1.5章_葛葉と玉藻

1.5-1

 東京の郊外にあるちょっとしたオフィス街。その一角にある薄暗い雑居ビルの一室。そこがキュービック・ルーブの事務所だった。

 時刻は十四時をまわり、ちょうど眠たくなる時間だ。


「ふぁふーん」


 デスクに座って頬杖をついていた女性が大きなあくびをした。最近ショートヘアにした美しい金髪が揺れる。


「暇だ……」


 もうかれこれ三週間は仕事の依頼が来ていなかった。家賃や生活費を支払うためにも、そろそろ仕事が欲しいころだ。彼女は今後の予定が全く書きこまれていない寂しいカレンダーを見てため息を吐く。

 キュービック・ルーブは警察や普通の探偵が解決できない不可解な怪奇現象を伴う事件を解決することを目的とした探偵事務所だ。この事務所の代表を務めるのが仙狐 玉藻せんこ たまもだ。彼女は自称心霊系探偵としてこれまで数々の事件を勘と気合と運で解決に導いてきた。


「またビラ配りでもするかの?」


 ソファーにゆったりと腰かけて、優雅に読書をしていた老紳士が言った。

 彼は紺右衛門こんえもんと言い、外見は長身白髪の男性だ。仕立ての良い紺色のスーツを好んで着用し、パッと見た感じは、どこかのお金持ちに使える執事か、バーテンダー、または大企業の会長に見える。しかし、その正体は玉藻に仕える白狐である。彼が駅前でビラを配れば、大勢のマダムたちが押し寄せてあっという間にビラは無くなる。しかし、彼女らの目的は紺右衛門であり、ビラではない。最初は玉藻も紺右衛門も喜んだが、あれだけ配っても「ビラを見てきました」という依頼者はいまだに見たことが無かった。


「紺右衛門が配ると、すぐ無くなるけど集客には繋がらないんだよなぁ」


 紺右衛門の評判が上がるだけだった。


「ではお主が配ればよかろう」


 紺右衛門がそう言うと、玉藻は顔をしかめた。


「私が配ると、何故かみんな目をそらすんだよね。誰も受け取ってくれない」


「うーん、なんでじゃろうなぁ」


 そう言いながら紺右衛門は改めて玉藻を見た。派手な金髪。耳にはピアス。ジーンズに黒い皮のジャケット。ビラ配りするにはちょっとファッションがロックすぎるかもしれないと思ったが、紺右衛門は口には出さなかった。


「ネットでのステマも上手くいかないし、ホームページの閲覧者は今週もゼロだし、難しいよぉ」


「世知辛いのぅ」


紺右衛門は小説を読みながら適当に相槌を打つ。


 玉藻はペットボトルのブラックコーヒーを一口飲んだ。彼女は大のブラックコーヒー好きでこれがないと手の震えが止まらなくなる。完全にカフェイン中毒だ。


「うーん……あれ、そういえば、お姉ちゃんは?」


「今日も奥の部屋じゃ」


「えぇ……もう一週間は籠ってるよ……」


 玉藻は立ち上がり奥の部屋を見に行く。この事務所は玄関を開けるとすぐに開けたスペースになっており、そこを応接スペースとして使っている。ここにソファーが3脚並んでいて、そのうち一つが紺右衛門のお気に入りだ。

 そして、ソファー奥の壁際には私のデスクがある。安物の事務机だがそれなりに気に入っている。デスクの上には書類、パソコン、黒電話[黒豆ニ号]、まだ新品のサイフォン式コーヒーメーカーなどが乗っている。なぜ新品なのかというと、かっこいいという理由で買ったはいいが、取扱説明書をなくしてしまい、使い方がわからないからだ。

 玄関から入って右奥には簡易キッチン。左側には扉があって二部屋小部屋がある。そのうちの一つが玉藻の居住スペースであり、私物置場となっている。もう一部屋は紺右衛門が使っていたが、先日玉藻の姉である仙狐 葛葉せんこ くずはが突然ここで住むことになり、紺右衛門は追い出された。哀れな紺右衛門は事務所スペースの隅っこにパーテーションで一畳ほどのスペースを区切り、そこで夜は眠っている。


 葛葉は仙狐家の長女で次期当主と言われた才能ある呪術師だが、ちょっと色々あって現在家出中だ。ここにきてすぐのころは、掃除をしたり、買い出しに行ったり、色々と精力的に活動していたが、しばらくすると完全に引きこもるようになってしまった。実家では禁止されていたテレビやネット、ゲームが解禁され、一日中テレビを見ながらネットをして、時々ゲームをする。完全にニートの生活スタイルだ。葛葉は巫女として厳しく育てられてきたため、その反動なのだろう。

 玉藻が葛葉の部屋のドアをノックするが応答はない。


「お姉ちゃん、入るよー」


 ゆっくりドアを開けると電気もつけず、カーテンも閉め切られた暗い部屋で長い黒髪の女性が布団にくるまれながらテレビを見ていた。テレビには、幼児向けの教育番組が映っている。それを瞬きも忘れるほど真剣に凝視する葛葉。

 玉藻は内心恐怖した。これ、大丈夫なんだろうかと。下手な怪異よりよっぽど怖い。紺右衛門の方を見てみたが、彼は葛葉には興味ないのか、読書の続きに戻っていた。仕方がないので玉藻は葛葉に声をかけてみる。


「…おーい、お姉ちゃん。元気?大丈夫そ?」


 そこで初めて玉藻の存在に気が付いたかのように葛葉は振り向くと、テレビを指さしてこう言った。


「ちょうちょ!」


 画面を見てみると色とりどりの蝶が飛んでいる場面だった。


「あ、う、うん。そ、そうだね、ちょうちょだね。よかったねー……」


 玉藻は静かに扉を閉めて、またため息を吐いた。


「はぁー、どうしようこれ。いや本当に……」


 葛葉は様々な重圧や使命から解き放たれた結果、精神が幼児退行し始めていた。

 暇は人をおかしくするのかもしれない。

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