僕の腹が激しく鳴る。そういえばお弁当を食べるのを忘れていたのを思い出す。テスト結果が悪すぎて食欲のことも忘れてしまっていたのだった。
「腹が減ってるのか? じゃあこれを食え!」
鍋を差し出される。さっきから横のコンロでグツグツいっていたやつだ。フルーティーなにおいが湯気と一緒にもわりと来る。
「マーマレードジャム、俺のお手製だ。食ってくれ!」
パンとスプーンも渡される。すごく期待した目で見られるので断ることもできず、あつあつのジャムをパンにのせて食べた。
「うまいか!?」
「うっ、苦い」
「そうだ、苦い! 好きか!? 嫌いか!?」
「嫌い、かな」
「嫌いかぁ!」
「ご、ごめん。ちょっと苦すぎて……」
「そうだ、これは苦系柑橘類を圧搾、真空蒸発させて苦味成分を凝縮、さらに煮詰めまくって作った苦味の極地のマーマレードジャムなんだ。だから苦すぎるって感想で正解だ。だけど俺はな!」
鈴木は僕から鍋を奪う。それからスプーンを突っ込み、まだ湯気の立つそれをもったりと掬って口に入れる。
「俺は、これが好きなんだ! 大好きなんだ!」
ひと掬い、もうひと掬いと鈴木は続ける。それから、うおおおおお苦い!と叫ぶ。
僕は鈴木の一人舞台でも見ているみたいな気持ちになった。鈴木は日々こんな全身全霊で何かと向き合い続けているのかと、びっくりした。
「なんで俺はこれが好きなんだ!?」
「うーん僕に聞かれてもわかんないよ」
「わかんないよな? そうだ、わからない! なんでこれをうまいと思うのか、解明できないんだ! そもそも味覚シグナルの回路的にありえないんだよ! 眼窩前頭皮質がこんなめちゃくちゃに苦いものの情報を受け取れば扁桃体のレスポンスは絶対嫌悪感で爆発寸前、火ぃ吹いたっておかしくないはずなのに、それなのに俺はこれを好きだと思ってしまう! なんでだ!?」
「え、えーっと、鈴木くんの舌が、馬鹿なんじゃないかな……」
うわ、馬鹿みたいな返答だなと思った。鈴木はぴたっと静止する。
「馬鹿? 俺が、馬鹿?」
「鈴木くんがじゃなくて、味覚がね」
「はははは! そうか、俺の味覚は馬鹿なのか! 初めて馬鹿って言われた! 凡人に! はははは!!!」
笑ってる。天才は笑いのツボもよくわからない。
だけど「凡人凡人」って、よく考えてみればだいぶ失礼な呼び方だ。あんまりにも歯切れよく言うもんだから気付かなかったけど。
「お前、おもしろい凡人だな! なぁ、凡人はどうやって自分の心を理解してる?」
「え、心? えーっと、わかんない」
「自分のことなのに、わかんないままにしてるのか? この穴も、なんなのかわかんないのか?」
鈴木がさっきの僕の雲を指差す。それは穴を中心にますます薄くなってきていて、今にも消えそうなくらい弱々しい。
思い当たる、僕の心の穴。ぽっかりの原因。僕は手にしていたテスト用紙を持ち上げる。
「これ、ひどい点取っちゃって。それで僕って、自分が思ってるよりも馬鹿なのかな〜って……。ほんとになんにもできない奴なんだな〜って思って、悲しいというかがっかりしたと言うか、そのぽっかりだと思う」
鈴木はバツだらけのテスト用紙をじいっと見た。それからでかい声で言う。
「大丈夫だ! 心配しなくても、お前はしっかり馬鹿だぞ!」
「えーそういう心配じゃなくて」
「違うのか? 自分が馬鹿なのか馬鹿じゃないのかわからないんだろ? 大丈夫だ。こんな簡単なテストでこの点なんだ。自信を持て、お前はめちゃくちゃ馬鹿だぜ!」
まるで褒め称えるみたいに言う。こんなにぴかぴかした笑顔で言われた「馬鹿」は初めてで、うっかりどことなく誇らしい気持ちになりかけてしまっていやいやと首を振る。
「はは! 俺、お前のこと嫌いじゃないぜ。だって今日ここに実験体になりに来てくれただろ?お前はいい奴だ!」
