第四十四話 蛙のホップ
「やれやれ、エナム、まだ逃げてなかったのかい。時間をやったんだけどな。
こんなところで躊躇しているようじゃ、君には任せれそうにない」
ジェーデンの
そこに現れたのはライオンの仔、サバー・バーバリーである。
まずい。サバーなんて相手にしている場合ではないのに。
逃げるか。しかし、すでに臨戦の間合いにある。下手に逃げることは危険だ。
先手必勝。私は大地を蹴ると、サバーに向かって走る。頭の角をサバーに向けた。悪いが傷つけさせてもらう。
だが、サバーはそれに反応する。攻撃を読まれていたのだ。
「ライオンの遺伝子は戦いの遺伝子だ。雄ライオンはその一生を戦いに捧げる。負けたものは地を這い、ハイエナから腐肉を奪って生きていかなくてはならない。勝ったものだけが栄光を手にできる。
草食動物の野牛にそれはない。君は俺には勝てやしないのだ」
私の体当たりを避けたサバーはそのまま猫パンチを私の頭部に見舞った。
視界が一瞬真っ白になる。衝撃とともに皮膚が切り裂かれた。私は地べたに倒れ込む。
これは敗北だ。死ぬことになる。悔しさの中に諦めが交じった。このまま殺されるのだろう。
サバーが再び拳を振り上げ、そして、降ろされる。
ズサッ
血が噴き上がる。だが、それは私のものではなかった。
そこにいたのはセムビランだった。再び、私は彼に窮地を救われたのだ。だが、すでにセムビランは満身創痍であった。そこに、サバーの本気の拳を振り上げられたのだ。
「エナム、逃げろと言っただろ……」
セムビランの声は弱々しかった。今にも消え去りそうだ。
これにはサバーが意外そうな声を上げる。
「君はそこまでエナムに肩入れするのか。そこまで、エナムに期待ができるのか。
ふっ、セムビランが命を懸けたのだ。行け、エナム。もう一度だけ君にチャンスをやろう」
私はよろよろと立ち上がった。サバーの偉そうな言い回しも耳に入らない。
セムビランが死にかけていることに動揺していた。
「セムビラン、くそっ、どうしたらいいんだ!?」
それに対し、セムビランは最後の力を振り絞って語り掛けてくる。
「逃げろ……と言っただろ。草食動物のお前にはその選択ができる……」
言葉を発するのもつらそうだった。
それがセムビランの意志なのか。そこまでしなくてはならないことがアニマルアカデミーに起こっているというのか。
走るしかない。私はサバーのことも、セムビランのことも、すべてを断ち切り走り始めた。
◇
自己紹介がまだだった。
私の名前はエナム・バンテン。野牛の仔だ。ここアニマルアカデミーではさまざまな動物たちの食レポを集めていた。だが、エデン計画の暴走が起こると、動物たちが派閥を頼みに対立を始めていた。
私は状況に置いていかれたまま、その戦いの巻き込まれている。
状況を整理しよう。
派閥に属していないと明確に言えるのは、私と豚の
なお、ドゥアとトゥエンティは
ニコさんの果樹園にいたのは、マグロの
そこに、三津さんの派閥の使者として現れたのは、シャチの
その後、私を襲撃してきたのは、ライオンの
これはサバーの組んだ徒党なのか、それとも別の誰かが糸を引いているのか。それがわからない。
そして、ジェーデンの女将さんの食堂で爆発が起きる。
私はシューニャの意志のあるメインシステム塔に行こうとしていたが、行く先を変えるか逡巡した。
そして、今、私は再び決断する。まずは食堂に向かう。そこで何が起きたのか確認し、アニマルアカデミーの今回の事件の真実を追うのだ。
◇
ジェーデンの女将さんの食堂に向かう道に、橋があった。普段は何の気なしに渡るところだが、今は状況が違う。水の中に潜む動物の仔がいたら、これ以上にない危険である。
私は恐る恐る川辺の様子を窺うと、猛ダッシュで橋を走り抜けた。
ザバァッ
一瞬、川の水が赤く染まるのが見える。そして、何者かが川から飛び出してきた。その牙が私を襲う。
しかし、それは読んでいた。走る方向を急遽変え、その者の攻撃を回避する。
現れたのはウナギの仔、ウィッタ・アングイユであった。
「もう、エナムくん、避けちゃダメだよ」
ウィッタが無茶苦茶なことを笑顔で言う。しかし、その身体からは血が流れ続けていた。セムビランに噛まれた痕だろう。
これは、走れば逃げられるか。そう思うが、しばらくは川沿いの道である。遠回りをしていくしかないか。
そう思った矢先である。再び、若の中から現れるものがあった。
ザプン
それはカエルであった。カエルの仔、
「エナムくんよ、安心してくれ、わしは三津さんの派閥だ。味方なのだよ」
それは果たして安心材料なのだろうか。ただ、三津派閥のセムビランは私のために命を懸けてくれた。三津さんの派閥は多少は信頼してもいいのかもしれない。
とはいえ、三津さんが私に何をさせたいのか、わからないけれども。
「美人のお嬢さん、残念だよ。もう少しでお別れしなくてはならないとはのう」
百ノ介は挑発するようにウィッタに話しかけた。
これにはウィッタもムッとしたようだ。
「何を言ってるの。カエルなんてヘビに捕食される存在でしょ。
ウナギのことだって恐れて当然じゃない?」
そう言うと、牙を剥き出しにし、百ノ介に襲い掛かった。
それに対して、百ノ介は片足で跳躍し、その動きを回避する。そして、さらに跳躍して、空中に飛び上がった。舌を伸ばして、ウィッタの尾を掴み、倒れさせる。
「こんなことで……」
倒れたウィッタは立ち上がろうとする。しかし、それはできないようだった。
「なんで……? 何をしたの?」
ウィッタは絶望的な声で疑問を言葉にした。百ノ介が言葉を返す。
「わしは何もしとらんよ。セムビランの毒が回っていたのだ。本当に残念だが、お嬢さん、おぬしは最初からこうなる運命だったのだ」
コモドオオトカゲの毒か。それは出血毒である。その毒に侵された血が止まらくなり、やがては死に至るという。
この毒を用いて、コモドオオトカゲは自分よりも体の大きい動物を捕食できるのだ。
「う、うそ、そんな……」
ウィッタは言葉も発せなくなっていた。敵対してきた相手とはいえ、一時は食卓をともにした相手でもある。その死は悲しいものであった。
百ノ介はそれを紛らわせるためなのか、私にビールを渡してきた。
「正気で耐えられないことはアルコールに頼るのもいい」
それは「僕ビール君ビール」というクラフトビールであった。カエルのイラストが描かれたパッケージが印象的である。缶を開けると、勧められるままに一息に飲んだ。
柑橘系の香りがホップやハーブの香りと混ざり合っている。ほのかな苦みと仄かな炭酸。このビールはこの清々しい香りを味わうためのものだと感じた。
身体をアルコールが巡るのを感じる。私は牛なのであまり酔わないが、その感覚にしばし身を委ねた。
「それでだな、エナムくんよ。
このウィッタ嬢。あるいはサバーやチューニーだな。こやつらはジェーデンの女将さんの派閥のもののようだぞ」
その言葉に微かな酔いは一瞬で吹き飛んだ。
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