第2話
「ミハル先生、聞いてくれよっ!」
「……はいはーい。聞いてますよ」
どんっと地面を叩く熊の獣人ビルに、ミハルは苦笑を浮かべた。
――お悩み相談は、生徒対応のつもりだったんだけどなぁ。
そもそも、お悩み相談、という看板を掲げた覚えすらない。青空教室が終わったあとに、子どもたちが自分の親には言い辛い相談事を持ちかけてくるようになって。そのため、授業が終わったあとも、ミハルは誰かの相談事を受けられるようにと、少しだけ時間を取るようにしていた。
それがいつしか子どもから親に伝わり、たまにこうして大人もミハルの元に訪れる。ただの愚痴に付き合えばいいだけの時もあれば、本当に困り果てて泣きついてくることもある。
たかだか十六・七の小娘に、いったい何が言えるというのだろう。
初めはそう思っていたものの、相談事というのは、誰かに聞いてもらって、整理して、必要な時はほんの少しのアドバイスを貰えるだけで、当人としては満足するものなのだ。そう納得してからは、誰の悩みでも、とりあえずミハルは聞くことにしている。
「女房の奴が、飯を作ってくれなくなったんだ! ひどいと思わねぇか!?」
「それは、大変ですねぇ。ごはんどうしてるんですか?」
「そのまま食べられる蜂蜜やパンを食べちゃいるが……全然足りねぇよ。飯を作るのは女房の仕事じゃねぇか、職務怠慢ってもんだろう。俺はちゃんと森で仕事をしてるんだぞ」
「お仕事を頑張ってるのは、偉いですね」
「だろう!?」
ミハルが自分の味方だ、と思って、ビルは身を乗り出した。
「ところで、その食事を作ってくれなくなったのは、いつからですか?」
「……四日前だな」
「その日に、何かあったんですか?」
「大したことじゃねぇよ。その日は一緒に仕事をしている仲間たちと盛り上がって、そのままそいつらと飲んで、ちょっと帰りが遅くなっただけだ」
「ちょっと」
「……まぁ、いつもなら寝てる時間くらいだな」
ふぅむ、とミハルはしかつめらしい顔をして腕を組む。
「その日は、夕食は作ってあったんですね?」
「まぁな」
「でもビルさんは、それを食べなかった」
「……まぁな」
「ビルさん、本当はご自分でわかってるんじゃないですか?」
ミハルの指摘に、ビルは苦虫を噛み潰したような顔をした。
「だってよぉ、文句くらい言いたくなるだろ。一回食わなかったから、なんなんだよ。別にいいじゃねぇか。仕事してたら、話の流れでそのまま外で食ってくることくらい、あるだろ」
「同僚さんとのお付き合いもありますからね。外でごはんを食べることも、ありますよね」
「だろう!?」
「ただその前に、ちょっとお家に顔を出して、外で食べてくるよって言うのは難しかったですか?」
ミハルの言葉に、ビルはへそを曲げたようにそっぽを向いた。
「わざわざ女房に許可取らなきゃ自由に飯も食えないなんて、かっこ悪いだろ。面倒くさいし」
「なるほど?」
「だいたい、向こうだって作業の一つでしかねぇだろ。俺が帰ったって、お疲れさまの一言もねぇし。そんな風に作られた飯より、同僚と食う飯のがよっぽどうまいね」
「そうなんですね。だったら、おいしくないご飯を食べずに済んで、良かったじゃないですか」
ビルはますます口の端をへの字に曲げた。
「それとこれとは話が別だ。毎日食う物が無いのは困るだろ」
「でも、食べたくないんですよね?」
「そうは言ってないだろ。それに、俺が食べるか食べないかに関わらず、飯は作るべきだろ。それが女房の仕事なんだから」
うーん、とミハルは眉を下げてみせた。
「たしかに、お仕事はきちんとするべきですね」
「当たり前だ」
「でもさっきビルさんは、お疲れさまも言ってくれない、って言いましたよね。つまりビルさんは、エイダさんにお疲れさま、って言ってほしいんですよね?」
エイダ、というのは、ビルの妻の名前である。ビルと同じ、熊の獣人だ。
「そのくらいはあって当然じゃねぇか。だって俺が稼いだ金で暮らしてるんだから」
「ビルさんは、エイダさんにお疲れさまって言ったことは?」
「はぁ? あいつが何に疲れるんだよ」
「エイダさんがご飯を作るのは、お仕事なんですよね」
「そりゃ家のことだからな」
「ビルさんが森で働くのも、お仕事」
「俺のは労働だ。ちゃんと給金が発生する。そのおかげで飯が食える」
