3-13

 それから葛葉はその辺から木の枝を拾ってくると、地面に何やら書き始め、そしてプールの周囲をぐるぐると回ったり、親指の先から血を地面にたらしたり、何やらぶつぶつと呟きなら結界の作成を行った。

 玉藻は邪魔にならないように隅っこで座ってみていたが、「手際がいい」ということしかわからなかった。結界術は苦手なのだ。

 あっという間に結界が完成した。


「これで多少暴れても大丈夫よ。ただ、結界の外に出ると効果は当然なくなるから。気を付けてね」


「ありがとう、お姉ちゃん」


 玉藻は立ち上がるとおしりをはたいた。


「さて、やりますかー」


「私は行かなくて大丈夫?」


 葛葉が心配そうに尋ねる。


「まあ、この下狭いし。大丈夫でしょ」


 玉藻はプールの下を指さして言った。


「……なんだか、あなたって緊張感とかあまりないわよね。大物なのかしら……」


 玉藻は最後にコーヒーを一口飲むとカバンを置いた。


「じゃ、行ってくる」


 心配そうに眺める葛葉を後目に玉藻は薄暗いプールの下に踏み込んだ。

 昼間に来ると、外からの明かりがあるので多少歩きやすいが、それでも四つん這いにならなければ進めない場所もあり非常に狭い。

 天井にはさび付いた無数のパイプが張り巡らされており、低さも相まってまるで生き物の体内にいるような気分になる。

 少し進むと昨日と同じ少し開けた場所にでた。ここは中腰になれる程度の高さがあり四畳半ほどのスペースがあるその壁際のところに手製の祭壇はあった。

 昨日と変化はない。


「………呪いなんてろくなもんじゃない」


 玉藻が呟く。

 呪いとは悪意の塊だ。不平不満、悲しみ、嘆き、憤りそれらの感情が他者に向いて言葉として形を成した時、それは初めて呪いとなる。対面関係をおもんぱかり人の目を気にする人種にとって、これほど明確な悪意ある形に恐怖しない理由はない。

 誰しもが[呪いのみなもと]を抱えて生きている。一欠けらも他人を恨まず、羨まず、妬まない人間はいない。だが、それを本当の呪いにしてしまえば、[人を呪わば穴二つ]。何れ必ず自分にも帰ってくる。


「あなたは、そうと知らず背負っちゃったのかねぇ」


 手製の祭壇の上に置かれた小箱を見る。

 箱は昨日と変わらずそこにあった。

 今となっては彼女の心を知るすべはない。怪異化した彼女が言葉を発したとしてそこには大きな意味はない。結果として、彼女は多くの呪いを抱え、そして箱を作った。しかし、彼女は被害者であるようにしか思えなかった。 

 玉藻は周囲を見渡す。しかし、今日はしずくちゃんは現れない。


「ちょっと失礼」


 玉藻は箱に手を伸ばし、指先が箱に触れた。


「っ!」


 瞬間、針で指先を刺されたかのような痛みがして、思わず手を引っ込める。


「これが防衛術式?素人が作ってるはずなのに、すごいね」


 素人の仕事であっても術式さえ正しければ問題なく発動する。しかし、その完成度、効力は術者の技量とエーテルに左右される。


 玉藻はエーテルを手のひらに込めると、小箱を掴んで運び、少し開けた地面に置いた。

 すぐに手を放すが、毬栗やサボテンを握りしめたような痛みがしばらく手に残る。

「はあ、はあ。……うん、お姉ちゃんのやつよりは痛くないな」


 呼吸を整えてもう一度周囲を見渡す。だが、やはり誰もいない。

 昼間だから現れないのか、目的がわかっているからなのか。


「ごめんね。これ、壊しちゃうね。これじゃ誰も救われないんだ。もう終わりにしよう」


 そう呟きながら玉藻は右手を箱に近づける。

 痣が赤く輝く。そして手のひらから滲みだした金色のエーテルが箱を包む。

 数多あまたを天から照らす陽光のような、暖かな光が満ちていく。


 玉藻には生まれつきいくつかの特性があった。

 術式や呪いへの高い耐性。

 巫女としての器の大きさとエーテル容量の多さ。

 そしてこの陽光のような金色のエーテル。

 これらの特性は、現代では玉藻しか持ち合わせていない。


 長い年月の中でその真の目的を見失い、最高の術師を生み出すことを目的としていた現代の仙狐家の人々は殆どがその正体に気づいていないが、彼女こそが仙狐家が千年かけて生み出そうとしていた巫女の完成形。

 太陽神にして最高神、天照大神あまてらすおおみかみの欠片を宿した巫女なのだ。

 だが、玉藻本人もそのことを完全には理解していないので、その力のほとんどを使いこなせてはいない。


 アマテラスに由来する金色のエーテルは浄化の効果がある。いかなる地獄であってもその光に照らせぬ場所は無い。

 玉藻はこの金色のエーテルを浴びせ続けることで、箱の浄化を行おうとしていた。

 実際、金色のエーテルは箱の表面に染み出していた瘴気を消し飛ばし、黒く変色していた外見は寄木細工特有の鮮やかな色合いを取り戻しつつある。

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