1-6
玉藻は電話ボックスに歩み寄る。
「さて、これが結界の基点なのは間違いなさそうね」
「そうじゃの」
そんな話をしていると、電話ボックスからまた黒い影が染み出してきた。今度は1体ではない。続々とあふれ出してくる。
「おや、こちらが抵抗していることに気づいたようじゃ」
紺右衛門が刀を構える。
「しかし、厄介じゃ。ここは出口が無い。祓えば終わるかと思ったが、黄泉の亡霊を根こそぎ祓うわけにもいくまい」
「……やっぱり本体を絶たないとダメか」
この場合、本体とはこの結界の作成者のことだ。つまりここから出ないことには打つ手はない。
完全に隔離されているここから出ることは不可能に思える。だが、一つだけ方法がある。今回の術者は遠隔から電話を媒介にて低級霊を送りつけたり、結界に取り込んだりしている。つまり、この結界と術者を結んでいる基点は、あの公衆電話なのだ。
玉藻は電話ボックスに近づく。湧いて出た影の亡者たちが玉藻にしがみついてくるが、そのまま進む。
「おい、玉藻!何をしている!下がるのじゃ!」
紺右衛門が慌てた声で叫ぶ。
「大丈夫。私に任せなさい」
瘴気と怨嗟に取り囲まれていく。だが、玉藻には確信があった。ここから出るためにも、この方法が一番早い。玉藻は手を伸ばし、垂れ下がった公衆電話の受話器を手に取った。それを半ば無理やり耳に押し当てる。
怨嗟、怨念、怨恨、怨訴。
あらゆる負の思念が体に流れ込む。強い耳鳴り。視界は上下反転し、足元の感覚は無くなる。あらゆるものが黒く、黒く塗りつぶされる。ああ、気持ち悪い。イライラする。悲しい。不甲斐ない。虚しい。苦しい。憎い。ぐるぐると廻り続けている。どこまでも続く呪詛に心が蝕まれていく。
深く暗い怨嗟の海の底で、おぼれているような感覚に陥る。手も足も、どれだけもがこうと虚空をかくだけでどこにも行けない。進んでいるのか止まっているのかもわからないような闇の中。苦しい。助けてほしい。たまらず叫び声をあげるが、自分の耳にすら届かない。気が狂いそうになる。
限界かと思われた時、玉藻は手の甲の痣に気づいた。赤い火の玉のように見える痣。生まれた時からあるそれは、普段は全く見えないが、玉藻が危機に陥るといつも現れた。それが暗闇の中でぼんやりと浮かびあがっている。それに気づいた瞬間、体が少し軽くなるのを感じた。手を伸ばすと固い感触。壁がそこにあるのだ。
「諦めない……お天道様の加護がある限り、私は!」
その壁を思いっきり殴りつける。
バキンと砕けるような音がして、暗闇に蜘蛛の巣状にひびが走る。ひびの隙間から暖かな陽光が差し込む。
「もういっちょ!」
同じ場所を全力で殴りつけた。今度こそ壁は砕け、そして闇が溶けていくのを感じた。
気が付けば、そこは夜の公園だった。すぐ近くには公衆電話ボックスとベンチがある。
「はあ、はあ、おえ、気持ち悪い………」
結界を出ることはできたが、気分は最悪だった。電話ボックスが結界となっているのであれば、それを仕掛けた術者がいるはずだ。受話器を取ることが相手の呪術にとって玉藻を取り込む鍵となっていることは、さっきのことで理解していた。だからあえて体に流し、取り込ませた。あとはその流れを見て逆探知するだけだ。相手の呪術を体に流し込むなんて芸当は初めてやったが、できれば二度とやりたくないと思った。体に流れる巫女の血筋と紺右衛門の狐玉があったから辛うじで突破できたが、ギリギリだった。まだ耳鳴りとめまいがひどいが、玉藻は深呼吸して体を落ち着かせた。
「あら、よく帰ってこれたわね」
その時、聞きなれた声がした。声がする方を見ると公衆電話ボックス近くのベンチに誰か座っているのが見えた。
「お姉ちゃん………」
わかってはいた。だが、どこかで信じたくないと思っていた。
玉藻と葛葉は仲が悪い。小さいころからそうだった。才能ある長女として厳格に育てられた姉。才能が乏しいという理由で放任された妹。お互いに妬み、それぞれ苦しんだ。どちらが悪いわけではない。強いて言えば生まれが悪かった。二人ともわかってはいたが、それでも…………
「一応聞いておくけど、お姉ちゃんがやったの?」
「もちろん違うわ」
葛葉は玉藻にいつも嘘を吐く。
「そう。じゃあ、私は帰るから」
「ええ、気を付けてね。今夜は暗いから」
そう言うということは、大人しく返す気はないのだろう。案の定振り向くと、そこには右近が刀を持って立っていた。
「紺右衛門」
「ここに」
呼びかけると瞬時に紺右衛門が脇に現れる。リンクしている限り、空間も時間も関係ない。どんなに離れても隣りに居る。それが主と眷属だ。もっとも。一応人間である玉藻は無制限に移動できるわけでは無いが。
「まったく、無茶をする主じゃ……」
紺右衛門はため息を吐いた。
「まあまあ、なんとかなったし」
玉藻が右近から目を放さず答えると紺右衛門は呆れたように自分の白髪を撫でつけた。
「しかし前門の虎、後門の狼とはまさにこのこと。手はあるのか?」
「……奥の手、使える?」
玉藻が訊ねると、紺右衛門は答えを躊躇した。
「しかし……姉妹じゃぞ」
「しょうがないよ。姉妹なんだし」
そう、姉妹だからこそ、全力でぶつからなければならない時がある。玉藻がそう答えると、紺右衛門はまたため息を吐く。
「お主に憑いてゆけば少しは血生臭いことから離れられるかと思ったが、やはり血は争えんのう……」
「あら、おしゃべりが好きなのね。私も混ぜてほしいわ」
お姉ちゃんが立ち上がった。いつの間にか脇には左近が控えている。右近と左近に挟まれ退路は断たれた。玉藻は武闘派ではないので体術で右近、左近には勝てない。また、走って逃げられる類のものではないことはよく理解している。
「お姉ちゃん、私が憎い?」
玉藻が問いかけると、お姉ちゃんの動きが一瞬止まった。
「…いいえ、あなたは私の可愛い妹。そうでしょ?」
「私はお姉ちゃんのこと……好きだよ」
葛葉は立ち止まる。
「………あ、ありがとう。わ、わたし、も、よ?」
「ありがとう。ごめんね、お姉ちゃん」
玉藻は手のひらを葛葉に向ける。右近と左近が動く。
「玉藻!」
紺右衛門が叫ぶ。
「………オーバーライド!!!」
玉藻は葛葉を見据えたままそう叫んだ。
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