第5話 

 目を覚まして、最初に感じたのは温かさだった。

 身体がふわふわする。まるで空に浮かんでいるかのような夢心地。

 あまりに気持ちいいものだから、目蓋を開けるのも億劫だ。


 ──そうか。ぜんぶ夢だったんだな


 博士がバイオハザードを引き起こしたのも、ギャルのゾンビが研究所に押し入ってきたのも、すべては泡沫うたかたの悪い夢。


 俺は実験動物なんかじゃなくて、清潔なペットショップで飼育されてるモルモットだったんだ。そっと目蓋を開いてみれば、一緒にお昼寝するオフィーリアちゃんの寝顔が飛び込んでくるに違いない。うふふ。


 それにしても、なんか熱くなってきたな。

 もしかして風邪でも引いたかな? 

 だったらオフィーリアちゃんが看病してくれると嬉しいな、なんて。


(ん?)


 目蓋を開くと、俺は風呂に浮かんでいた。

 いや、風呂じゃない。

 鍋だこれ。ぐつぐつ沸き立つ大鍋だ。


(…………熱っちゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッ!)


「あ、起きた♪」


 どこからか聞き覚えのある声がしたが、確認している暇はない。

 辛抱たまらず鍋から這い出し、命からがら転げ落ちる。

 べちゃっ。すぐに大きな手のひらに受け止められた。


「わぉ、熱々だぁ。アイちゃん、これもう食べられるかな~?」

「……さすがに躍り食いはダメでしょ」

「じゃあ、ひと思いに捌いちゃう~?」

「捌くにしても……もう少し茹でた方が毛を毟りやすくなる……と思う」

「りょ~か~い!」

「おいしくなれよアンドリュー♪」


 まどろむような夢から覚めると、悪夢の続きがコンニチハ。

 良い子のみんな、ゾンビクッキングの時間だよ。

 まったく、夢も希望もありゃしない。


 しかし、まだ食われていないのは幸いだった。

 生きていれば必ず脱出のチャンスはある。

 まずは湯だった思考を叩き起こし、目に見える範囲で情報収集と洒落込もう。


 内装から察するに、ここは研究員の休憩室だ。目の前にはいましがたぶち込まれていた鉛色の大鍋。熱しているのは台所に備え付けられた電気コンロだ。照明もそうだが、研究所の電源が生きているのだ。平時にはスマホの充電に使えたものの、いまは腹立たしいことこの上ない。


「ふんふふ~ん」


 鼻歌につられて天を仰ぐと、俺をキャッチした金髪ギャルの笑顔があった。

 隣にはアホ面下げて俺を覗き込む赤髪ギャル。あろうことかモルラントを白兵戦で打ち破ったフィジカルバカのツートップである。さっそく心が折れそうだ。


(気張るんだ、俺。ここで折れたら熱湯風呂に直行だぞ)


 己を鼓舞する間にも大鍋は近づく。

 俺は一縷の望みにかけて、金髪ギャルとの意思の疎通を試みた。


(ヘイ、パツキンチャンネー! ちょっとこっちに目線チョーダイ!)


「ん~?」


(いまだっ、愛玩動物の強み全開ッ!)


 細かくヒクつくピンクのお鼻。

 ぱたぱた宙を掻くちっちゃなお手々。

 そして、お湯も滴るつやつやの白い毛並み。

 我ながらきゃわいい姿がギャルの瞳に映り込む。


 ──勝った。

 会心の悩殺ポーズだった。

 こんなうるうるお目々の小動物を鍋にぶち込む鬼畜女子がいるだろうか?

 いやいない。


 勝利を確信した俺を見て、金髪ギャルは女神のように微笑んだ。

 そして、何の躊躇いもなく煮え立つ鍋に投下した。


(ナンデェッ!?)


「おおっ、フチに手ェ伸ばして耐えとる☆」

「往生際が悪いね~」


(待って。いまのは懐柔できた流れじゃん。美女と野獣が心通わした瞬間じゃん。一体なにがいけなかった?)


「……ハナ。その子、あなたに何か伝えようとしてなかった……?」

「うん。なんかイラッとした~」

「……そう。なら、しかたない……か……」


 どうやらあざとすぎたのが敗因らしい。いやはや、自分の可愛さが恐ろしいね。

 なんてことを考えていると、さっそくピンと伸ばした手足が痺れてきた。


 ヤバい。筋肉の方も限界だが、立ち上る湯気だけでハラワタが煮えそうだ。早くこの危機的状況を脱する術を閃かなくては。

 そのとき、何かがどさりと倒れる音が室内に響いた。

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