「あ、えーっと」
「実はな、お前が初めてだったんだ、来てくれた奴。俺は嬉しいぞ! うん、この実験、きっとうまくいくぜ!」
人の話を聞かない奴だなぁと思った。僕がここに来たのはただの偶然だったなんてこと、まぁどうでもいいかぁと思えてくる。
ほんとに、びっくりするくらい無神経な奴だ。なのになぜか、腹が立つとか憎たらしいとかは思えないから不思議だった。
その時鈴木の後ろでぼごん!と音がして、変な箱とか線とかから煙が上がった。鈴木が、くっそぉ熱暴走爆発だ!などと言いつつ線をいじっていると、今度は別のところでぼごん!が起こった。慌てるかと思いきや、鈴木は笑い出し、こりゃ難題だせ!と嬉しそうに言う。
「まぁいいや。貴重なサンプルが取れたことは確かだしな。俺はこれで、人の心を解明するんだ」
「へぇ、すごい」
「すごいだろ!? 思考も感情もただの信号なんだから全部数値化できるし、粒子単位でいじれば質量も形も観測できるし操作できる。ただ莫大なシミュレーションが間に合ってないってだけで、バリエーションさえ網羅すれば全部解読できる。これがそのための第一歩なんだぜ!」
「おぉ」
「そんでなんで俺がめちゃくちゃに苦いマーマレードジャムを好きなのかも解明するんだ!」
「あはは。そこなんだ」
「なんで笑う? おかしいか?」
「おかしいって言うか、おもしろい。なに言ってるかよくわかんないけど、おもしろいね鈴木くんて」
「そうだ! わかんないことはおもしろいんだ! お前凡人のくせによくわかってやがるな! よし、じゃあお前のその心のぽっかり、天才の俺が一瞬で消してやる!」
え?と言う僕の手から、鈴木はテスト用紙を奪う。
「俺はさっきお前に馬鹿って言われてわかったぞ。馬鹿と天才は紙一重ってことだ。薄っぺらい紙一枚分の違いしかない。こんなもん、一瞬でビリリだ!」
と、破られるテスト用紙。僕はただぽかんとしていた。
「ほーらすっきり。これで悩みは解決だな!」
紙屑になったそれを、鈴木はぱあっと宙に投げ捨てた。
ひょっとしたら哲学的な問答みたいなやつかもと思ったけどどうやら違うみたいだ。顔を見るに、鈴木はたぶん本気で言ってる。天才って、天才すぎるともうほぼ馬鹿になるのかもしれない。
僕は鈴木の舌が馬鹿だって言っただけで、鈴木のことを馬鹿呼ばわりしたわけじゃないんだと、そう訂正したい気もしたけどやめる。きっと鈴木はいつもこうやって、自分のやり方で答えを引っ掴んできたんだろう。だからこんなにも楽しそうなんだ。そんなふうな気付きを得たついでに、僕のじめじめした気持ちまでいつの間にかからりと乾いてしまったから驚きだ。
「よし、来いよ! 実験体になってくれた報酬、無重力遊泳だ!」
引っ張られて、家庭科室の奥にある家庭科準備室に入れられる。中は真っ暗でどうなっているかわからないけど、鈴木が機材みたいなものをいじった気配の後、ふわっと体が浮いた。
「うわぁ、ほんとに無重力!?」
「正確に言えばちょっと違うぞ。遠心力の歪点をちょいとずらしてやると連鎖的に余剰次元の端緒ができるんだ。そこをぐいぐいっと広げてやれば重力が下がって無重力の相似空間のいっちょあがりってやつだ。あ、止まってると時空の狭間に食われるから常にバタ足しとけよ!」
僕らは暗いその中を遊泳した。僕のバタ足が鈴木を蹴って、鈴木の体が回転して止まらなくなったりした。その回っている鈴木に僕がぶつかって僕も回り出したりして、二人して洗濯機の中身みたいになった。それは馬鹿みたいに楽しかった。
それが、僕らが友達になった日。
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