逃走と別離
お腹が空くと頭が回らない。だから美羽は試験前の詰め込み勉強の際もなるべく手元に夜食は置いておくし、お腹が空いたらもう駄目だと諦めて寝てしまう。
夕飯を食べられなかったせいで、美羽は折角質のいいベッドでそこそこ高級な寝間着に着替えても、腹の虫と戦わなければならなかった。
(お腹空いたお腹空いたお腹空いた……)
とてもじゃないが、この館内で開催されている催し物の参加者とは思えないような脳天気さだった。水を飲んでお腹を誤魔化したが、それでも我慢しきれずに、キューキューと腹の虫が鳴る。その脳天気な中、扉が控えめに叩く音が響いた。まるで周りを気にしているような音。
美羽はどうしたものかと考えた。
(あの長身の人だったら困るし……)
女性もいることを考慮してか、宿泊施設内は中から施錠できる仕組みになっていた。普通のホテルと同じだ。だから美羽もやろうと思えば狸寝入りをして居留守を使えたのだが。
「みゅう? 俺だ。翔太だ」
「翔太……」
美羽を「みゅう」と称するのは翔太だけだし、なによりも自己紹介の場にあの長身の男はいなかったから、翔太の名前は知らないはずだ。
一応チェーンを付けてから扉をそっと開けると、たしかに翔太の姿があった。しかし翔太はここにさらわれたときと同じく、ブレザーのままだった。
美羽は驚いてチェーンを外すと、翔太を部屋に招き入れた。
「どうしたの……お腹空いてたら悪い考えしか浮かばないよ? なんかここで行われる催し物はやばそうな匂いはするけど、一旦寝てご飯食べてから考えようよ……」
「……うん、美羽はいっつも正しいな。ちゃんと着替えたんだ。その寝間着も似合ってる」
「……うん」
翔太がはにかんだ顔をするのに、美羽も照れた。
思えば翔太に寝間着姿を見せるのも初めてだった。ふたりは付き合いはじめて、まだ健全なお付き合いしかしていないのだから。
しかし、翔太の思い詰めた顔に、学校帰りの荷物をまとめて肩に引っ掛けているのが気になった。
「翔太……荷物持ってきてどうしたの?」
「美羽。制服に着替えて欲しい。ここから逃げよう」
「逃げるって……ここどこかわからないのに? 夜に逃げたらどうなるかわかんないよ。あの長身の人だって怪しいし」
ここが夜なのはほぼほぼ確定だろうが、それにしたって夜中に逃亡しても、安全の担保が取れず、当然ながら美羽は首を振ったが。翔太は思い詰めた顔をしたまま答える。
「あの人はそりゃ怪しいよ。見たことある顔だなと思ったら、あの人快楽殺人事件の指名手配犯だ」
「……かいらく……」
これが強盗犯やら殺人犯だったら、なにかしら訳ありなんだろうと思えたが、そこに「快楽」が加わった途端に、あの人の存在が途端にやばいものになる。
翔太は頷いた。
「ここだったらアプリとかは使えないけど……スマホに残しているスクリーンショットだったら見られるから」
そう言いながら翔太は、自身のスマホを引っ張り出して、画像フォルダーを見せてくれた。そこには【連続快楽殺人事件】の記事が書かれていた。
「どうしてそんなの持ってるの……」
「この事件が起こった場所、うちの親戚が住んでるところなんだよ。だから親戚中に注意勧告が回ってきたんだよ。ほら、あの長身の人」
そこには快楽殺人事件で若い十代の女性が殺された記事が載っている。新聞記事なため、表現自体はごくごくあっさりとしたものだったが、その記事の最後のほうに【
「あの人……」
「あんなまずい人がいるところに、長居なんてできない。コンシェルジュも、あんなまずい人に襲われて無傷なんだから、きっとただ者じゃない」
榛の動きを思い返した。
あの男は、コンシェルジュに近付くまでのモーションが全く見えなかった。それは目の錯覚を利用しているのか、はたまたそういう技術に特化しているのか、美羽にはわからないが。
そんな男を館内に突っ込んで、主催はなにを考えているんだろうか。殺人鬼から逃げ惑う人を見物するために、投下したとしか思えない。
「だ、だったら……どうすればいいんだろう」
「俺は、みゅうがあんな男にひどい目に遭わされるとなったら、たまらないんだ……! お願いだから、逃げよう……!?」
翔太の切望の声に、美羽は胸が苦しくなる。この優しい彼氏は、本気で自分のことを心配しているのだと。
(……翔太が心配してくれてるのに、私ここにいて大丈夫なのかな? それに、ここには主催側の人がいるんだし)
主催側の人間がなにを考えているのかはわからない。そもそも美羽の指令に意味があるのかすらわからない。
美羽は考えようとするものの、お腹が空き過ぎてどうにも頭が上手く働かない。とうとうわかりやすく「キュルルルル~……」と間の抜けた音が響き渡り、それには先程まで深刻な顔をしていた翔太すら、美羽の腹に目が向いた。
「……お腹空いた……」
美羽のぼそりとした言葉に、一瞬翔太は虚を突かれた顔をしつつ、笑って制服のポケットからなにかを取り出した。栄養バーだ。
「ごめん、今これくらいしかないけど。これ食べて着替えたら、荷物まとめて脱出だ」
「うん。ありがとう」