「そうですね。エイダさんは、ビルさんのおかげで食材が買える。そしてビルさんは、エイダさんのおかげで、おいしいご飯が食べられる」
むぅ、とビルは顔を顰めた。
「ビルさんは、嫌々お仕事をしても、成果に合わせたお給金が貰えます。でもエイダさんは、嫌々ご飯を作ったら文句を言われて、頑張っておいしいご飯を作っても褒めてももらえない。それなのに、毎日ご飯を作ってくれるのは、エイダさんの愛情なんじゃないでしょうか」
「愛情なんかあったら、もうちょいマシな対応すると思うがね」
「それはビルさんと同じようにしているんですよ。ビルさんは、エイダさんが毎日ビルさんが帰ってくる時間に合わせて、温かいできたてのご飯が食べられるように食事の用意をしているのを、当たり前だと思っていますよね。だからエイダさんも、ビルさんが毎日くたくたになるまで働いて、暮らしのためにお金を持って帰ってくるが、当たり前だと思ってるんですよ」
「俺のは当たり前じゃねぇよ」
「エイダさんも、そう思ってますよ。当たり前じゃないって。だってどうでも良かったら、適当な時に簡単な調理をして、冷や飯を置いておけばいいんですから。今までそんな風にされたことはなかったでしょう?」
「……まぁ」
今までは一度も、エイダはそんなことをしなかった。だからビルは、食事を作ってくれなくなった、とこんなに騒いでいるのだ。
「ビルさんがエイダさんにお疲れさま、って声をかけるようにしたら、エイダさんもきっと同じように返してくれますよ」
「なんで俺の方が折れないといけねぇんだ」
「エイダさんのご飯、食べたいんでしょう? このまま二度と食べられなくなってもいいんですか?」
「それは……」
「夫婦円満のコツは、感謝を素直に伝えることですよ」
「未婚の先生に言われてもなぁ」
「なにおう!」
ミハルは怒ったポーズをしてみせた。それを見て、ビルは未だ納得できない風ではあるが、仕方ないとばかりに苦笑した。
「ま、先生のアドバイスだからな。一回試してみるよ。それで駄目だったら、また話聞いてくれ」
「はい、いつでもどうぞ」
ありがとな、と手を振って、ビルは家に帰っていった。
残されたミハルは、ふうと大きな溜息を吐いた。
これで、ビルがまた変に意地を張らずに、素直に感謝を伝えられれば良いのだが。
四日も食事を作っていないということは、エイダの方が時間の経過で折れる可能性は低い。ビルがうまくやらなければ、修復するのは難しいだろう。
獣人のコミュニティは人間のものよりも狭い。だから、あまり簡単に離婚などはしない。離婚したところで、別の集落に移り住むのもなかなかハードルが高く、顔を合わせないようにするのが難しいからだ。
だから獣人の女性は忍耐強い。ちょっとやそっとで、夫を見限ったりはしない。
では何故、エイダはそこまで怒っているのか。たかが、食事を一回食べてもらえなかったくらいで。
一回。ビルはそう言った。一回食べなかったから、なんなのだ、と。
それは誤りだ。一度ではない。ビルは同じことを、何度も繰り返している。
その度にエイダは、外で食べても構わないから、できれば前日に、難しければ一度家に寄って要らないと伝えてほしい、とお願いしている。
それをビルは何度も破っている。何度も。何度も。
疲れて帰ってくるビルに合わせて、温かい食事を作って。いつもより遅くなったら、何かあったのかと心配して。食事が冷めてしまったら、もうすぐ帰ってくるかもしれないからと温め直して。いつ帰ってくるのかしらと、時計を気にして。
待って。待って。待ち続けて。
お帰りという気も失せて。お疲れさまと労う気持ちも消えて。それでも、温かい食事を、毎日用意し続けた。
そうして、遂に堪忍袋の緒が切れたのだろう。
積み重ねだ。表面張力ぎりぎりの器に、最後の一滴が落ちただけ。
自分がしてきたことに、無頓着だっただけ。相手の言葉を、聞き流してきただけ。
長年連れ添ってきた人の心変わりに、突然、なんてことは、そうそうないのだ。
「明日はエイダさんが来るかもなぁ」
甘いお菓子を用意しておこう、とミハルは材料を思い浮かべた。
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