2-4

「……こんばんわー」


 玉藻が試しに声をかけてみたものの、反応は無い。女性は同じ姿勢でそこにたたずんでいる。


「……話は通じなさそうだね」


「まあ、そうじゃろうな」


 紺右衛門が玉藻の手を掴む。そして小声で耳打ちした。


「ここを出るぞ。合図したら走れ」


 玉藻は黙って紺右衛門の手を握り返す。

 紺右衛門が一歩エントランスの外につながる自動ドアに向かって踏み出す。すると女性も一歩踏みだした。


「やば、ついてくる……」


 そう玉藻が呟いた瞬間、女性が大きく仰け反った。長い髪がその動きに追従してバサッと広がる。


「ひっ」


 明かに人外の動き。思わず玉藻の喉が鳴る。

 だがそれだけではなかった。女性が仰け反った上半身を起こすと同時にふわりと浮き上がる。手足は脱力したまま、首に括り付けられたロープで吊り上げられるかのように。


「行くぞ!」


 紺右衛門の声で玉藻は我に返り、二人でマンションの入り口に走り出した。


「ぎぃいやぁあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ!!!!」


 背後からこの世の者ではない絶叫が響く。玉藻は一瞬体が竦むが、本能的に立ち止まってはいけないと理解する。

 マンションの外に繋がる自動ドアまでは数メートル。すぐにたどり着くはずだ。だが、走っても近づく気配がない。


「くっ、少し遅かったか……!」


 紺右衛門が呟く。

 結界には深度がある。浅い物から深いものまで用途によって様々だが、常世に近いものは深く、現世に近いものは浅い。

 深ければ深いほど結界としての効力は上がるが内部が異界化して、完全に隔離されてしまう。今、この結界は急速に深度を深めていた。その速度が速すぎて出口に到達できないのだ。こうなると、結界から出るには基本的に基点を破壊するか、術者を止めるしかない。だが、悠長に周囲を調べているような余裕は無かった。

 玉藻の首元に何かが巻き付く。


「ぐあっ、うぐ」


 それはロープのように編み込まれた黒い髪の毛だった。


「…!ううう!」


 手で外そうとかきむしるが、それはどんどん首に食い込んでいく。次第に足が地面につかなくなり、上に吊り上げられていくのを感じる。


「はっ!」


 顔に一陣の風を感じたと思った瞬間、足が地面にぶつかる。紺右衛門が刀で首元に絡みついた髪の毛を切断したのだ。突然のことで、玉藻は思わず倒れこんでしまう。


「玉藻!護符じゃ!」


 紺右衛門が迫りくる髪の毛を刀で捌きながら叫んだ。

 玉藻は慌ててカバンからタブレット端末を取り出し、画面を点灯させた。

 刹那、まばゆい輝きが辺りに広がる。


「ぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぃぃぃぃぃぃぃぃぃいぃぃぃぃぃぃ!!!」


 端末を中心に広がった光の波動は、二人に迫っていた黒い髪を塵に返し、怪異を弾き飛ばしていた。


「おおう、これはこれは。流石葛葉殿の護符じゃ」


 女性の姿をした怪異は四つん這いのような姿勢のまま壁際で何かを言っている。


「……ご ろ ず ご ろ ず ご ろ ず ご ろ ず ご ろ ず ご ろ ず……」


「どうして私たちを襲う?」


 玉藻は怪異に向かって話かけた。


「……ご ろ ず ご ろ ず ご ろ ず ご ろ ず……」


 だが、怪異は同じ言葉を繰り返すだけだった。もう自我を失っているのかもしれない。


「……駄目なようじゃな」


 紺右衛門が刀を構える。


「せめてこの場で祓ってやろう」


 それを見て怪異も体勢を変え再び浮かび上がる。


「じに、じにだぐない、じにだぐないじにだぐないじにだぐないいいいいい!!!


「……残念じゃが、もう死んでおるのだ」


 怪異が紺右衛門を狙って飛び掛かる。怪異の頭から伸びた長い黒髪が無数の触手のように伸びる。だが、紺右衛門はかわそうとしない。一歩も動かずに構えている。


「紺右衛門!」


 玉藻が呼びかけたその時だった。触手のように伸びた髪の毛が紺右衛門に触れたように見えた。だがその刹那、髪の毛はばらばらと崩れ、塵となり消えていく。紺右衛門の目にもとまらぬ抜刀により全て切断されたのだ。


「ぎぃいやぁあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!」


 だが、それでも怪異は止まることなく突き進み、紺右衛門の首を狙って手を伸ばす。紺右衛門は抜刀直後で姿勢を崩していた。


「危ない!」


 しかし怪異の動きが止まった。


「いいいいいいぃぃぃ!!!」


 玉藻が護符PDFが表示されたタブレットの画面を怪異に向けて突きつけたのだ。


「…隙あり!」その一瞬をついて紺右衛門が刀を振るう。一陣の風が吹き抜けた。

 時間が制止したかのように両者が動きを止める。しかし、女の姿をした怪異が伸ばした右腕がすとんと地面に落ちた。それが合図だったかのように、怪異の姿が塵となり溶けていく。地面に落ちた腕も塵となって消えていった。


「良いタイミングじゃった。おかげで斬りやすかったわい」


 紺右衛門が言いながら刀を鞘に納める。


「流石、紺右衛門。今の抜刀見えなかったよ」


「ふふん、主も剣術についてはまだまだじゃな」


 紺右衛門は少し自慢げに乱れた髪型を手櫛で整えた。


「………………」


 玉藻は少しイラっとしたが口には出さなかった。今の状況も紺右衛門がいなかったら危なかった。彼女は助けてもらって文句を言うほど愚かではない。

 ……だがしかし、それとこのイライラは別だ!玉藻は今晩の夕食で紺右衛門の分を少し少なめに盛り付けることにした。


「結界の深度も戻ってきたかのう」


 紺右衛門が言うので、玉藻も周囲を見渡してみると、確かにさっきまでとは空気感が違う。現世に近いところまで戻ってきたようだ。今なら、このエントランスからも出れるだろう。

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