栄養バーを半分に割り、ふたりで口の中に入れる。パサパサとした味だったが、ずっと水を飲んで空腹を凌いでいたために、口の中は水がいっぱいでどうにか咀嚼できた。美羽は急いでユニットバスに制服を持っていって着替えた。
寝間着の手触りが名残惜しかったが、置いていくことにした。荷物は多いよりも少ないほうがいい。
荷物をまとめて抱えると、ふたりは急いで廊下を走って行き、階段を駆け下りていった。
ホテルのような様相だが、これだけ暗くて人ひとりおらず、非常灯ひとつ点滅してないとこれだけ気味が悪いのかと、息を潜めて走って行った。
螺旋階段を降りた先。この館のエントランスが見えてくる。大きな扉もまた。
「あそこだ! 鍵がかかってるか確認するから、美羽は待ってて」
「う、うん」
翔太が鍵がかかっているか確認しようと触れた途端。
バチンッと火花が真っ暗な館内を照らした。
「えっ?」
ボンッとバンッとバチバチバチッという音が、ほぼ同時に聞こえた。扉に触れた瞬間、翔太から焼き肉屋の店先から漂う匂いを放ちはじめたのだ。
「翔太……?」
先程まで優しく接し、自分のことを励ましてくれていた彼氏が、手足をバラバラにしている。すぐ放せば助かったのか、一瞬でこうなっているのか、その光景に呆気にとられて立ちすくんでしまった美羽では、もうわからなかった。
その音で「ちょっと、なんの音だよ!? ギャア!!」と声が響く。いきなりの爆発音で驚いた宿泊施設の面々が、階段を降りてきたのだ。
美羽が立ちすくんでいる中、コンシェルジュの声が響いた。
『大変申し訳ございません。当館は七日間の間、全入口において電気を通し、いかなる侵入者も防いでおります。そしてそれに触れた場合は、たとえ参加者であったとしても感電してしまいます。扉に触れる必要がある場合は、どうぞコンシェルジュにお伝えくださいますようお願いします』
どこかでこの光景を見ているのだろうか。館内放送であった。
「あ……あ……」
今この瞬間まで、美羽は脳天気だった。
まあ死なないだろう。まあルールを守れば大丈夫だろう。自分の一番大切な人が目の前で真っ黒に燻るまで、彼女は認知バイアスがかかっていたが、この瞬間にそれは消え失せてしまったのだ。膝を突き、目の前を凝視している。
翔太は、なにも言わぬ遺体になってしまった。
(あたしがもっと強く、「やめよう」って止めてたら、翔太は死ななくって済んだのに……!!)
頬を涙が伝うがままにしていた。
美羽が泣いている中、ノソリと寄ってきた長い影に気付き、肩を跳ねさせた。
(榛清音……!)
翔太がもっとも警戒していた男が、死んだ魚のような目で翔太を見下ろしたのだ。
「あぁあ、丸焦げぇ~。このテンポで七日間なんてホントに持つのぉ? 全滅しない~?」
「……やめて」
「あぁあ。泣いちゃってさあ。かーわいそ」
「やめてったら……!」
思わず美羽は手が出そうになるものの、翔太が見せてくれたスマホのニュースを思い出し、手を引っ込める。彼は女性を殺すのに躊躇なんかしない。
(どこが乙女ゲームだよ……こんなやばい男と一緒にいる時点で、全然乙女ゲームになんかならないよ……)
この都市伝説を流した犯人に対しての怒りが向いたが、ふと目の端の人々に目が留まった。
中柴は怖かったのか、目の前の真っ黒になった翔太を見て震えている。浜松もまた、顔を真っ青にさせている。
一方元々表情が淡泊な立石は全く表情が顔に出ず、紅は嫌そうに顔を歪めるだけだった。石坂に至っては、顎に手を当てて考える素振りをしている。
(……榛清音は、なんか主催と繋がっている気がしない。わざわざ怪しまれる行動してまで、場を引っ掻き回すメリットがないもの。でも……主催側の人間がこの中にいる……?)
美羽の中で、仄暗い欲望が沸いていた。
(翔太は、もういない……翔太はあたしの初めての彼氏で……あんなにいい人にはもう出会わないと思う)
彼は人間的に正しく、人間的に正義感があり、良心的な人物だった。
しかし、この場にいる人たちはどうだろうか。
よくわからない大学生やら、殺人鬼やら、ホストやら、金持ちやらだ……中学生やサラリーマンはともかく、どいつもこいつもろくでなしだった。
(誰だ……翔太を殺したのは。あのコンシェルジュ、出入り口の仕掛けのことはひと言も言わなかった……誰かが引っかかって感電死するのを待ってたんだ。だから、感電するまで黙っていた……)
元々美羽に課せられた指令は【主催側の人間を特定すること】だ。それに真っ先に乗っかることに決めた。
(主催側の人間だったら、殺しても文句は言わせない。どうせこの辺りは隠しカメラで見張ってるんだろうから……)
美羽の目尻に溜まった涙は、だんだん乾いてきた。それを面白そうに見守る顔に、美羽はとうとう気付かなかった。
──美羽が絶望して泣いているところから、怒りでだんだん目尻に皺が寄っていく一部始終を、榛はずっと面白がって眺めていたのである。
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